惑う風 - 風魔編

 

 

 芳しくない戦況は続く。
だがあの女はなかなか本国へと帰ろうとはしない。
 森の中から彼女の姿を眺め続ける狼の苛立ちが日に日に募って行く。

『…見捨てればいい……戦は、戦人がする……ここはお前の居場所ではあるまい?』

 思っても傍観しているだけの身ではその気持ちは相手には届くものではなくて、もどかしさだけが募った。

「撤退するなら俺が護衛する。少し気になることもあるしな」

 しばらくして、ようやく彼女は撤退を決めた。
心身の限界と、彼女の存在自体が軍の憂いになっている現実を、徳川家康・豊臣秀吉にこんこんと進言されたからだ。
経路を模索する一団に、護衛の任は自分が担うと言ったのは、雑賀衆頭領・雑賀孫市だった。
 あの夜の一件以来、の身の回りの警護は、雑賀衆が重点的に担うようになっていた。
その甲斐あっての命が外敵に脅かされる事はなかったが、問題は脱出のその瞬間だ。
 当然敵もこの機会を見逃すはずはない。
脱出には慎重を喫して当たらなくてはならないだろう。
 天候を踏まえ、経路の検討を繰り返し、幾つもの囮を作り、目晦ましに念に念を入れて、その日はやって来た。

様、ほんにすんません! こんな荷車になっちまって…」

「お辛いでしょうが、しばしの辛抱ですぞ」

 秀吉と家康に頭を下げられたは、「平気、平気」と掌をひらひらとさせながら、目晦まし用の砂袋を積み上げた荷車の中に誂えた窪みの中に身を隠した。
 座布団を敷きこんでいるとはいえ、スプリングも何もついていない荷車だ。快適な場所ではない。
がたがたと音はうるさいし、悪路で受ける震動で舌を噛みそうになる。
だがこれは死地からの脱出の為だ。この場に残る戦士達は、もっともっと劣悪な環境に耐えて、戦い続けなくてはならないのだから、自分だけ泣き言を言ってはいられない。
数多の命が自分の為に散り、今もまだ死を恐れずに戦ってくれている。
それを考えれば、体の節々に掛る痛みや、ぱらぱらと体に掛る砂くらいどうという事はないと思った。
 多くの家臣の為にも、なんとしても自分は生き伸びなくてはならないのだから。

 

 

 の脱出が始まって、すぐに戦場は大きく動いた。
そして彼の身の回りにも変化が訪れた。

「風魔」

 見物を続ける自分の背後に、伊賀忍頭領・服部半蔵が現れたのだ。
変化の術を解いて、何時でも戦えるようにと場所を移す。
木々の上を走り、立ち並ぶ大木の先端に陣取れば、ぴたりとついて来た半蔵が向かいの木の上に降り立つ。

「用があるのは拙者ではない」

「何?」

 半蔵が視線だけで街道の一つを示せば、風魔はその隙を突くように半蔵に襲いかかった。
それを半蔵は見越していたように飛竜虚抓を構えて、風魔の攻撃を受け止めた。
風魔は半蔵とそれ以上切り結ぶつもりはないのか、そのまま姿を消した。
半蔵から離れた風魔の腰についていた水晶の飾りが砕ける。

「ふん」

 つまらなさそうに鼻を鳴らした風魔はそのまま街道を進む一団の前へと降り立った。
一団を預かるのは竹中半兵衛だった。

「サルの軍師が、何用だ」

「この撤退は敵に容易く封じられるでしょう。ですがそれでは困るのです」

 秀吉への暴言はこの際大事の前の小事として片付けるつもりなのか、半兵衛は取り合おうとはしなかった。
それが気に入らないのか、風魔は身を翻す。

「風魔小太郎。貴方には一つ、働いてもうことにしましょうか」

「気でも違ったか? 我は風……何人たりとも操れぬ…」

「そうでしょうね。ですが…良いのですか? 様は貴方の"余興"でしょう?」

 風魔が苛立ちを顔に貼り付けて振り返った。

「余興を失った娑婆は、さぞかし退屈でしょうね?」

「………………」

 風魔がゆらりと腕を動かして、半兵衛の命を脅かそうとする。
その気配を察したのか、半兵衛の背後を進んでいた豪奢な輿の上へ半蔵が現れた。

「…ふむ…」

 半兵衛の命は容易に取れぬ事を悟った風魔の機嫌は益々悪くなる。

「その苛立ちは…我が君を案じるが故のものでは?」

「何?」

「見物しているだけでは…此度の難局から我が君を護る事は不可能だと思いますが?」

 半兵衛は半蔵へと視線を流した。

「半蔵殿、支度を急いで下さい」

 頷いた半蔵は印を切った。
半蔵の姿が陽炎に包まれた次の瞬間、そこにはが現れる。
予てより用意されていた羽衣を羽織り、妖艶な笑みを口元に貼り付けたは、そのまま輿の奥へと消えた。
 それを見て、半兵衛の考えの先を読んだ風魔は、何も言わずにその場から姿を消した。

