前田慶次の勝てない人

 

 

 自然と薄笑いが口元に浮かび、その瞬間を思い描くように舌舐めずりすらしていた。
三度、の背が嫌悪と恐怖で震えた。

『楽しいねぇ』

 掌中に捉えた獲物を追い詰めていく感覚。
欲しいものを手に入れる瞬間を思い描く時の高揚……久々だ。
に膝を折ってからというもの、味わう事の無かった感覚だ。

『やっぱ、俺はこうでないといけないねぇ』

 天下御免の傾奇者と、人は慶次を呼ぶ。
だが、彼にはもう一つの呼び名がある。"戦人・前田慶次"。
 戦場において命をやり取りする感覚は、慶次にとっては狩りに近い。
徳川の守護神と呼ばれる本多忠勝と見える時以外、真剣に、互角に勝負できた試しがないのだから無理もない。
 だがそんな慶次の牙は、万年平和ボケしている博愛主義の君主の下では、光り輝くことがない。
ならば、この牙を愛しい君主の身に突き立ててみるのも悪くない。
 に毛嫌いされる事を恐れて、泣かせるのが嫌で、敢えて眠らせていた野生。
それを包み隠すことを止めて、慶次はの背へと迫る。

「もう、やだぁ!! なんなのよっ!!」

 堪りかねたのか小さな悲鳴を上げた。
それすら、心地よいと思えた。
 何時も傍らにあった小さな背中は、慶次の腕をするりと躱して曲がり角の奥へと消える。

『構わないさ…そのまま逃げた所で…結果は同じ。
 仮に城に逃げたとしても、もう逃がさない。逃がすつもりはない。
 立ちはだかる者は尽く目の前で屠って、絶望を胸に刻む。
 その上で…俺だけのものにする』

 その瞬間、がどんな反応をするのかを思い描き、慶次は再び目を細めて薄く笑った。
それと同時に、曲がり角の先に消えたの声を聞いた。

「っ! あ、ごめんなさ…って、兼続さん!!」

「ム? これは失礼した。大丈夫だろうか、お嬢さ………我が君ではないか!? 
 どうされた? そのような顔をされて…」

「そ、それが…」

 大方出会い頭に衝突したのだろう。
互いに謝罪から始まって、その後事情説明となったようだ。
俄かに震えを纏っていたの声が、心強い配下の一人に出会えた事で安堵を得て落ち着きを取り戻す。
それがまた慶次には面白くない。
 と、同時に。
まず最初の血祭りに兼続を上げたら、はどんな顔をするのだろうか? と、思い描く自分がいることに驚く。

『参ったね……俺はそこまであの人に狂ってるって事か……』

 "義を見てせざるは勇無きなり"を絵に描いたような暑苦しい男だ。
事情を聞いて我関せずを貫くはずもない。
遅かれ早かれ姿を見せるのは目に見えて分かっている。
ならば…とばかりに慶次は足を止めて、兼続の登場を待った。
程無く、予想通りの険しい顔をした兼続が曲がり角の向こう側から現れる。

「慶次?!」

 の話を聞いた兼続はどこの不届き者の仕業かと怒り心頭という様子だったが、原因が誰なのかを悟ると、次の瞬間には息を呑み目を見張った。

「よぉ」

 兼続が視線で投げかけた問いかけを、慶次はふてぶてしい態度で肯定する。
無言のままでいた兼続は、慶次の思いの所在を知りえているだけに、当然の成り行きだと溜息を吐いた。
見て、知ってしまった以上、間に入らないわけにはゆかない。
だが果たして眼前の形振り構わなくなっている男に言葉は通じるものだろうかと思案している様子だ。

『いや…どうにかせねばなるまい…か弱き我が君の貞操の危機でもあるのだ…』

『足掻いたって無駄さ。あんたらじゃ、俺は止められない』

 二人の沈黙が作り出した膠着状態。
それを崩したのは慶次・兼続、双方の予想を超えた人だった。

「慶次さん!? そこにいるのっ?!」

 小道の影に逃げ込んでいたはずのの声がする。
自分の背後から飛び出してきたに向けて、兼続が慌てて手を伸ばした。
 一歩早く駆け出していたは、兼続の腕を擦り抜けて、そのまま一直線に慶次の元へと駆け寄って行く。
己の体にくっついてきたを、慶次は色のない眼差しで見降ろした。
兼続は、まずいことになったと息を詰める。
 次の瞬間、は慶次に対して怒鳴りつけた。

「もうっ、慶次さんのバカァ!! 今までどこに行ってたのよ!!
 凄く、凄ーーーく、探したんだからね!! 慶次さんがいなくなってからというもの、三成は煩いし、
 街に降りてみたら変な視線感じるようになっちゃったし、三成は煩いし、変な視線にずーっと追いかけられるし、
 三成は鬱陶しいし、逃げても逃げても変な気配が追いかけてくるし!! 三成がムカつくし!!」

