真田幸村の胃潰瘍になりそうです

 

 

 翌日、城門の前に連なる人々を見下ろすへと、後方から左近が声を掛けた。

「…今度は何してんですか、姫」

「あ。左近さん、おはようございます」

「おはようございます。聞きましたよ、昨日もかなりの御活躍だったそうですな」

「そうでもないよ。呉服屋から抜け出して一回、その後で幸村さんにとっ捕まる前に一回。
 だから昨日は合計二回だけ」

「二回もやりゃ十分ですよ」

 冷や汗を流しながら答える左近に対して、は平然としたものだった。
左近は「やれやれ」と内心で息を吐いた。ほんの少しだけ幸村に同情したくなったのだ。

「根本的な功績は幸村さんのお陰だって事になってんでしょ?」

「ええ、噂の広がりとしてはね」

「だろうと思った。狙った通りだわ。良かった良かった」

 にかっ! と笑ったに対して、左近は苦笑して見せる。

「まぁ、そのお陰か、幸村さんを始め警吏の連中は休む暇もなくあちこち駆け回ってますよ。昨日は徹夜だったとか」

「あらら、やり過ぎちゃった?!」

「ま、正常な形に戻りつつあるって事でよしとしましょ。して、本当のところ今日は何をしておいでで?」

「んー、備蓄米の配布」

「はぁ…配布、ですか」

「うん。痛んでる…って言っても、今食べる分にはどうにかなりそうだったからね、お粥にして炊き出してんの」

 の言葉通り、城の門扉には茶碗や鍋を持った民が作った行列があった。

「やっぱりこういう事は慶次さんに任せるに限るわね〜。顔が広いから大助かり」

 言葉通り、炊き出しに駆りだされた兵と、城下で細々と店を構えている飯店の者の監督には慶次が当たっていた。
古米で作った粥を配布する列の傍へとが降りてゆく。

「慶次さん」

「お、さんか。おはようさん」

「おはようございます、慶次さん」

 高い地位にあるはずのあの慶次と、対等に話すの姿に、列に並ぶ民が視線を送る。
見定めるような、畏怖するような視線の中に、の羽織る着物への羨望が混ざる。
それに気がついたが視線を民へと流した。

「しっかり食べて、しっかり畑耕して下さいね。近々、年貢を見直しますので」

 声を掛けられた農民は、皆目を丸くして、互いに視線を合わせた。

「ちょ、姫! そんな簡単な口約束を…」

「だって、払えもしない額の年貢なんか課したって仕方ないでしょう。
 町だってこんなに寂れてるし。もっと収入と支出の均等をきちんと考えないと、赤字国家のままですよ?」

「まぁ、そりゃそうなんだが…」

 言葉を濁した左近の視線はの胸元へ流れる。
自分で送っておいてなんだが、それだけ仕立てのいい着物を身に纏っていては、何を言っても反感しか買わないのではないかと、心配したようだ。
 だがは能天気に見えるが敏い面もあるようで、すぐにそれを汲み取り言った。

「あ、もしかして…これ? これは、だめですよ。
 だってこれ、左近さんがわざわざ自分のお金で買ってくれたんじゃないですか。
 私が着る物何一つ持ってないから、って。まぁ、くれた左近さん自身が売っていいって言ってくれるなら、
 売ってもうちょっと地味で軽くて動き易い服を買いますけど」

「…姫…」

 唖然とする左近の横で慶次が豪快に笑う。
先頭で三人のやり取りを聞いていた農夫は、鍋一杯に入れられた粥を大事そうに抱えながら、自分の住む村へと引き上げて行った。
 彼らは帰り際、何度か城を見上げて、そしてその場に立つ新たな君主を眺めた。
その目は何かを期待する一方で、まだ迷いを含んでいた。

「あったけぇな」

 腹に触れる鍋の熱さに、自然と言葉が漏れた。
そこで農夫は気がついたように口の端を緩めた。

 

 

