傍にいるということ - 幸村編

 

 

「へっ? してみたい事?」

 強引に開いた宴が閉幕して、自室へと引き上げている時の事。
酔い覚ましを兼ねては中庭を通り抜けていた。
そこで部屋までの護衛として付いてきてくれた幸村に突然問われて、は進めていたゆったりとした歩みを止めた。
先を歩いていた幸村も同じように足を止める。

「うーん、改めて問われると…これと言っては…」

「何かございませんか? 些細なことでも良いのです」

「些細なこと?」

「はい、様が故郷でなさっていた事の中で、こちらに来てから出来なくなってしまった事。
 その中でこちらでも出来そうな事などはございませんか?」

「うーん、そうねぇ…色々とあるにはあるけど…でも、どうしたの? 突然…」

 すぐに具体的な内容を思いつくことが出来なくて、悩んだ。
それと同時に、何故突然幸村がそんなことを言い出したのかが気がかりで、は問いかけた。
すると幸村は困惑半分、恐縮半分で答えた。

「…いえ、その…気分転換になればと思いまして…」

 気遣いに胸が温かくなり、柔らかい眼差しを幸村に送れば、彼は切々と訴えた。

様は、私の誇りです。慣れぬ事に向かい合い、一歩も引かずに日々研鑽しておられます。
 けれども、人はそれだけではだめだと…お館様も仰っておられました」

「お舘様?」

「信玄公です」

「信玄公? えっ、幸村さんって信玄公に師事してたんですかっ?!」

 幸村の言葉を聞いたは大層驚き目を丸くした。思わず幸村がたじろぐ。

「え、あ…はい」

「そうなんだ…幸村さん、信玄公のお弟子さんだったんだ」

「あ、あの!! 私の事は、今はよいのです。それよりも…」

「あ、うん。そうだね。話の腰を折っちゃってごめんね」

「いいえ」

 は表情を改めて、「話しの続きをどうぞ」というように掌を動かした。
左手で右手の浴衣の袖を押さえて、右の掌を緩やかに押し出す。
ゆったりと自然に見せられた仕草の中に彼女の女らしさが現れている。
 普段の幸村であれば、この仕草に小さく胸を躍らせて、赤面していたことだろう。
けれども今日の幸村は違った。そこに気が向かぬ程、どこか、何かに切羽詰っている様子だった。

「その…お舘様は仰いました。常にしていた事をするくらいの余裕は、常に持ち続けていなくてはならないと」

 そこで言葉を呑んだ幸村は、肩を落とすように下を向いた。
何時も凛として真っ直ぐに前を向く幸村にしては珍しい事で、は自然と怪訝な面持ちになった。

「幸村さん?」

「…私は、時折、思うのです」

「何をですか?」

 言い難いことなのか、幸村はすぐには答えない。
気落ちしているのが一目瞭然という体で、視線を落としている。

「…幸村さん?」

 が心配そうに眼差しを曇らせる。
彼女が一歩踏み出して、幸村に触れようと手を動かす前に、幸村は小さな声で答えた。

「…貴方に何か……とんでもない物を押し付けてしまったのではないかと…」

「ええっ?!」

 月明かりを背に受けて顔に影を重ねる幸村の表情は、よくよく見れば苦悶に満ちていた。

「ど、どうしたんですか? 幸村さんらしくな」

 驚き、慌てて傍へと寄り添えば、下を向いていた幸村が弾かれでもしたように顔を上げた。
彼は息咳き切るように、胸に抱え続けていたらしい思いの全てを吐き出した。

「貴方は、この世界の方ではない!! なのに今の貴方は……この世界の為に…苦しんでおられる…。
 ……貴方と出会った頃の私は、ただの一度も、貴方がかように苦しむ事になるとは、考えもしなかった。
 ただ響いた声に導かれて、それが正しいことだと思い込んで、貴方に重責を押し付けてしまった…!!」

「…幸村さん…」

 そんな事を考えていたのかとが息を呑めば、幸村は今にも泣きだしそうな顔をした。

「私は………私は、貴方を………貴方のことを、特別な人だと考えていました。
 仙女のように万能で、苦しみとは無縁で、どのような者にも平等に安息を与えて下さる方……
 例え難題に直面しようとも、どのような事でもいとも容易くこなしてしまう方なのだと、勝手に思い込んでいた」

「でも……違った?」

「はい…貴方は、私が思っていたような方ではなかった。
 私達と同じ血の通った人間で、この世界のどのような女子よりも儚く、か弱く、お優しい方だった」

 強く握られた幸村の拳がぶるぶると震える。その手は、以前の頬を打った事がある掌だ。
彼は己の両手を緩やかに開いて、じっと見下ろした。
開かれた掌から続く震えが、腕全体に広がって行く。