殿。大半が三成への悪態のようだが?」

 全身全霊を込めて、絶叫するの姿に、兼続は思わず突っ込んだ。

「だって本当にムカつくんだもん!! でも、今はそれより変質者よ!!
 あの変態忍者かと最初は思ったけど、全然気配が違って…すごく、すごく怖くて……」

 そこで顔を上げたの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。

「逃げても、逃げても…逃げ切れるものじゃない感じがして……」

 そこでは再び慶次の腰回りに顔を埋めた。

「……怖かった…本当に、凄く凄く、怖くて……早く…慶次さんの所に行かなくちゃって…思ったのに…
 足は思うように動かないし…、慶次さんの事探しても…全然見つからなくて…。
 …このまま…………捕まったら……私、一体何されるんだろう? って……怖くて……仕方がなかった……」

「……俺を……探した?」

 慶次が問う。
動揺が現れているのか、声が微かに擦れていた。

「…俺を探していた…って、そういうのかい?」

「当たり前じゃない!! 慶次さん、私の護衛でしょ?! 今の今までどこで何してたのよ!!
 息抜きはいいけど、大事な時にいてくれないと……困る!!」

 顔を上げて一喝したかと思えば、また再び縋りついた。
慶次の声を聞き、手に触れた事で抱えていた緊張が一気に解放へと動いたのだろう。
は子供のようにわんわんと声を上げて泣きじゃくり始めた。

「大体ね、こんな世界で慶次さん以外誰がいるの? 私の事、ちゃんと見ててくれる人。
 私の価値観とか馬鹿にしないで聞いてくれて、認めてくれて、"悪くないね"って言ってくれる人なんか……
 他にはいないのに……。慶次さんがいなくなったら……私は、一体どうしたらいいのよ?!
 本当に、独りぼっちになっちゃうじゃない!!」

 の絶叫を聞いた慶次の目から険が剥がれ落ちて行く。

「そうか…そうだったねぇ…」

 徐に腰を落とした慶次に背を撫でられた。
そこでは慶次の首に両手を回して、強く強く彼を抱きしめた。

「どこで何してたのよ……怖かったの…すごく…不安で…」

「…ごめんよ、さん。不安にさせて……本当に、ごめんよ…」

「慶次さんに早く会わなくちゃ…って思うのに…全然距離が縮まらない気がして………もうだめだって…思って……」

さん…本当に、ごめんよ」

 抱き返し、折り曲げた己の足の上にを座らせて、溢れる涙をいかつい指で拭う。

「もうどこにも行かないって約束してくれる?」

「ああ、勿論だ。俺は何時までもあんたの傍にいるよ」

「本当? もう勝手にいなくならない? 傍でちゃんと護ってくれる?」

「ああ、ああ。約束するよ。もう離れない」

 愛しい人に泣かれ続けるのは心底胸が痛むようで、慶次は機嫌取りに必死になり始める。
そんな二人の様を傍目から見ていた兼続は、小さく溜息を吐いた。
対峙した時に見た慶次は、逆毛を立てていきり立っていた獰猛な虎、そのもので。
それが今となってはどうだろう。
逆立っていた耳も尻尾も垂れて、借りて来た猫のようだ。

「うー…慶次さん、フリーダムだから今イチ信じられない」

「困ったねぇ」

 そういう慶次の顔は晴れやかにへらへらとしていて、

「今だってへらへら笑ってるし」

「いやー、そうは言われてもねー。どうしたら機嫌直してくれるかねぇ〜」

 声も軽い。

「今日はずっと、ずっと傍にいてくれる?」

「ああ、ああ、構わないよ。俺はさんの護人だからね。
 なんだったら一緒に今夜は寝るかい? 終始一緒なら不安はないだろう?」

「…う……で、でも……」

 迷いあぐねるの視線が、眉を下げて笑いを堪えている兼続の姿を捉えた。

「……そうだ、そうしよう…」

 兼続・慶次が目を瞬かせた後、は再び彼らの度肝を抜くような事を言い出した。

 

 

「で。なんでこうなる?」

 全身から怒りのオーラを迸らせる三成の周囲で、幸村を始め長政達が布団を敷くのに躍起になっていた。
評議場の机を片付けて、敷けるだけの布団を辺り一面に敷き詰めている。

「仕方ないだろう。我が君が脅えているのだ」

「嫌ならあんたは別に参加しなきゃいいだろ?」

 軽快な調子で受け答えする慶次用の特注布団の上には、既に夜着に身を包んで転がっているの姿がある。

「………………問題なのは、貴様のような男と同衾していることだ。間違いがあったらどうする?」

「そうならないように、皆を誘ったんじゃん」

 慶次の腕枕に頭を預けるの言葉にイラっときたのか、無言で三成が扇を広げれば、慌てて兼続が割って入った。

「まぁ、待て。三成」

「なんのつもりだ、兼続」

 文句を言いつつも、ちゃっかりの頭上に横敷きにされた布団に陣取っている三成。
彼を立たせて、部屋の隅へと移動しながら、兼続は言った。

「こうでもしなければ、真の脅威からは我が君を護れぬのだ。眠れる虎を無暗に起こしてくれるな」

「はぁ?」

 ちらりと視線だけで慶次を示し、兼続は言う。

「虎は飼い主に懐かれてこそ大人しくしていられるのだ。下手に距離を置かせると藪蛇になる」

「………不快だ」

 兼続の言わんとしている事を悟った左近が「ははぁん」と相槌を打つ。
それと時を同じくして、よく分かっているようで全く分かっていないらしいの声が、の隣の布団から上がった。因みに呑気な彼女、既に夫の腕の中だ。

