傍にいるということ

 

 

 懐かしい夢を見た。
遠い遠い故郷に、己の痕跡と一緒に残してきた思い出の一つだった。
 決していい思い出ではなかったのだから、捨ててしまえばいい。忘れてしまえばいい。
寧ろ思い出してはならない、あの悪夢に囚われてはならないと、夢と現を彷徨う意識は叫んですらいた。
けれども悪夢の中に沈み始めた意識が現へと逃れ出る事はなかった。

"どうして?! どうしてこんな事になるの? なんでっ?!"

 手を伸ばしても、声が枯れる程声を張り上げても、問い掛けに対する答えを得る事は出来ない。
何時もそうだ。現実がそうであったように、夢もまた残酷な結末しか紡がない。
この夢を見る時は、常にそう。結末に変わりはない。
そして今日もまた、同じ苦い結末を目にする事になる。
あの痛みを味合わねば、目覚める事など出来ないのだろう。

"な…んで…? どうして…な…の…?"

 理解でき得ぬまま分たれた袂。
はっきりとした物証があって、その上での裏切りだと示唆されても、まだ信じ難い。
あの人達の事を信じ続けていたい。

そう願うまま、馳せた思いは途切れた。

「…く……う、うぅ……ッ」

 全ては、六年前。
まだが学生だった頃のお話…。

 

 

『泥棒猫!! 遊びだって事が、分からないの!! 離婚してもらえるとでも思った?!』

『え…? 何が…? 違う……違うの!!』

『しらばっくれてないで夫を返して!! この子と私の家庭は壊させない!!』

『違う、待って…!! 私…私は…』

 振り下ろされる冷たい刃の先には赤い滴がこびり付く。
腰に感じた激痛と熱さに、自ずと膝が曲がり、意識が遠くなった。
懸命に薄れる意識を繋ぎとめて逃れようとするものの、バランス感覚を失いその場に倒れる。
狭い店内の中、レジカウンターに背を預けて両手で自分の体を掻き抱いた。
そうやって身を縮めて、防御するだけで精一杯だった。

『お客さん何やってんですか!?』

『誰か、救急車!! 後、警察も!! ほら、早く呼んで!!』

 眼前で同僚達に取り押さえられる女の目は狂気に満ちていて、顔は般若のように引き攣っていた。
そこには新たな命を産み落とす女が持つべき慈愛は微塵もなく、あったのは憎悪だけだ。

『違う……私じゃ…ない………知らない…』

『あんたなんか、死ねばいい!! 泥棒猫!!』

『その女、店の外に引き出して抑えつけろ!! とにかく距離を作るんだ!!』

『誰かタオル持ってきて!! 店長、何ボヤッとしてんですか!!』

 同僚が放つ声と、遠くから聞こえてくるサイレン。
店の前に滑り込んで来た緊急車両が放つ赤い光の点滅が、うるさいくらいだった。

『他のお客さん、避難させて!!』

 異変を感じ取った店内の客が、騒ぎ出す。
誘導などする必要はなかった。皆自衛の為に蜘蛛のを子を散らすように逃げ出して行く。
テーブルと椅子が倒れる。
ティーカップが落ちて割れる。
談笑していた親に力一杯抱えられた痛みで子供が泣き出す。
 パニック状態の店内へ、通報を受けて駆け付けた警官が飛び込んできて一瞬たじろいた。
銃を抜いて威嚇するかどうかを迷っている間に別の警官が、救命士共々突入して来た。
後続の警官と救命士は一瞬の内にどちらが被害者であるのかを見極めたようで、迅速に動いた。

『タンカ、タンカ持ってきて!!』

『刃物を下しなさい!!』

 警察官と救命士が同僚と同じように狂気に満ちた女と自分との間に割って入る。
事態が収束に向けて動き始める。
 訳が分からぬまま遠のく意識の中で覚えたのは"生き抜けるかもしれない"という安堵だけだった。

"……何? …どうして、なの? 本当に…何が起きてるの…?"

