聖女の腕(かいな)

 

 

「全部、何もかも、私のせいなのよ! 私は彼の人生をめちゃくちゃにした!!!」

「……さん……あんた、まさか…久秀を…?」

 どうか「そうではないと言ってくれ」とばかりに一縷の望みをかけて慶次は問う。
するとは己の顔を覆っていた掌を伸ばし、慶次の着物を強く掴んだ。

「違う……違うの、そんなんじゃないの………ただ、ただ……申し訳なくて……苦しいの…」

「どう違うっていうんだい?」

「久秀は、私が好きだったのよ」

 ああ、やはりか。
やはり、そうなのかと慶次の横顔に険が増す。
ただ自分を害していただけならばまだしも、今の経緯を知れば、女心に変化が訪れていてなんら不思議はない。
それは同情であり、贖罪でもある。
そしてそうした感情の高ぶりは、恋愛感情と非常に似通っている為に、履き違え易いものだ。
あの長い昏睡の時間が、の心に齎した影響はいかばかりのものかと、不安が募った。
 慶次の心配を察しているのか、が訴え続けた。

「本人もそう言ったけど…あれだけの事をされれば、私だって馬鹿じゃないから、彼の気持ちくらい分かる。
 だけど私は彼の思いに応えられない。応えられるはずがなかった…。
 だって……私には、もう心に決めた人がいたから」

 の独白を受けて、慶次の顔に射す険が多少なりとも緩んだ。
心の中に誰かがいることが明確になったことには多少驚きもした。
だが今は、悪逆非道と呼ばれた故人に惹かれていると明言されるよりはマシだと思ったのだろう。

「……それを…あのからくりは…知っていた……知った上で…利用して……彼を追い詰めた……!!」

 それでなのか。それでにすり寄ろうとしていたのに突然方針を変えたのかと、合点がいった。

「……だから彼は最後の賭けをした。
 全身全霊を傾けて、私を奪う。奪えなければ…その時は……自分の持つもの全てを私に継承させる。
 それも…世に私の事を"聖女"として認識させえる方法で……」

 徐々にの心の痛みが分かって来た。
慶次が「そうか」と独白し、背を撫でながら天を仰いだ。
 何と大きな愛だろう。
自分も包容力には自信があるが、そこまでの事を出来るか? と、問われると自信がない。

「彼は賭けに負けた。命を落として、この世を去った。
 だけど! 彼の掛けた保険は当たり前のように、何の問題もなく形を成した!!!
 私は力を手にして、今や天下人に一番近い女だと………聖女と、呼ばれるようになった……」

 感極まって来たのか、が叫ぶ。

「だけど!!!! 久秀さんは? 私の為に、苦しんで…傷ついていた彼はなんて言われてると思う?!」

「…それは…」

 言わずもがな、言葉を濁すしかない。

「……そうよ……代わりに、あの人は死後も……謗られてる…。
 今や日の本中の人が、彼の事を悪辣な簒奪者だと、信じ切ってる!!!
 ……私には、それが…悲しいの……苦しいの…」

 恋ではない、愛ではないと懸命に訴えながら、は泣き続ける。

「彼がしてくれた事の多くに、私は応える術を持たない。
 最後の最後に…会いに来てくれたのに……私、願いを聞き入れてあげられなかった」

「何を望まれた?」

「骨折りと…大義と…ただそれだけ、言ってくれればいいって…」

 再び、息を呑むしかなかった。

「ただ、笑っていてほしい……汚れることなく苦しむことなく、微笑んでいてくれれば…それでいいって……
 あれだけ犠牲を払った人が、それしか、望まなかったの!!
 それがどんなに、どんなに嬉しくて、重くて、苦しいことか……分かる?」

 涙に濡れた眼差しで慶次を見上げれば、彼は天から視線をへと移し、ゆっくりと頷いた。

「大き過ぎて、重たいね」

 瞼を閉じれば、大粒の涙が頬を伝い落ちた。

「皆が彼の所業を"悪鬼のようだ"と決めつけて詰る。
 本当はそうじゃない! と叫びたいのに、叫べない。
 私が何を言っても"優しすぎる"と言われて、久秀さんの望んだように神聖視されてゆくだけ…。
 彼の汚名を晴らそうとすればするほど、逆に彼の名は地に落ちる……」

