傍にいるということ - 左近編

 

 

 無理やり押し切った酒宴が幕を閉じて数刻。
柔らかい月灯りに照らし出された中庭から聞こえて来た美声に惹かれて足を向けた。
ゆっくりと切々と重ねられるのはの故郷の歌で、物悲しさの溢れた楽曲だった。
戦国の世では耳馴染みのない調子の楽曲ではあるが、心に染み入る情緒に満ちた曲だ。
 天を見上げながら口ずさむは、背後に左近の視線がある事に気づいていないようだ。
中庭の池につけた爪先を遊ばせたままで歌い続けている。
酔いからくる戯れではないと一目で分かった。何故なら彼女は泣いていた。

『……姫…貴方って人は…』

 辛い時は頼ってくれていい。
主従のしがらみが抵抗を生んでいるのだとしても、こういう時程、傍で支えて力になりたい。
性別も年齢も違えど、否、違うからこそ言ってやれることもあれば肩代わりできる事もあるのだ。
 己の抱えた痛みは己で消化するというの姿勢は、誇らしいものではあるが時と場合による。
彼女のその姿勢は常々見て来て性分なのだと理解しているつもりだ。だが一方で、最近はこうも思う。
あれは性分や我慢強さの類ではなく、一種の悪癖なのではないかと。
 彼女が抱える負担は、日に日に大きさを増して行く。
立場や事情を知れば、誰しもが思うだろう。もっともっと他人に甘えていい、頼っていいのだと。
けれども、彼女はそれをしない。頑なに拒み続けている。
まるでそれは意地ではなくて、誰かに寄りかかる事、誰かと特別な関係になる事を恐怖として捉えているかのようだ。
 もしかしたらただの悪癖などではなく、何らかの理由で、そうなってしまっただけなのかもしれない。
が今まで見せて来た政治手腕を見ても、何かもかもを自分一人で抱え込めるような気質の女ではないのは明白だ。
だが土壇場になると彼女は常にああした選択をする。そうせざる得ないという顔をする。

『今は、まだいい…だが…姫、貴方のその癖は……もしかすると、もう…』 

 左近は懸念する。
の悪癖が齎す痛みは、既にの心の許容量を超え始めているのではないかと。
もし仮に、そうであったとするのならば、何時しかその無理はに害となり降りかかる事になるだろう。
心ばかりか器を壊してしまう事だってあり得るのだ。
 敏いの事だ、そこに気が付いていないということはないはず。
それでもは、誰かに頼り、寄り添う事を拒んで、こうして一人で身を隠して泣いている。
その現実に言い表しようのない寂しさを覚えて、左近は小さく溜息を吐いた。

『信頼はされても信用はされていない…って事なんですかね…。
 だとしたら貴方に信用されるにはどうしたらいいんです? 俺に出来る事なら、なんでもするんですけどね』

 続いて邪魔にならぬように廊下へと腰を降ろす。はまだ気がつかない。
左近は水面を眺めるが紡ぐ楽曲に耳を傾けた。
そうする事で何か一つでも汲み取れるものがあればいいと考えたようだった。
 よくよく聞けばの唇に乗る楽曲は、故人を悼むものだった。
残された者の胸に生じた痛みを切々と綴ったその楽曲には所々異国のものと思しき言葉が混ざる。
当然、左近にはその部分の意味は分からない。
けれども紡がれる歌詞の前後を聞いて、内容を把握する事は可能だった。
曲は生と死の狭間に別たれた恋人同士の歌だった。
愛する人を失った者がその苦しみから逃れたい、救われたいと願っているという内容だ。
残された者と、残さざる得なかった者。
立場の違いはあれど、綴られる言葉に乗せる思いは同じだ。

 認めたくはないが、この歌は今のの心情をありのままに言い表したものなのだろう。

「…姫…」

 故郷で死亡説が確定したと言っていたから、この選曲にも頷ける。
けれども、こうした感傷に浸り続ける事は、今のにとって、あまり好ましいことではない。
今は戦国乱世。何がきっかけとなって魔を呼び込むか分からない。
そう感じた左近は、控え目に声を上げた。 

「!」

 声を掛けられたは、初めてそこで左近がいたことに気がついたようだ。慌てて頬を拭い、振り返った。
絡み合った視線から、泣いていた事は既に知られていると分かったのだろう。
はすぐに気まずそうな顔をして、話しをすり替えようとでもするかのように、中庭を見下ろせる屋根の上を示した。左近が示された方へと視線を移せば、そこに半蔵の姿があった。