 不思議だったのは店長と自分の親友だけが、この騒ぎの中にあって息を呑んだまま立ち尽くしていた事。
二人は心配をするどころか、一瞬たりとも視線を合わせようとはせず、声を掛けてくれることもなかった。
それだけが、不思議だった。

 

 

『ねぇ、知ってる? 302号室の患者さんの事』

『…ああ、不倫相手と勘違いされて刺されたっていう…』

『本当、災難よね…まだ若いのに…』

『歩けるようになるまで随分時間がかかるって話じゃない。大学進学に差し支えなきゃいいけど…』

『…失礼、警察です。先日の件で…被害者の…さんのお話を伺いたいんですがね?』

 熱っぽい体を車椅子に預けて、白で統一された回廊を進む。
緊急手術と長い昏睡状態を経た後に目にした建物には見覚えがなかった。
 朧げな意識の中で鼻についたのは、病院独特の消毒液の匂い。
次いで目に入ったのは、行き交う人の纏う白い衣服。
それらの情報から、ここが病院である事を知った。

『…あ……あ…』

『どうしたの? ちゃん。大丈夫?』

 混濁する意識の中、付き添ってくれている女性に、痛みを堪えて問いかける。

『…お店……』

『大丈夫よ、ちゃんは回復することだけを考えてね』

 己の掌を包み込んだ温かい掌。
少しふくよかな指先には大きなトパーズの指輪が光る。
この指輪は、娘さんと旦那さんに誕生日に貰った物だと、気のいい副店長が良く話していた物だ。

『御家族にも連絡取ったから。もうすぐ来てくれるからね。もう大丈夫よ、安心していいのよ』

 付き添ってくれている副店長は、何度となく『大丈夫』というフレーズを繰り返した。
少しも大丈夫じゃない。どこも平気じゃない。そんな言葉では、何一つ答えになっていない。
脳裏ではそうはっきりと叫ぶのに、思いはなかなか言葉にはならなかった。

『こっちも仕事なんですよ。もう意識戻ってるんでしょ? 何、二、三聞きたいだけですよ。すぐお暇しますって』

『いい加減にして下さい!! ここは病院ですよ!?
 いくら警察だからと言ってこんな横暴が許されると思ってるんですか!!』

『患者さんはまだ高校生なんですよ!! 
 出血だって酷かったし、あんな目に合ってるんですから、精神的な負担もとても大きいんです!!
 すぐに事情聴取なんて出来るわけないでしょう!! どうぞお引き取りを!!』

 回廊の向こうのナースステーションでは、くすんだ色合いのよれよれのコートを着た男が、ナース達と何やら揉めていた。自分を労っていた副店長の纏う空気が不安に満ち、張り詰めた。

『おい、彼女じゃないか? 丁度良かった』

 職業柄かその変化を男達は見逃さなかった。
彼らはの姿を認めると、ナースの制止を振り切りの元へと向って歩き始めた。

さん?』

『そうです。でも今治療と検査を終えたばかりです。まだお話を出来るような状態ではないと思います』

 突き出された警察手帳を確認してから、渋々という様子で副店長は応答した。
彼女なりに懸命に庇おうとしてくれていたのだろう。
ナースステーションから出てきたナース達が副店長の横に立って警察を押し返そうとする中、パシャリ!! と
音がして辺りに閃光が走った。

『なっ、貴方達どこから!!』

さん、災難でしたね!!』

 渇いた音を上げて焚かれるフラッシュ。
その音に混じって、嬉々とした男の声がする。

『お友達が貴方の名を語って店長と不倫していた事についてのご感想は?!』

『本当は貴方もお友達の淫行を知っていたんじゃないんですか?』

 下卑た視線に晒される。
ナースステーションの向こうで沈痛な面持ちを装うのは、場違いな程に華やいだ装いをした女レポーターだ。
彼女の声が、しらじらしく廊下に響く。

『私は今、被害者が収容された病院に来ています。
 被害者の少女は、友人の猥らな行いのツケを払わされたようなものです。
 凶行に及んだ加害者女性は妊婦であり、皮肉な事に同病院に収容されています』

『貴方達、どこから入って来たんですか!!』

『おい、お前らは出てて行け!! ここは病院だぞ!!』

 先程まで同じように言われていたはずの警察が顔を顰めて報道関係者を押し返す。
揉み合いからの事を護ろうとでもするかのように、副店長が車椅子の方向を変える。
その際、膝の上に乗っていたオレンジ色の膝掛けが床に落ちた。
ウサギのアップリケが刻まれた膝掛けが、多くの靴に踏み躙られる。
それに気づくこともないまま、人々は己の目的の為に揉み合っている。

『ねぇ、どうなんですか?! 本当は知っていたんじゃないんですか?!』

『加害者女性が流産したことには、何を感じますか?!』

『どうぞお引き取り下さい!!』

 低い声、高い声、ダミ声、しゃがれた声。
響く声は千差万別数あれど、これといって記憶に残る事はなかった。
ただその多くの声が紡いだ言葉の中に潜む幾つかのフレーズが、靄がかかる意識の中にパズルの一コマ一コマとして
深く刻みつけられた気がした。

"……流産…? ……不倫…? え……何? ……何が、起きたの…?"

