真田幸村の胃潰瘍になりそうです

 

 

「おはようございます、幸村さん」

 溌剌な声で挨拶をしたのは、先日から彼の主君となったうら若き乙女だった。

「…お、おはよう…ございます……」

 目のやり場に困ると視線を逸らす幸村の前を、彼女は何事もなかったように通り過ぎようとする。
止めなくてはならない、諌めなくてはならない。
そうは思うものの、口下手な自分では何をどのように進言すればいいのかが分からない。
まだ知り合って日も浅い上に、女性に対して着衣の事を口にするなど、どうしたって気が引ける。
だとしてもこのまま野放しと言う訳にもゆくまい。
 幸村は一人で思い悩み、最終的にこうした事柄に向いていそうな左近に全てを擦り付けるべく、今昇って来たばかりの階段を駆け下りた。

さん……あんた、それ…」

 階下から左近を連れて戻った時、は天守閣に入る襖を一つ一つ、眺めていた。
そんなの背後に立つ慶次が、幸村同様の苦悶を顔に貼り付けている。
負け戦とて平然と引っくり返すあの慶次が、珍しい事もあったものだ。
左近は目を丸くしたが、次の瞬間には納得するした。

「…ん? あ、慶次さん、左近さん、おはようございます」

「え、ええ…おはようございます……ところで、姫…その姿は?」

「姿? あー、やっぱ変ですよね?」

 三人の視線を集めている事にはきちんと気がついていたようだ。苦笑いを顔に貼り付けた。

「実は着物って着たことないんですよ、私」

「「「ハイ?」」」

 少なくとも日の本の民と寸分違わぬ外見を持つ君主は、今何と言った?
天啓の導きに従い彼女に膝を折った家臣三人は同時に問い返した。

「いやー、私の時代では、着物はもう殆どなくてですね。一言で言っちゃうと高級品なわけです。
 正月とか、結婚式だとか、特別な時に、専門の人に着付けてもらうのが常でして」

「それで、その格好…?」

 こくりと頷いたは左近が用意してくれた橙の振袖を自己流アレンジで着ていた。
その姿たるや奇抜で、女版前田慶次と言っても過言ではないかもしれない。

「可愛いし、素人の私が見ても絶対にいい着物だって分かるんですけどね。
 着方が分からないし、似せて着ようにも、どの道型崩れしてくるのは目に見えてるし。
 かといって朝早くからこんな事で皆さんの手を煩わせる訳にもいかないので…。
 自分なりにアレンジして、勝手に着てみました」

「そ、そうですか」

 辛うじて答えた左近は小さく一人愚痴た。

「まぁ、現れた時の姿じゃなかっただけ、マシだな」

「あー、あれ? 流石にあれは着ませんねぇ。あれ水着ですから」

 地獄耳なのか、左近の独り言をさらりと掬い上げて、は笑う。

「水着?」

「ええ、避暑地で水遊びする時に着るんですよ。この時代の人からしたら、言語道断でしょうけど…。
 私の時代ではあれはまだ普通な方ですよ。もっと際どいデザインのものもありますし」

「でざいん?」

「えーと、なんって言ったら分かるかな……そう、製図というか、造形ですね」

 あれ以上に際どい造形が横行しているのかと、幸村は顔面を抑えた。
一体彼女の世界はどうなっているのだろうか。羞恥心という言葉はないのか。

「じゃ、その避暑地じゃみんなあんな格好なのかい?」

 慶次に聞かれて、は軽い相槌を打った。

「あれはビキニっていう種類でして。
 お腹とか腰周りを隠すようなワンピースっていう種類の水着もありますね」

「ほぅ〜」

「へぇ〜」

「何が、"ほぅ〜"で"へぇ〜"なんですか、お二人とも!!」

 感心するように相槌を打つ二人を恨みがましい視線で幸村が見やる。
二人は同時に苦笑して、を見やった。

「まぁ、着方が分からなかったんなら仕方がないですな。姫、誰か適当な女中を雇い入れるんで」

「あ、その必要ないですよ」

 いいかけた左近の言葉を遮って、はいう。

「お三方の内、誰かが教えてくれればそれでどうにかしますんで」

「ハイ?」

「あ、あの…様…? それは、どういう意味で…」

 冷や汗が流れ出ている幸村に対して、は平然と言った。

「だから、肌襦袢の上にどれを着ていったらいいのかとか、効率よく形よく着る方法とか、それと帯の絞め方とか、
 教えてもらえればなんとか自分で覚えますって言ってるんですけど…」

