もう一つの選択 - 孫市編

 

 

 床の上に横になって考え続けた。
孫市の言葉は逐一尤もだった。
そして自分へ向けて紡ぎ続けた想いは、リップサービスでも何でもない。
彼は本気での身を案じているのだ。

『気持ちは嬉しい……でも……それは受け入れられない…』

 寝返りを打ちながら瞼を閉じれば、かつて時空の狭間で支援者達が紡いだ言葉が、耳に生々しく蘇った。

"一つの時空が刻んだ巨大な歴史の前では、その中に生を持つ者では抗う事が出来なかったのだろう"

 そうだ。孫市はまだ知らない。
の使命は、今この瞬間を乗り越えて、天下を治めることではない。
選択をし続けて、この世界の最果てを、崩壊から救う事だ。

『それを叶えられるのは……秀吉様や家康様じゃない……私だ』

 自身が起こした功績により、失われた未来に戻った命がある。

"ああ、怖がらないで。大丈夫だよ、僕達は君の味方だ"

"色々と辛いだろうけど、頑張って。そして忘れないで、君には僕達がついてるからね"

 その命は、自分の利益ではなく、最果てで待つ結末を厭い、使命の完遂を望んだ。
そしてこの時代には、自分を信じ支えてくれる人々がいる。

『いいでしょう、死にましょう!! 様が必要と言うならば、必要なのでしょうな』

様、大丈夫じゃ。わしが引き受けた。もう大丈夫じゃ』

『いいんだ、さん。あんたが無事なら、俺はそれでいい』

『いいえ、貴方を護れた。身に余る栄誉です。私は、貴方が生きていて下されば、それでいいのです』

『男、俺の目が黒い内はこの女に手出し出来るとは思わぬ事だ』

は必ず勝ちます。だから、泣かずに、笑っていて下さい。俺は、姫の笑ってる顔の方が好きですよ』

『もう一つ、選択肢を提案するぜ。魅惑的な姫は、彼女の恋人が救うって選択肢だ』

 帰る事は容易いことかもしれない。
何もかもを、孫市が言ったように家臣達に丸投げして、生き伸びる。
きっと彼らならば、願いを聞き届けて、望んだ天下を創ろうと尽力してくれることだろう。

『でも………それで、本当にいいの? 
 この世界を捨てて生き伸びて、それで私は…本当に幸せになれる?』

 自問自答は続く。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ多くの言葉がある。
言葉に込められた思い、願いがある。

"この世界は、既に変わりつつある世界。そこにお前の求める者はいない"

"…他の者ではだめだった、歴史を変える事は出来なかった…"

"一つの時空が刻んだ巨大な歴史の前では、その中に生を持つ者では抗う事が出来なかったのだろう"

"外から来たお前は…この時空への干渉は出来ても、この時空からの干渉を受け付けない。
 だからお前は宿命を変え続ける事が出来ている"

 それは同時に、に一つの現実を突きつけた。

『……私が帰れば……私の背負った苦痛を…恐怖を……誰かが代わりに背負うことになる。
 そしてその誰かは、私の様に、生き伸びる事は…この世界では敵わない……』

 薄々気が付いていた。分かっていた。体感してきた経験に基づく事実。
何を今更、恐怖し、逃れる為だけに足掻こうというのか。

「…で、こんな事私に言ってくれる人は……初めて……だから、ちょっと揺らいじゃったんだな、きっと」

 閉じていた瞼を開いたは、自嘲的な微笑みを浮かべると掌で目元を覆い隠した。
泣いていた。
数多の感情が彼女を包み込んでいた。
 「逃れろ」と言った孫市の真摯な思い。
遠い未来で平穏を願う者達の思い。
そしてこの世界にあって、の事を信じ、護り、支えてくれる人々の思い。
全てを天秤にかけることは出来ない。
まして何もかもを知っているからこそ、自分の背負ったものを、自分以外の者の掌に下ろす事は出来ない。