「これが様の世界にある修学旅行なのですね〜」

「ん…似たような…もの…かなぁ……本当は、怪談とか、枕投げとかもするんだけ……ど…」

 言い終わる前に、は眠りの世界へ意識を落としてゆく。
大方背に感じる慶次の温もりに安堵を覚えて気が抜けたのだろう。
 程無くスースーと規則的な寝息を立てて眠り始めたの寝顔はとても愛らしいもので。
誰しもが目を細めて温かく見守りたくなる。

「本当に、可愛いねぇ…。食っちまいたくなるね」

「ほぅ」

「へぇ」

「…そうですか…」

 慶次の言葉に、周囲を固めていた三成・左近・幸村の背に灼熱の炎が巻き上がったように見えたのは気のせいではあるまい。

「くっ…胃…胃に…穴が開きそうです……」

「この空気の中では…今夜はなかなか寝られそうにありませんなぁ…」

「…そのようじゃ…」

 一方でこの無茶苦茶な催しに巻き込まれた者達は緊迫した空気に脅えて部屋の隅に敷かれた布団の中で呻いている。
彼らの苦悩がそのまま表れた言葉を肯定するように、が動いた。
夢の中にいるはずなのに、突然寝返りを打つと、そのまま慶次の懐へと縋りつくように潜りこんだのだ。

「…!!」

 室内に蔓延る凶悪な空気が密度を増した。

「う、うぅ…」

 布団と慶次の腕の中に潜っても息苦しいようで、が呻く。
でこの調子だ。ということは、当然部屋の隅で縮こまっている外野勢の胃は、相当大変な事になっている。

『やれやれ、仕方ないねぇ』

 慶次が一度瞬きをして、を包み込むように抱き締めた。
瞬間、慶次とを取り巻くように張り巡らされた緊縛した空気が打ち消された。
に勘付かれないように己の気性を巧みに操る彼は、三成・左近・幸村が醸し出した殺気を、己の放つ闘気で打ち払ったのだ。

「んvv」

 悪意として、愛憎としてあの気迫を向けられては、堪ったものではない。
だがそれが自分を越えて、仇なす者へと向けられるとすれば話は変わってくる。
慶次の腕の中で寝息を湛えているの顔には自然と安堵の笑み満ちた。

「くっ…」

「ギリギリギリ」

「殿、綺麗な顔して歯軋りとか、しないで下さいよ」

「そういうお前も目が据わっているが」

 恋敵達の苦悩も、背筋も寒くなるような視線も物ともせずに、慶次は口の端だけで笑う。
彼は己の掌中に収まった姫の姿に満足したのか、一つ欠伸を漏らすとそのまま己も眠りの世界へと身を委ねた。

 

 

 "虎"は本来狩りをする生き物だ。
だが狩られる対象が無償の愛を注ぎたくなるような愛らしさを秘めていた場合はどうだろう?
研ぎ澄ました牙も、背筋が凍るような悪意も…湧き上がる愛玩衝動の前では形無しだ。

『まぁ……それでいいかね……』

 あの時、身に差し迫った恐怖から逃れる為に彼女が取った行動。
それは慶次が欲していた答え以上のものだった。
忘れてはくれるなと渇望し、焦っていたが、蓋を開けてみれば簡単な事で。
はきちんと、慶次以外には自分を護れる者はいないと知っていた。
それ故に、恐怖に身を晒し、脅えながらも懸命に、自分の姿を求めて駆けずり回っていた。

『蔑にされていた。想いは移り変わっていた。
 いや、違うねぇ。これは全て錯覚。悪い自己暗示さ』

 は誰が膝を折ろうと変わる事はない。
ありのままで今日も明日も生きて行く。
そしてそんなの価値観を、何の疑問も持たずに肯定しているからこそ、は慶次を求めて止まないのだ。
そうと知れば、今更誰に嫉妬し焦ることもない。

『天下御免の戦人・前田慶次もには敵わない…か。その通りだねぇ』

 "戦人"と、人は自分の事を呼ぶ。
けれどもの築く治世の下では、真の力を発揮する事はなかなか叶わない。
だとしても、それはそれでいいのかもしれないと、自ら眠りにつく道を選んだ"虎"は人知れず笑った。

 

 

- 目次
慶次さんにだってきっと暗黒面はあるはず。でも彼女はそれすらも無意識に懐柔できるはず。(09.06.20.)