さん、本気で言ってんのかい?」

 慶次が巨躯を折り曲げての顔を覗き込めば、は少しも動じた様子はなかった。

「はい。だってうちの領地、今財政難なんでしょう? だったら無駄なお金使う訳にいかないし。
 お三方が女物の着物の着付けは知らないというのなら、仕方ないですけど……
 そういうわけでもないのなら…ねぇ?」

「ねぇ? と言われましても…」

 頭痛がし始めたと眉間を抑える幸村の横に立つ左近はが苦笑した。

「分かりました。じゃ、その件については左近がお教えしましょう」

「なっ!!」

「有り難うございます。じゃ、明日から早速お願いしますね」 

 にっこり笑顔のの目の前で、幸村が左近の肩を鷲掴みにした。

「左近殿、どういうおつもりですか」

「いや、仕方ないでしょうが」

「まぁ、待ちなよ、幸村」

「慶次殿」

「俺達が傍に控えてりゃ問題ないだろう」

「そ、それはそう…なのですが…」

 慶次の助言を受けて、多少クールダウンした幸村の脳髄を揺さぶる一言がから飛び出す。

「あー、それと……重ね重ね申し訳ないんですけど……。
 私、正座って苦手なんですよね。きっと十分もしないうちに足が痺れて倒れると思います。
 後、筆も子供の頃にやった習字以来、一切触っていないので…上手く書けずにご迷惑をかけると思いますが、
 覚悟して下さいね」

「え……ふ、筆を使ったことがない?」

「ええ、私の時代では」

「また高級品ですか?」

 左近の言葉には首を横に振った。

「いやいや、そうじゃなくて。舶来から入ってきた鉛筆とかボールペンとか万年筆とかが主流なんですよ。
 それから便利なからくりがありまして、殆ど手書きで物を書かなくなっちゃったんですよ」

「まさか!!」

「いや、本当、本当」

 は身振り手振りをつけつつ話す。

「こうね、パソコンっていうからくりがありまして。ボタンを押すと、言葉がからくりの中に記録されるんですね。
 で、そのからくりの中に記録された文字を必要な時に、そのからくりを使って紙に写すようになったもんで…」

