金の矢・鉛の矢 - 左近編 |
『姫の軍師としては、今のままでいい』 得意満面のを見ていると、心が痛くなる。 『だがだとしたら…一人の人間としての俺の願いの行く末は何処になる?』 千日戦争の時、は問いかけた。 "軍師としての弁はいい、島左近としてはどう思うの?" 一国の君主になろうとして、なりきれぬただ一人の女の弁。 『だがそんなもの、何時か種が切れる。人一人で与え続けられるもんじゃない…どうしたって限界が来る』 知っていてそれを与えたがるのは、が慈悲深いからではない。 『自覚がないのが救いなのか、どうなのか…』 今もこうしては左近の気持ちに心を割こうとする。 『なら…貴方は……姫ではなく、さんとしての…願いは…一体どこに落ち着けるつもりなんですかね?』 慶次のように無条件に包み込み、癒すことは出来ない。 「俺に出来るのは……飴でも鞭でもなければ……一体何なのかと……ちょっと考えちゃったんですよ」 自嘲と弱音を綯交ぜにして言葉にすれば、は目をぱちくりと瞬かせた。 「え…左近さんの担当はエロスでしょう?」 「…………ハイ?」 エロスってなんだ。 「だから…エロス」 「エロスってなんですか」 「えーと、端的に言って、左近さんは家のお色気担当」 「いや、ちょっと待って下さい。意味分からないんですが」 そも、色気が戦に何の関係があるのか。
「だから、左近さんはエロス。私が疲れた時に爆裂する色気で私を癒したりね。 「……俺、軍師なんですけどね?」 「うん、知ってる」 「なのに、エロス?」 なんで? どうして? 「ぷ……クスクスクス…あー、だめ…やっぱ我慢できない…! 涼しい顔して言い切れない」
ついには湯呑を下ろして腹を抱えて悶えて笑うの背を撫でてやる。 「三成がね」 「殿?」 「そう、旅の最中に言ったのよ。きっと今頃左近は己の存在価値に悩んでるって」 「それで?」 「だからこういう話題が出たら、お色気担当とでも言っとけばいい、って」 「ハァ?」 「あー、もう、やだ! 本当、おかしくなっちゃう! 言った通りになるんだもん」 ひーひー肩を揺すりながらは笑い続けた。
「ついでにこうも言ってた。"お師匠様の信玄公が帰順して、豊臣に半兵衛さんがいる現状、どの面下げて自分だけが 「ちょ、流石にそれ、酷くないですか」 「だよね? 酷いよね??」 でも三成らしいとは大笑いする。 「だから俺はお色気担当?」 「そうそう」 「殿は?」 「姑もどき」 「即答ですかい」 「いや、だって…ねぇ? あの細かさだよ??」 「まぁ…確かに…」 俄かに笑い出しそうになるのを堪えて、の背にかけていた手を離した。 「で、俺は今後はずっとお色気担当になっちゃったんですかね?」 「ん〜、どうなんだろうね? エロスって言い出したのは三成だしね?」 「姫は違うと?」 「いや、そこは全然思ってないけど。微塵も色気ないとか死んでも言えないけど」 「そこは否定して軍師だって言って下さいよ」 泣きを入れるような声色になった左近に、は言う。
「だって、本当に左近さんの色気は凄いじゃない。私だってくらくらする時あるんだよ? 「いや、流石にそうは言いませんけどね?」
一体何を否定し、何を肯定して貰おうとしているのかと頭の隅で考えてしまう。 「自覚があるならいいじゃない、ダメなの?」 「いやいやいや、そもそも色気って役職なんですか」 「役職というより、個性?」 「やっぱり天下にも戦にも関係ないじゃないですか」 「んー、でもほら、美人計とかってあるじゃない? 三国志で貂蝉が呂布と董卓に仕掛けたみたいなさ」 「姫、左近にあの美女の役をやれと?」 互いに想像して無言になった。 「………………うん…無理…かな」 「世の君主は男ばっかですよ? 姫が珍しいんです、そこんところ自覚してますか」 「してます、してます」 「なら、やり直してください」と少し語感を強めて左近が要求した。 「そうね、エロスは無理があったね。じゃ…左近さんはどんな存在なんだろう?」 「ついでに国じゃなくて、さんにとっての俺のことも考えて頂けると、非常に有り難いんですけどね?」 「エロス」 刺々しい語調で問えば、はやはり即答した。 「だから! それはもういいって言ってんでしょうが」 「いや、だから、私個人の目から見ても左近さんはエロスだな〜って思ってて…」 「なんでですか!」 「なんでと言われても……ねぇ?」 「困ったな」とが眉を寄せて口元に指先を寄せた。 「ったく、エロス、エロスって人の事、色狂いみたいに…冗談じゃないですよ」 毒づいたらは瞬きを一つ見せた。 「え、でもエロスって、根本的には外つ国の愛の神の名前よ?」 「え、そうなんですか?」
「うん、愛の神。一般的には転じて、キューピッドって言ってね。 「というと?」
どちらかというと恋愛に淡白だと思っていたの口から色恋沙汰が語られるのが意外だった。
「キューピッドの持つ愛の矢の力は侮れないの。黄金の矢で打ち抜かれた者は激しい愛情に憑りつかれるけど、
はエロスに纏わる寓話の一つとして、アポローンとダプネーという神と下級女神のエピソードを披露した。 「なんだろうな…殿や姫に他意はないんでしょうが…」 「え、何? なんか引っかかる??」 「いえ…言い得て妙って気がしてきましてね…?」 「そう?」 「ええ」 口には出せなかったが黄金の矢の行がどうしても引っかかった。 「…その…金の矢に、エロス自身が撃たれたら…その神様はどうなるんでしょうな…」 「そういう話もあるにはあるわよ」 「どういった内容で?」 幼い頃に語り聞かされた寝物語の一つなのだろうか。