「幸村さん…?」

 が幸村の様子に心配して距離を詰めようとするものの、幸村は頑なにそれを拒んだ。
に背を向けて己の掌へと視線を落として息を詰まらせる。
まるで、何かから逃れようとでもしているかのようだ。
自然との胸には不安が広がった。当然だった。
常に自分に第一の信を置いて傍にあった忠臣の見せた変化が、このようなものであれば、違和感を覚えぬ者はいない。
何かを言わなくては、聞かなくてはと思うのに、なかなか適した言葉が見つからずにもどかしい。
 幸村の抱えている感情の向きがどこに向いているのか、何が原因でこんな顔をするのかが、皆目見当もつかない。
問い質してしまいたい。けれども余計な事を言って、追い打ちを掛けてしまっては意味がない。
こうした困惑と葛藤に満たされてしまえば、人は自然と無口になる。
はほとほと困り果てた様子で、唇を噛みしめた。
 その間に、幸村は己の感情の向きを定めたようで、力弱い声色で言った。

「お許し下さい、様。
 ……私は、貴方に背負わなくてもいいものを押し付け、貴方の臣だと口では言いながら、貴方に手を上げた……」

 幸村の紡いだ言葉に、記憶が鮮明に蘇った。

 

『どうされたのですか、一体……何があったと言うのです、様!!』

『私の敬愛する貴方は、決してそのような事を言いません。
 戦いが嫌いで、臆病で、滅茶苦茶な事ばかり考えて、無茶ばかりします。
 ですが、決してそのような事を口にする方ではない!! 様、どうか目を覚まして下さい!!』

『今の言葉を、もう一度、家康殿の顔を見て、言えますか??』

『貴方を信じ、貴方に下った男です!!
 貴方が苦しむ時に、何時も貴方の"父"として貴方を支えた、心配した男です!!
 そんな男に、貴方は今なんと言いましたか?! 死ねと、そう仰ったのですよっ?!』

 迷走した。
未来が見せた悲しい現実に、自分の背負った使命の重さに屈して、見失ってはならないものを見失いかけた。
その時、他の誰よりも早く自分を諌めたのは、何を隠そうこの真田幸村だ。

『…だって……だって、そうしないと……そうしないと………壊れたままだから……』

『何が壊れたというのです、何も、何一つ壊れてなどおりません!!』

『それは、今、この瞬間だから!!』

様!! 何かを守る為に、何かを犠牲にする事は時として必要です。
 けれど私の知っている貴方は、それが出来ないお方だ。何もかもを守る方法を探す人です』

 

 毅然と進み出て、主君が誤った道を歩まぬようにと、臣でありながら主君を正した。
打たれた頬は確かに痛かった、眼尻も熱くなった。
けれども、あれが己の曇りかけた目を覚まさせたといっても過言ではない。
感謝している、あの判断力と咄嗟の行動力は、寧ろ誉れと言って良かったはず。
けれどもそれを成し得た本人にはその自覚はなく、それどころか自責の要因としている。
その事実には大層驚き目を見張った。

「え…? あ、え? その…こと??」

「…はい、私は……なんと浅はかで、意志が弱いのか…。
 真にお辛かったのは、貴方のはず……諌める法とて他にもあったはずなのに……。
 臣でありながら、敬愛すると言いながら…貴方を!! この手で…!!」

「…幸村さん……」

 幸村の発する声が、微かに揺れる。
は幸村の実直な人柄に強く胸を打たれ柔らかく微笑んだ。
が今後こそ、力強く一歩を踏み出して、幸村との距離を詰めた。
 差し伸べられたの指先が幸村の肩に触れれば、彼の肩は脅えてでもいるように小さく跳ねた。

「そっか…その事、ずっとずっと、引っかかってたんだね」

 の声に冷たさはなく温かさに満ちていた。
その事実に安堵したのも束の間、「それは甘えだ」と彼は再び自責を抱え込む。
 力弱く頭を垂れた幸村は、己の信念の弱さを呪い、耐え兼ねるとばかりに開いていた掌を握り締めた。
怒りと自責と焦燥とでぶるぶると揺れる拳へと、がゆっくりと掌を重ね合わせる。

「…有り難う…幸村さん…。
 でもね、あれはいいのよ。間違いじゃない、間違っていたのは、私の方なんだから。
 ああやって、ちゃんと止めてくれる人がいなければ、本当に私はどうにかなっていた」

 の声を聞き、幸村は強く頭を左右へと振った。
彼の顔に貼りつくのは、まだ苦悶と自責と焦燥だ。

「いいえ!! そのような事は!! 元はと言えば、我らが課した重責です!! それ故の、混乱です!!
 本来ならば、背負うのは我々日の本の民、全てのはず……それを…それを私は、貴方に……!!」