 それから数日後、城の門扉の前は押し寄せた農夫でごった返していた。
何が起きたのかと左近が出てゆけば、門扉の前には先日の炊き出しで粥を得た民ばかりだった。
彼らは皆、手に米や五穀の入った袋を抱えていた。
 目を瞬かせた左近へ、押し寄せた民は言う。

「前の殿様は、酷い人だった。搾取するばかりで、わしらを顧みてはくれねぇ。
 だから米はこっそり他所へ売ってただ」

「ハァ!?」

 そんな裏事情があったのかと左近が驚きを声に出せば、民は一瞬脅えて、その場で土下座した。

「ゆ、許してくだせぇ」

「いや、まぁ…俺らは新参者だからねぇ…昔の話を蒸し返してまで咎めるつもりはないが…」

 城門の前での出来事ともなれば、対面もあるからそのままというわけにもいかない。
左近は膝をついた民を慌てて立たせた。
 一先ずは事情聴取がセオリーだろう。一体何がどうして、どうなって、この結果になったのか。
そこが知りたくて問いかければ、民は口々に言った。

「新しい君主様は変わり者だ。だども、いいお人だ」

「わしら、米は作るが食ったことはねぇ。けど、昨日…初めて食っただ」

「そうだ、そうだ! あんな風に分けて下さった方は初めてだ」

 訴える民の中には例の悪徳警吏殴打事件の現場に居合わせた者もいたようで、熱弁を奮い続けた。

「あん時は気がつかなかったが、わざわざ一番偉いお侍さま連れて来て、虐げられてるわしらを助けてくれただ」

「そうじゃ、そうじゃ。こんな事、初めてじゃ」

「あん人なら、きっといい政をしてくれる」

「元はわしらの土地じゃ。わしらが気張らねばならんはずじゃ」

「わしらをあれだけ気にかけてくれてるのに、着物までなくて、家臣の方が用意するなんて……申し訳がたたねぇ」

 微妙に誤解があるようだが、好意的に思ってもらえるならそれに越した事はない。
左近は「そうかい」と相槌を打ってから笑い、すぐに門兵に言いつけて開門した。
自ら陣頭に立って持ち込まれた年貢米を検分するつもりのようだ。

「ちょっ、様ッ!! 何をなさってるんですかッ!!」

「え…? だから、布団を干そうと思って…」

「ですから、そのような事は我々がしますと申し上げてるでしょう!!」

 階上から聞こえてくるのは変わった価値観を持つ君主と、そんな君主に振り回される幸村の声。
昨日まではどちらかと言えば幸村寄りの価値観で眺めて、苦笑していた。

『いや〜、これはもしかすると……なかなかどうしていい主君になるかもしれないな』

 けれども自分に集中する民の視線を見て、集まってきた兵糧を前にすれば実感せざる得ない。
彼女には自覚がないだけで充分な将器が備わっているのだと。

「けどなぁ…襖は流石に……参るぜ」

「まー、そう気にしなさんな」

 左近の独白に横から茶々を入れたのは慶次だった。
左近は立ち止まって声のする方を見上げた。
彼に倣うように、彼の後方で農民達が米俵を抱えて立ち止まり視線を移す。
左近は蔵を預かる少数の兵に言って、農民を並ばせて検分する為の準備にとりかからせた。
農民と兵士が動き出し、自分達と多少の距離が出来たことを確認する。
その上で慶次へと向きなおれば、慶次は天井を見上げて顎を擦った。

「あれでなかなかキレるぞ、あのお嬢さんは」

「確証があるんですかい?」

「ああ、襖の件、聞いてみたんだがよ」

 無言で先を促せば、慶次は口の端を歪めた。笑いが堪えられないという様子だった。

「今のこの土地を欲しがる君主はどこにもいないとさ。赤字塗れで疲弊した土地なんぞ、誰が欲しがる?
 自分なら立て直す者が現れるまで待つか、相応の権力を手に入れた時に厄介払いしたい将兵を送り込むとさ」

