二つの海

 

 

 貧血という事にしてを室へと戻してから数時間が経っていた。
を襲った発作は、前回同様、ゆるりゆるりとを苦しめ続けた。
今は家康ととが寄り添い、看病に励んでいる。
秀吉についてはのフォローに回ろうとしたものの、想像以上の疲労が押し寄せたようで、途中で気絶した。
 出来る事がない面々は、自分に出来る事をするしかなく、やきもきしながら執務に取り組んでいた。

「ちょいといいかね、皆の集」

 同日の昼過ぎ。
険しい顔で昼食を済ませた重鎮軍団の元へ、騒ぎの直後から姿を消していた信玄が現れた。
彼は幸村を問い詰めての身を襲う発作の話を聞いて、何か閃いたようであった。

「信玄公…なんですか、こんな時に…面倒事なら勘弁してほしいんですがね」

 珍しく刺のある左近の言葉に幸村が目を見張った。

「左近殿、どうされたのですか?!」

「どうした、だと? 幸村さん、あんたよくそんなに呑気に構えてられますね。
 それとも、あんたは何も感じないのか? 姫があんなに苦しんでるのに?」

「そ、それは…」

「止めんか、二人とも。揉めてもしゃあないじゃろ。左近も、幸村にまで当たるでない」

 額に濡れ手拭いを押しつけながら秀吉が間に入った。
を支えようとして引き受けた負荷によって絶え間ない頭痛が彼を襲っていた。

「幸村、許してやってくれ。左近は自分が許せんのじゃ。本来なら自分が気づいて止めるべきじゃった。
 あの時、誰よりも様のお傍にいたのは、他でもない自分じゃ。左近は、そう考えとるんじゃよ」

「…大殿…」

 秀吉のフォローを受けて、左近が視線を伏せる。
左近の前に腰を下した信玄が、柔和な声を発した。

「幸村、気にする事ないよ。わしじゃって、ちゃんと分かっとるからね」

「…すいません、信玄公…」

 信玄の声色から、自分の心の動きなどとっくに読み切られていると悟ったのだろう。
左近が素直に頭を下げれば、信玄は首を横へと振った。

「よいよい。それよりもな、殿の事じゃ」

「そういや、さっき言いかけてましたね。どうかしましたか?」

「うん? ンー、多分、こういう事じゃと思うんじゃがの…」

「こういう事?」

 信玄が軍配で己の額をコツコツとつつきながら、口を開いた。

「おことらの認識では殿の発作は、突然来る。はたまた突然現れる何かに触れるからなる。相違ないかの?」

「はい、その通りです」

 正座する幸村が肯定すれば、信玄は首を大きく横へと振った。

「いかんのぅ、そこが思い込みじゃ」

「とういうと…?」

 秀吉が信玄の横に座り、左近、幸村が身を乗り出す。

「物事には必ず理由があるもんじゃよ? おことらこう考えた事はないかね。
 今生に起きている変化と、殿に起きる発作には、なんらかの因果があるのではないかと」

「今生ねぇ…また随分と大きな尺度ですな」

 混ぜ返した左近に対し、信玄は珍しく真剣な眼差しを向けた。

「わしからしたら、殿の存在自体が大き過ぎて驚きじゃよ」

 それもそうかと、皆が言葉を呑む。

「いいかね、謙信はこう言った。"人ならざる者が南に降りた。その者が天下を極楽にも地獄にもする"と」

「ま、待って下さい、お舘様!! 様が天下を地獄になどと!!」

「ああ、そうじゃ。殿は、地獄門を開く鍵ではないよ」

 信玄は、落ち着けと、軍配で幸村の肩を軽く叩いた。

「地獄門を開く者は別にいる、その者が殿を脅かしとるだけじゃ」

「心当たりが、あるんですか?」

 信玄は無言で頷いた。

「誰じゃ?! 一体誰が…!!」

 秀吉が手拭いを畳に叩き付けんばかりの勢いで身を乗り出す。

「北の大国の主・明智光秀」

 信玄の言葉を受けて、幸村が顔を険しくすれば、信玄は続けて言った。

「たぶん、奴じゃろうな」

「信玄公、何を御存じなのですか? 脈略がなさ過ぎでしょう、もっと詳しく聴かせて下さい」

「そのつもりじゃよ」

 信玄が軍配をふれば、室の外にいた山本勘助が何冊かの帳簿を持って入って来た。
信玄はそれを受け取り、予め印をつけていたページを開くと、全員に見えるように放り出した。

「幸村に聞いた話を元に、調べたんじゃ」

「これは…?」

の書庫に眠っておったこれまでの記録じゃ。不思議な事もあるよのぅ。これを見ると良〜く分かりおる。
 北の大国が領地を増やすごとに殿は倒れ、一方で、が領地を増やすごとに、殿を救う何者かが
 殿に力を貸し、やはり殿は倒れる……おことらは、これを無関係だとでもいうつもりかね?」

「なんっちゅうこっちゃ、本当じゃ…様の倒れる時期とぴったりあっとるわ…」

「やっぱりのぅ。おことら、近くばかり見ているから、肝心な事に気が付いていなかったんじゃないかね?」

 信玄の言葉に皆返す言葉がなく、恥じ入るように視線を伏せた。

「北に大国が版図を広げつつあるのは周知の事実。
 とは言え、それが様とどのような関係にあるというのでしょう…?

