鏡越しの世界

 

 

「三成殿」

「なんだ、幸村か。それに兼続も…どうした?」

 が寝室に戻り深い眠りの中にある時、三成は階下の書庫へ降りていた。
そこへ幸村が険しい顔をして、兼続と共に現れた。

「お願いですから、様をあまり刺激しないで下さい」

 三成は手にしていた帳簿を閉じて元の位置に戻すと、兼続へと視線を向けた。

「お前も同意見か?」

「いや、私は少し違うな」

「兼続殿!?」

「幸村、私は中立だ」

 幸村を見てそう言いおいてから、兼続は三成へと視線を移した。

「だが、お前にはもう少し言葉を選んで欲しいとも思う。
 お前のような性格の男にはそれ自体が無理難題かもしれないが」

 眉を動かした三成に、幸村はを取り巻く事情を説明した。
元々はこの世界の住人ではない事。
何か大きな使命を、望んでもいないのに背負わされている事。
それは他の誰かが代わって受け持てるような物ではないという事まで、熱心に語った。

「今日はまだいい…あの発作らしきものが最初に現れた時は、本当に凄惨なものだった」

 思い出しているのか、兼続は眉間に皺を刻んだ。

「珍しいな、お前がそのような事を言うとは思わなかった」

 三成の言葉に兼続は小さく息を吐いた。

「その時我が君から意識を奪ったのはこの私だ。そうでもせねば、発狂していたやもしれぬ」

 僅かに顔を強張らせた三成に、兼続は言った。

「我が君は自国にありながら心穏やかではない。何時如何なる時も、目に見えぬ何かに脅え、苦しんでおられる。
 突飛な行動が多いように思えるかもしれないが、あれはその恐怖を悟られぬように気丈に振舞っているに過ぎん。
 私は、臣として思う。我が君がこの国にある時くらいは穏やかで居られればよいと」

「兼続殿」

 幸村が感じ入ったという眼差しを送れば、兼続は一度しっかりと頷いた。

「あの方の心の乱れが国許へと広がれば国を傾け兼ねないというお前の考えには同感だ。
 だが必ずしも、その心の乱れが我が君の未熟さからくるものではない事を、お前は知るべきだ。三成」

 視線を伏せる三成に対し、兼続は淡々と言い続ける。

「お前の目からすれば、目に余る点は幾つもあるのだろう。だがそこはお前の器量で上手く補佐してやって欲しい。
 それが出来ぬのであれば、主を変えることだ」

「何が言いたい」

「我が君は我が君だと言うことだ。誰かの理想通りには生きられぬ」

 三成は口篭った。視線は暗く、鬱積を溜め込み始めている。

「…どうしても気に入らず、秀吉殿の元に居たいと思うのならば、我が君の事は"シカト"しろ」

「シカト? なんだそれは」

「無視しろと言うことだ。我が君が、私と山……政宗を諌めた時に仰られた言葉だ」

 まさかあの兼続の口らかその台詞が出るとは思わなかったらしい。幸村は目を丸くした。

「……今だからこそ言えるが、言い得て妙だと思った」

 そう漏らした兼続は身を翻した。
書庫の入り口付近まで進んで、ふと足を止める。

「まだ何かあるのか」

「いや、お前ならもう気がついているかもしれないが。
 左近、慶次、幸村は我が君に特別な感情がある。手強い筈だ、頑張れ」

「はっ?」

 何をどう頑張るのかと固まった三成の目の前で幸村は激しく動揺した。

「な、兼続殿っ!! わ、私はただ臣として!!」

「幸村、そろそろ自覚しろ。お前のは"忠"ではない、"愛"だ」

 部屋から出て行った兼続の言葉に幸村は固まり、今度は我に返った三成が無表情の下で動揺を見せる。

『そういう風に見えているのか? 俺の行動は。冗談じゃない、何故俺があんな女の事を。
 …………いやだが、待て。確かに、構う必要はなかったはずだな……では、何故俺は構ってるんだ……?
 どうして、気になってしまうのか……』

