金の矢・鉛の矢 - 左近編

 

 

『姫の軍師としては、今のままでいい』

 得意満面のを見ていると、心が痛くなる。

『だがだとしたら…一人の人間としての俺の願いの行く末は何処になる?』

 千日戦争の時、は問いかけた。

"軍師としての弁はいい、島左近としてはどう思うの?"

 一国の君主になろうとして、なりきれぬただ一人の女の弁。
は誰にでも役職を越えて、個人の意思を何かと確認したがる。
兼続の時も、ァ千代の時もそうだ。
 の価値観の中には、国の利益に阻害される個人の幸せや、意思があってはならないという考えが根付いている。
時にそれは態度や表情での問いかけでは済まなくて、言葉として口から飛び出してしまう。
面と向かって問われなければ、思い過ごしと無視できる質問を、はっきりと投げかけてしまうのだ。
本人は一個人としての質問のつもり。だが問われた者からすればそれは家君主からの問いかけ。
言い逃れや黙秘は許されない。
 対峙した人、一人一人に真心を持って当たる。
その人なりの幸せを模索し与えようとするだから、皆が心を動かされる。

『だがそんなもの、何時か種が切れる。人一人で与え続けられるもんじゃない…どうしたって限界が来る』

 知っていてそれを与えたがるのは、が慈悲深いからではない。
個人の追い求める幸せと現実が、乖離してしまったから出てくる深層心理の現れに他ならない。
自分は諦めたから、諦めざる得なかったから。だから代わりに誰かの夢が、願いが叶えばいい。
そう全身で訴え、求められているようで、堪らなくなる。