「……ごめんね…孫市さん……私には、その選択肢は、選べないよ」

 

 

 翌朝。

「孫市さん」

 脱出策の詰めに追われる孫市の元へとがやって来た。

「お、今日も綺麗だね。その瞳で見つめられるとくらくらするぜ」

 毎度毎度お馴染みのリップサービスをさらりと受け流して、は「少し、歩かない?」と言った。
その時の表情、声色から、孫市は察したように頷いた。

「いいぜ? で、どこまでお供すればいいんだ?」

「あの狼を帰す時に行った岩山とかどうかな?」

「了解」

 頷いて二人で獣道を辿った。
程無く、件の岩山が見えてくる。
麓へと辿り着いたは、迷うことなくかつての道のりを辿って登り始めた。

「おいおい、分かってんのか? 一応、ここ戦場で、今は朝だぜ?」

「大丈夫だよ、孫市さん一緒だし。護ってくれるんでしょ?」

「はいはい、誠心誠意努めますよ…本当、貴方には敵わないなぁ」

 楽観的に笑うには勝てなくて、孫市は「やれやれ」と首を振ると後に続いて岩山へと手をかけた。
二人でそうやって登り続けてしばらくすると、山頂に近い見晴らしのいい岩場に辿り着いた。
そこでは腰を下ろすと、一つ大きく伸びをした。

「んー、筋肉痛の時に登るとは思わなかった〜」

 岩場に腰を掛けて、投げだした足をぶらぶらと風に遊ばせる。
用意周到なのか、持ってきた水筒で喉を潤してから孫市に「飲む?」と差し出せば、彼は迷うことなく取り上げた。

「でもまー、どうにかなったね」

 そよ風に髪を遊ばせて、遠目に見える大地を、本陣とそれを護るように展開している将兵が作る陣容を眺める。
から受け取った水筒を傾けていた孫市が水稲から口を外し、濡れた口もを手の甲で拭う。

「…何が言いたい?」

 敏い孫市が「ただの気分転換ではないだろう?」と視線で問えば、は静かに一つ頷いた。

「この山登りと同じなの。どんなに困難な事でも、やってみると意外とどうにかなったりする」

「天下はそんなに安くないぜ」

「うん。でも…私、天下が欲しい訳じゃないから」

 怪訝な顔をした孫市を、は真っ直ぐに見上げた。

「貴方が私を護りたいと言ってくれたように、私にも…譲れない、護りたいものがあるの」

「…妬けるね、俺以上に大切な奴がいるとはな…」

 孫市の心底がっかりしたような声を受けて、は苦笑した。

「そんなんじゃないのよ」

 小さく首を横へと振ってから、微笑んだ。

「誰か特定の人を好きとか、その人の為に…とか、そんな話じゃないの。
 ただ私は…自分を信じてくれてる人の思いに答えたいの。
 孫市さんの言ってる事は、多分正解なのよ。それが、一番楽な方法。
 でも、それは同時に、一番残酷な選択肢なの」

 「分かるか?」と視線に滲ませて、は言った。

「全てを皆に押しつけて、逃れた先で…私が本当に幸せに生きられると思う?」

「…! こ、ここよりゃ、普通にマシだろ?」

 珍しく孫市が動揺した。
言葉が濁る。
 は首を大きく横へと振った。

「貴方の言った通り、私は平和な世界からやって来た。だからこそ、戻ったら、ここでの事ばかり思い出す」

「ッ!」

「こんなにね、刺激的な出来事は私の生活にはなかったの。
 そして誰かにこんなに大切にされた事も、必要とされたことも、今までなかった。
 途中で投げ出して、逃げ帰るのは、もしかしたらとっても簡単な事かもしれない。
 とても楽だし、苦難はなくて、怖いこともなくて、いい選択肢なのかもしれない。
 でも、私がここで経験した事は、夢でも幻でもなくて、消えてはくれない事。
 例え無事に帰れたとしても、その全てを察して、受け止めてくれる人は、私の世界には、一人もいないのよ」

