傍にいるということ - 孫市編 |
「今すぐ付き合えとはいわないさ。ただ試してほしい」 「た、試す?!」 「ああ、貴方の恋愛対象範囲に俺が入れるかどうかくらいは。 「なっ! 勇気ってなんですか?! 勇気って…」 食って掛かるように声を少し荒げれば、孫市は淡々と告げた。 「貴方の場合、ただ初心で鈍感ってだけじゃないだろ?
「孫市さん!! もう結構ですから!! お気持ちは嬉しいんですけど、主従の垣根を越えるつもりは は急に激昂したかと思えば、孫市と距離を作った。 「それとも、誰か呼びますか?!」 聞く耳は持たないと全身で訴えるに、孫市は素直に従い距離を作ると腰を上げた。 「分かった、今夜はこれで退散しよう」 「この手の話は、他所でどうぞ」 退室しようと襖に手を掛けた孫市が立ち止まる。 「悪いな、図星だったか」 「なっ!!」 「だが…俺は貴方を傷つけた男じゃないぜ? 男をどいつもこいつも一括りにしないで貰いたいね」 指摘されて息を呑めば、まだ孫市の眼差しは何時もの軽薄な男のそれではなかった。 「過去から学ぼうが、囚われようが、それは貴方の自由さ。 ぐっと息を呑んで、は下を向いた。 「じゃあな、夜更けに失礼。お嬢さん」 孫市は白々しい顔をしてそのまま室を後にした。
最後に恋をしていたのは何時だっただろうか? 「幸運だと…思ってたんだけどな…」
これだけの重責を課せられたのが自分であった事を、ほんの一時だが、納得した事がある。 「…ちゃんと、気をつけてきたつもりなんだけど………なんで、バレたんだろう?」
周囲の優しさを勘違いしないように、彼らに多くの期待をかけぬように、それと同じく期待を持たせぬように振舞ってきたつもりだ。なのに、あの男にはそれをいとも容易く見抜かれた。 「はぁ…孫市ですか、あいつ何かしましたか?」 「何かというか…一言でいうと、口説かれました」 「ははぁ、あいつは女好きですからのぅ」 「ええ、分かってます。いかにもって感じだし、宴の時だって誰彼構わず粉かけては振られてたし」 では何故? と思うが、同時に敏い秀吉は察しを付ける。 「その…なんというか、普段からね、気をつけている事を指摘されたんです」 「…はぁ…」
「そんな事はこの六年、初めての事で……誤魔化すのも演じるのも慣れてたはずだし、そう易々と見破られるような 「それが、崩れなさった?」 「ええ」 「だから気にかかると?」 「そうなの」 上座と下座で対峙し、二人は押し黙る。 「あの…様」 「なんでしょう、太閤様」 「わし、よく分からんのじゃが……それはいかんことなんかの?」 「エ?」 知りたかった事は孫市の事のはずなのに、逆に問われては返答に詰まった。 「その…わし、普通に思うんじゃが…孫市が気が付いてるなら、他の連中も気が付いてる気がするんじゃ」 「ハイ?」 「他の連中って誰の事?」と視線に含めれば、秀吉は慌てて話を戻した。 「物事には気が付いていて口にする者と知らぬふりをする者がおる。じゃから…」 「孫市さんは前者って事?」 こくりと頷いて、秀吉は続けた。 「あいつは確かに女好きじゃ。じゃからね、女子が無理してる姿を見るのが一番嫌いなんじゃ」 それは暗に「貴方は無理をしている」と言われているのと同じ事。 「誰も彼もが口にするような事を、あいつは言わない」 秀吉が示唆している事は口説き文句の事。 「あいつがそれを口にしたんは、様にそれが必要と感じたからなんじゃないかと」 「どうして? そっとしておいてくれた方がいい事だって、世の中にはあるじゃない」 自問自答のように問えば、秀吉は首を横へと振った。 「様、それは普通に間違いじゃ」 「え?」
「人は放っておいたら、取り返しの付かないところまで簡単に行っちまうもんさ。 「ただ時期を見る事は大事じゃとは思うけどな」と秀吉は言い添えて、人懐っこい笑みを浮かべた。 「太閤様……聞いていい?」 「なんなりと」
長丁場になると踏んだのか、秀吉は自分の前に出された湯飲みを取り上げて口元へと運んだ。 「…私……怖いの」 「また何かに脅かされておいでですかいの?」 首を横に振って、肩を落とした。 「うんん、そっちじゃなくて……恋が、かな」 「ふむ」 「恋は、時として人を狂わせる」 の言葉に耳を傾けて、秀吉は言葉に滲むの思いを汲み取ろうと努めた。 「この世界において私は君主、狂ってなどいられない。遠い遠い未来の為にも」 「様は分別があると思うがの」 「ありがとう」と俄かに微笑んで、は視線を伏せた。 「…でも、恋って自分だけじゃなくて、相手を狂わせる事もあるでしょう?」 的を射てると秀吉の顔が言っていた。 「私、そういうの嫌なんだ」 「はて…淡白ですな」 「というか、怖い」 の顔に貼りついた脅えに、秀吉が顔色を変えた。 「様?」 「なんでもない、ごめんなさい」
手の中の湯飲みを再び口元へと運んで、お茶を飲んでざわついた気持ちを落ち着けた。 「孫市さんは、私が一人の女として恋を諦めてる現状は良くないっていうの。 「道理じゃな」 「でも、私には家康公も太閤様もいてくれる。それで充分なの」 断言ではなく思い込もうとしているような色を感じて、秀吉は眉を動かした。 「秀吉様?」 「ああ、すみません。なんというか、孫市が色々言った理由が分かった気がしたんじゃ」 どういうことかと視線で問えば、秀吉は手にしていた茶器を盆の上へと戻した。 「天下の事はともかくとして…恋云々は孫市と直に話した方が早いじゃろう。 「そんなに深刻な事…?」 「ああ、多分普通に深刻じゃ。深刻にしちまってるのは様ご自身じゃ」 「私?」 「孫市は単純じゃよ? あいつはただ様を救いたい、支えたい、護りたい。 「見てる…? あの人が、私を…?」 「その為の方法として、孫市は言葉を選んだだけっちゅー話じゃ」 「こっから先は、本人と話して下され」と言い、秀吉はの前を辞した。
「で、どうした? お嬢さん」 当然という体で目の前で胡坐をかいた男に、は深い深い溜息を吐いた。 「いや、人選間違えたなって思って…」 「秀吉のことか?」 「なんというか…すごくこんがらがっちゃって…」 「相談なら乗るぜ?」 「あのね、孫市さん。元はといえば貴方が原因だから。貴方に相談したって仕方ないでしょう」 「そうか? 第三者巻き込んで迷走させるよりはマシだろ」 秀吉が残していった茶菓子の煎餅を口に元に運びながら、孫市は不敵な笑いを口元へと貼り付けた。 「それとも…この顔じゃ信が置けないっていうなら……貴方だけの俺になろうか?」 「…もー、どっちでもいいよ…」 はほんの少し投げやりに答えた。 「くっくっくっ、素直で正直だな、お嬢さんは。じゃ、俺がそうしたいから、貴方だけの俺になるぜ?」 「孫市さん…お願いだからそう無駄に色気振り撒かないで下さい。 一気にまくし立てれば、孫市は苦笑する。
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