 様と彼の国には、まだ接点がありません。狙われる理由がないのでは?」

 幸村が問えば、信玄は面倒そうに溜息を吐いた。

「そこじゃ。面倒な話なんじゃが、北国の主にはその自覚はあるまいよ。謙信もそう言っとったしのぅ」

「謙信公が?!」

 こくりと頷き、信玄は話し続けた。

「謙信の易には二つの相が出たんじゃよ。殿ともう一人、天下を呑む者の姿が…。
 最初はな、わしら殿の方が地獄門を開く鍵かと思っとったんじゃよ。なんせ出自もはっきりせんしなぁ。
 しかしが力をつけ、勢力を伸ばすごとに、謙信の易も鮮明になりよった」

「鮮明に…?」

「うむ。朧気に見えていた相が、もっと生々しく見えるようになったんじゃよ」

「そこで、姫は何を?」

「何もしとらん。ただ、あの娘の背に禍々しい影が貼りついておったそうじゃ。
 じゃが不思議なもので、あの娘の足下からは木漏れ日が溢れておるという…」

「信玄公……だから、なんですね?」

 左近がようやく分かったと頭を振った。

「だから、信玄公はに来た。という事は…謙信公は、北へ行きましたね?」

「左近は鋭いね。その通りじゃよ。
 わしと謙信、どちらが当たりで外れでも構わぬ。地獄門を開く者を屠れれば、それで良かったんじゃよ」

 左近と信玄との間で交わされる会話に気を揉んでいるのか、幸村が表情に焦りと困惑を浮かべていた。
尊敬する信玄だからこそ信じたい。けれども下っていながらじっと傍でを品定めし、場合によっては手にかける事も辞さないという考えの信玄を見過ごす事も出来ない。
 彼は板挟みになっているようなものだ。

「なるほどね、突然の帰順の理由…ようやく納得しましたよ」

「やはり左近はずっとわしを疑っとったか。そうじゃないかとは思っとったがの」

「左近は姫の軍師ですからね」

「よいよい、それも承知の上じゃ。幸村、おこともそう気を揉むでない。
 傍で見ていれば否応なしに分かるよ、殿は地獄門を開く鍵ではない。ならば露払いをしなくてはのぅ」

 信玄の言葉に左近、幸村は安堵の色を顔に浮かべるが、秀吉一人が首を傾げ続けた。

「のぅ、ちぃとばかしええか?」

「どうしました? 大殿」

「いや…信玄公の話も、謙信公の話も、普通にいいと思うんじゃ。
 ぶっちゃけ、外から来た者独特の着眼点じゃし、間違でもないんじゃろう。
 それは普通に認めるし、感謝もする。けどな、一番の問題が解決しとらんのさ」

「一番の問題、ですか?」

 「うむ」と秀吉は大きく頷いた。

「じゃってそうじゃろ、北をのさばらせれば、様は苦しむ。
 じゃが、領地を増やしても、様が苦しむ事は変わらん。

 これじゃ、理屈が分かっただけじゃ。八方塞がりのままじゃろ?」

「言われてみれば…」

 その辺はどうなのかと、全員が信玄を見やった。
信玄も流石にそこから先は打つ手なしという様子で肩を竦めるだけだった。

「まるで"二つの海"だな」

「万葉集ですか」

「上手い事言ってる暇はありゃせんよ。様は今こうしている時も苦しみ、傷ついておられる。
 信玄公の話が本当なら、様が倒れるんはまずいじゃろ、普通に。地獄門開門が早まるだけなんさ」

「…うーん…」

 全員で共に頭を抱える。

「やはり…信長様に頼るしかないんじゃろうか…」

「信長? あのうつけがどうしたというのかね?」

 秀吉の独白に信玄が反応する。
秀吉はそこで改めて、信玄に対して、自分と家康とを繋ぐ目に見えない縁について語った。

「なるほどのぅ。それでうつけ殿に賭けようという腹か。で、見当はついてるのかね?」

「ついてりゃ、こんなに困っとりゃせんよ。半蔵に探させとるが、空振り続きじゃ」

「どの道、八方塞がりって事ですか…」

「しかし、良かったこともあります」

 室に蔓延する重苦しい空気を払拭するように、幸村は言う。

「原理が分かった以上、予測が出来るようになります。これからは、北の動きに配慮しつつ、領地を増やすのです。
 今はそうして降りかかる発作に対処するしかないのではないでしょうか」

「準備ったってなぁ…"心の準備"が関の山か……参るな、本当に…」

「ええ、ですが、気の持ちようです。何の心構えも出来ずに襲われ続けるよりはずっと良いはずです。
 様にお知らせすれば、御心も幾分か安らぎましょう」

「そうじゃな、幸村の言うとおりかもしれん。それじゃ、わし、ちょっと様子見てくるわ」

 善は急げだとばかりに秀吉が立ち上がった。

「信玄公、おみゃーさんが来てくれて助かったわ。これからも宜しく頼むわ」

 室を後にする前に秀吉が言えば、信玄は頷いた。
まるで愛娘を思う父親の様な口ぶりの秀吉の姿に、信玄は苦笑したものの、すぐに笑いを引っ込めた。

「わしも人の事、言えてる義理じゃないかもしれんの〜」

 

 

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