 慶次の言葉を聞いて左近は目を丸くした。

「それをあの人が言ったんですかい?」

「ああ。すげぇだろ?」

 天井に向けていた視線を降ろせば左近と慶次の視線が重なった。二人は同時に笑った。

「参ったね、こりゃ…」

「女だてらにえらい回転が早い御仁だよ、ありゃ」

 そこで言葉を区切って、慶次はぽりぽりと頭を掻いた。

「覚悟した方がいいかもしれないねぇ。じきに幸村だけじゃなく、俺らも手を焼くようになるぜ」

 半信半疑だと表情は訴えているが、声色は真剣そのものだった。
慶次の発言を受けた左近は、しみじみと言う。

「もしかしたら、俺らは過ぎたる者を手にしたのかもしれませんなぁ」

「その様子じゃ、お前さんも何か得たね?」

「…先日の、炊き出しの件ですよ」

「ああ、あれか。あれがどうかしたかい?」

「普通なら、悪くなっていようと商店に売り捌くところだ。
 ところが姫は二束三文にしかならないのであれば、困窮する民へ振舞えと考えた。でしょう?」

「ああ、違いない」

 から直々に指示を受けていた慶次が、その時の様子を思い返し相槌を打つ。

「その結果が、あれですよ」

 左近が親指で自身の背を示せば、持ち込まれた年貢米の軽量準備に追われる兵士と民の姿がある。
慶次が理解が及ばないと顔を顰めれば、当然かと左近の表情が語った。

「ここの連中は前の主君が信じられないとかで、勝手に他所に売ってたそうでね」

「へぇ…そんな裏があったのかい。で、それがどういう風の吹き回しだい?」

「連中、あの粥にいたく感じ入ったようでね。こっちに改めて持ってきた」

「ほぉ〜。無欲の勝利ってやつかねぇ」

「違いない…だが、素人が刻んだ始めの一歩としちゃ、随分と大きな一歩だ」

 と、そこで突然階上から大きな物音が上がった。
二人は会話を止めて耳を傾ける。

「ちょ、幸村さん!! そんなに引っ張らないで下さいよ、危ないですってば!!」

「ですから、そのような事は我々が致しますから…手を放して下さい!! 様!!」

「やれやれ…本当に、懲りない御仁だねぇ」

 慶次が身を翻せば、左近もまた身を翻した。

「俺はこっちを引き受けますよ、そっちは頼みますぜ」

「おうさ、またな」

 

 

「全く…幸村さんってば頭が固すぎますよ!
 こんなん誰がやったって一緒なんだから、その時に手が空いている人かやればそれでいいじゃないですか」

「よくはありませぬ!! かような仕事、主君自らする事ではありません」

「ええ、まぁ、仰る通りだとは思うんですけど…。
 でもまだうちの国、人員もいないし雇うお金もない訳ですから、当面は皆で分担しないといけないと思う訳ですよ」

「そのご意志には異はございませぬ」

「だったら、なんで?!」

 左近と別れてすぐに階上へと訪れてみれば、案の定、と幸村が下らない事で揉めていた。

「どうでもいいがね、二人して布団掴んで顔を突き合わせて何やってんだい?」

「あ、慶次さん」

「慶次殿!!」

「もう助けて下さいよ!!」

「慶次殿も言って下さい!!」

 仲裁役を買って出るように声を掛ければ、二人同時に自分のことを見上げる。
ほんの一瞬だが、この二人の中に似通った何かがあるように思った。
ただそこを口にすると、更に面倒に発展するような気がする。
慶次は敢えて言葉を呑んで、二人の言葉に耳を傾けた。

「手が空いてたし、お天気もいいからお布団干してたんですよ。
 なのに幸村さんってばだめだっていうんです。君主はそういうことしないで、天守閣でどーんと構えてなさいって。
 それってなんだか時間の無駄だと思いません?」

「お考えはご尤もございます、ですが君主自らそのような事にまで手を出されては、威厳がなくなります!!
 ご自身だけならまだしも、家臣の布団まで干すなんて!!」

「そうは言いますけど、威厳だけじゃご飯は食べれません!!
 それに私、ただの雇われ君主みたいなもんですよ? なんの血統もありませんし。
 今更威厳とか言われても困るんですけど」