「おおー、なんかそりゃまた大層だねぇ」

「なんだかそっちの方が面倒そうですけどねぇ」

 興味津々とばかりに左近と慶次が耳を傾ければ、幸村は「そうじゃないだろう!!」と眉を吊り上げた。

「慣れちゃうと手書きよりよっぽど早いんですよ。漢字変換とかもからくりが自動的にしてくれるし」

「一先ず、習字の事は結構です。ですが正座と言うのは…」

「私の部屋、子供の頃から和室じゃないんですよ」

 ざっくりと切られて、幸村は左近の肩へと額を預けてしまった。
そんな幸村を見ていると、少し可哀想になったようで、は自分の頬を掻いた。

「なんか、こんなのが君主ですみません、幸村さん」

「い、いえ…そんな事は」

 自分の動揺がを傷つけたのではないかと考えた幸村は顔を上げて懸命に取り繕った。

「わ、分かりました。正座はともかく、習字はこれから私がお教え致します」

「え、やっぱ…やんなきゃ、だめ?」

「はい!!」

 鼻息荒い幸村に多少たじろぐへ左近が言った。情熱だけが有り余る幸村への助け舟だった。

「ま、文字一つ書けないとなりゃ、他所に馬鹿にされるからねぇ」

「書けないんじゃなくて、下手なだけです」

 とは言ったものの、幸村の善意を無駄にする訳にもゆくまい。
は顔面にくっきりと「面倒なことは嫌だなぁ」という色を滲ませながら、幸村の善意を大人しく受け入れた。

「ところでな、さん」

「なんですか、慶次さん」

「あんたさっきから襖見て何してんだい?」

「ああ、これ?」

 が説明しようとしたところで、階下から上がってきた一人の男がへと声を掛けた。

「お話中失礼しますよ、目算が出ました」

「わ、有り難うございます。で、どれくらいに…?」

「そうですなぁ…このような形で如何でしょう?」

 男は城下に立ち寄った商人のようで、懐から大きなそろばんを取り出した。
パチパチと小気味のよい音を上げて珠を弾けば、が横から覗きこむ。

「うーん、そこをもうちょっと……こう…とかどうですか?」

 パチパチと珠を動かせば、商人は困ったような顔をする。

「いや〜、しかし痛みがありまして…」

「ですよねぇ……じゃ、屏風もつけると言う事で……これくらいは?」

「屏風もですか。でしたら、これで如何でしょう?」

 大幅に珠が動く。

「あ、その金額とっても素敵!! じゃ、これで成立という事で」

「おお、ようございました。有り難うございます、では早速」

「はい、お願いしますね!」

 場を辞した商人をにこやかな笑顔で見送って、それからは慶次を振り返った。

「お話の最中にごめんなさい、で、何でしたっけ?」

「いや、別にいいけどな。襖、なんで見てたんだい?」

「ああ、売ったんですよ、今の人に」

「へー、そうですかーって「「ちょっと待ったァァァァァァ!!!!!!」」」

 のり突っ込みが一名、他二名は完全な突込みだった。

「はい?」

「は、はい? ってちょっと、待って下さい!! 売った?! 襖をですか?!」

「ええ、売りましたけど…」

 全く動じていないを前に、左近は先程が見知らぬ男と交わしていた会話を思い返す。

「おいッ!! 屏風、さっき屏風もつけるとか言ってなかったか?!」

「ちょ、ちょっと、様!! 何していらっしゃるんですか?!」

 思わず幸村が両手での肩を抱いてがくがくと揺さぶれば、は平然としていた。

「何って……財政難だし、売れる物から売ろうと思って…」

「そもそもあの男は誰です!?」

 「信用の置ける者なのか?!」と、問いかけながら左近が進み出る。

「さぁ…? 朝方、布団を干してる時に「何でも買い取ります〜」って叫んでる所を掴まえただけですし……。
 でも、話してみたらマトモでしたよ?」

「布団を干した?! 自力で?!」

「ええ、干しません? こんなにいい天気だし?」

 会話を盗み聞く慶次が窓へと近付いて隣の窓枠を見やれば、確かにの私室の窓枠に布団が干されていた。

「そういう事は、ご自身の手ではなくてですね…」

「えー、別にそれくらい自分でやれますよ」

「そうではなくっ!!」

「待て、幸村さん。それよりも屏風と襖だ!!」

「は! そ、そうですね。とにかく、様、今の取引を早急に取り消して下さい!!」

「なんで?」

 がくがくと揺さぶられながら、が問えば、幸村は絶叫した。

「襖も屏風も、最終的にはご自身を守るものです!!
 おいそれと売ってよいものではありませんッ!!」

「へー、そうなんだ」

 初めて知ったとばかりに瞬きするの元へ、先程の商人の所に勤める小僧がやってくる。
小僧は何やら紙片を数舞持っていて、中身を確認して欲しいと訴えた。

「はいはい、これでいいです。有り難う。ねぇ、坊や。旦那さんに例の件お願いしておいてね」

 緊張しているのかぎこちない笑みで返事をして、小僧は引き上げる。

「今度は何だい?」

 興味深いと窓枠から戻ってきた慶次が、の手に残った紙片を覗きこんだ。

「ほぉ、米を買ったのか」

「ええ。備蓄米にしようと思って。
 朝方、ちらっと蔵を覗いたら、痛みかけたお米ばかりが残っててお話にならなかったし、

 何かあった時に使えそうなお薬も殆どなかったから…」

「屏風と襖を売って、米と薬か」

「ええ」

 満足な取引が出来たと、は笑った。

「本当はね、欄間とかも売り飛ばそうと考えてたんですよ。
 でもこれは柱と連動してるから無理だって言われちゃった」

様!!」

「はい?」

 幸村が顔を強張らせて進み出たところで、は何かに気がついたように己の口元を抑えた。

「このようなに勝手をされては困ります!!」

「あ、もしかして襖とか屏風って、国の物で勝手に売ったらまずかったですか?!」

「いや、領主になった以上姫の私物と判じて問題はないでしょう」

「なんだぁ…もう、驚かせないで下さいよ、幸村さんたっら。焦ったじゃないですか」

 ぽんぽんと幸村の肩を叩いてへらへら笑うに一言言ってやろうと息を吸い込めば、彼の背後から伸びた左近の手が幸村の口を塞いだ。

「まぁまぁ、お手並み拝見と行きましょう。俺達が押し付けたんだ。限界がきたら、手を入れればいい」

 「そんな…」と視線で訴えれば、左近は不敵に笑った。

「俺の殿より、姫はまだ可愛らしいものですよ」

 

 

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