傍にいるということ - 孫市編

 

 

「今すぐ付き合えとはいわないさ。ただ試してほしい」

「た、試す?!」

「ああ、貴方の恋愛対象範囲に俺が入れるかどうかくらいは。
 体裁やらなんやら頭で考えてないで、心で判断してほしいってことさ。それとも、そんな勇気はない?」

「なっ! 勇気ってなんですか?! 勇気って…」

 食って掛かるように声を少し荒げれば、孫市は淡々と告げた。

「貴方の場合、ただ初心で鈍感ってだけじゃないだろ?
 恋に臆病なのは…過去に何かがあって、それがしこりになってる…って事なんじゃないのか?」

「孫市さん!! もう結構ですから!! お気持ちは嬉しいんですけど、主従の垣根を越えるつもりは
 私にはありませんので、諦めてとっとと出て行ってください!!」

 は急に激昂したかと思えば、孫市と距離を作った。

「それとも、誰か呼びますか?!」

 聞く耳は持たないと全身で訴えるに、孫市は素直に従い距離を作ると腰を上げた。

「分かった、今夜はこれで退散しよう」

「この手の話は、他所でどうぞ」

 退室しようと襖に手を掛けた孫市が立ち止まる。
まだ何かあるのかとが睨みつければ、彼は肩越しに振り返って満足そうに笑った。

「悪いな、図星だったか」

「なっ!!」

「だが…俺は貴方を傷つけた男じゃないぜ? 男をどいつもこいつも一括りにしないで貰いたいね」

 指摘されて息を呑めば、まだ孫市の眼差しは何時もの軽薄な男のそれではなかった。

「過去から学ぼうが、囚われようが、それは貴方の自由さ。
 だが機会すら与えず一括りじゃ、俺に対して失礼だとは思わないか? 
 今の貴方の言葉はそういう事だと思うけどね」

 ぐっと息を呑んで、は下を向いた。

「じゃあな、夜更けに失礼。お嬢さん」

 孫市は白々しい顔をしてそのまま室を後にした。

 

 

 最後に恋をしていたのは何時だっただろうか?
ああ、確か、もう六年も昔のことだ。
人生最大の過ちと言っていいあの恋は、自分にとっては色んな意味で初体験尽くしだった。
その恋の結末が結末だっただけに、何もかもを忘れたくなり、認めたくなくなった。
 だから忘れようと日々努めた。仕事に没頭し、趣味に明け暮れる事で、恋愛とは距離を置いてきた。
最初の一、ニ年は未練があった。相手にではなく、恋を諦めてしまった自分に対しての未練だった。
三、四年と月日が経つ間に、自分への言い訳が上手くなった。
「忙しい」「相手がいない」大抵この二言で事は済んだ。
けれども根底にあったのは「もう二度と、あんな思いだけはしたくない」という恐怖と嫌悪だった。
それをひた隠しにし続けて月日は経ち、今に至る。
 この世界に降りた時、戦場に立った時、ありとあらゆる時に、心が解されてゆくのを感じた。
それは現代と異なる価値観の中で生きる現状の中での唯一の喜びだった。
 この世界の男達は何時如何なる時も自分を護ってくれた。常にそうあろうとしてくれた。
彼らにとってはそれはただの仕事であったのかもしれない。だとしても、そのひたむきさが純粋に嬉しかった。
見限っていたはずの"男"というものに再び期待をかけ、魅力を感じ始めていたのもまた事実だ。
 けれども現実がそれを許しはしなかった。
自分だけが見た遠い未来像。
それを回避する為に託された願いの数々。
大きく重たい使命の前では、恋だのなんだのとうつつをぬかしてはいられない。

「幸運だと…思ってたんだけどな…」

 これだけの重責を課せられたのが自分であった事を、ほんの一時だが、納得した事がある。
冷めた恋愛感を持つ自分だからこそ、心血注いで尽くし支え護ってくれる美丈夫や快男児の中にあって、道を踏み外さないで済んでいる。
 実のところあの老人はそうした点を踏まえて自分を選んだのではないかと考えた事もあったくらいだ。
けれどもそれは間違いだと、下ったばかりの自称色男は断言した。

