繰り返される無益な攻防を、山腹の木の上から見下ろし彼はつまらなそうに息を吐いた。
何時の時代でも戦は数の勝利。
豊富な物量、動員できる人員の差が、勝敗を決する。
大方この戦の勝敗も例外なくそうなるのだろう。

『……つまらぬな』

　天下に名高い毛利一族と異彩を放つ女の国の攻防であろうとも、数の理は覆るまい。
あの女の国に自分が加担すれば少しは違うかもしれないが、そういう気にもなれない。
かの国には服部半蔵もいる。戦地に彼の姿が見えないところを見ると、あの国自体もまだ本気ではないのだろう。
ならば自分が手を貸すまでもない。
　それにあの女であれば、何かをしでかすのではないか？　…という予感と期待がある。
少なくとも自分が動く時は今ではない。
と、思う反面、命の関わる話だ。過信は禁物だ。

『それとも…滅びの時か？』

　女の身でよく持ちこたえたと言っていいだろう。
北条を落とし、凶悪な自然災害を乗り切っただけでも誉れだ。
例えあの女が持つ幸運だったとしても、これだけ続けば、そろそろ打ち止めになっていて不思議はない。
　風魔は天を見上げてゆっくりと瞼を閉じた。
月明かりの元でよそ風が吹く。
その風が、彼の鼻先に森林の中には似つかわしくない匂いを運んだ。
　閉じていた瞼を開いて、欝蒼と茂る木々の合間へと視線を走らせる。
風に揺れる木々の合間に、ちらほらと動く行燈を見た。
行燈の数は隊列を組んでいるようで、一定の距離を保って移動していた。
木々の陰にぽつぽつと見えては消えてを繰り返す行燈。
妙な胸騒ぎを覚えて、彼は立ち上がる。

「？」

　戦場となる大地から目と鼻の先の小道を、こんな時間に進む一団があることが不思議で、木から身を躍らせる。
くるくると宙で回転し、印を一つ結べば、陽炎に全身が包まれた。
次の瞬間、大地に着地したのは一頭の狼。
　狼は獣道を駆けて、進む隊列の横についた。
気配を殺して列を確認すれば、その列の中腹に、あの女がいた。

「足場、悪いね…皆は大丈夫かな？」

「ささ、お手を…」

「うん、ありがとう」

『…？』

　夜逃げでもするのだろうかと目を細めれば、そう言うわけでもないらしい。
供の者は皆女を装っているが、細身の少年ばかりだ。
一団は武具の類は一切持たず、手に楽器を持っていた。
　大回りをするように戦地を迂回して進み続ける。
途中で毛利・北条の検問に引っかかりそうになったが、楽器しか持っていない事を証明し、言葉巧みに欺いた。
検問を越えて山頂に近い大地に辿り着いた一団はそこで不可思議な儀式の準備を整えると、時を待った。

「相図は？」

「きました！！」

「そう、じゃ、始めよう！！！」

「はっ！！」

　時を待って、本陣との連携を試みる。
それから一刻と経たずに見たことも聞いたこともない音曲と共に始まった演舞に翻弄されて、今まで優勢を保っていた毛利・北条勢は大敗を喫した。

『…くっくっくっ…』

　女の身でありながら、戦地へ赴き、策の一端をも担う。
徳川の守護神・本多忠勝の愛娘や立花の男勝りな姫と違い、特別腕が立つわけではない。
彼女は人体の仕組みに多少詳しいだけだ。
だが彼女は、自身の持つ知識と機転を武器に、戦場にいる皆を支え、共に戦おうとする。

『愉快よな……お前のような女は初めてだ…』

　なんと愛おしい娯楽だろう。
なんと愛おしい玩具だろう。
自分の、否、この世界に生を受けた者全ての予想を覆し、彼女はありのままに生きる。
その姿こそが、退屈を凌いでくれる極上の娯楽だ。
狼は口の端を歪めて嗤った。

「くそっ、あの一団だ！！！　ひっ捕らえろ！！」

　検問を敷いていた一団が藪を蹴散らしながら進む音を聞いた時、狼―――――風魔小太郎の体は勝手に動いていた。
登って来る兵の隊列に斬り込み、一人一人、あっという間に屠る。
何時も特定の感情を湛えぬ鋭い眼光に、この時は怒りにも似た色が強く溢れていた。

