傍にいるということ - 孫市編 |
開いた宴の幕が閉じて数刻。 「失礼、まだ起きているかい?」 「あ、はい。大丈夫ですよ」 「こんな時間に邪魔した非礼は詫びよう、でもどうしても今日中に話しておきたかったんでね」 「いいえ、どうぞ」 羽織を一枚掛けてから部屋の中へと招き入れた。 「こういう事は任せなよ」 流石に狙撃手だけあって、火の扱いはお手のものというところだろうか。 「で、あの…今夜は一体どうして…?」 互いの間に火鉢を挟んで対峙すれば、孫市は改めて居住まいを正した。 「孫市さん?」 「貴方を害そうとした咎、平にお許し願う」 片手を畳へとついて平伏した孫市を見て、は動揺した。 「な、え? もしかして、そのこと? あ、あの、それはもういいですから!! だって、もう済んでる話だし」 の声が充分過ぎるほどの困惑を孕んでいることを確認してから、孫市は面を上げた。 「あの平手打ちのことか? 本当に、お嬢さんはお優しいね」 「お嬢さんって…私、そんな年齢じゃないんですけど…」 照れていいのか揶揄されていると判じて怒ればいいのか迷う。 「生憎、俺はまだ貴方をどう呼ぶか決め兼ねているんでね」 「でも、やっぱりお嬢さんってのはちょっと違う気がするんですよ」 「まぁ、それはおいおい考えるとして…本当に、すまなかったな」 また頭を下げそうな孫市に向いは気にしていないと首を大きく横へと振った。 「貴方は許してくれると言ったが、俺としてはきちんとしときたかったんだ」
歯の浮くような口説き文句が耐えない男だけに、孫市が今見せている誠実さには驚かされる。 「今後の為にもな」 「今後?」 「ああ」 火鉢の上へと掌を差し出されて、首を傾げた。 「なっ!!」 赤面したへ軽いウィンクを見せて、彼は口の端だけで微笑む。 「…つまり、こういう事」 「こ、こういう…って」 あまり長く触れ過ぎて警戒されても面倒だと、孫市は自らの手を離した。 「一目惚れってのも、有りだろ?」 「ひ、ひっ、一目惚れ?!」 「ああ」 臆面もなく肯定し口説かれた。 「その様子じゃ、"私達知り合ってまだそんなに日がないのに"って所か?」 ほんの少し身を乗り出して伺うような視線を送れば、は言葉を失ったまま頷き続けた。 「生憎、俺は貴方のことをずっと前から知ってる」 「え…?」 「俺は傭兵集団の頭領だぜ? 情報収集は怠れない」 「あ、あの…私の世論での評判とかもご存知なんですか?」 期待半分、怖さが半分という様子で問いかければ、孫市は姿勢を改めた。 「教えて下さい、孫市さん」 自分は周囲が期待する名君となれているだろうか? と問うへ孫市は言う。 「それがな、情報、全然掴めなかったんだな、これが」 「エ?」 宛が外れたと目を丸くするの前で孫市は指折り数えるように話した。
「客観的に見ても民の評判は悪かないだろ。近隣を抑えてた家康の方が石高が上になったのに無血開城に帰順だ。 それだけ知っておきながら情報は何も得ていなかったと言うのか?