『……あの女が消える………余興が…なくなる……』

 半兵衛の言葉が風魔の脳裏にこびりつく。
また脳裏がチリチリと焦げ付くように痛んだ。
 あの男の言葉通りに動くのは癪に障る。
かといって、あの男の言葉は一理ある。
どうしたものかと考えあぐねている間に、彼を呼んだ一団はその場から消えて、戦場ではホラ貝が鳴り響いた。
思考を断ち切って視線をやれば、

「心掛けはいいな、じいさん。だが年寄りの冷や水は命を縮めるぜ」

「…いらぬ心配よ。それよりも小僧、鬼島津とやり合うにはちと早くないか」

「無駄口叩けなくしてやるぜ!!」

 半兵衛の言葉通り、脱出の策は鬼島津によって潰されていた。
護衛を担う孫市が島津義弘に足止めされる中、は片足を引き摺って馬の元へと急ぐ。
他の兵の手を借りて乗馬すると、慣れぬ手綱捌きで馬を走らせて、懸命に逃げ延びようとした。
そんなを、島津豊久が追う。
 そうはさせるかと、雑賀衆が防衛網を敷くが豊久も必死だ。
騎馬を巧みに操り、防衛網を突破した。

殿と御見受け致す、我らと共に来て頂こう!!」

 彼の手がの肩へと乗ったのを見た瞬間、風魔の中にあった強い嫌悪が飽和状態を越えて弾けた。
風魔は無意識の内に動き、捕らえたを乗せて馬を走らせる豊久の後を追った。

 

 

 が豊久の騎馬に囚われ、来た道を迂回しながら毛利の陣を目指せば、方のホラ貝が轟いた。
戦況の変化を把握していた竹中半兵衛が一軍と共に豊久の前へと現れたのだ。
輿に乗るの姿を見た豊久は動揺する。

「なんと!! 私は謀られたのか!!」

「当然でしょう? かような地に、我らが神聖な姫君を長々と置いておくはずがない。全ては我が計略の内のこと…」

「えっ?! ちょ、どういう…ッ!!」

 従えていた兵に半兵衛はごと豊久を狙わせた。
当然は動揺し、弓を射かけられた騎馬はバランスを失い転倒する。
豊久が露払いに必死になっている間にも、射かけられる矢がの命を脅かそうとする。
信じられぬ事が起きたと混乱し、瞳を大きく見開いて山道の半兵衛を見やれば、半兵衛は満足気に頷いていた。

『どうして…? なんで? なんでなの? 半兵衛さん』

「半…っ!! んっ?! んっ、んぐっ!?!」

 が叫ぶ前にの後方から手が伸びて口を塞いだ。
は咄嗟に己の口に回った掌を噛んだ。
何が起きているのかと懸命に頭を働かせていると、耳元に低く艶めいた声がした。

「…相変わらず…じゃじゃ馬よな…」

『風魔?!』

 視線だけで確認すれば、己の口を押さえる掌は青白く、己の体を抱え込む腕は想像以上に冷たかった。
と目が合った風魔は、珍しく不機嫌な顔をしていた。
どうしてそんな顔をするのかが分からず、が何かを言おうと息を吸うと、風魔はバツが悪くなったように先に言葉を紡いだ。

「……今はただ…眠れ………うぬが目覚めし時は、全て、変わっていよう…」

『……え…? 風魔…小太郎…? どうして…? なんで? 何が…起きて…??』

 風魔がの目を見れば、催眠術にでもかかったように、の意識はまどろんだ。
風魔は豊久が気が付く前にを連れて姿を消した。
 半兵衛の計略に引っ掛かったことにも気がつかずに、豊久はほうほうの体で撤退して行った。

「さて、私達も本陣に向うとしましょうか」

「しかし半兵衛様、姫様は…」

「案ずることはありません。この戦は、時期に終わりますよ」

 断定的に答えた半兵衛の指揮の元、一団は本陣を目指した。

 

 

「…ん……」

 すうすうと寝息を湛える女の体は小さく柔らかい。
軽い催眠にかけたつもりだったが、余程疲れていたようで、は熟睡し続けた。

『………つまらぬな…』

 結局、半兵衛の想定した通りに動いてしまったことに気がついて、手の中の女を投げ落としたくなる。
だが当の本人は風魔がそんな事を考えてるとは気がつきもしないで、すぅすぅと安らかな寝息を湛えている。
 イライラが募って来た風魔は木々の上で一度足を止めた。
そこで何を考えたのか、片手での鼻を摘まんでみた。

「んー」

 それでも起きない。
それどころか苦しそうに寝返りを打って風魔の腕の中から転がり落ちそうになった。
風魔は鼻を放して代わりに両手でを抱き込み、転落を防いだ。

「……ッチ…………」

 月明かりの下。
木のてっぺんで腰を落として転がり落ちそうな女を、あの風魔小太郎が両手で抱え込んで護っている。

あまりにも異様且つ、滑稽な姿だ。
誰かに見られていたら、恐らくその者は次の瞬間には噴き出して、絶命の末路を辿ることになるだろう。
 誰にも見られていない事に安堵すると同時に、どうしてこの女が関わると自分はこんなにもおかしくなってしまうのだろうかと考えた。

