傍にいるということ

 

 

「……う、ぅう……」

 悪い夢だ。全ては昔の出来事だ。
今の自分がいるのは、あの痛手を負った世界ではない。
遠い遠い時空の波を越えて、英傑が揃い踏みする戦国時代。
そここそが今、が身を置く世界であり、現実なのだ。
 思い出している暇はない。こんな悪夢に囚われていてはならない。
この世界は、現代よりもずっとずっと不便であり、危険であり、また同時に、素朴で優しい世界。
皆と一緒に豊穣を喜び、皆と一緒に抱え込んだ不幸を分かち合って嘆く、そんな世界だ。
この世界の未来を託され、歩む以上、過去において来た悪夢に囚われていていいはずがない。
こんな悪夢など早く振り切り、覚醒しなくてはならない。
自分を慕い、集ってくれた人々の為にしなくてはならない事は山積しているのだから。
そう切に願えども、なかなか夢の螺旋からは逃れる事は出来なかった。

「……う、うぅ……っ……うーん……」

 苦しさに呻き、薄らと眦には滴が浮いた。
掛け布団を手繰り寄せて顔を埋め、涙を拭う。
これも六年前のあの日から、時折、繰り返すようになった無意識の癖だ。

「……う…ん…ん…」

 鮮明な夢が、緩々と揺らいだ。
世界が白んでゆき、深い深い眠りの底へと沈んで行く。レム催眠というやつだ。
苦し気に呻いていたの呼吸は一時落ち着きを取り戻した。
規則的に、静かに、の胸元が波を打つ。

「…ん…」

 どれだけそうして眠ったのだろうか。
レム催眠から浮上してきた意識が、再び生々しい夢を紡ぎ始めた。

"…これは…? この景色は…"

 不思議だったのは、常に変わらぬ結末を紡ぐ悪夢の中に、何時もとは違う情景が紛れ込んで来たことだ。
こんな事は、あの悪夢に魘されるようになってから初めてのことだった。
 現代とは少しも重ならない、懐かしさよりも情緒のある景観。
それがごくごく普通に、当たり前のように意識の中に広がってゆく。

 

 

様!! 見てくだせぇ、おらの畑で採れた大根だ!!』

『わー、美味しそう〜!! 頂いちゃっていいんですか?』

 すっかり見慣れた長屋の細道の中間で、人々に囲まれて談笑する。

『かまやしないよ、いつも良くして貰ってるお礼だよ。さ、家の魚も持ってっておくれよ』

『おばちゃん、ありがとう!!』

『姫様、ヤベェ!!』

『え、何?! 甚六さん、どうしたの?!』

 不意に掛けられた威勢のいい声は、現代人にはない闊達さに溢れていた。

『幸村様と三成様に城抜け出してんのバレたぞ!! 二人ともものすごい顔で探してるッ!!』

『ゲッ、やばい!! どっちがどんな表情? 』

『ええと…幸村様は今にも泣きそうだけど……三成様は……多分眼力だけで鬼も殺せるんじゃないかな…』

『ゲゲゲッ!! ご、ごめん!! おじさん、おばさん、私もう行かなくちゃ!!』

 受け取りかけていた野菜を返して、慌てて踵を返す。
小走りになりながら長屋と長屋の間を通る細道を突き進んだ。
なんとか裏道を使って城へ戻ろうと、一歩を踏み出すと同時に、道の対極に三成と幸村の姿を見た。