『自覚がないのが救いなのか、どうなのか…』

 今もこうしては左近の気持ちに心を割こうとする。
子供染みたヤキモチを笑いに変えながら、焦れる心を満たして癒そうとする。

『なら…貴方は……姫ではなく、さんとしての…願いは…一体どこに落ち着けるつもりなんですかね?』

 慶次のように無条件に包み込み、癒すことは出来ない。
幸村のように献身を捧げられない。
三成のように諫められず、孫市のように翻弄することも出来ない。

「俺に出来るのは……飴でも鞭でもなければ……一体何なのかと……ちょっと考えちゃったんですよ」

 自嘲と弱音を綯交ぜにして言葉にすれば、は目をぱちくりと瞬かせた。

「え…左近さんの担当はエロスでしょう?」

「…………ハイ?」

 エロスってなんだ。
声の響きからしてとてつもなく嫌な予感がしてジト目でを見れば、は心底不思議そうな表情を見せた。

「だから…エロス」

「エロスってなんですか」

「えーと、端的に言って、左近さんは家のお色気担当」

「いや、ちょっと待って下さい。意味分からないんですが」

 そも、色気が戦に何の関係があるのか。
色気で天下が治められるとでも思っているのか。
小一時間程問い詰めたくなる。

「だから、左近さんはエロス。私が疲れた時に爆裂する色気で私を癒したりね。
 花魁ごっこしたくなった時に手解きするのよ」

「……俺、軍師なんですけどね?」

「うん、知ってる」

「なのに、エロス?」

 なんで? どうして? 
どうしてそうなるの? どういうことなの??
視線に感情をたっぷり込めて問いかければ、は耐えられないとばかりに口元を隠して笑いだした。

「ぷ……クスクスクス…あー、だめ…やっぱ我慢できない…! 涼しい顔して言い切れない」

 ついには湯呑を下ろして腹を抱えて悶えて笑うの背を撫でてやる。
同時に、視線で問い詰め続ければ、は答えた。

「三成がね」

「殿?」

「そう、旅の最中に言ったのよ。きっと今頃左近は己の存在価値に悩んでるって」

「それで?」

「だからこういう話題が出たら、お色気担当とでも言っとけばいい、って」

「ハァ?」

「あー、もう、やだ! 本当、おかしくなっちゃう! 言った通りになるんだもん」

 ひーひー肩を揺すりながらは笑い続けた。

「ついでにこうも言ってた。"お師匠様の信玄公が帰順して、豊臣に半兵衛さんがいる現状、どの面下げて自分だけが
 の軍師面し続けるつもりだ?" って」

「ちょ、流石にそれ、酷くないですか」

「だよね? 酷いよね??」

 でも三成らしいとは大笑いする。

「だから俺はお色気担当?」

「そうそう」

「殿は?」

「姑もどき」

「即答ですかい」

「いや、だって…ねぇ? あの細かさだよ??」

「まぁ…確かに…」

 俄かに笑い出しそうになるのを堪えて、の背にかけていた手を離した。

「で、俺は今後はずっとお色気担当になっちゃったんですかね?」

「ん〜、どうなんだろうね? エロスって言い出したのは三成だしね?」

「姫は違うと?」

「いや、そこは全然思ってないけど。微塵も色気ないとか死んでも言えないけど」

「そこは否定して軍師だって言って下さいよ」

 泣きを入れるような声色になった左近に、は言う。

「だって、本当に左近さんの色気は凄いじゃない。私だってくらくらする時あるんだよ?
 今更自分には色気がないとか言われてもさ…」

「いや、流石にそうは言いませんけどね?」

 一体何を否定し、何を肯定して貰おうとしているのかと頭の隅で考えてしまう。
が、否定しきれぬ肩書がしっくりきすぎているだけに頭が痛い。

「自覚があるならいいじゃない、ダメなの?」

「いやいやいや、そもそも色気って役職なんですか」

「役職というより、個性?」

「やっぱり天下にも戦にも関係ないじゃないですか」

「んー、でもほら、美人計とかってあるじゃない? 三国志で貂蝉が呂布と董卓に仕掛けたみたいなさ」

「姫、左近にあの美女の役をやれと?」

 互いに想像して無言になった。

「………………うん…無理…かな」

「世の君主は男ばっかですよ? 姫が珍しいんです、そこんところ自覚してますか」

「してます、してます」

 「なら、やり直してください」と少し語感を強めて左近が要求した。

「そうね、エロスは無理があったね。じゃ…左近さんはどんな存在なんだろう?」

「ついでに国じゃなくて、さんにとっての俺のことも考えて頂けると、非常に有り難いんですけどね?」

「エロス」

 刺々しい語調で問えば、はやはり即答した。

「だから! それはもういいって言ってんでしょうが」

「いや、だから、私個人の目から見ても左近さんはエロスだな〜って思ってて…」

「なんでですか!」

「なんでと言われても……ねぇ?」

 「困ったな」とが眉を寄せて口元に指先を寄せた。
本気で考え込んでしまった証だ。

「ったく、エロス、エロスって人の事、色狂いみたいに…冗談じゃないですよ」

 毒づいたらは瞬きを一つ見せた。

「え、でもエロスって、根本的には外つ国の愛の神の名前よ?」

「え、そうなんですか?」

「うん、愛の神。一般的には転じて、キューピッドって言ってね。
 愛の矢を持った小さな天使で描かれてる事が多いんだけど…元々は恋心と性愛を司る神様なのよ。
 何時の間にかエロスって響きから性愛の方が意味合いとして強く認識されるようになっちゃたような気が
 しないでもないけど、キューピッドっていうと話は変わってくる」

「というと?」

 どちらかというと恋愛に淡白だと思っていたの口から色恋沙汰が語られるのが意外だった。
どういった心境の変化だろうか? 旅先で何かあったのか? と胸が騒いだ。
左近の心の動きに気が付かないはキューピッドに纏わる物語をざっくりと語り始めた。
知識欲旺盛な左近が相手だけに、興味を持たれたことに違和感を覚えなかったのだろう。
 片や想い人の変化に杞憂を抱いて、片や蘊蓄の披露に熱心になる。
切ない一方通行だが、この二人の関係性を考えれば仕方がない。

「キューピッドの持つ愛の矢の力は侮れないの。黄金の矢で打ち抜かれた者は激しい愛情に憑りつかれるけど、
 鉛で出来た矢で射られた者は恋を嫌悪するようになってね…」

 はエロスに纏わる寓話の一つとして、アポローンとダプネーという神と下級女神のエピソードを披露した。
要約するとエロスの持つ愛の矢の力をバカにしていたアポローンは、黄金の矢に撃たれた事でダプネーに恋をする。
ところが、鉛の矢で撃たれたダプネーは彼を毛嫌いし逃げ回る。
最終的に追い詰められたダプネーは、月桂樹に姿を変えてアポローンの求愛から逃れた。
 この寓話が示す意味は、理性は恋愛を蔑みがちだが、激しい慕情は理性すら凌駕するという事だ。