 ちらりと横に視線を流せばまだ固まり続けている幸村の姿が目に入る。

「あんな女の、どこがいい?」

「ですから、私は臣であって、そういう思いではありませんッ!!」

 思わず衝動のまま問いかければ、我に返った幸村は顔面を茹蛸のようにして逃げ出した。

「…どこがいいんだ、あんな女…」

 残された三成の独白に答える者はいなかった。

 

 

 突然襲ってきたあの衝動は、再び未来を見せた。
そこで見た未来は以前見た未来よりかはほんの少しだがマシだった。
銀色で覆われた世界に、青い空が戻っていたからだ。
それを喜べば、またあの声に呼ばれた。声は言った。

『…見えるか、宿命の変化を 』

『ええ、見える……これは、一体…』

 問い掛けには答えず、声は何時も一方的だった。

『急ぐのだ。この変化が失われぬように、狂った宿命を正して欲しい』

『急ぐ? 何をですか?? それにどうやって? 私にはそんな力は…』

『何事も全てはきっかけ……きっかけの変化で、世界の宿命は狂った。ならばやり直せばよいだけの事』

『きっかけ…? それは、何?』

『そなたは何が必要なのかを知っているはずだ。迷うな、惑うな、恐れるな……一度世界は死んだ。
 お前の選択の向こうに、異なる世界が出来ようとも……"今"よりもよい世界であれば、誰も咎めぬ』

 遠のき始めた声に焦りを覚えて縋った。

『待って、行かないで!! もっとちゃんと教えて!!』

 そこで、天から何かが大地へと落ちる映像を見た。
あまりに眩しくて両方の瞼を閉じた。
全身が焼かれるような熱さを覚えて、耐え切れずに天を見上げれば、知識の中だけで知っているきのこ雲を見た。
 自分が知っている知識が瞬時に脳裏に駆け巡る。
その光が今生に齎した傷跡の凄惨さを思い出し、恐怖を覚えた。
まさか、そんなはずはない。あのような物が再び使われる日が来るはずがない。
でも、まさか、もしかしたら…と、抱いた疑問の答えを求めれば、問いかけに明確な答えを与えるかのように、の視界は天へと昇った。まるで空を飛んでいるかのように、遥か上空から世界の全景を見下ろす形になる。
漠然と、神の目とはこういう広く大きなものではないかと思った。
が目にした世界は、気流の荒れで地形をはっきりと確認する事は出来なかった。
たが、一つだけはっきりしたのは、先程下で見たきのこ雲の齎した災厄は、世界のあちこちに及んでいたという事だ。

『嘘……嘘だ…これって…こんな事って……もしかして…本当に…?』

 己の中にある知識、記憶が、一つの出来事を呼び起こす。
それを自覚するのが恐ろしくて、全てを拒絶するように瞼を閉じて、耳を塞いだ。
途端、この世界から意識は切り離されて、無明荒野を彷徨った。
戻りたいと思いながら、元の場所へ戻る術を知らず、大きな恐怖の中で絶望だけを噛みしめた。
不安と恐怖で押し潰され、心が、魂が闇に呑まれる。
自分という存在までもが消えてゆくような、寂しさ、悲しさに包まれかけた瞬間、掌に温かさを感じた。

様」

 耳に触れた声に気がついて、聴覚を研ぎ澄ました。

「家康にござる、ここにおりまする!!」

 その声を導として、闇の中を泳げば、やがて見知った顔が見えた。
そこで自分が今いる時代へと、意識が戻った事をようやく自覚した。

 

 

『あの衝動は…これからも続くんだろうか?』

 ゆるいまどろみの中で考える。
未だに繋がれている家康の掌のくれる温もりが優しくて、心強い。

『…世界を元の形に戻す為に私がここにいるのだとしたら……次に必要な事はなんだろう?
 足りないものがあるといっていた。何かが変化した事で世界の宿命が変わってしまったとも…。
 だとしたら……それは、一体、何?』