『いい加減にして貰えませんかね。彼女は被害者だ、加害者じゃない。
 大体友人ったって、せいぜい籍を置いてる学校が一緒だったってだけだ。
 あんた方なら、社会倫理に欠くような趣味でも幼馴染みになら洗いざらい話して、理解を求めて、
 手伝ってもらうってんですか?! ちょっとは常識持ったらどうですか?

 加害者を凶行に走らせた夫と、あんた方と、五十歩百歩だと思うがね』

 向けられるカメラを掌で遮って、警察と共に迫りくる報道陣を黙らせてくれたのは姉の恋人だった。
当時、が付き合っていた男ではなかった。

"……何が…起きてた…の…?"

 

 

 やがて季節は流れた。
親友と信じていた友人も、尊敬してた店長も、病室に現れはしなかった。
それだけじゃない。当時付き合っていた男もまた、一度たりとも病室に顔を見せる事はなかった。
 薬の副作用で靄のかかった状態の意識が、自然と現実を維持し続けられるようになった頃。
は警察の事情聴取で、事件の全容を知った。
そこでようやく周囲の同情に満ちた視線と、多くの労いの言葉の意味を理解したのだ。

『…こりゃ、完全なとばっちりだなぁ…』

 事件は至ってシンプルだった。
バイトしていたコーヒー店の店長が、親友と不倫していた。
親友は自分のメールアドレスを捩ったアドレスで店長と連絡を取っていて、不倫を知った妊娠中の夫人が激怒した。
初産であり、メンタル面が不安定だった事もあってか、夫人は事の精査を重ねる事なく、凶行に及んだ。
あの日、店に訪れて、突然背後からの事を襲ったのだ。
 メールアドレスの小文字と大文字の違いを警察に指摘されて、初めて相手を間違えていた事を知った夫人は、自分の犯した過ちの大きさに耐え切れずにその日の内に自殺未遂した。
 結果、授かった子供は流産したそうだ。元々は気の弱い人だったのかもしれない。
運がいいのか悪いのか、その夫人はと同じ総合病院に担ぎ込まれたのだそうだ。
どうりで報道関係者が食いつくわけだ。
女子高生の不倫というだけで充分なゴシップだというのに、その上加害者が相手を間違えて凶行に及び、自責から自殺未遂に流産。被害者と同じ病院に収容されるなど、鴨がネギしょって歩いているようなものだ。
これに飛びつかない報道関係者がいるだろうか? 全国を騒然とさせるような事件でもない限り、居るはずがない。
 何せ平和ボケした世界では、時として他人の不幸を糧に人は己の幸を確認し安堵するのだから。

『…大丈夫、君はまだ若い。世間も君も、こんな事件すぐに忘れるよ…』

 事情聴取に訪れた老齢の刑事は労ってくれた。
だが何年時が過ぎようとも、この痛ましい記憶がの中で薄れてゆくことはなかった。
幸いだったのは、が事情聴取に応じられるようになる頃には報道関係者が次のネタに飛びついていたことだけだ。
 季節はクリスマス。
街中は華やいだ空気に満ち溢れている。
そんな中、真実を知らされたの病室には、空々しい温かさだけがあった。
回復を祝ってくれる友人、親族はあれど、一方では悲しい現実が揺るぎないものとしてそこにはあった。
 勤めていた店は閉店し、友人は姿を消して彼女の家庭は壊れて。
尊敬していたはずの店長の家庭も崩壊した。
そして自身の紡いでいた初恋は、自然消滅という末路を辿った。
恋人と信じて疑わなかった男の電話は何時の間にか不通になっていて、連絡を取ることすら出来なくなっていたのだ。

 

 

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