「なんだろうな…殿や姫に他意はないんでしょうが…」

「え、何? なんか引っかかる??」

「いえ…言い得て妙って気がしてきましてね…?」

「そう?」

「ええ」

 口には出せなかったが黄金の矢の行がどうしても引っかかった。
を見る時の自分の目、抱える感情、考える事。
それら全てを合わせて考えたら、辿り着く結論は一つだ。

「…その…金の矢に、エロス自身が撃たれたら…その神様はどうなるんでしょうな…」

「そういう話もあるにはあるわよ」

「どういった内容で?」

 幼い頃に語り聞かされた寝物語の一つなのだろうか。
は記憶を辿るように、視線を宙で彷徨わせながら語った。

「なんだったかな…確か暗殺指令を受けたエロスが、標的になった美人のお嬢さん…プシューケーって言うんだけど、
 彼女を鉛の矢で撃とうとするのね。でも失敗しちゃってさ。黄金の矢で自分を傷つけちゃうのよ。
 で、その時、その場にいた標的のプシューケーにエロスは恋をするんだけど、相手は人間なんで禁忌は侵せない
 ってことになって…」

「ほう」

「エロスは魔人に姿を変えてプシューケーの両親を脅すのよね。
 両親はプシューケーを差し出して、エロスは彼女と同居出来るようになるんだけど、
 魔人のフリしちゃった手前、暗闇の中でしか会えなくてさ…」

「面倒なことになってきましたなぁ」

「だよねー。で、これまた紆余曲折あって、エロスが神であることがプシューケーにバレるのよ。
 エロスはプシューケーから逃げちゃうんだけど、エロスの姿を見たプシューケーが彼に恋をしてね。
 冥界っていう…まぁ、あの世みたいな場所なんだけども、そこまでわざわざ出向いて行ってエロスと再会するのよ」

「おや、意外と結末は大団円だったか」

「因みにプシューケーは外つ国で…"喜び"とか"悦楽"という意味合いを持っています」

 最後に悪戯っぽく笑うから何かと思ったら、ちゃっかりオチを付けてくるあたり、も相当茶目っ気がある。

「どうあろうとそっちの話にこじつけるわけですね?」

「いや、こじつけってわけじゃないだろうけどさ〜」

 は言葉遊びを楽しむようにクスクスと笑い続けている。

「全く、もういいですよ。エロスで」

「お、認めた」

「えーえー、エロス担当で手を打つとしましょ?」

 本当にそれでいいのか? とが視線で問えば、左近はしたり顔になった。

「なんですか、エロスは性愛の神で? 伴侶は悦楽の意味を持つ女人だそうで…。
 なら左近は金の矢で姫の心を撃ち抜いて、姫を悦楽の淵に沈めるとでもしましょうかね」

 余裕をたっぷり滲ませて告げれば、が目を丸くした。
怒られるかな? と窺うように見やれば、は一気に顔面を朱に染めて身動ぎした。
 その場に立ち上がって、妙な構えをとりつつじりじりと室内に後退する。

「何やってんですか」

「いや、なんか…想像したら、左近さん、色々凄そうだな…って思って…」

「散々揶揄しておいて認めたらその反応って、いくらなんでも酷くないですかね?」

「いや…なんか、想像したら腰が砕けそうなもので…申し訳ないけど、ちょっと…ねぇ?」

「想像、ねぇ?」

 左近は意味深に笑う。

「え!? 何? 何なの、その反応!?!」

 動揺するには申し訳ないが、かつての災害の最中で霞に溶けた記憶の中にある一つの事実。
それは、左近はの肌を知っているという事で。
の方でも記憶こそないが、体はその事実を覚えているわけだ。
でなければ、こうして身構えるはずがない。

