もう一つの選択 - 孫市編

 

 

 島左近、石田三成が本陣への奇襲を退けたとの報は、瞬く間に戦地に行き渡った。
とはいえ己の目で確認するまでは安心はできない。
戦地ではどのような情報であろうと、計略の一部と成り得るからだ。

 

"天の加護をもつ美姫は、奇襲にあっても、その身を害されることはない"

 

 戦地の隅々まで轟いたこの報は、案の定、三成が機転を利かせてはなった偽報でしかなかった。

「お帰りなさい、二人とも……ごめんね、こんな姿で…」

 慶次共々すっ飛んで帰って来た孫市を待っていたのは、臥せった状態のだった。
三成の手を借りて体の節々に針を打つの白い肌には、目を覆いたくなるような欝血痕がありとあらゆるところに浮き上がっていた。
の話ではこれらの鬱血痕は敵のせいでついたものではなく、支援者がの体を守護した事への対価だという。
 先の狙撃の時に居合わせていた重臣達は、の説明に納得していたが、その瞬間に居合わせていなかった孫市には安易に受け入れられるような話ではなかった。
 努めて気丈に振舞い、皆の足手纏いになるまいとするの姿を見ていると、彼の怜悧な頭脳は、敵に対する苛立ちを抱えるよりも先に、急速に回り始めた。

「女神、ちょっといいか?」

「あ。はい、どうぞ」

 三成と慶次を巻き込んでの治療を終えて、撤退案をも受け入れたの天幕へと孫市がやってくる。
は床の上に降ろしていた腰を上げて、屏風の手前にある机の横へと移動した。
それと同時に孫市が入ってくる。

「何かな? 変更でも出ました?」

 茶づつを手に取ろうとするの動きは緩慢で、筋肉痛が齎した後遺症だけが原因ではないように思えた。

「…いや、ちょっと気になった事があってね。話せるか?」

 円らな瞳を瞬かせたの手の中から茶づつを取り上げて、孫市はを席へと促す。
は促されるまま席に座り、孫市の動きを視線で追った。
彼らしくなく、張りつめている気がした。

「孫市さんでも、この戦は辛いんだね」

「…あ?」

 ぼそりとが独白すれば、孫市が茶づつから急須に茶葉を移す手を止めて振り返った。
失言だったと思ったのか、は慌てて己の口元に手を合わせた。

「ご、ごめん。そうだよね、誰だってこんな戦……辛いし、嫌だよね…。
 傭兵集団の頭領だからって慣れてるなんて、そんなの私の勝手な先入観だよね」

 おろおろするの前で、孫市は茶づつの蓋に乗せた茶葉を茶つづへと戻し、蓋を締めた。
ポンッ! と景気のいい音が上がる。
恐る恐るという様子で視線を上げたの前で、孫市は平然としていた。

「あのな。俺が今日来たのは、この戦の話がしたいからじゃないぜ?」

「え…?」

「聞きたい事があるんだよ」

「何?」

 「自分に話せる事ならいいのだけれど…」と表情で語るの向かいに孫市は座った。
茶づつを机の上に置く。
お茶を飲みながら交わせる程、簡単な話ではないのだと判じたが小さく喉を鳴らす。

「前に俺にこう言ったよな? "この世界を導く役目を命を対価にして引き受けた"って」

「え、ええ…そうですけど…」

 この時代の人間からしたら、やはり自分では期待通りの働きは出来ていないのだろうか? と、恐縮するの前で、孫市は「そうではない」と首を横に振る。
 では何だろう? と瞳を瞬かせていると、孫市は簡潔に問うた。

「連絡はどうやって取ってる?」

「へ?」

「お前にその使命を託して、好き勝手な間で助けに来る頼りない同士とやらとは、どうやって連絡取ってるんだ?」

 予想外の問いかけを受けて、返答に詰まった。
何をどういえば一番適しているのか、すぐには思いつかなかったのだ。
 自然と、は視線を逸らした。思い悩んでるのが一目瞭然だ。
を見つめる孫市の視線が鋭さを増す。

?」

 孫市に、初めて名前を呼ばれた。
どくん! と一つ、胸が大きな鼓動を奏でた。
今までは「女神」だの「お嬢さん」だのと呼ばれていて、それに慣れていた。こんな風に名を呼ばれる事はなかった。
 それが、今日だけは違う。そこに何の意味もないはずがない、との聡明な頭脳は警鐘を鳴らす。

