心配しなかったわけじゃない。 が三成と家康を連れてかの地へ行くと言い出した時。
護衛であるはずの自分を残すと決めた時、その決定に落胆しなかったわけじゃない。
それこそを送り出したら、一日置いて松風で後を追うくらいのことは考えた。 では何故それをしなかったのか?
簡単なことだ。約束だと絡められた小指に絆されてしまった。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本の〜ます」
あどけない仕草と子供っぽい歌で綴られた約束のなんとも軽い事。
この程度で守られる約束とは一体どの程度の物かと、苦笑いしそうだった。
だが絡められた小指が解かれた時、は無意識に自分の小指に唇を重ねた。 子供じみた約束に混ざった女の顔。それにやられた。
口先は子供じみているのに、仕草は完全に大人の女のもので。 この儀式は見目ほど軽いものではないのだと理解した。
『敵わないねぇ、相変わらず…』
外敵に命を脅かされることだけが不安なんじゃない。
旅路の供をする恋敵の存在だって、十分不安要素だ。 だが小指を絡めた時のの視線と唇が、その心配はないのだと告げた。
そこを信じられぬであれば、それはの自分への想いを無碍にするのと同じこと。 それだけはしてはならない。
恋焦がれているのが、もし自分だけではないなら。彼女の想いを汲んでやるのは当たり前だ。
『相手はごたごたを起こすつもりはないのよ。きっと。なら、こっちも無駄に刺激しないようにしなくちゃ』
残す心配は命だけ。こればかりは軽視はできない。 だが参加を決定した時にが述べた言葉を吟味すれば、示唆された懸念は中らずといえども遠からずだ。
防衛戦、災害からの復興、そして毛利家との千日戦争を経た領の治安は、完全に回復しているとは言い難い。
押し込み強盗などの犯罪は真田幸村が目を光らせているから、そう簡単には起きない。
それだけには安心しているようだが、目に見えぬ危険はいくらでもある。
例えば他国の忍びが秘かに城下町に身を置いて諜報活動に明け暮れているかもしれないし、あの災害を受けて帰順した国が安定を取り戻して反乱を起こすかもしれない。
もしかしたら復興開始後に志願してきた兵の中にだって埋伏の毒は、もう既にあるかもしれない。
あっておかしくない可能性は、考え出したらきりがない。
懇談会への出席にが求めたのは内政官。自分のような戦人ではない。ならば今は彼女の意向に従うに限る。
約束を違えて勝手にこっそりついて行って、足元を留守にすることもしちゃならなし、街に潜んでいるかもしれない他所の諜報員を刺激するのも下策だ。
非力な女と言えど、は一国の君主だ。 の決めたことを配下たる自分が無視すれば、の統治力に陰りを出すことになる。
陰りは魔を呼ぶ。統制の取れていない国は、攻撃対象に容易になりえる。 現実がどうであれ、のことを知らぬ者だらけの場所に出向くなら、"慈愛の姫"の治める国は災難続きの小国と侮られていた方が、今は何かと都合がいい。
『今回は、俺は留守番だな』
不在の間の暇は復興業務に費やして潰すとして、もしもの時の準備だけはしっかり整えておく。
必要な時が来た時に瞬時に対応できるように、離れていても常に意識はそのつもりを維持する。 この判断は正しかった。
の為の大掛かりなからくり―――が何処からか姿を現して、彼女を救う為に行動を起こした。
それから間を置かずに遥か遠方に旅中の三成から救援依頼が舞い込んだ。 瞬時に動けたのは自分と同じ備えをしていた真田幸村だけだ。