 分からない事ばかりが山積していた。

『情報が……少ない……きっかけを、探さなくちゃ…。
 ……早く…止めなくちゃ…あんな事……早く…どうにかしなきゃ…』

様、ゆっくりなさい。ゆっくり着実に…それでよいのです。でなければ…見落とします」

 無意識の内に、何かを言って、泣いていたのだろうか。
頭上から柔らかい声が降ってくる。

『神君…家康公………そうだ、大丈夫だ……私には、彼がついている。
 ……私達の世界の基盤を開いたこの人が、居てくれる……』

「…でも…まだ足りない……何が足りないの…?」

「足りないもんなんざ、何もないさ。家康がここにいるのだって、あんたが救ったからだ。
 あんたが手を差し伸べた結果が、次の道を開いたんだぜ。
 いいかい、さん。何かってのは色んなもんが積み重なって繋がって、それで作り上げてる…そんなもんさ。
 焦らなくていいんだよ、あんたは充分やってるぜ」

 額を撫でて眦を伝う涙を拭う大きな掌は慶次のものだと、語り掛けられた声ですぐに気がついた。

『……足りないものなんか…ない……? 見落としているだけ? なら、私は何を見落としてるの??』

「……繋がっている……次の、道へ………繋ぐ……時代を…繋いだ………繋いだのは…」

 そこで混濁していた意識は一つの答えを見出した。
疲労と闇の中で見た一条の光、その中で笑うのは、家康ではなく豊臣秀吉の姿だった。

「太閤様ッ!!」

「「おわっ!!」」

 弾かれるように飛び起きたら、家康と慶次が同時に固まっていた。

「そうだ……そうだ、家康様の前に、彼が居たっ!!」

「おーい、さん〜?」

 目の前でぶんぶんと振られた慶次の手を掴んで、問う。

「た、太閤様は?! 秀吉様は、今、どこ?!」

「どこって……舶来品の調査依頼したんだろ? 街じゃないのか?」

 慶次の言葉を受けて、はそうだったと頷いて立ち上がった。

「お、おいおい、さん、どこ行くね」

 寝巻き姿のまま部屋を出て廊下を突っ切って、階段を一段飛ばしで降りた。
諸将が詰める執務階へと飛び込めば、その場に詰めていた全員が固まっていた。

「秀吉様?!」

 きょろきょろと見回せば、彼の姿はそこにはない。

「あ…まだ戻ってないんだ」

「待て、どこへ行く」

 そのまま駆け出しかけたの首の後ろを掴んだのは三成だった。
振り切る間もなく、猫のように掴み上げられた事に不快感を覚えて、周囲に視線で助けを求めた。
けれども誰も助けてはくれなくて「なんで?!」と、苛立つ。
そんなに、遅れて降りてきた家康と慶次とが「当然だ」とばかりに険しい顔をして溜息を吐いた。
二人の視線は、吊り下げられているの体へと向いていた。

さん、寝巻きのまんまだろ。その姿でこれ以上下に降りたら、そりゃ乱心どころの話じゃないぜ?」

「あ、そ、そうか…ごめんなさい」

 ようやく我に返って縮こまれば、慶次が着物を一枚肩から掛けてくれる。

「こういう時は、自分から探すんじゃなくて、誰かに言いつけるんだ」

「え、でも…そんなの悪いよ、用があるのは私なのに」

「宜しいですか、様」

「は、はい」

 珍しく固い声の家康に口を挟まれ、視線を向ければ、彼は言った。

「我らは様の臣。きちんと使こうて貰わねば示しがつきませぬ」

「し、示し?」

「何かが必要であれば、誰でもいい。願いなされ。そしてそれが叶った時には"骨折り"と労いなされ。
 それで良いのですから」

「で、でも…」

様、様が統制を乱してどうするのですか。様のその大らかさは美徳ですが、時と場合によりますぞ。
 何時如何なる時もそれでは、兵に示しがつきませぬ。統制の乱れは、戦場に置いては命の危険を呼ぶものです。
 どうか、自重して下され」

 切々と言い含められ、が視線を一同へと巡らせれば、誰一人として家康の諫言を咎める様子はなかった。
自分の方がいけないのかと自覚して、肩を落とせば左近が先延ばしになっていた件を口にした。

 

 

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