「幸村さん……私の事、信じられなくなっちゃったのかな?」

 やんわりと問い掛ければ、幸村はそうではないと強く首を横に振った。

「貴方なら、きっと天下を平らげる。平和な世を作って下さると信じています。
 過去も、今も、そしてこれからも。

 ですが、その為に貴方がこれ程疲弊し、悲しみを抱えてしまう事になるなんて間違っている。
 正しいはずがありません。

 この可能性を考えなかった私は、なんと、浅はかなのだろうかと………」

 は幸村の言葉を聞きながら、再び一歩距離を詰めた。
母が子にするように、慈愛に満ちた笑みを浮かべて幸村の頬に手を添える。

「有り難う、幸村さん…いつも心配して、考えてくれて。
 私、その言葉だけでもとても救われてるし、満たされてるんだよ」

「…様…」

「あのね、聞いて」

 頬から手を放し、緩やかなリズムで彼の肩を撫でながらは言う。

「確かに、この世界は不便が一杯。難しい事も、危険な事も一杯。私には手に余る事も、山盛りよ。
 でもね、そこで生きる事、そうしてでも生き続けたいと願ってしまったのは……他でもない、私自身なの」

 幸村が息を呑み顔を上げての事を見下ろした。
澄切った眼差しと、数多の感情に翻弄されて揺れる眼差しとが宙で交差する。

「だからね、幸村さんが自責する事はないんだよ。
 それに幸村さん程の人にちゃんと叱るべきところは叱ってもらえて、止めてもらえて、信じてもらえてる事は、
 私にはとても力になる事なの。とてもとても嬉しいことなのよ。
 私、ちゃんと見られてるんだな、心配してもらえてるんだな、 信頼もされてるんだな。
 なら、きちんと頑張らなくちゃなって、思えるから」

 気丈な彼女の気遣いが、懐の大きさがこの時ばかりは憎いと思った。
打ちのめされて苦しんでいるはずなのに、こうして自分の事を気遣う。
この人はどうしてこんなにも強く、大きく、自分に厳しい人なのだろう。
そんな言葉を聞く為に話している訳ではないのに。
 頼って欲しい、支えになりたい。
なのに現状はまるで逆だ。自分自身の方が励まされている。それがもどかしい。
 きっと他の者ならば、こんな風にはならない。
特に慶次や左近であったなら、今この瞬間、に悟される事などはなく、きちんとの胸にある重責を取り去ってやる事が出来るのではないか。そう思えてならない。
 それこそが個々の性質の違いだ。だとしても、今は愚直であり不器用な自分が恨めしい。

「有り難う、幸村さん。それとごめんね。心配ばかりかけて」

「お願いです、様。どうか"もっとしっかりしなくては"などとは、思わないで下さい。
 貴方が背負ってしまった物の半分でいい、いえ、もっともっと少なくとも良いのです。私にも背負わせて下さい」

 切々と訴える幸村の前で、はゆっくりと首を横へと振った。

「ごめんね、きっとそれは無理。これは私が預けられた事だから。
 あのね、幸村さん。貴方のことを過小評価してる訳ではないの。だからよく聞いてね。
 私、最近よく思うんだけど、人って何らかの役目を生まれ持って背負ってるんだなって。
 私の場合は、それがこっちへ来てしまって、急に大きくなってしまったのよ。
 でもそれは他でもない、私自身が、イレギュラーを望んだから。
 本来なら死んでしまうところを、生き続けたいからと願ったからこそなのよ」

「ですが、命を繋いでかように苦しんでは意味がない」

「そうね、苦しいばかりでは生き永らえた事にはならないかもしれない。でも、それもちゃんとした生よね?
 それにこんな事ばかり、続かないよ。人生は山あり谷ありって言ってね。
 悪い事が沢山あれば、それを乗り越えた時にいい事が沢山々々待っているんだよ」

『…どうして貴方はそうなのか……。
 その潔癖さが、貴方自身を傷つけているというのに…どうして、そうも強いのか…』

 幸村は喉まで出かかった言葉を辛うじて呑み込んだ。

「…………貴方は気丈な方だ…」

「そうかな? これでも必至だよ? 折れそうだよ。
 でも皆や幸村さんが支えてくれてるから、そう思える強さを持ち続けていられるだけ。
 幸村さんは私の生を辛いと心配してくれてるけど、そんなに悪いものでもない。
 だってこんなに心配してくれて、私の為に泣いてくれる人が傍にいてくれるんだもの」

 「気が付いていなかった?」と問いかけながら、悔しそうな面差しの奥に薄らと光る滴を指先で拭ってやった。

「この時代、貴方のような武士が誰かの為に人前で泣くなんて……よっぽどの事なんでしょう?
 私の時代だって男の人はそう簡単には人前では泣かないわ。
 でも貴方は、私の為に、今こうして泣いてくれてる……こんなに嬉しい事ってない。
 それだけ思われてるって事だもの。

 有り難う、幸村さん。貴方が、私の臣で良かった。本当に」

「無様な姿を晒してしまい、申し訳ありません」

「うんん、全然無様なんかじゃない。どんな言葉よりも、胸に響くわ」

 

 

- 目次 -