何時ものように颯爽と助け出して、この手を取って「有難う」と言われることを期待したが、関を越えて逃げ延びたは例の発作で意識を失っていて、流石にこれには肝を冷やした。
現状、懇親会での暗殺疑惑の後始末の為に家康が不在となり、残ったのは秀吉一人。
発作で臥せってるのフォローには心もとない。
ようやく目覚めても本来の調子に戻るまでに少なからず時間が必要なのは誰の目から見ても明らかで、声がすぐにかからなかったことを嘆くような状況にはなかった。
「ん…慶次…さ…」
「お?」
腕の中で眠るが微かに身動ぎする。
どうにも納まりが悪いのか角度を変えてみたり、寝返りを打ってみたり。
どうしてやるのが一番いいのかと観察していると、数回の寝返りのうち、ようやく落ち着いたようだ。
満足そうな寝顔は穏やかなものだ。 の満足する角度がどうなったのかと言えば、まさかの向かい合わせで、
「本当にあんたには勝てないねぇ…」
自然と感動が口から漏れた。
気丈に振る舞うのが常たるこの女は、睡眠時にやたらと本音が溢れ出るように思う。
「慶次さん…慶次さん…寒いよぅ…」
胸に添え垂れた両手が、それでは足りないとばかりに脇の下を彷徨う。
こちらから引き寄せてやれば額を胸板に摺り寄せてきたりする。
足こそ絡めていないが、体感する互いの熱と距離は、何時かの逢瀬を否応なしに思い出させる。
『結局、あの記憶は消えちまってたんだったか…』
振出しに戻っただけだと納得したあの瞬間を、再び得る為に必要なものは何かを模索する。
戦続きの数年では一歩進んで後退した距離を詰めるのはなかなか難しくて。
彼女の心のケアを優先すれば、"恋人"としての位置取りに適した態度は取れなかった。
けれどもあの逢瀬の記憶は、彼女の根幹にしっかりと根付いているのではないかと、思うことが有る。
今だってそうだ。恋仲になったことを忘れていながら、本調子を取り戻したが最初に望んだ男の温もりは、他でもない自分自身だ。
「慶次さん……寒い…慶次さん……寂しかったよぅ…恐かったよぅ…」
ぽそぽそと続けられる寝言は、睦言に近いような気がする。
「そうかぁ…それは悪いことしたねぇ。これからはずっとずっと傍にいるからな。
さんも俺から二度と離れちゃだめだぜ?」
寝言に答えても意味はないと知りながら自然と出る返答の数々。
「ん…寒い…寒いよ…」
包み込んだ腕に力をほんの少し込めて、落ち着くように何度となく背を撫でた。
「慶次さん……愛してる……」
ぽろりと漏れた言葉に目を丸くした。
真意を探ろうと視線を落とせば、はどこが苦し気だ。
『ああ、そうか…告白じゃねぇんだな…』
落胆する反面、彼女の望みは何処にあるのかを考える。
「寒い」と「愛してる」と何かのまじないの様に繰り返される言葉はとても弱い。
「…………さん…俺も寂しかったんだぜ? それとな…ずっとずっと前から、俺の方があんたを愛してる」
これか? と確証もないのに睦言を紡いでみた。
『お。これが正解か』
寒かったのは、心なのか体なのか定かじゃない。
だが「愛している」のは紛れもない事実で、が望んでいるのは告白することではなく、告白される事。
こうして寄り添ってくれる護人が、役目ではなく、一人の男として彼女を求めているかどうかの確認だ。
「愛してる……愛してるよ、さん…ずっとずっと前からね、愛してた。
今だって愛してるし、これからだってそうだ。ずっとずっと、俺はあんただけを、愛してる」
背に回った華奢な掌の力が緩むまで、何度だって言葉を紡いだ。
照れがないわけじゃないが、二人きりの時間だ。何を憚ることが有る?