『邪魔だ』

　策を終えて撤退するの目に触れぬように、屠った兵を藪の中に引き込む。
想定通り、逃走に夢中だった一団は、藪の合間から覗く躯の足には気がつかず、夜の闇に紛れて本陣へと逃れた。
　狼は自然の理を背景に息を潜め、それからもずっとずっと戦況を見物し続けた。

「の姫を捕らえよ！！」

　時に物珍しい演舞が敵の増援に破られ、敗走し、

「ここが正念場だ！！　皆、兵の意地を見せるぞ！！」

　時に敵の奇襲隊に本陣が脅かされた。
その度に、不快感が胸に湧き上がり、脳裏がちりちりと痛んだ。
よっぽど動こうかと思ったが、その都度、その都度、眺め続ける女は危機を回避した。

「孫市さん！！　家康様が！！」

「つれないね〜。ま、任せとけよ」

「う、うん…お願いね！」

　敗走の時には雑賀孫市が、

「感心しないね、女性は丁寧に扱わないとな」

「…逆上せ上がるな、下郎が。貴様程度の相手に、わざわざ慶次を差し向けるには及ばん。
　男、俺の目が黒い内はこの女に手出し出来るとは思わぬ事だ」

　本陣奇襲の時は、島左近と石田三成が、助太刀に入った。
彼らならば案じることはないだろうと、浮き上がった体をまた落ちつける。
　彼女の奇策は戦場だけで披露されるものではなく、本国を支援する為の後方都市でも威力を発揮していて、圧倒的不利が、徐々に覆って行く。

『……くっくっくっ………不可思議な女だ』

　力もない、コネもない。
あるのは、人徳と、知識だけだ。
そんな女が、癖のある多くの部下を従えて、人々を護る為に、天下でも屈指の団結力を持つ毛利家を相手に対等とも思える戦を一年以上も続けている事実が、彼の好奇心を刺激し続けた。
　見たい。もっと、もっと、見ていたい。
人の死にいちいち嘆く姿はうっとおしくて仕方がないが、押し寄せる苦難に懸命に立ち向おうとする姿は、
彼にとっては格別の娯楽だった。

『だがそれも……限界よな』

　彼女のことだけではない。
前線を預かる兵、本陣で頭を使う兵。
誰にとっても敗戦一色で始まった戦が二年にも及べば、心身ともに限界はやってくる。
　何よりも、戦に慣れていない彼女の心理疲労は限界をとうに振り切っている。
それに気が付いているのは、忌々しいことに自分と、最前線を預かる傾奇者くらいだろう。

『…充分楽しめた……もうよかろう…』

　塩時は近いと判じて、傍観に徹していた狼は動いた。

「ん…？　え、嘘……どっから入って来たの？！」

　その日の夜、の天幕にどこからともなく一匹の子狼が姿を現した。
おずおずと進んでくる子狼の愛らしさには久々に頬を綻ばせた。

「迷子かな？　ここは危ないから、早く山にお帰り」

　自身の天幕を裏から出て陣の外へと連れて行き、放そうとするものの、子狼は山の中へと進もうとしない。
自然と狼が進むのを待つようにが子狼の横へと腰を下す。
すると子狼はの着物の裾を噛んで、くいくいと引っ張った。