「なるほど」

 安全だと暗に伝えられても、あまり見過ごしたくなる状況ではない。
半蔵を信頼しない訳ではないが、嫁入り前の女性が夜分遅くに薄手の衣一枚で涼みに出ている事自体が問題だ。
まして美声であっても口ずさんでいた内容が内容だ。快く見守れようはずもなかった。
 左近が廊下から立ち上がって、徐に歩き出す。
彼が傍へと寄って来れば、もまた立ち上がった。
の顔には無理やり作られた笑顔が貼りついていた。
目に見えて分かる悲嘆と疲弊。
それらをひた隠しにしようとして気丈に振舞う我慢強さは、一体何時からの中に息づくようになったのか。
己に厳しく、他人に優しいこの人の生き様はとても美しいと、常々思っている。
けれどもこんな時まで無理に微笑もうとしなくていい。否、微笑んでほしくなどない。
 左近は堪らなくなり、手を伸ばすとを己の胸の中へと抱き込んだ。

「隠さずとも宜しい。辛いんでしょうが」

 すぐに返事が出来ないの耳元に、先程が歌っていた曲の一節を囁く。
瞬間、の体が強張った。咄嗟の反応で、ぎゅっと着物を掴まれる。
の中に生じている感情の揺らぎを容認し、あやすように左近はの背を撫でた。

「美声でしたな、酔いそうです」

 口でそう言いながら、態度で「いいのですよ、泣いて。知っています」と説いた。
程なく、の口からは、声を殺して嗚咽が上がった。

「…寂しいなって……思って…それだけ……ここにいる事が不満じゃないの。
 ……でも、自分が願う事の全てを………叶えることなんか、出来ない…」

「そうですね。でも抱えた悲しみを誰かと分かつ事は出来ますよ」

「うん……そうだね、その通りだね」

 まだ堪えようとする。心の奥底にある痛みを、自分一人の力で消化しようとする。

『そんなに強がらなくていい。ご大層な存在になんか、ならなくていいんですよ、姫』

 例えそれが彼女の望みであったとしても、こうして彼女の限界を目にしてしまえば放っておけるはずがない。

「…美しい曲だ、書いた人もきっと美しく強い心を持つんでしょうな」

「え?」

「悲しみを歌にした。そこから立ち上がって前へ進もうとする証だ」

「…私にも、前に進む力があると思う?」

「ええ、姫なら大丈夫ですよ。実感がなかったとしても、貴方はきちんと歩いてる。
 俺達が驚くくらいの速さで、強さで。だからね、たまには足を止めて迷うくらいが丁度いい」

 声を殺して嗚咽を繰り返すの頭を撫でながら、左近は促した。二人で飾り石の上へと腰を降ろす。

「何が痛いんですか? 辛くて苦しいんですか? 左近にも教えて下さい」

 躊躇うが自ら口を開くのを待つように、左近は無言を通した。
大きな温かみのある掌で頭を撫でながら、話しやすくなるようにと促してやる。
 そうした待ちの姿勢が利いたのか、はぼそぼそと語りだした。

「…故郷で、自分の生きた痕跡が、なくなってしまった。
 帰りたくても、術は見つからなくて、目処も全然立ってなくて。

 例え帰れたとしても、きっともう私の居場所なんかどこにもない。
 皆の中で私は思い出になってしまってるんだから。

 …私は、ここできちんと生きている!! そういくら叫んだって、故郷には届かない」

 一度口をついて出てしまえば止められるものではないようで、は抱えた悲しみを訴え続けた。

「ここでの生活が安寧ならばまだいい。でもここでの生活は、私の手に余る事ばかり。
 どうして私なの? なんで私なの? そうずっとずっと思っているけれど、同時に自分が選んだ結果だって事も、
 充分過ぎるほど知っている。命を繋ぐことを条件に払ったリスクなんだって、何かを得るには何かを失う事も
 あるんだって…その事を今更後悔したって遅くて。
 どんなに嘆いたって、何も変わる事なんかなくて、答えもなくて…。ただ、現実は辛くて痛いだけ」

 左近はの気が済むまで語らせて、泣かせてやった。

「分かってる、分かってるの。充分、分かってる。色んな事。でも辛くて、悲しくて、堪らない」

「当然です、姫はからくり人形じゃない。こんな事が続きゃ苦しいに決まってる。
 それを隠したり、否定しちゃなりませんよ。そんな必要はないんですから」

 左近は言葉に耳を傾け度々相槌を打っていたが、堪りかねたように切り出した。
自責のように繰り返す言の葉の縛めから、解き放ってやりたかったのだろう。

「本当に、そう思う? こんな我が儘みたいなこと…許されるの?」

「ええ、ええ。耐え続けなきゃならない事じゃないでしょう。せめて俺には、全部、聞かせて下さい」

「…左近さん…苦しいの……とても辛いの…。
 …息をする事が、こんなにも苦しいなんて思う事、今まではなかったのに…」

「……生を繋いだ事、後悔しておいでですか?」

「うんん、それはない…多分……。ただ、今は、本当に苦しくて…辛くて……それだけなの…。
 他の感情が浮かんでこない。ただ苦しくて、辛くて、頭がぐちゃぐちゃになりそうで…怖いの…」