「…何故だ…」

 独白に答えてくれる声はない。
ただ分かるのは、に関わると、自分は今まで自分の中になかった何かに出会い、何かを見つけだす。
不可思議な感情に心を揺さぶられることもしばしばだ。

「………余興であるが……故か…?」

 原因を生んでいる女に直接聞いてみようかと思うものの、当の本人は熟睡中だ。
その上、その眠りが安らかなものである事は表情を見れば一目瞭然だ。
その眠りを妨げてまで言葉を交わす気にはなれなくて、風魔は諦めたように立ち上がった。

 

 

「ということは…?! な、んぁぁあああ!!! 
 なんて事してんじゃ、半兵衛!! 様はどこじゃ?!」

 本陣に近付けば、格好のタイミングだったのか、陣中で秀吉が騒いでいた。
風魔の来訪に気がついた半蔵が視線で半兵衛にそれを教える。
半兵衛は頷き、

「落ち着いて下さい、秀吉様。姫様であれば、ほら…この通り」

 半蔵が示した方向を指し示した。
見つかった事が癪に触らないわけではなかった。
が、陣中にいる重臣達が自分との姿を見た瞬間に憎悪にも似た緊張感に包まれたのを見ると、久々に優越感が胸に漲って来た。

 涼しい顔をして半兵衛は言う。

「座興であればこそ、死なせるわけには参らぬ。でしたね? 小太郎」

「…クックックック…風を遣うか……」

 半兵衛の言葉をこの時ばかりは肯定しないわけにはゆかなくなって、風魔は答えた。
不本意さが言葉の端々に現れていたが半兵衛は意に介してはいない。
ならばせめて、強張った表情の重臣達を弄んでやろうと考えた。
 の体を輿の上へとゆっくりと下ろす。
その際に、己の手に残ったの長い頭髪に口付けながら意味深に笑った。
それだけで一部の将の全身には一層強い殺気が纏いついた。

「…だが、これだけよ…」

「重々分かっておりますよ。大義です」

 人に使われるのは好きではない。
好きではないが、今の彼らの反応だけで十分楽しめたとばかりに風魔は体を起こした。
彼は半蔵や慶次達と冷戦にも似た睨み合いを繰り広げて、その後で姿を消した。
輿の上に残されただけが、何も知らぬまま安眠を貪っていた。

 

 

 その後、戦は大きく様変わりした。
半兵衛の言葉通り、戦況が完全に覆ったのだ。
離れた土地で武田主従が粘りの戦を制し、その勢いを殺さずに敵本国へ電光石火の突貫攻撃をかける。
この地では二度目の演舞が敵に決定打を与え、数刻もしない内に敵本陣は内包していた蛇の毒によって落ちた。
本陣には異なる家門の旗を掲げた使者が訪れて、同盟締結を持ち掛けていた。

「…帰ろう」

「それでいいのか? もっと吹っかけて…」

 漁夫の利を取られた事に激怒する家臣達の前で、は冷静に状況を分析し、英断を下した。

「三成。よく周りを見て。皆、疲れ果ててる。兵だけじゃなくて、将も、この土地も…戦はもう終わったんだよ」

「……」

「戦は、おしまい。皆で帰ろう。そしてを護れたことを喜んで、の為に死んだ人を悼もう」

 書状を片付けながらは立ち上がる。

「家康様、左近さん。松永家との同盟締結、お願いします。は向こうの姿が見えなくなってから、帰ります」

「賜りました」

「承った」

 踵を返して歩きだしたは、後に続く半兵衛に言う。

「信玄公にも、戻るように言って下さい。これ以上の侵攻は、必要ありません」

「御意に」

 全員に的確な指示を出して、自分の天幕へと歩き出したが、ふと、足を止めた。
彼女は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回すと、途中で何かに気がついたように頭を掻いた。
怪訝な面持ちで観察していれば、の唇がゆっくりと動いた。

"助けてくれて有り難うね、風魔"

「!」

 風魔は驚いたのか目を丸くして、その後で嬉しそうに目を細めた。
彼の冷淡な視線の先には、の桜色の唇。
その唇が、動いて自分の名を呼んだ。
それだけで満足で、今までのくさくさしていた思いもどこへやら、あっという間に四散した。

「……吸っておけば良かったか…」

 髪ではなくて直接唇にしておけば良かったと、風魔は独白してから夜の闇に溶けた。
彼は自身が紡いだ言葉の意味に、まだ気がついてはいないようだ。

 

"遠い未来との約束---第六部"

 

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ストーカーじゃありませんよ。ストーカじゃなくて風魔です。※大切なことなので2回言いました。(11.05.03)