「けどな、さん…あいつがした事は…」

「分かってる! 彼の選んだ道は、決して綺麗なものではなかった。謗られて当然と思われる事をしてもいた。
 だけど……彼は、幼い頃に……誑かされたの……操られていたのよ!!
 その事を、知っている人は……あまりにも…少なすぎる…」

 また頭を垂れて泣きだしたの事をしっかりと抱きとめて、慶次は問うた。 

「なぁ…さん、俺にどうしてほしい?」

 びくりとの体が震える。
脅えたような、傷ついたようなその強張り方に、慶次は慌てて言葉を付け加えた。

さんの思いは、良く分かった。
 だからね、今度はさんの望む事を知りたいんだ」

「望む…事…?」

「ああ。人は悲観し、嘆く生きモンだ。聖女だろうが悪鬼だろうが、例外はないさ。
 けどな、人が嘆くのは、願いが敵わない時だと相場は決まり切ってる。
 だから俺はさんの願いが知りたい。力になりたいのさ。
 なぁ、さん。さんは、今、何がしたい? 何が望みなんだい?」

 感情に翻弄されるだけだったは、慶次の問いかけを受けて、少しづつ溢れる感情を整理し始めた。
ゆっくりと時間をかけて考える。
それと同時に荒れていた呼吸が収まり、溢れていた涙の数が減った。
やがて、ぽそぽそと訴えた。

「……………久秀さんのこと…せめて……私の前では……悪く言わないでほしい………。
 誰か一人でもいいから……私と同じように……彼を悲しい人だと思ってほしい……。
 酷い人だと……言わないで……彼の道にも苦難はあったのだと…優しさもあったのだと…分かってほしい……」

「…分かった。そうしよう」

「慶次さ…」

 驚いて顔を上げれば、慶次は無理に笑って見せた。

さんの願いだ、それくらいならお安い御用だ。この前田慶次が、叶えてやるさ」

「どうして…? 納得、してないでしょう? 出来ない事、でしょう?
 皆、戦場ですごく苦しい思いさせられたはずなのに…」

 問えば慶次はぼりぼりと己の頭部を掻いて肩を竦めた。

「っていってもなぁ。武士が戦場で面倒な思いすんのは世の常だ。
 それが嫌なら武士なんかやめちまえばいい。

 俺は戦人・前田慶次だ。の護衛役を買っている以上、
 その事についてとやかく思ったことはないねぇ」

 大きな指先がの頬を拭う。

「それにな、あの御仁はもうこの世にはいない。
 この世にいないもんをとやかく言ったってしょうがないだろう」

 の唇がわなわなと震え、また眉が悲しみに歪められる。
慶次は慌ててに言った。

「ほら、さんも前に言ってたろう? 
 人の噂も七十五日。時が過ぎれば、風化するよ。こんなのは今だけだ」

「……本当、に…? そう…思う?」

「ああ。それよりも……さんが今しなきゃならない事は、別にあるさ」

 それは何かと視線で問いかけたに対し、慶次は優しく言った。

「笑う事だ」

「…?」

「久秀が、願ったんだろう? さんの為に人知れず尽力してた忠臣の願いを、さんが壊してどうするね?」

 その視点はなかったのか、が驚いて息を呑めば、慶次は相槌を打つ要領で頭をふった。

「ゆっくりと…ゆっくりとでいいから、奴さんが見たがっていた笑みを…さんは顔に湛えないとね。
 三途の川、安心してあいつは渡れないよ。
 死んだ後も、縛っちゃ駄目だぜ、さん」