『見つけたぞ!!』

様ッ!! 供も連れずにお出かけするのは止めて下さいと何度も申し上げているでしょうッ!!』

『あらいやだ、人違いですわ!! お武家様!! 』

様!! そのような三文芝居では、この真田幸村、絶対に騙されません!!』

 咄嗟に顔を背けて笑い飛ばしてみたが、そんな対応が効く相手ではない事は、誰の目から見ても明白だった。

『あ、やっぱり?! じ、じゃー、そういうことで……撤収ーっ!!』

『ふざけるな!! お説教だ!!』

『ひぃぃぃぃぃ!!! 暴力反対ー!!!』

『黙れ!! 素行を正してやる!!!』

『ひぃぃぃぃぃぃぃ!!! 慶次さん助けてー!!!!』

『許しません!!!』

『この期に及んで、口にするのはあのデカブツの名か!! 断じて許さん!!!』

『ひぃぃぃぃぃ!!! なんで二人してそんなに本気で怒ってるのよー!!!! 誰か助けてー!!!!』

 痛みに塗れた記憶の中に自然と滑り込んできた数々の出来事。
その出来事に潜む温かさに、痛んだ心が癒されてゆく。

『おやおや、捕まっちまったんですかい?』

『新記録達成まで後一時だったらしいんだがねぇ、残念だったな。さん』

『…うん…』

 暮らし慣れた私室。
柱を背に正座させられているを労うのは左近と慶次だ。

『新記録じゃありません!! お二人ともどうしてそう、能天気なのですか!! 
 様は女性なのですよ?! 一人歩きなどして、何かあったらどうするんですか!!!』

『幸村の言う通りだ。帯刀もせず呑気にあちこちほっつき歩きおって……分かっているのか!!!
 平和ボケも大概にしてもらおう!!』

『ごめん〜。でもさ、長政さんや幸村さんのお陰で、の治安って凄く良くなってるじゃん。
 平気だよ〜。まだ明るしいしさー』

『少しも懲りていないようだな…思い知らせてやろう…』

 長々と続く厭味塗れの説教に付き合わされる内に、日は傾いて行く。

『あ、あのさぁ…三成……。足が痺れたんだけど…… 』

『知らんな』

『そんな事言わないでよ〜、痛いよ〜、もう許して〜』

『黙れ、痛くなくては罰にならん』

『幸村さん〜』

『だめです。今日と言う今日は聞いて頂きます』

『左近さん、慶次さん助けて〜』

『まぁ、夕餉までの辛抱でしょう』

『ハッハッハッ、今日の所は観念するしかなさそうだねぇ』

『鬼ー!! 皆、悪魔ーッ!!』

『誰が鬼だ!! 人が優しくしてやればつけ上がりおって!!
 なんだったらこのまま、ラリアートとやらを俺がやってやろうか? 安心しろ、俺は幸村ではないからな。
 一撃必殺とはなるまい。打ち身くらいにはなるだろうがな』

 眼前で少しも姿勢を崩さずに座り続けていた三成がの声に激怒する。

"…あ、そう言えば……あの時、三成、本気で怒ってたなぁ…"

 不器用な彼なりの優しさ、心配からくる怒りなのだと、今なら理解する事が出来る。

"…でも、あの時の私は逆ギレしたんだよねぇ…それで更に三成がキレたんだっけ…"

 今まで悪夢に囚われて、険しく歪んでいたの顔がほんの少し柔らかく緩んだ。

『ちょ、なんでよっ!! ちょこーーっと抜け出して皆と仲良くしてきただけでしょっ!!
 なのになんでラリアートなんかされなきゃならんないのよっ!!』

『説教が嫌だというから、一瞬で済む仕置きにしてやろうと言っているのだ。
 それすら嫌だというのか?! 甘ったれるなよ。

 貴様に許されているのは説教か、ラリアートの二者択一だ。選べ』

『三成殿、ですから私はあのような刑罰はしませんから』

『黙れ幸村。というかお前もの横に正座しろ。
 そもそもお前が甘やかすから、この女はこんななんだぞっ!!

 一国の主が聞いて呆れる素行ばかりではないか!!』

 これは特別でも何でもない。この世界での日常そのものだ。
文明の落差が齎す生活環境の差は、とにかく不便で大変で、辟易する時がある。
けれどもそこに住む人々は、現代と違って、純粋で素朴で優しい人が多い気がする。
皆、生きて行くこと、食べる事に必死で、何かを無駄に中傷するような事はない。
日々の生に、自然の恩恵に、皆が同じように感謝の念を常に抱いている。
 彼らと共にあって、否、彼らと一緒だったからこそ乗り越えて来ることが出来た苦難のなんと多いことか。
それを思えば、自然と口元には微笑すら浮かんだ。