「…ちゃんと、気をつけてきたつもりなんだけど………なんで、バレたんだろう?」

 周囲の優しさを勘違いしないように、彼らに多くの期待をかけぬように、それと同じく期待を持たせぬように振舞ってきたつもりだ。なのに、あの男にはそれをいとも容易く見抜かれた。
 不安になって、自分の中の核が揺らぐことが怖くて、は秀吉を頼った。
孫市の友人という彼の口から孫市の人となりを確かめたかったのだ。

「はぁ…孫市ですか、あいつ何かしましたか?」

「何かというか…一言でいうと、口説かれました」

「ははぁ、あいつは女好きですからのぅ」

「ええ、分かってます。いかにもって感じだし、宴の時だって誰彼構わず粉かけては振られてたし」

 では何故? と思うが、同時に敏い秀吉は察しを付ける。
分かっていて聞くのは、彼女の理解の範疇を越えた何かが二人の間に起きたということだ。
現には、自然と寄ってしまうらしい己の眉間を揉み解している。

「その…なんというか、普段からね、気をつけている事を指摘されたんです」

「…はぁ…」

「そんな事はこの六年、初めての事で……誤魔化すのも演じるのも慣れてたはずだし、そう易々と見破られるような
 ものでもないと思ってたんですよ」

「それが、崩れなさった?」

「ええ」

「だから気にかかると?」

「そうなの」

 上座と下座で対峙し、二人は押し黙る。
しばしの沈黙を経た後、秀吉は首を傾げた。

「あの…様」

「なんでしょう、太閤様」

「わし、よく分からんのじゃが……それはいかんことなんかの?」

「エ?」

 知りたかった事は孫市の事のはずなのに、逆に問われては返答に詰まった。

「その…わし、普通に思うんじゃが…孫市が気が付いてるなら、他の連中も気が付いてる気がするんじゃ」

「ハイ?」

 「他の連中って誰の事?」と視線に含めれば、秀吉は慌てて話を戻した。

「物事には気が付いていて口にする者と知らぬふりをする者がおる。じゃから…」

「孫市さんは前者って事?」

 こくりと頷いて、秀吉は続けた。

「あいつは確かに女好きじゃ。じゃからね、女子が無理してる姿を見るのが一番嫌いなんじゃ」

 それは暗に「貴方は無理をしている」と言われているのと同じ事。

「誰も彼もが口にするような事を、あいつは言わない」

 秀吉が示唆している事は口説き文句の事。
だがの耳にはもっと深い意味として届く。

「あいつがそれを口にしたんは、様にそれが必要と感じたからなんじゃないかと」

「どうして? そっとしておいてくれた方がいい事だって、世の中にはあるじゃない」

 自問自答のように問えば、秀吉は首を横へと振った。

様、それは普通に間違いじゃ」

「え?」

「人は放っておいたら、取り返しの付かないところまで簡単に行っちまうもんさ。
 時に立ち止まって自分の歩いてる道を振り返る事も大事じゃ。
 そいつがどうでもいい奴ならいざ知らず、大切だと思えば、あえて憎まれ役にだってなる。
 誰かを大事に思うってのには、そういう事も含まれているもんじゃよ?」

 「ただ時期を見る事は大事じゃとは思うけどな」と秀吉は言い添えて、人懐っこい笑みを浮かべた。

「太閤様……聞いていい?」

「なんなりと」

 長丁場になると踏んだのか、秀吉は自分の前に出された湯飲みを取り上げて口元へと運んだ。
もまた己の中に渦巻くありとあらゆる感情を整理しようと湯飲みを取り上げる。
言葉を捜すように、二人の間にはしばらく沈黙が舞い降りた。
 一刻が経ち、二刻が経ち、ようやく言葉を定めたのか、が口を開いた。