 慶次の言葉を受けて、が声を振り絞った。

「…許して、くれると思う?」

「誰が? 久秀がかい?」

 こくこくと頷けば、慶次は苦笑した。

「怒ってないだろうさ。さんが思うより、奴の愛はでかくて深い。
 本気でキレて、恨みに思うなら…全身全霊を傾けて、さんを殺しにかかってきたはずだ。
 なにせそれだけの力を、あの御仁は持っていたからね。
 だがあの御仁はさんを殺せなかった、そうしようともしなかった。ただ眠らせただけだ。
 それがあの御仁の弱み、本心の全て…ってことだよ」

「本…心…」

「ああ。久秀は、さんに幸せになってほしかった、それだけだ」

「……そう、なの?」

 慶次は「なんで敵に塩を送らねばならないのかねぇ」と一人愚痴ながらも、はっきりといった。

「大人の恋だよ。独占する事ではなく、愛した人の幸せを願って、身を引ける。
 長い時間をかけた分、あの御仁のさんへの思いは円熟していたんだろうねぇ。
 さんには、まだ少し…早いかね?」

 暗に慶次は言っていた。
感謝してもいい、同情してもいい。
けれども彼のしたことを、彼の思いを理由に立ち止ってはならない。
辛くとも苦しくとも、自分を人知れぬ礎としようとも、歩み続けて真の幸せを手にしてほしい。
それが松永久秀がに対して願ったことであり、彼の真心なのだと。

さんの話のようにでかい愛はね、時として人の足を止めちまうもんさ。
 だがそれじゃ、死んだ奴が報われない。
 思いに答えたいと思うなら、今は辛くても歩くことだ。
 ちゃんと自分の足で立って、顔を上げて、まっすぐに歩き続けるしかないんだよ」

「歩く…こと…」

「ああ。歩き続けることで道が出来る。沢山歩いて、人生の終わりに振り返れば、
 その時初めて、その人生がいいもんだったのか、悪いもんだったかが分かる。

 立ち止まってちゃ、本当の答えは見えては来ない。そんなもんさ」

「進んでいいの? 私は、進み続けても…許されるの?」

「それを、他でもない久秀が望んだんだろ」

「!」

「思いを汲んでやりな」

 こくりとが小さく頷いた。

「じゃ、呑み直すか?」

「うん、呑む! 沢山、沢山呑んで、歌って踊って……三成に怒られて……それで…」

「それで?」

「復讐しようとして皆巻き込んで、何時もみたく失敗して、皆で笑う。
 その時の声が、久秀の元にも届くくらい、沢山沢山笑う!
 久秀の思いには、私は答えられないけれど……でも好きな人と自分なりの「幸せだったね」
 って言えるような、そんな人生を作っていけるように……頑張る!」

「その意気だ! さ、戻ろうか!」

「うん!!」

 自らの掌で涙を拭い、立ち上がって大きく伸びをした。
心に巣食う悲しみや残痕の念は未だ残っているのだろうが、そこにばかり囚われていてはいけない。
踏ん切りをつけようと、懸命に体を動かしたのだろう。
 それが傍目から見ていて分かるから、慶次はやるせないと僅かに眉を寄せた。
けれどもそれをに悟らせるつもりはないようだ、すぐに顔に柔らかい笑みを貼り付ける。

「さー、今日は呑むぞー!! 皆の事、新旧の将とか関係なく、酔いつぶしちゃうぞー!!」

 空元気で声を上げて、が歩き出した。
ふわりと艶やかな黒髪が夜風に靡く。
 歩き出したを見送り、慶次は言った。

「俺は後始末してから行くから、先にやっててくんな」

「え?」

 がふと振り返れば、慶次は自身が降ろした酒瓶と大地の上で割れて形を失っているどんぶりを指で示した。

「あ……ご、ごめん…折角持ってきてくれたのに…」

「なーに、気にしなさんな。片付けたらすぐに行くからね、先に始めててくれるかい?」

 にかっ! と笑われて、も納得したように頷く。

「うん、分かった」

 身を翻してとことこと歩きだして、ふと歩みを止める。
酒瓶を取り上げて、割れたどんぶりの破片はその場に足で埋めようとしていた慶次が気がついて目を見張る。
 するとは、一つ深呼吸をして、振り返らぬまま言った。