『…大変だねぇ、さんは…』

『私は…何かとんでもないものを押し付けてしまったのではないかと…』

『ややを、沢山産んだらどうですか?』

『俺にはお前を元の世界に帰してやる力はない。だが俺にだって与えてやれるものはあるんだ』

『安心しなよ、貴方からの見返りは求めてない。俺が欲しいのは、貴方の笑顔だ』

『傷は…消える…』

 彼らと共に紡いできた時間の中に、何時の間にか痛ましい記憶の数々はぼやけて、溶けて、消え落ちて行く。

 

 

 諦めて、拒絶すらしていたものがある。
全ての始まりは、あの六年前の事件。
あれをきっかけに、は他人を…特に男というものを信じなくなった。
同僚にはなる、友人にもなる。けれどもそれ以上の、心の一番大事な部分は預けまい、許すまいと、強く決めていた。

『…ねぇ、彼は…今どうしてるの…?』

『…忘れた方がいい、あんな奴…』

『え…?』

『忘れた方が、ちゃんの為だよ』

 それら全ては、自衛本能だ。
もう傷つきたくない、もうあんな惨めな思いはしたくない。
実体験に基づいた渇望であり、あの事件の残した忌まわしき産物と言って過言ではないだろう。

『可哀相にね…まだ待ってるんでしょ?』

『あー、302号の患者さんの話?』

『うん。…あんなにも一途だと…なんだか不憫でね』

『…まだ若いから…変な男に引っかかっちゃったのね…』

『…あれでしょ? 体だけが目当てのさ…』

『目的達成出来たから、はい自然消滅ってどんな神経してるのよ。本当、腹の立つ男よね』

『…自然消滅するにしても、何もこのタイミングでねぇ…』

『彼女が運び込まれて、一番危ない時に別の女といたらしいわよ。
 お兄さんだったかしら…付きの添いの方がかなり怒ってたわ』

『ああ、それ多分お姉さんのフィアンセよ。多忙なお姉さんの代わりによくお見舞いに来るのよ。
 それにしても…最低ね…そいつ。きっとロクな死に方しないわよ』

 あの凶事を経験し、待ち焦がれた男の本性を他人の言葉で知り、絶望した。
あんなにも優しくしてくれたのは、愛を囁いてくれたのは、全て己の欲求の為。
そこに誠意や真実は少しもなかったのだと、幼かった自分に男を見る目がなかっただけの事だと知り、目の前が真っ暗になった。

 幼かったのかもしれない。
何時かは若い時によくある事だと、何時かは笑い話に出来るのかもしれない。

けれども親友に裏切られ、尊敬していた店長に裏切られ、体の一部に凶事の痕跡を残した上で、恋人と信じた男の裏切りは、多感な少女の心には辛辣過ぎて、当然のことながら必要以上に大きな影を残した。

"…信じない…もう…恋なんて……しない…。私は、一人で生きて、一人で死ぬんだ……"

 あの瞬間に決めた事。変わる事はないと思い込んでいた事。
それがこの世界に来てからというもの、徐々にではあるが、確実に揺らいで行く。

『必死ですよ、あの方を失わない為に』

『全く……何があったのか知りませんが、こういう時は、まず左近の所へ全力で逃げてきて下さいよ』

『貴方に次が来ちゃ困る。その為にも頑なな心を開いてほしい』

『忘れるな、我は何時如何なる時もうぬを見ているぞ』

『世界を変え、場所を変えても…日常は自分次第で作れるものだ』

『俺は、あんたを護りこそすれ、あんたを泣かせるような真似、出来なくてねぇ』

 "忠節"という言葉だけでは片づけられない多くの思いに支えられて生きてきた。
心を救われ、骨身を削った武に救われてきた。

"……捨てたものじゃないかもしれない……諦める事はないのかも…しれない…"

 彼らの誠実さに触れて、優しい眼差しを見て、声をかけられる度、頑なに閉ざしていた何かが解放されてゆく。
それは厳しい冬の雪原から小さな命が芽吹くがの如く、ゆるりゆるりと、それでいてはっきりと、起きて行く変化。

 

 

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