「なんだったかな…確か暗殺指令を受けたエロスが、標的になった美人のお嬢さん…プシューケーって言うんだけど、 「ほう」
「エロスは魔人に姿を変えてプシューケーの両親を脅すのよね。 「面倒なことになってきましたなぁ」
「だよねー。で、これまた紆余曲折あって、エロスが神であることがプシューケーにバレるのよ。 「おや、意外と結末は大団円だったか」 「因みにプシューケーは外つ国で…"喜び"とか"悦楽"という意味合いを持っています」 最後に悪戯っぽく笑うから何かと思ったら、ちゃっかりオチを付けてくるあたり、も相当茶目っ気がある。 「どうあろうとそっちの話にこじつけるわけですね?」 「いや、こじつけってわけじゃないだろうけどさ〜」 は言葉遊びを楽しむようにクスクスと笑い続けている。 「全く、もういいですよ。エロスで」 「お、認めた」 「えーえー、エロス担当で手を打つとしましょ?」 本当にそれでいいのか? とが視線で問えば、左近はしたり顔になった。 「なんですか、エロスは性愛の神で? 伴侶は悦楽の意味を持つ女人だそうで…。 余裕をたっぷり滲ませて告げれば、が目を丸くした。 「何やってんですか」 「いや、なんか…想像したら、左近さん、色々凄そうだな…って思って…」 「散々揶揄しておいて認めたらその反応って、いくらなんでも酷くないですかね?」 「いや…なんか、想像したら腰が砕けそうなもので…申し訳ないけど、ちょっと…ねぇ?」 「想像、ねぇ?」 左近は意味深に笑う。 「え!? 何? 何なの、その反応!?!」
動揺するには申し訳ないが、かつての災害の最中で霞に溶けた記憶の中にある一つの事実。 『つまりなんですか、今の会話だけで、体はあの事を思い出したわけですか』 やれやれと左近は首の後ろに手を回して、コキコキと首の骨を鳴らした。 「え、何? 何なの、その余裕!?」 「ええ、まぁ…エロス担当なんで」 「だから何?」 「家の世継ぎ問題は左近が一手に仕切るなり、お手伝いするなりしなきゃならんのだなぁ…と思いましてねぇ」 「え、いや、なんでそんな話に!?」 「発展しますよねぇ? 俺、エロス担当ですからねぇ」 ニヤニヤからかうように笑う左近の言葉は軽く、冗談だと容易に理解できる。 「えーと…エロス担当、止めようか?」 「いやいやいや、折角だ。任せてくださいよ〜。しっかり金の矢で撃ち抜きますよ〜?」 「いや、結構です。遠慮します、間に合ってます」 「そう仰らず」 左近は大きな歩幅でとの距離を詰めて、を抱き寄せた。 「俺は軍略も腕っぷしも、そっちの方でも…あんたをがっかりさせやしませんぜ?」 「はぅぅぅぅ!」 はぶるりと大きく震えた。アニメか漫画なら、の外郭を描き出す主線が、コミカルな波打った線となり、爪先から頭部へとうねって一瞬のうちに移動して行くところだ。 「色気の暴力がすごい!」 ついに逆上せたのか、は涙目になった。 「やっぱ左近さんは、軍師で。私の軍師ってことで、一つ!」 「いいんですか? エロス担当じゃなくて?」 「いいです、軍師がいい」 「そうは言ってもねぇ? 半兵衛さんや信玄公が居ますしねぇ?」 「半兵衛さんは基本的には秀吉様の軍師じゃん!」 「信玄公は?」 「あの人、そもそも軍師じゃなくて君主の器でしょ!!」 緊張がピークに達したのか、はついに悲鳴のような声を上げた。 「じゃ、昔もこれからも、左近は姫の軍師ってことでいいですかね?」 「いいです、それで! そうしましょう!」
でもそうなると三成はどうなるんだろう? と考えなくもない。考えなくもないが、今の彼は秀吉の家臣だ。 「じゃ、エロスの件はこれでしまいってことで構いませんかね?」 こくこくと大きく頭を振ったを、左近は離した。 「役職の話はこれで良しとして…姫」 距離をとって左近は少し真剣な眼差しをに向けた。
「俺はずっと姫の軍師やってきましたが…あんたが俺に問いかけたように、俺もあんたに聞きたいことがある。 戸惑うようにが視線を彷徨わせた。 「すぐじゃなくて構いません、偶にでいいんで考えてみてください。 「いいですね?」と釘を刺してから左近は身を翻した。 「大丈夫、待ちますよ。俺は待てますから、だから焦らずじっくり考えてみて下さい」 左近はそれだけ言って、縁側から中庭に戻った。 『なんだろう…抱き寄せられた時…なにか思い出しかけた…ような??』 それがまだ何か、明確に見えなくて困ってしまう。 「こういう…諭されるような状況……前にも…あった??」 誰に向けた問いかけではない。自問自答だ。 「……どうしよう…なんか壮大な宿題を出された気がする…」 の独白を知らぬ左近は七輪で再び餅を一枚焼き始めた。 『ヤキモチは腹に収めないと…姫が鉛の矢で撃たれそうですからねぇ…』 自分がキューピッドではないことは自分が一番よく分かっている。 『の出す答えが…金の矢だといいんですけどねぇ…どうなるかな…これぞ神のみぞ知る、かね』
出した宿題の答えを、が模索してくれることを願いながら、左近は七輪の上の餅をひっくり返した。
"遠い未来との約束---第七部" 了
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大変長らくお待たせ致しました、左近編。 さて、それでは"これまで"ではなく、"これから"の話をするとしましょうか?(19.09.28) |