暗闇の中で見つけた恋 - 慶次編

 

 

『ハッハッハッ、いやはや、本当だ。あんた面白いねぇ』

『前田慶次だ、派手に楽しもうや』

『任せな』

『そうさなぁ…さんは、まるで神さんみてぇだと思ってな』

『また、朝帰りでもしようかね?』

 その男は、何時如何なる時も太陽のような明るさ、温かさを持ってを包み込み見守っていた。
彼の武で何度危機を回避出来たかしれない。
 その男の声を、暗くなった意識の奥底で聞いた気がした。

「…っ…う…ん……ん?」

 水滴に頬を打たれて、目を覚ました。
全身に掛かる圧迫が苦しくして、視線を彷徨わせる。
するとぼやけていた視界に、眩しい金色が飛び込んできた。

「慶次…さん?」

 自分の上に圧し掛かるのが彼だと分かって安堵した。
それからぼやける意識を手繰り寄せる。

「あ、そうだ…台風……あの時…水路…かな? 落ちたんだっけ…」

 自分の細腕では慶次の下から這い出るのが精一杯だった。
どこかから響いてくるドドドドという音は、流れる水の音だと容易に分かった。
その速さから察するに、今現在、外に台風本体があることを知る。
 そう易々と身動きを取れる状態にないのは明白で、ならばどこにいるのかを確認しようと手探りで動いた。
三畳程度の広さを持つ部屋の四方は、岩でがっしりと覆われていた。
中央に板戸が填め込まれていて、奥にもう一室あるようだ。

「…ここは……水路を作る為の…休憩室かなにか…かな?」

 見渡せる床の半分は、まるで大きな水槽のようだ。
台風によって流れ込んできた濁流よりも前に、地下水が流れ込んでいたのだろう。
満ちている水は透明だった。故に見通す事の出来た水面の中には、階段が続いていた。
つまりここが階上で、気圧の関係でたまたまここへの浸水がないというだけの話だ。
 ともかく、一定の位置より競り上がってこない水に一先ずは安堵した。
今はそれだけの事実で充分だと、は水面に膝下をつけてうつ伏せに横たわる慶次の傍へと歩み寄った。

「慶次さん、慶次さん、起きて」

 肩に触れて揺さぶる。
けれども彼は少しも動かない。
不審に思い、渾身の力を込めて彼に寝返りを打たせた。
何せ2mもある巨体だ。引っくり返すだけで重労働で、仰向けにした時にはは疲労困憊、肩で息を吐いた。

「慶次さ…起き…」

 何度か深呼吸をして、顔を上げた。
途端、目に入ったのは、血に汚れた慶次の顔。

「! 慶次さん!? どこ怪我したの?! 慶次さんっ!!」

 不安と恐怖に覆われて、慶次の体へと縋り付いた。
自分の着物の袖で顔を拭えば、額を切った為の出血は、既に止まっていた。
顔にこびり付いた血を拭いながら、彼の呼吸が弱くなっていることを悟る。
反射的に厚い胸板に耳を寄せれば心音が酷く弱い。

「嘘、嫌だ、こんなの嫌!! 何時も傍にいてくるって言ってたじゃない!!
 天下を平らげたら、仏門に入るんでしょ?!

 ねぇ、目を開けて!! 慶次さん!! 起きてよっ!! 起きてっ!!」

 薄れている意識を取り戻そうと、懸命に肩を叩き、耳元で叫んだ。
けれども一向に回復する様子はない。

「やだぁ!! お願い、死なないで!! 慶次さんっ!!」

 一刻と経たずに、彼の鼓動が止まり、呼吸がなくなる。
は目の前が真っ暗になったような衝撃を受け、息を呑んだ。
どうすればいいのか、どうしたらいいのかが分からずに、ただただ溢れ続ける涙を掌で拭い続ける。

「どうしよう…どうしよう…? どうしたらいい? 誰か、誰か助けて……慶次さん、死んじゃう…」

 密閉された場所で二人きりとなれば、救いは余所には求められない。
そこに気が付いていながら、の意識は混乱し続けていた。

「そう…そうだよ……助けなきゃ……私が、助けなきゃ…」

 ぶつぶつと独白を続けたは、次の瞬間には、涙を拭い去り顔を上げた。

「慶次さん、戻って来て!!!」

 仰向けに大の字で倒れたままの慶次の顎を摘まみ持ち上げる。
気道を確保した上で、鼻を摘まみ、彼の唇へと己の唇を重ね合わせた。
一回、二回、呼吸を吹き込み、慶次の胸が波打つのを目で確認する。
それからすぐにの胸の上で両手を重ね合わせた。
腕の力で押すのではなく、直立にした腕に上半身の体重を乗せる要領で三十回、押し込む。
二回の人工呼吸と、三十回の心臓マッサージをワンセットにして、一心不乱に蘇生術を試み続けた。