「それは、そうかもしれないが…」

「孫市さん」

 は視線を遙か彼方、戦地の向こうへと流す。

「どんな結末が待つとしても、一度関わってしまった事からは、それが終わるまでは逃げられない。
 逃げては、いけない。これが、私の答えなの………分かって、くれる?」

「……はぁ、全く……俺のお姫様は、本当に負けん気が強くて、博愛主義で、高望みだな」

 孫市が盛大に溜息を吐いた。

「そうなのよ。私、結構、しぶといの」

「…分かったよ、俺の負けだ」

「うん」

 の隣に腰を降ろした孫市は、の頭を片腕で抱き寄せた。

「……この前の提案はなしだ。だから、そんな…何もかもを諦めた、みたいな目は止めてくれ」

「!」

 が驚いて息を呑めば、孫市は真摯な眼差しで言った。

「お前が腹を括ってやるって言うなら、俺が命がけで護ってやるよ。だから、そんな目は止めろよな?」

 は苦笑し、何度となく頷いた。

「うん、お願いね。女はしたたかにならなきゃ、ダメなんだもんね?」

「ああ。そうだぜ〜。
 辛い事、苦しい事と向き合うなら、自分の支えになり護ってくれる男の一人や二人、先んじて用意しておくもんだ。
 因みに、俺なら今はお買い得だぜ?」

 かつて紡いだ言葉を、再び孫市は紡いだ。
それを受けたは、分かっているとゆっくりと頷いた。

「考慮しときます」

「つれないねぇ」

「私は一足先に、国元に戻るけど…皆が元気に戻って来ること、信じて待ってるから……。
 だから、死なないでね?」

「ああ、分かってるよ。これ以上、奴らの好きにはさせないさ」

「うん。信じてる」

 は瞬きを一つだけすると、その場にそのままゆっくりと立ち上がった。

「帰ろう。皆の為にも、まずは私がここから生きて国元に戻らなくちゃ…何も始められない」

「露払いなら、任せろよ。例え鬼の突進でも、止めて見せるぜ」

「うん、ありがとう」

 それから程無くして二人は陣中へと戻った。
撤退準備の最終確認に追われる孫市の背を見たは、迷いを断ち切るかのように一度だけ瞬きをした。
身を翻せば、流れるそよ風にふわりとの長髪が揺れる。
 孫市はの視線の動きに気がついていたのか、が動くと同時に肩越しに彼女の華奢な背を見た。
それからすぐに視線を大地へと落とし、次いで天を仰いだ。

『…死ぬつもりかよ? そんなことは、俺が許さない…』

 第六勘なのか、それとも人の生死を掌って来たからこそなのか、孫市が感じ取った懸念は正しい。
この千日戦争を経て、の心には大きな変化が生まれていた。
それは口にするまでもなく、態度に示すまでもなく、密かに心に決めた事だ。
その気配を察した孫市は、やりきれないとばかりに、顔を顰める。
 救ってやりたいのに、現状がままならない。
本人だって、望んでいないであろうに、それを選べぬ理由が、事情がまだ彼女の背後にはあるのだ。

『…なぁ、知ってるか? ……傷は、時が癒してくれることもあるんだぜ?』

 帰さなくてはならない、元の世界へ。
それこそが、彼女の生を繋ぐ唯一の方法。
 けれども彼女がそれを拒むというのならば、その意志を越えて成し得なくてはならない。

「やるなら、意識のない内に…だな」

 孫市は独白し、

「まずは情報を把握しないとな。それに相方が必要だ。なら、普通に秀吉だろ」

 陣中にあるはずの秀吉の姿を求めて歩きだした。

 

"遠い未来との約束---第六部"

 

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彼女の決意と彼の決意。(2011.05.04.)