「左様ですか」

「うん」

 嗚咽を繰り返し泣き続けるを抱き左近はあやし続けた。
語る言葉は潰えて、涙と共に小さな呻きに似た声が度々漏れる。
きっと何者かの耳に声が届くことを恐れているのだろう。

「姫、大丈夫ですよ。誰の耳にも届きやしません。皆、酒席の後ですからね、酔い潰れて寝てるに決まってる」

 左近の言葉にほんの少し安堵したのようには頷いた。
大粒の涙をいくつも零し、頬を真っ赤に染めて、目元を腫らして泣き続ける。
 一刻、二刻と時間は経って、夜の静けさが深くなる。
やがて天に座していた月も、徐々に帰路を手繰り始めて行く。

「…姫、左近は思うんですがね…」

「……?」

 それだけ時間をかければ、流石に落ち着いてきたようだ。乱れていたの呼吸が徐々に整い始めた。
頃合だと判じたのか、左近はの目元を懐から出した手拭で拭い、切り出した。

「姫を遣わした天は、きっと姫がこうして泣くことを知っていたんじゃないですかね。
 だから必要以上に泣かないでいいように…いや…仮に泣いても、こうしてきちんと受け止めさせる為に、
 俺達を選んだ。そんな気がしますよ」

 どういう事かと、が赤くなった瞳を瞬かせれば、頬に再び涙が伝い落ちた。
左近がすかさず手拭いで拭いとる。

「…俺は軍略家だ。姫の傍に導かれたのは、姫の天下の為だと思っていた。だが、最近はちょっと違う気がしてます。
 軍略家は時に冷徹になります。悪にもなります。主と仰いだ人の信念の為、預かる数多の命の為、後の世の為に
 それは必要不可欠だ。こんな俺を見て、師はよく嘆いたもんです。"王道を忘れてはいかんよ"とね」

「…王道…」

「ええ、その意味がね、姫と共に歩むようになってからなんとなく分かってきたような気がするんですよ。
 命を駒と置き換えがちな俺でもね。一つ一つの命の為に泣いて、笑って、怒って…そんな姫を見てるとね。
 命に換えられるものはそうはない。駒や手段の一つではないのだと、実感する」

 そこで左近は、照れたように小さく顔を顰めた。暗に自分らしからぬ物言いだと、言いたかったのだろう。

「今生は皆が、己の生に確証を持てぬ世界……何時消えるとも限らぬ命を張って生きてる世界です。
 民は飢饉や災害に晒されて、脅え苦しむ。一方で、世は群雄割拠の時代でもある。
 武士も貴族も、己が目的と信念の為に明けても暮れても戦ばかり。民が弱いと知りながら、顧みる余裕がない。
 誰も彼もが生きる事に必死でありながら、同時に知らず知らずの内に命自体の尊さを忘れている気がする。
 仮に死んだとしても、武士は"名誉の討ち死にを出来ればそれでいい"と考え、民は"運がなかった"と嘆くだけ。
 それこそが"戦国の習いなんだ、仕方ない"ってね」

「それって、なんだかまるで…」

「ええ、免罪符ですよ。誰もが無意識に胸に刻んでいた感覚だ。俺達はその事に疑問すら持たない。
 だが姫、貴方は違う。今生にあって、貴方だけがその感覚を持たない。
 それは天から遣わされた者ならではの感覚なのかもしれないが……一番大切な感覚…忘れてはならないものだ」

 そこで言葉を区切った左近は、眩しいものでも見るように目を細めてのことをじっと見つめた。

「…もしかすると天は、その事を俺達に伝える為に……姫を遣わしたんじゃないかと、そう思う事がある。
 姫を見てれば、誰だって自然と痛感しますからね。悪いことは悪い。大事な物は大事なんだ。
 免罪符なんかで納得しちてちゃならないんだ…ってね?」

 左近の言葉に耳を傾けていたの目元は、何時しか乾き始めていた。

「姫は、先程言いましたね? 故郷での痕跡を失った…と。だがそりゃ誤解だ。
 人の胸に、心に、痕跡は残るものです。形に拘り頼れば、それが失われた時に本当の無になっちまう。
 だが人の心に痕跡を残せているのであれば、それは永久に消える事はありませんよ」

 左近の言葉には驚いたように瞳を見開いた。

「命は尊い。だからこそ、忘れようもないんです。
 だからね、この際ちょっとした発想の転換ってのをしてみませんか?」

「発想の…転換?」

 首を傾げたにこれ以上の不安を抱かせぬようにと、左近は柔らかな笑みを向けた。

 

 

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