「そう、それしか俺は知らなかった。貴方の事といえば誰もが知ってる現状しか、俺の耳には届かない。 「接触する…機会? 最初から、殺すつもりではなくて会いたかっただけだというの?」 の問いに孫市はほんの少し黙った。
「いや……それもちょっと違うな。仕事は仕事だ、請け負った以上きちんとこなすぜ。 本当だろうか? と視線に疑問をにじませたの前で軽く両手を上げて、身を改めてみろと示す。 「満足した?」 「ええ、ごめんなさい。それと有り難う」 「いやいや、安心してくれて何よりさ。何せ俺は新参だからな。信がなくて当然さ」 「…ねぇ、孫市さん。どうして?」 姿勢を正した後、は問いかけた。 「どうして私に会いたいと思ったの?」 孫市は不敵に笑う。 「さっきも言ったろ? 会ってみたかったんだ。 「…は、はぁ…」
先に上がった家臣の事はともかくとして、自分の事、引いては絶世の美女と言うフレーズには語弊がある気がすると、の表情が物語る。 「孫市さん?」 「いや、すまないな。本っっっっ当に、貴方は変わり種なんだと思ってね」 「変わり種? 私が?」 「ああ」 大きな瞳を瞬かせるの前で孫市は指折り数えつつ示唆した。
「普通の女性は、褒められれば喜ぶか、当然という顔をするか、動揺するか、嫌悪するかだ。 孫市は小動物を眺めるような柔らかな視線でを眺めて独白した。 「秀吉が腹を括った理由がよく分かる……貴方は、ほっとけない……男にそう思わせる女だ」 しみじみと漏らした声に、がまたもや不思議そうな眼差しを見せた。自覚がないらしい。
「俺は貴方が女である事を知っていた、斬新な物の考え方をする事も知っていた。 「…は、はぁ…」 「だが、実際はこんなに華奢な体で、片意地だけで生きているような悲しい人だとは、ちっとも想像しなかった」 孫市の言葉にが目を丸くして答えた。 「か、片意地?! わ、私そんなに頑固ですか?!」 「ああ、頑固だね。お嬢さん、女はもっと狡賢く生きなきゃだめだぜ。 「ね、根回し?」 「ああ」と頷いて、孫市はの肩へと腕をかけて抱き寄せると耳元で囁いた。 「辛い事、苦しい事と向き合うなら、自分の支えになり護ってくれる男の一人や二人、先んじて用意しておくもんだ」 「え? あ、あの…一応、慶次さんや左近さんや幸村さんを始め、頼もしい家臣が私にはいますけど…?」 「そうじゃない」と孫市は首を横へと振った。
「あいつらは兵だ。貴方を護るために身を斬る覚悟の一つや二つはある。だが、精神的にはどうだ? ズバリ確信を突かれては息を呑む。 「いくら身に余る事に取り組んでたって、女として""として今を楽しむ余裕を忘れちゃならない。 「…そ、そんな事は…」 言いよどむの唇にそっと人差し指を乗せて言葉を奪う。 「聞いたぜ、貴方はこの世界の人間じゃないそうだな」 視線の動きで肯定すれば、孫市はうんうんと軽く頷く。 「だからって、この世界の男に恋しちゃならないって事にはならないだろ? 唇に添えられていた指を離して、答えを求めれば、は眉を八の字に曲げた。 「正直な話、見劣りは全然してない。寧ろ、逆かもしれない。 「恋はし難い?」 頷いて肯定し、はその理由を述べた。 「最たる違いは、側室。この世界では認められているでしょう? そこでは孫市と距離をとるように身を起こした。
「孫市さん、その…孫市さんの気持ちは驚いたけど、純粋に嫌われるよりは好かれる方がいいし、嬉しいとは思う。 「俺が、ありとあらゆる花を放っておかないから…だよな?」 分かっているじゃないかと、顔に感情を滲ませれば、孫市はの肩にかけていた腕を自ら離して肩を竦めた。 「心外だな」 「貴方流の礼儀だから、ですか?」 「いいや」 真っ直ぐに視線を向けて、孫市は言う。 「これでも俺、真剣な恋には臆病且つ慎重な男なんだぜ?」 「やだ、なんだか想像つきませんよ!」 思わず噴出してぱしぱしと肩を叩けば、孫市の答えは意外なものだった。 「当たり前だ、ただ一人"この女だ"って思った女に見せりゃいいだけの顔だからな」 何時もの軽快な調子はなく、至って真面目、低い声に驚いて顔を上げた。 「ま、孫市…さん…?」 「俺は、貴方だけにその顔を見せたいって話だ」 「あ、あの…それは、その……さっきも言った通り…」 「ああ、俺達、まだ日が浅い。互いの事は何も知らない。だから、知ってほしいし、知りたい」 孫市は真面目な顔で改めてを抱き寄せて手を取った。 「貴方がこの顔の俺に慣れられないと言うのなら、何時もの俺でいよう。努めてな」 指先に軽く口付け、刷り込むように彼は言う。
「だが忘れないでくれ、俺の本心はこっちだ。俺がこの顔を貴方の前だけで晒すように、 「ま、孫市さ…あ、あの……展開が速くて…ついていけな…」 「悪いね、もう少し深く言わせてもらうぜ」 「ええっ?!」 照れと混乱の極地で泣き出しそうなの願いを、孫市はあえて無視した。
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