「…私……怖いの」

「また何かに脅かされておいでですかいの?」

 首を横に振って、肩を落とした。
下げられた湯飲みの中でお茶が揺れて、波紋を作る。

「うんん、そっちじゃなくて……恋が、かな」

「ふむ」

「恋は、時として人を狂わせる」

 の言葉に耳を傾けて、秀吉は言葉に滲むの思いを汲み取ろうと努めた。

「この世界において私は君主、狂ってなどいられない。遠い遠い未来の為にも」

様は分別があると思うがの」

 「ありがとう」と俄かに微笑んで、は視線を伏せた。

「…でも、恋って自分だけじゃなくて、相手を狂わせる事もあるでしょう?」

 的を射てると秀吉の顔が言っていた。
自覚があるにせよ、ないにせよ、この城に身を寄せる重鎮の内数名は既にへの想いに身を焦がしている。
その現状を踏まえて考えても、否定出来るものではない。

「私、そういうの嫌なんだ」

「はて…淡白ですな」

「というか、怖い」

 の顔に貼りついた脅えに、秀吉が顔色を変えた。
それを感じ取ったが慌てて首を横へと振った。
それは、言葉の否定でなく、自身の中に蘇った何かを振りきろうとしている仕草だった。

様?」

「なんでもない、ごめんなさい」

 手の中の湯飲みを再び口元へと運んで、お茶を飲んでざわついた気持ちを落ち着けた。
それからは、改めて口を開いた。

「孫市さんは、私が一人の女として恋を諦めてる現状は良くないっていうの。
 大きな事に向かい合うなら、精神的に支えになる人を作った方がいいって」

「道理じゃな」

「でも、私には家康公も太閤様もいてくれる。それで充分なの」

 断言ではなく思い込もうとしているような色を感じて、秀吉は眉を動かした。

「秀吉様?」

「ああ、すみません。なんというか、孫市が色々言った理由が分かった気がしたんじゃ」

 どういうことかと視線で問えば、秀吉は手にしていた茶器を盆の上へと戻した。

「天下の事はともかくとして…恋云々は孫市と直に話した方が早いじゃろう。
 双方の認識の違いじゃ、他人が口を挟むもんでもない」

「そんなに深刻な事…?」

「ああ、多分普通に深刻じゃ。深刻にしちまってるのは様ご自身じゃ」

「私?」

「孫市は単純じゃよ? あいつはただ様を救いたい、支えたい、護りたい。
 甘やかしたいって考えてるだけじゃ。
 傍できちんと見とるから、気が付く、心配になる。
 様が自分にかけちまってる縄目から自由にしてやりたくなる」

「見てる…? あの人が、私を…?」

「その為の方法として、孫市は言葉を選んだだけっちゅー話じゃ」

 「こっから先は、本人と話して下され」と言い、秀吉はの前を辞した。
そうなるのだろうなとは思っていたが、それからそう暇を置かずに、の部屋へ孫市がやってきた。
孫市は軽い調子で、開口一発「俺に会いたいって? 嬉しいね」とのたまった。
昨日の今日でこの調子とは思いやられるとばかりにが顔を盛大に顰めたのはいうまでもない。

 

 

「で、どうした? お嬢さん」

 当然という体で目の前で胡坐をかいた男に、は深い深い溜息を吐いた。

「いや、人選間違えたなって思って…」

「秀吉のことか?」

「なんというか…すごくこんがらがっちゃって…」

「相談なら乗るぜ?」

「あのね、孫市さん。元はといえば貴方が原因だから。貴方に相談したって仕方ないでしょう」

「そうか? 第三者巻き込んで迷走させるよりはマシだろ」

 秀吉が残していった茶菓子の煎餅を口に元に運びながら、孫市は不敵な笑いを口元へと貼り付けた。

「それとも…この顔じゃ信が置けないっていうなら……貴方だけの俺になろうか?」

「…もー、どっちでもいいよ…」

 はほんの少し投げやりに答えた。

「くっくっくっ、素直で正直だな、お嬢さんは。じゃ、俺がそうしたいから、貴方だけの俺になるぜ?」

「孫市さん…お願いだからそう無駄に色気振り撒かないで下さい。
 貴方普段が軽薄な分、そんな真面目な顔をされると、ギャップが凄くてくらくらしちゃうんですよ」

 一気にまくし立てれば、孫市は苦笑する。
どうやら昨日の一言が彼女にはかなりいい薬になったようだ。
今や遅れをとったライバル達と同格。砕けた口調での会話が出来る相手へと格上げされたと見て間違いはない。

 

 

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