「……何時も、ごめんね……それと……慶次さんがいてくれて、本当に良かった。ありがとう…」

 それからすぐには小走りで城の中へと戻って行く。
きっと照れてでもいるのだろう。
城の中に戻ったの周りに、喧騒が集ったのを音で確認した慶次は、ふぅと一つ吐息を吐いて顔を上げた。
 それからゆっくりと踵を返し、中庭の木陰へと視線を移す。

「だ、そうだ。もうさんは大丈夫だろ。
 ところで、あんた方は納得出来たのかい?」

 慶次が声をかければ、建物の蔭からの重臣―――――左近、三成、幸村、孫市を筆頭に、降ったばかりの将―――――大谷吉継、小西行長、藤堂高虎が姿を現した。

「何時から気がついていた?」

「最初からだ。俺が声かけなきゃ、いずれ誰かが先に声かけたろ?」

「ま、否定はしませんねぇ」

 左近の返答を受け、慶次は再度問う。

「で、疑問は晴れたが、あんたらは納得できたのかい?」

「……納得などしていない。していないが…するより他なかろう」

 不満を隠さぬ三成の言葉に孫市が顔を顰める。

「なんだ」

「ばーか。気がつけよ、お前のそういう態度が、追い詰めてんだっての」

「…しかし……そう簡単に、納得などいかん…」

 恋慕の情もあり、彼はまだ若くもある。
そう易々と呑み込める話でもないかと、年長組―――――左近、慶次、孫市は同時に顔を顰めた。
やれやれと肩を竦めて、左近が取り成す。

「けどねぇ、殿。姫の言う通りですよ。久秀の姫への想いは、こうなっちまうともう疑う余地はありません」

 慶次も同感だとばかりに己の首を掻きながら頷いた。

「左近、正気か?」

 三成が驚いたように声を上げれば、左近は渋々と言った様子で答えた。

「正気も何も、揺るぎない現実がそう述べてるんですよ」

「現実? どういう事だ?」

「今のは、明智と対等に戦えるだけの財・兵力・肩書を持っている。それが全てです」

「!」

の歩みは確かに余所よりも速い。ここぞという時に限って、天意も味方してきた。
 だが現実的に巨大になり過ぎている北の大国を、俺達の歩みで倒せるかどうか? 
 …と問われると、それは不可能だ。物量的な差は、どう足掻いたって簡単に覆せるもんじゃありません」

 熟考させる時間を与えようと思ったのが、左近が一息吐く。
三成が小さく頭を振るのを待ち、彼の中で感情と理性とが折り合いをつけたのを確認してから先を続けた。

「ところがだ、一番の足枷となっていた部分がここにきて突然潰えた。それはなんでだと思いますか?
 一重に、松永久秀のお陰ですよ。奴が手段を選ばず、"その時"の為だけに準備をしてくれていたからだ。
 しかもその財を、八割方、あの戦いでは"戦果"として自然の成り行き宜しく継承した。
 悔しい話だが、全て奴の計算通りです」

 左近の指摘にぐうの音も出ないのか、三成は押し黙る。

「北条、台風被害に続いて毛利と戦った家では、明智と対峙するにはあまりにも脆弱…。
 時を稼ごうとも、その間に明智はさらに強大な力を身につけることでしょう。
 差は埋まるどころか開く可能性もあります。その心配が…なくなったなんて……」

「幸村…お前までが、そう思うのか」

「はい…否定したくとも、出来ません。
 彼は様の御名を少しも汚す事なく、天下人へ後一歩のところまで押し上げました。
 生半可な覚悟では、ここまで出来ない気がします。疑う余地はないのではないかと…」

 幸村が言い、

「今考えてみりゃ、千日戦争が決定打だったよなぁ」

 孫市が辟易するとばかりに顔を顰めれば、左近が相槌を打った。

「全くだ。世論も、俺達も、あれを同盟反故、簒奪と見た。実際その通りなわけだが。
 だがこうなってみると違う側面も出てくる」

「勿体を付けずにさっさと話せ」

「じゃ、遠慮なく」

 三成に詰め寄られた左近は指折りながら話し始めた。

 

 

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