少し欲が出て額や鼻頭や唇に己の唇を寄せてしまったけれど、肝心の眠り姫は起きない。
『何よりご機嫌だからなぁ』
天井裏で警護の為に身を置いている伊賀忍も邪魔してくることはないだろう。
「もっと…もっと…」
言葉を欲しているのか、それとも口付けを望まれているのか、判別が難しい。
『あー、でもあれか。俺が両手を開いた時…』
「冬だね」と広げた腕の中には迷わず飛び込んできたし、嬉しそうに全身を預けてきた。 護人に求めた対応じゃない。
『ってことは、あれだな。もう確定でいいんだよな? さん?』
問題は今現在、愛を強請る可愛い人は安眠の中で。おそらく無自覚だ。
『はてさて厄介なもんだねぇ…改めて起きてる時に自覚させないとならないわけだよな? こりゃ』
言葉にする事自体は然程、抵抗がない。
戦人として戦場に身を置く者独特の感覚かもしれないが、言いそびれたままで命を落とすなんてまっぴらごめんだ。
言いたいことは常にはっきりと言いたい性分だ。
問題なのは、自分との進展を笑顔で全力で阻んでくる有象無象の多さだ。
『こりゃ巧い事連れ出して二人きりの時に言わないと駄目だろうなぁ』
どうしたものかと思案に暮れる。
腕枕に使っていた腕を動かして、思わず自分の顎を摩ったりなんかして、意識がから逸れた。
寝ていながらにしてそういう事には気が付くのかなんなのか、の口から声になり切らない不満が漏れた。
「あー、はいはい。ごめんごめん、心はちゃんとさんの元にあるぜ?」
顎を摩っていた掌を下ろした。 背に回している腕の位置を変えて、の腰を抱く。
「…むぅ…」
「悪かったって。考えてたんだよ、どこで言おうかね」
本当は狸寝入りなんじゃないだろうな? と疑いたくなる。
当のは満足したのか何なのか、へらへら笑いながら
「も〜、ちゃんの作るおかきってさいっこー! 止まらないよね!」
とか言い出すから力が抜ける。
「そりゃ良かったね。だがあまり食うと飯が入らなくなるぜ?」
ついでに「太る」と毒づいてやると、眉が俄かに寄った。葛藤してるらしい。
『まぁ、眠りこけてる相手に真剣にあれこれ言っても無駄だよな』
分かっちゃいるが離れていた時間が長ければ長い程、募った思いは深く、欲求も強くなる。
『次は何時こう出来るか分からねぇからなぁ』
一進一退はうんざりだと、慶次の眉は寄る。
慶次の心の動きを察知しているわけでもなさそうなにに、の掌が動く。
背中に回った掌は、今の今まで、縋るように強い力が込められていたのに、その掌から力が抜けた。
『お、熟睡したか?』
ちらりと顔を覗き込めば、安定した呼吸音が上がる。寝言は消えていた。
どうやらレム睡眠に落ちたようだ。 背に回っていた掌が落ちる。 それが名残惜しくて、掌をとって絡めた。
反射の様に指先に籠った力に、ハッとする。
『ああ、そうだね、この方法があったね』
通じずとも良い。ダメなら他の方法を探すだけだ。
あの逢瀬の記憶が消えた時から覚悟はしていたはずだ。 の世界の言葉では確かトライアル・アンド・エラーだったか。
いい結果を招くまで手を変え品を変え、やってみるだけだ。
「さて…俺もそろそろ寝るとするかね」
方針を決めたら、急激に眠くなってきた。
そりゃそうだ、を送り出してから数日、慶次も良く眠れていなかった。
距離があればあるほど神経は研ぎ澄まされて、高揚状態にあった。
だがもう心配はいらない。愛しい寵姫はこうして自分の腕の中にある。 もう不安になる事も、心配する必要もない。
「お帰り、さん」
改めて声をかけて、しっかりと抱き寄せて瞼を閉じた。
それから数分と経たずに、部屋は静かになった。 慶次が気取っていた通り天井裏に詰めていた護衛の忍が小さく笑う。
慶次の体格に合わせた大きな布団の膨らみは二つ。
上から見下ろすとその膨らみは身を寄せ合ってあまり身動ぎしない。
まるで大きな虎に子猫が寄り添っているように見える。和まずにはいられない。
警護は自分達がしっかり担うから、心行くまでこの時間を堪能してくれますように。
そんな思いを込めて、忍びは顔を上げて、屋根裏で腰を落とした後、自らの気配を消した。
「んー、久々に良く寝たー!」
翌朝、本調子を取り戻したは、着替えも食事もばっちり済ませて執務室に現れた。