「何？　遊びたいの？　ごめんね、遊びには行けないのよ」

　頭を撫でてから引き離そうとするの着物を噛み続けて子狼は広がる森の奥を示し続ける。
子狼の根気に負けたは、立ち上がった。

「分かった。ちょっと待ってて」

　櫓で弓兵と武器の調整をしている孫市の元へと行く。

「ねぇ、孫市さん」

「お、俺を御指名とは嬉しいね」

「もー、そういうリップサービスはいいから。ちょっとついて来てもらってもいいかな？」

「構わないが…どうした？」

「うん…この子がね…」

　裾にくっつく子狼を視線で示せば、孫市は怪訝な顔をする。

「どっから入って来たんだ？　こいつ」

「さぁ…でも子供だから、どこかに穴とかあるのかもね」

「やれやれだな。おい」

　孫市は周辺にいる兵に声をかけた。

「穴があいてる筈だ。見つけ出して塞いどいてくれ」

　相槌を打った兵が場を辞すと、は孫市と子狼を連れて、狼が示した森の奥へと入った。

「迷子だと思うんだけど…お家に帰りたがらないのよね。きっとこの森が大きすぎて怖いのかも」

「それで貴方が送り届けるのか？」

「んー、まぁ、しょうがないよね。巣穴の近くに放してあげれば、親を刺激せずに済むだろうし…。
　ごめんね、付き合ってもらって」

「いやいや、逢瀬だと思えば安いもんだ」

「はいはい、勝手に言ってて」

　孫市の軽口を受け流し、時に彼の手を借りて、山中に走る獣道を進んで行く。

「うげ…！！」

「ねぇ…孫市さん、これ崖だよね？」

「そうなるな」

　切り立った岩山に辿り着いた時、子狼は困惑する二人を無視して、岩肌にぴょんぴょんと飛びついた。

「…狼って、こんな所に巣作るっけ？」

「さあなぁ…」

　あまり本陣から離れたくはないし、どうしたものかと思案している間にも子狼は岩盤と格闘し、ずり落ちている。

「……はぁ……分かったよ…行けばいいんでしょ？　行きますよ」

　はようやく自分の肩の高さの岩肌まで登って来た子狼を抱き上げて襟元に忍ばせると、崖へと手を伸ばした。

「おいおい、マジかよ？」

「まぁね…乗り掛かった船だよ。
　私達なら、ちょっと頑張れば登れるだろうけど、この子にこの岩山は無理だと思うしさ」

「へいへい…分かったよ」

　腐る孫市を巻き込んで、疲労感の残る体に鞭を打って岩肌を登ること二刻。
見晴らしいのいい岩場に辿りついて、ようやく一息つけると、大きく伸びをする。
それから周囲を見渡すように首を回したは、次の瞬間には目を見張った。

「……これって……一体…どういうこと？」

　ぱちぱちと瞬きを繰り返すの下から登っていた孫市が腕力にものを言わせてその場に這い上がり、同じように見た光景に眉を動かした。
二人の眼下に見えたのは、崩れかけている本国の城壁だった。
この岩山を乗り越えて、二日も山道を歩けば、本国へと辿り着くはずだ。
　次の瞬間、目を瞬かせるの胸元へと手を伸ばした孫市は、襟元に収まる子狼を掴み上げた。
狼が牙を立てて孫市の腕の中から逃れ、岩場にちょこんと降り立つ。

「え、ちょ、ちょっと、孫市さん！？」

　驚くの肩を抱いて自分の背後に庇った孫市は、背負ってた銃を構え、子狼へと照準を合わせた。

「…なんのつもりだ？」

「何してるのよ！」

「よく考えろ。狼が迷い込んできたのはいいとして、有り得ないだろ。こんなん」

「そうかもしれないけど、ダメだよ。怖がってるわ」

　孫市の構えた銃に手を添えて、は降ろさせる。

「あのなぁ…ここは戦場だぜ？　敵の忍に飼われてる可能性だって否めない。
　子狼ったって油断していい訳じゃないだろ」

「でもそれなら天幕に入って来た時に何かしてくると思うの。きっと偶然だよ」

　は「ごめんね」と声をかけながら手を伸ばし、子狼を抱え上げた。
殺気立ったままの孫市の前で突出部に登り、尾根の合間から岩盤の反対側を見下ろした。

「孫市さん、見て、見て。反対側は凄くなだらかよ。この子、ここから登って来たんだよ」

「それで帰れなくなったって、そういうのか？」

「うん、きっとね」

　こくこくと頷いたの人の好さに孫市は溜息を吐く。

「やれやれだな」

「もー、穿って物事見過ぎだよ」

　はそのまま尾根から子狼を岩山の反対側へと降ろした。

「私はそろそろ本陣に戻らなきゃならないけど、来た道辿るだけなら自分で帰れるよね？　気を付けて行くんだよ」

　「くぅぅ」と小さく鳴いた子狼の額を撫でつけてから、は身を翻した。

「さ、帰ろう。孫市さん。皆に気がつかれる前に戻らないと大事になっちゃう」

「…ああ…そうだな」

　意味深な眼差しを子狼に送った孫市に声をかけて、は登って来た岩から岩へ身軽に飛び降りて行く。
を一人にするわけにもゆかず、孫市も慌てて後へと続いた。
　その場に残された子狼が、円らな眼差しをぱちぱちと瞬かせながら、遠のいて行くの背をじっと眺め続けていた。