『つまりなんですか、今の会話だけで、体はあの事を思い出したわけですか』

 やれやれと左近は首の後ろに手を回して、コキコキと首の骨を鳴らした。

「え、何? 何なの、その余裕!?」

「ええ、まぁ…エロス担当なんで」

「だから何?」

家の世継ぎ問題は左近が一手に仕切るなり、お手伝いするなりしなきゃならんのだなぁ…と思いましてねぇ」

「え、いや、なんでそんな話に!?」

「発展しますよねぇ? 俺、エロス担当ですからねぇ」

 ニヤニヤからかうように笑う左近の言葉は軽く、冗談だと容易に理解できる。
だが同時に、彼の目は少し真剣味を帯びていて、このまま放置していい会話でもないと思った。

「えーと…エロス担当、止めようか?」

「いやいやいや、折角だ。任せてくださいよ〜。しっかり金の矢で撃ち抜きますよ〜?」

「いや、結構です。遠慮します、間に合ってます」

「そう仰らず」

 左近は大きな歩幅でとの距離を詰めて、を抱き寄せた。
そして耳元でこれ以上はない程の艶を醸し出して告げた。

「俺は軍略も腕っぷしも、そっちの方でも…あんたをがっかりさせやしませんぜ?」

「はぅぅぅぅ!」

 はぶるりと大きく震えた。アニメか漫画なら、の外郭を描き出す主線が、コミカルな波打った線となり、爪先から頭部へとうねって一瞬のうちに移動して行くところだ。

「色気の暴力がすごい!」

 ついに逆上せたのか、は涙目になった。
固まって後頭部から後方に倒れなかったのは、左近の腕がの腰を抱いていたからだ。

「やっぱ左近さんは、軍師で。私の軍師ってことで、一つ!」

「いいんですか? エロス担当じゃなくて?」

「いいです、軍師がいい」

「そうは言ってもねぇ? 半兵衛さんや信玄公が居ますしねぇ?」

「半兵衛さんは基本的には秀吉様の軍師じゃん!」

「信玄公は?」

「あの人、そもそも軍師じゃなくて君主の器でしょ!!」

 緊張がピークに達したのか、はついに悲鳴のような声を上げた。

「じゃ、昔もこれからも、左近は姫の軍師ってことでいいですかね?」

「いいです、それで! そうしましょう!」

 でもそうなると三成はどうなるんだろう? と考えなくもない。考えなくもないが、今の彼は秀吉の家臣だ。
深く考えるのは止めよう、そうしよう! とは考えた。完全に保身に走っていた。

「じゃ、エロスの件はこれでしまいってことで構いませんかね?」

 こくこくと大きく頭を振ったを、左近は離した。
名残惜しくないといったら嘘になるが、必要以上に接触するには場所が悪い。

「役職の話はこれで良しとして…姫」

 距離をとって左近は少し真剣な眼差しをに向けた。

「俺はずっと姫の軍師やってきましたが…あんたが俺に問いかけたように、俺もあんたに聞きたいことがある。
 かつてあんたが俺に軍師ではなく、島左近としての弁を望んだように、俺もの幸せの在処ってのが
 どこになるのかが知りたいんです」

 戸惑うようにが視線を彷徨わせた。

「すぐじゃなくて構いません、偶にでいいんで考えてみてください。
 それで、答えが出たら、一番最初に、俺に教えてください」

 「いいですね?」と釘を刺してから左近は身を翻した。
抱き合ったまま囁けたら、もう少し核心に触れられたのかもしれない。
が、私邸とはいえ、ここは中庭に面した縁側だ。
何時誰に見られるとも限らないから、互いに誤解を受けるような振る舞いは避けるに限る。
 大人ならではの振る舞いを見せた左近の背をの視線が追う。

「大丈夫、待ちますよ。俺は待てますから、だから焦らずじっくり考えてみて下さい」

 左近はそれだけ言って、縁側から中庭に戻った。
七輪の片づけを始めてしまった彼にかける言葉をうまく見つけ出せなかったは、なんとか「ご馳走様」とだけ、言葉を捻りだした。
 手にした菜箸を軽く掲げて答えた左近と別れて、は自室への道を辿る。

『なんだろう…抱き寄せられた時…なにか思い出しかけた…ような??』

 それがまだ何か、明確に見えなくて困ってしまう。
けれども同時に焦らなくて良いという左近の言葉に、不思議と深く深く安堵する。

「こういう…諭されるような状況……前にも…あった??」

 誰に向けた問いかけではない。自問自答だ。
その答えをくれる者は、傍にいない。

「……どうしよう…なんか壮大な宿題を出された気がする…」

 の独白を知らぬ左近は七輪で再び餅を一枚焼き始めた。
味付けはに教えられた砂糖醤油だ。

『ヤキモチは腹に収めないと…姫が鉛の矢で撃たれそうですからねぇ…』

 自分がキューピッドではないことは自分が一番よく分かっている。
撃つ方ではなく、既に撃たれた方なのだから。
だったらキューピッドとやらが、彼女の心に鉛の矢を撃ち込まないように願い、振る舞うしかない。

の出す答えが…金の矢だといいんですけどねぇ…どうなるかな…これぞ神のみぞ知る、かね』

 出した宿題の答えを、が模索してくれることを願いながら、左近は七輪の上の餅をひっくり返した。
膨れ上がった餅が小さく爆ぜる。何かを暗示するかのようだった。

 

"遠い未来との約束---第七部"

 

- 目次
大変長らくお待たせ致しました、左近編。
さて、それでは"これまで"ではなく、"これから"の話をするとしましょうか?(19.09.28)