集う家臣一人一人に「おはよう!」と快活に声をかけて歩きながら自分の机の前に進む。
の執務机の傍には天下御免の傾奇者の姿はない。
護衛ではあるのだが、相変わらずしなくてはならない復興関係の業務が莫大で、機動力に秀でた彼は松風共々領下を駆け回らねばならないのが現実だ。
それに執務室には秀吉を始め竹中半兵衛が詰めている。
有事の際、慶次が駆けつけるまでの時間稼ぎは、彼ら二人で充分だろう。
「さ〜、今日もお仕事頑張りますかね〜〜」
軽い調子で机の上の書類をざっと検分する。
その中に処理速度と優先度からして慶次に預けた方が良さそうな書類を一つ見つけた。
はサクサクとその書類に署名と捺印をしてから、蝋で封をした。
「ちょっと下まで届けてきます〜」
下々に預ければいいのだろうが、闊達なは誰かを呼びつけるより先に体が動くタイプだ。
秀吉と半兵衛が声をかけるより早く室を出た。 軽い足取りで階下を目指す。
やがて城の正門までやってくると、今まさに、松風を駆ろうとしていた慶次の姿を認めた。
「あ、慶次さーん。待って、ちょっと待って〜! これも〜!」
わざわざ草鞋を履いて大地に降りるよりもこれが一番早いと、は投球フォームを取った。
ソフトボールで見せる下手投げで封をした巻物を放れば、慶次が軽々と受け止める。
「政宗さんによろしくって言っといて―!」
ぶんぶんと片手を大きく振りながら話すに、慶次は「おうさ!」と答えた。
それから手綱を操りの方を向くとにかっと大きく笑った。
「改めて言うぜ、さん。お帰り!」
「あ、うん。ただいま!」
「昨夜もこんな会話しなかった? ああ、でも、これ他愛無いただの挨拶か」と即断したの瞳は、次の瞬間、大きく見開かれた。
何気なく動いた慶次の左腕が軽く握られて小指が天を差す。 指切りを思わせるその指先に、慶次は一つ口付けを落として見せた。
それは、かつてが無意識に見せた意思表示。
「ふへぇ?!」
意味を気取ったのか、の顔が一気に赤面する。
「これ、いいねぇ! 何がいいって人目を気にしないでいい所が、一番いい!」
の反応をしっかり確認した慶次は満足そうに笑うと松風の馬首を返した。
「じゃぁな、行ってくるぜ!」
あっという間に見えなくなった慶次の背を見送ったは、ほてった己の頬を掌でさすりながら元来た道を戻る。
あの仕草に込めた特別な意味を説明したことなど一度もない。
約束を交わした時にあの仕草をしてしまったのは、見知らぬ土地へ出向く不安と、彼が傍にいない事実からくる寂しさを紛らわせる為だった。
自分一人が知っていればいい意味を込めた、何気ない仕草。
その意味を、まるで見通しているとでもいうように、慶次は同じ仕草をして見せた。
『え…でも……思い違いかもしれないし…私の早とちりかもしれないし…。
慶次さんだもの、単に面白がってるだけかもしれないし…。 い、嫌だなぁ…変な思い込みだったら……恥ずかしいしね…』
赤面しながら悶々とするが二階まで戻ってくると、一連の出来事を二階から見ていたらしい竹中半兵衛とばっちり視線が合った。
「良かったじゃない〜。冷やし中華、上手く始められたみたいで」
「え”!?」
「慶次殿に限ってただの遊びであんなことするわけないでしょー」
知らぬ顔の半兵衛とはよく言ったもので、半兵衛は意味深に笑う。
その表情から、自分の想像は思い上がりでもなんでもなく、慶次の本心が現れているのだと知ったは喜びいっぱいの笑みを見せた。
「うんうん、嬉しいのは分かったからさ。ちゃん、少し落ち着こう? 動きが奇怪だよ?」
ロボットのようにぎくしゃくしながら席に着くを微笑まし気にからかう半兵衛の軽口は一日中続き、夕刻になって帰城した慶次に笑い飛ばされたことでようやく止まった。
「なんだい、あんた。羨ましいのかい? あんたも奥方にしてやりゃいいさ」
「ちぇ〜。ちゃんは初心だけど、慶次殿はこーれーだーかーらー」
「まーなァ、照れるような話でもねぇさ。なんせ俺だぜ? 初めっから分かり切ってたことだろ?」
「でーすーよーねー? だってよー? ちゃーん」
「も、もう! う、うるさいな! いいじゃん、もう! ほっといてよ〜!」
"遠い未来との約束---第七部"
了
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