「答えろ、

 真摯な眼差しで、それでいて柔らかい声色であの孫市に名を呼ばれ続ける。
こそばゆく感じたのか、は忙しなく瞬きを続け、それから答えを探すかのように視線を宙で彷徨わせた。
それを阻むように、孫市が身を乗り出して顔を覗き込む。

「連絡、取ってんだろ? どうやって取ってる?」

「…えと…その……実は……取れてるような…取れていないような?」

「ああ?」

 は観念したように自身の膝の上の着物をぎゅっと強く掴みながら言った。

「あの発作の時に、向こうから現れるの。私からは呼び出すことは出来なくて…」

「一方通行なのか?」

「に、近いかもしれない…」

「近い?」

「うん。説明は出来ないんだけど、ある方法を使って、私の意思を伝えることは出来るの。
 でも、それがうまく伝わる時と、伝わらない時がある」

「なるほどな」

「あ、あの…」

「ん?」

「それが何か? この戦に関係あるの?」

 が問えば、孫市は頭を掻きながら答えた。

「いや、お前さんから連絡がつくならな」

「援軍頼むとか?」

「いいや、そうじゃなくてな」

「うん」

 孫市は「ふう」と一息吐いてから、言った。

「…お前のこと、元の世界に帰してやれって言うつもりだった」

 が驚愕し、息を呑む中、孫市は言う。

「俺としちゃ、根本的には天下ももどうでもいいんだよな」

「え…?」

「俺はお前に惚れてここにいるわけだ。
 お前が本気で天下を目指すなら、手は貸すぜ? 
 でもよ、そうしなきゃならない理由がないのなら…こんな世界からは逃がしたいんだよな。
 お前の命一つと、天下を両天秤だぜ? 普通に吊り合わないだろ?」

 それはそうなのかもしれない。
けれども、それではこの戦は?
自分の政を慕い、今まで骨身を削って働き、死んでいった人々の思いはどうなるのか? と、は動揺する。

「率直に言わせてもらうぜ」

 孫市は怜悧な眼差しで淡々と言った。

「お前を取り巻く契約には、もう一つ、道がある」

「み…ち?」

「ああ。全て投げ出す、って道だ」

「ちょ、ちょっと待ってよ!! 孫市さん、自分か何言ってるか…!!」

 思わず机に両手を突いて立ち上がれば、孫市は大きな掌での肩を掴んで無理やり着席させた。

「重々俺は分かってる。分かってて言ってる。いいか、

 孫市の真剣な眼差しの奥には有無を言わせない強さがあった。

「お前の理念は、もう既に、多くの人間に根付いてる。
 博愛主義とでもいうのか? 俺達の考えつきもしない理念だ。
 だがお前の行動、思考を見てるとよく分かる。お前は"平和な世界"からやって来た。
 その理念が、普通のものとしてある世界からだ。
 お前から見たら俺達の世界は粗暴で野卑で、話にもならない程文化も低いんだろう。
 そこに降り立って、導けと言われて、今まではなんとかやって来た」

 その通りだと相槌を打てば、孫市もまた相槌を打った。

「だが、それももう終わりだ」

「終わり?」

「ああ。お前の意志は、秀吉が、家康が継ぐ」

 衝撃で何も言えなくなったを真っ直ぐに見据え、孫市は言いきった。

の禄を食んだ男で、天下を狙える大器はあいつら二人の内どちらかだ。
 あの二人に全てを託してお前は自分の世界へ帰れ」

 何か言わなくては、言葉を発しなくては、と思うのに巧く言葉が出てはこなかった。

「あいつらなら、お前の望んだ世界をちゃんと作れる」

『分かってる…その通りだと、私は知ってる……でも、でも!!』

「天下取りは女の仕事じゃない。もう帰れ。これ以上は、拾った命を失うことになる。
 今度機会があったら、同士とやらに伝えろ」

「何…を?」

「後継者に全てを託す、と」

「それで、私は?」

「帰ればいい、元の世界へ。その算段を整えろ」

 返す言葉もなく息を呑んでいると、孫市はの額に一つ口付けを落としてから身を起こした。

「そんな顔すんなよ…前にも言ったように俺はお前のことが好きなんだよ。本気でな。
 なら、普通に惚れた女の命取りたくもなるもんだろ? 分かってくれよな?」

 の返事を待たずして、孫市は天幕を後にした。
天幕の中に残されただけが、硬直して言葉を失っていた。

 

 

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