「ですから、そこは日々の努力でですね…」

「あー、待て待て」

 また言い合いになりそうな二人の間に割って入り、問題になっている布団を担ぎ上げた。

「幸村、当面大目にみてやんなよ。さんのいう通り、今領には財政に余裕がない。
 って事は、人手を増やす時は慎重にならざる得ない。落ち着くまでは各自分担、それでいいじゃないか。
 ずっとこうじゃないんだからな」

 そこで慶次は幸村からへと視線を移した。

さんだってある程度余裕が出てきたらこういう事はちゃんと人に任せるんだろう?」

 慶次の言葉には素直に頷く。
慶次は再び幸村へと視線を移した。

「なら、早い話、人を雇えるだけの建て直しを急ぎゃいいのさ」

「ぐ……分かりました、今は折れましょう。しかし様、本当に本当に、布団干しだけは勘弁して下さい」

 眉を八の字に曲げて、幸村は切々と訴えた。

「重さに負けて、また天守閣の屋根に落ちかけたりしたらどうするおつもりですか!!」

「あんた、そんな事になってたのかい?!」

 初めて耳にした現実に慶次が目を丸くした。
慶次から飛んできた視線に、は瞬時に反応する。
は気恥ずかしそうに顔を背けて唇を尖らせた。

「…あ、あれは突風によろめいたのであって…何時もあんなに間抜けな訳では…」

「間抜けかどうかを伺っている訳ではありません!
 現実としてまた落ち掛けられては大惨事だと申し上げているのです。あの時は私が居合わせたからよかったものの…
 お一人の時にああなったら一体どうなさるおつもりだったのですか!!

 宜しいですか、様。様に何かあれば皆が惑います。
 御身は一つ、様の代わりはこの世にはないのですから…どうか自重して下さい」

「はい…すみません…以後気をつけます」

 ようやく理解してくれたのかと、幸村が安堵の息を吐くよりも早く、は言った。

「今後布団を干す時は、天守閣の窓は止めて、二の丸から出れる中庭にするね」

「ですから!! そういう話ではございませぬっ!!」

 虚脱感に塗れた絶叫をする幸村を見て、慶次は豪快に笑う。その声に更に疲労が募った。
笑い事では済まない話なのにどうしてこうも能天気な人が多いのだろうか。
一緒に諌めてくれねば困るのに、目の前の大男は豪快に笑うばかりで役には立たない。
もう一人の同僚は朝から姿が見えず、ここぞという時にやっぱり役に立ってはくれない。
そして原因を作り出している能天気な君主はというと…

「布団といい、襖の事といい、幸村さんってすごく根が真面目なのね。でもさ、それって疲れない?
 もっとさ、気楽にまったりのんびり着実に小さなことからコツコツやって行こうよ、ね?」

「ね? って…様……」

「ほら、またそんな思い詰めた顔をする……。笑顔、笑顔。"笑う角には福来る"ってね?
 もー、本当心配だなぁ……幸村さん、何時もそんなだとその内胃に穴があくよ? 気をつけないと」

 ご覧の通り、危機感もなければ自覚もない。

『一体、誰のせいですか!! 誰の!! 全ては貴方ですよ、様!!
 嗚呼!! お館様………どうか、どうか私に力を下さい!!
 この方を立派な主として立たせるだけの力を!!』

 眉間を抑える幸村の苦悩を知ってから知らずか、の顔には穏やかな微笑み。
その笑みを前にしては声を張り上げて意見する事など出来なくて、幸村はがっくりと項垂れた。
そんな幸村の心情を察しているからこそ、止まらないらしい。慶次は延々と横で笑い続けていた。
彼の安息は、まだまだ遠そうだ。

 

 

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頑張れ、幸村。負けるな、幸村。その心労は三成が来るまでの辛抱だ!!(08.05.10.up)