「一、二、三、四…」

 数を声に出して、懸命に己を奮い立たせねば、自分の気持ちの方がどうにかなってしまいそうだった。
ただこうして懸命に心臓マッサージを施せば施すほど、の中の不安は大きくなった。
他の者ならばまだしも、相手はあの慶次だ。上半身の体重をそのまま掛けるとしてもの細腕では、強靭な慶次の胸板が相手では、押しこむ力が遠く及ばない。

「慶次さん、お願い……お願いだから、私を一人にしないで……おいて…いかないで…」

 の頬を再び溢れだした涙が伝い落ちて行く。
その一粒一粒を拭う事も忘れて、人工呼吸をして、心臓マッサージを繰り返し続けた。
五分と経たずに、腕の関節が軋み、額には玉粒の汗が浮き上がる。
自身の呼吸が上がり、想像以上に強い疲労感が背に圧し掛かって来た。

「慶次さん、聞いて…お願い、私の声…聞いて……戻って来て……」

 声は擦れ、息は上がり、腕が悲鳴を上げる。
自分の鼓動の方が爆発しそうなくらい高鳴っている。
先の見えない長い長い時間は、当事者でなければそれ程長くは感じないのだろう。
だが今は孤軍奮闘、時間が長引けば長引くほど、体が休みを欲した。
一方で意識が、今休めば彼の蘇生は叶わないと心を詰った。

「お願い…お願い、起きて……起きてぇ……」

 怖かった。
休んでしまうこと、それを望んでしまう事自体が怖かった。
後一回、蘇生術を続ければ目を覚ますかもしれないし、覚まさないかもしれない。どちらかは全く分からない。
ただ分かっている事は、慶次の意識が、鼓動が、呼吸が戻らない状態での放棄は、そのまま慶次の死を意味する。

 代わってくれる者はなく、頼れる者もいない。
全ては、自分一人の手にかかっている。
その現実が、必要以上にの精神と肉体とを追い詰めていた。

「…起きて……慶次さ……っ…お願い……起きて……起きてぇ…」

 腕が曲がり、意識が朦朧とする。
荒い呼吸が喉の奥から洩れて、溢れる涙で横たわる慶次の姿が歪んで見えるようになる。

「慶次さん、ねぇ、慶次さんったら…起きてよ……ねぇ、お願い…」

 一人きりで先の見えない蘇生術を繰り返すの体力と気力は、既に限界を越えていた。
それでも慶次が起きる事はなかった。

「慶次さん……いやだ……こんなの…」

 救わなくてはならないと、今それが出来るのは自分だけと知っているのに、疲労感で棒のようになってしまった二の腕は思うように動いてくれなかった。
 は、ずるずると慶次の上に崩れた。
成す術なく、恐れいてた瞬間は、ついに現実となった。
は号泣し、絶叫した。

「…こんなの、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

 だが狭い部屋の中ではの声が反響するばかりだった。
遠巻きに聞こえている水音が、一層、心細さを駆り立てた。

「慶次さん……慶次さん、起きて……何か言って……私の事呼んで……」

 慶次の胸に頭を預けて、は強請り泣き続けた。
顔を上げることが、恐ろしかった。慶次のことを見てしまう事で、彼の死を再認識する事が、どうしても出来なった。受け入れられなかった。

「……うぅ…うう…ふ……うっ…くっ…くくく…あははは…あははははは」 

 次第にの瞳は色を失い始める。
溢れた涙が止まり、泣き声が笑い声に変わった。

さん、降りろッ!!』

 初心な小娘でもあるまいし、往来で風魔に口付けられた事があれ程ショックだったのは、羞恥じゃない。
本当は、その瞬間を慶次に見られた事が苦しかった。悲しくて、痛かったのだ。

『一緒に怒られてくれる? 』

『ああ、勿論だ』

 あの事を引き摺らないでいられたのは、一晩ずっとずっと傍にいてくれた彼がその事を許してくれたからだ。
彼があの件で何かを胸に抱え込んだのは明白だった。
だがそれは自分が恐れるような、自分への蔑みや嫌悪ではなかった。
だからこそ安堵し、容易に立ち直ることが出来た。

『ははははははっ!!! あんた本当に面白いねぇ。いいぜ、やってみようか』

 何時如何なる時も、自分の味方になってくれた。
異質な価値観を持つ自分の事を肯定してくれていた。
 けれども、そんな彼は、もういない。
もう笑うことも、語る事も、自分に触れることすらないのだ。
 彼を失って初めて、は己の胸の中で育っていた思いに気が付いた。
けれどもそれでは後の祭り、どうにもならないと、悔やみ自嘲し、悲嘆にくれる。

「…あはははは!! どうして、どうして何時もこう? なんで、上手くいかないの?
 お願い、神様……いるなら、彼を返して!! ……連れて行かないで……私から、慶次さんを取り上げないで…」

 まだ生暖かい彼の胸板の上へ突っ伏して、は泣き続ける。
呼吸と心臓が止まってしまっているのは、錯覚でも何でもない。冷徹な現実だ。
泣いても叫んでも救いの手はない。

『神さんは世と人を作るので精一杯で、もう力はないんじゃないのかね』

『きっとな、切なくて、悔しくて、たまらないだろうねぇ。
 折角作ったのに、世は乱れて、全ての人は幸せじゃない』

『いくら苦しんでても、助けてやりたくても、もう自分の力は及ばない。
 伸ばした手すら、人には見えない』

 慶次と交わした会話が、脳裏で延々と回り続けた。
信じたくない、信じられないと思いながら、目の前にある現実は冷酷無比に彼の言葉を肯定する。
 遠巻きに聞こえる水の音。
光さえ差すことのない、出口のない密室。
その中で、最後の希望を失った。

「……慶次さん……一緒に…逝っていい?」

 やがて泣くことを忘れたは、呟くように問い掛けた。

「…私が笑えなきゃ意味ないって言ったよね? 笑えないよ?
 慶次さんがいなきゃ……私、安心なんか出来ないよ?」

 ぼそぼそと呟きながらは慶次の腰に収まる脇差に手を掛ける。
鞘から刀を引き抜き、手首に宛がってゆっくりと引いた。
刀を捨てて、は己の瞼を閉じて、慶次の上へと崩れ落ちるように横たわった。

「…おいて……いかないで……」

 泣き疲れた事もあってか、の意識はそれからすぐに闇の中に溶けた。

 

 

『慶次さん』

 木漏れ日のような、柔らかい微笑み。

『慶次さんは……取り合えず、私と話す時はしゃがんで下さい。顔を見ようとすると首が吊っちゃうので』

 臆面もなく願い、

いやーーーっ!! こんなちびっ子認めないーっ!!
 伊達政宗は、私の中では渡辺謙なんだーーっ!!

 周囲の目に捉われる事もなく叫び、

お前の物は私の物、私の物は私の物、お前に選択権など与えない!!

 時に怒りに任せて豪語した。

『こんなの…いやだ…いや…』

 課せられた重責に翻弄されて泣き、一時は言葉すら失った。

『慶次さんは、止まり木ね』

 立ち直った彼女が見せた微笑み、安らいだような声。
その彼女の微笑が、命が、砕け散る夢を見た。
 夢の最後に鼻についたのは、生暖かい血の匂い。

『……慶次……起きろ…起きるんだ、慶次』

 闇の中をたゆたう意識を、魂が呼ぶ。

"…さんさえ、無事ならそれでいい……"

 そう思い激流に身を投じた。
彼女が救えるのであれば、己の命さえ捧げると、一時は、信じてもいない神にさえ縋る思いだった。
結果、神が願いを聞き届けたのか、はたまた天意であったのかは計り知れないが、自分とは支流へと入り、生を繋いだはずだった。

『…救ったはず……水からは逃したはずだ………なのに…なんでこんな事になる? どうしてだ?
 一体さんに何が起きたってんだ?』

 自問しながら一方で異なる意識が覚醒を急かす。

『起きろ、慶次!! 俺が護らなくて、誰がさんを護るね?!』

 彼女の危機を感じ取り、戻った鼓動。吹き返した息吹。
それと共に、強い胸騒ぎを覚えて、全身が熱くなる。
 まだ闇の中で彷徨う慶次は、混濁した意識の中で聞いたの声を懸命に手繰り寄せた。

「……慶次さん……一緒に…逝っていい?」

『どこへだい?』

「…おいて……いかないで……」

『どこに、逝くって言うんだ? さん』

「やだぁ!! お願い、死なないで!! 慶次さんっ!!」

 の悲痛な叫びが脳裏でリフレーンとなった瞬間、慶次の意識は闇の中から解き放たれた。

さん!!」

 弾かれるように起き上がれば、己の胸板の上に横たわるが転がり落ちた。
自分の胸の上には真新しい血痕が走り、それがへと続いている。
慌てて手を伸ばして抱き起こせば、の顔色は白々としていた。

「っ! さ…」

 掴んだ自分の掌に、生温かいぬめりを覚えて、視線をやった。手首から血が流れていた。
彼女が何をしたのかを瞬時に悟り、慶次はの着物の袖を力任せに引き裂いた。
緩々と出血を続けている手首へと巻きつけて止血する。
 それと同時に、の呼吸と心音の強さを確かめた。

『まだ間に合う』

 弱々しくなっていってはいるが、心音も呼吸もまだあった。
そこに安堵し、同時に体温へと気を配った。
この場に来るまでに浴びていた雨水のせいで、二人の体は元より冷えきっている。
その上でこうして血液を失ったとあれば、急激にの体温が下がるのは当然の事。
このままでは、本当に彼女は黄泉の国へと足を踏み入れてしまう。

さん、俺はあんたが望んでくれりゃ、何度でも、どこからでも、必ず戻る。
 追いかけるのはさんじゃない、俺でいいんだ。だからあんたは絶対に死なせない」

 慶次はの体にまとわり付く濡れたままの着物を、迷うことなく剥いだ。
彼の目に晒されるの体には、彼女が降臨した時に着ていた水着があった。

「なんの因果かねぇ」

 顔を顰めて笑った慶次は、の体を強く強く抱きしめた。

 

 

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