仕方がない。
"狐"とは本来人を誑かすもの。
無垢な彼女が彼の話術に欺かれ、心奪われたとしても、それは仕方がない。
頭で理解する事は簡単だ。だが心は、そう簡単には追いつかない。
飼い慣らされた犬のように、従順に、忠実に。
平伏していれたら良かったのだろうが、生憎そういう気性じゃない。
彼女にとって都合のいいように振舞い、言の葉を紡ぎ、合せてしまう事は簡単だ。
だがそうして何もかもを許容し続けてしまったら…自分自身の思いの行き着く先はどこになる?
"虎"とは本来、その牙で狩りをするもの。
飼い慣らされ、眠り続けるようなものではない。
ならば、本来の姿に戻ろう。昔のように狩りをしよう。
獲物は既に我が掌中。
後は牙を剥くだけなのだから。
「……そろそろ目覚める時が来たのかもしれないねぇ」
松風の背に横たわり、まどろんでいた慶次が瞼を開いて一人ごちた。
松風の背から見上げた空は爽快感を醸す快晴。
この晴れ渡る空を多くの人が、心地よいものとして享受している事だろう。
民は田畑を耕し、商人は商いに精を出し、武士は鍛錬に勤しむ。
小さな領土とはいえ、領は泰平だ。
そんな天の下、つまらなさそうな顔をした男が一人だけいた。天下御免の傾奇者・前田慶次だ。
今の彼には、この空の青さも、色を失って見えているのかもしれない。彼の横顔が、それを雄弁に物語っている。
君主とするに膝を折ってからというもの、彼はどことなくだが変わった。
少なくとも以前の彼を知る人々の目には、そう映っていた。
『さん、美味いかい?』
『んー、美味しい〜。これ、特産品にならないかなー』
『そうだねぇ、考えてみてもいいかもしれないねぇ』
昼夜を問わず一人の女の傍にいて、
『ぎゃー!! ゲリラ豪雨ー!! この時代にもこんな雨があるなんてー!!』
『ほら、俺の外套の中入りな。少しはマシになる』
『でも、でも、それじゃ慶次さんが…… 』
『何、そこの軒下までだよ。ほら、早くしないと風邪をひくよ』
『うん…ごめんね、慶次さん。有り難う〜』
『気にしなさんな』
時に彼女の太陽となり、時に夜露を凌ぐ壁となり見守り続けている。
『慶次さん、濡れちゃってない?』
『俺は平気だよ。さんの方こそ、大丈夫かい?』
『うん、私は慶次さんのお陰で全然平気』
『そうかい、なら良かった』
あの根なし草の風来坊が、街で過ごす事もなく、日がな一日窮屈で、面倒で、退屈な城仕え。
護衛として召し抱えられている以上、それらは至極当然なお話。
けれども慶次本来の気性を知る者達からしたら、その"当然"を文句も言わずに全うしていること自体が異様な光景だ。
慶次を召し抱えたの姫も、各地に割拠する君主と違い大層な変わり者だ。
変わり者同士相性がいいのだろうとは思うが、それだけではない事を領下に住む人々は、薄々感じ取っている。
『お仕置きよ!! 観念なさい!!』
何せの姫ときたら戦国の習いなぞなんのその。
慣例なぞ知ったこっちゃないと言わんばかりの行動力だ。
勧善懲悪を徹底しているのか、事と次第によっては自らの足で街に降りて来て、あっという間に騒動を引き起こす。
女の身でありながら率先して行動する様は称賛に値するが、家臣にしてみればもっと自重してほしいというのもまた事実。現に彼女が行動を起こす度に警吏を預かる真田幸村が真っ青な顔で駆けつけている。
城からも幸村の悲壮感溢れる怒声と、説教が轟くこともしばしばだ。
が、当の本人は懲りる事を知らず、彼に捕まる前に慶次の手引きで颯爽と逃亡するから始末が悪い。
取り逃がしてばかりいる幸村を見ている人々の間では、その内幸村がストレス性の胃潰瘍で倒れるんじゃないのか…なんて話も出ているくらいだ。
そんなに付き合わされて街に降りてくることもあるが、それとて慶次の欲求を満たせるような頻度ではない。
特に北条の尖兵となった豊臣勢を下し、豊臣秀吉の腹心・石田三成が姫の作法教育の係りに就いてからというもの、姫の御忍び視察の頻度は一気に減った。
教育係の手腕がそれはそれは目覚ましいもので、姫を城から外へは一歩も出さないという話だ。
最近では彼が教える茶の湯に興味を示し、日がな一日茶室に篭っている事も多いという。
『うー、三成〜。もう終わってー!! 足がー!!』
『黙れ。正座に慣れ、姿勢を保持できるようになるまでは退席は許さぬ』
『うーうーうーうー!! 本当、無理!! もうダメ!!』
『今崩れたら、更に延長だ。覚悟せよ』
『鬼ー!!』
『…やれやれ……姿勢で茶を呑むわけじゃあるまいに…』
『貴様とこの女を一緒にするな。こんなのでも君主だ。このような体たらくでは外に出した時に恥をかく』
『まぁ…そりゃそうだがねぇ…やり過ぎじゃーないのかい?
お前さんのせいで茶の湯自体毛嫌いしたら意味ないだろう』
『好きか嫌いかはどうでもよい。これは教養だ。君主たるもの、避けては通れぬ。それだけの話だ』
『うう……もう、ダメ……』
『…倒れたな』
『倒れちまったね』
『…起きろ。延長だ』
『死ね、腐れ外道!!!』
慶次が常に彼女の傍に付き従う理由。
それは彼を知る人々からすれば、明白だった。
慶次は君主であるに惚れたのだ。
その慶次が、かつてのように街の中に一人でいる時間が再び増え始めた。
これはどういうことなのだろうか? と、彼を知る人々の視線が、往来をぱかぽこと進む松風へと向く。
ある者は遠慮がちに、またある者は無遠慮に興味を丸出しにした眼差しで、なんらかの回答が慶次の口から飛び出しやしないかと、心待ちにしている。
「……やれやれ……参ったねぇ……」
この体躯だ。
子供の頃から人の注目を集めていた。
それに慶次自身も傾奇者。人の注目を集める事自体には厭はない。
ただ、こうした理由で集める事は煩わしいのだろう。
「……本当に……参った…」
慶次は面倒そうな口ぶりで独白して、己の頭を掻いた。
自分が思っていた以上に、自分のへの気持ちは周囲に知れ渡っているらしい。
「…どうしたもんかねぇ…」
「参った、参った」と同じ言葉を何度も口の中で転がし、吐き出して、最後には溜息を吐く。
そんな慶次の耳を街の喧騒が詰る。
「瓦版だよ〜!! 一枚五文だよ〜!! さぁさ、どなたさんも買っとくれ〜!!」
「今日は何?」
「へぇ、今日の特集は姫様についた教育係についてでさぁ」
「ああ!! あの冷たい感じの素敵な方?」
「へぇ!! なんでも日がな一日お傍に遣えてあれこれ補佐されているとかで。
仲睦まじくじゃれあうお姿が、お城に遣えてるお女中衆の目に留っているそうでさ!!
情報源は確かですぜ!!」
『じゃれあうねぇ……巧く言ったもんだ。だがあれはじゃれあうとは違うと思うがね…』
「一枚貰うわ」
「ありがとうございます!! さぁさ、どなたさんもお買い上げください!!
裏面は徳川屋敷に徳川城からご側室梶の方様が移り住んだ話だよ〜!!」
飛ぶように売れて行く瓦版を横目で眺め、続いて、つまらなさそうに再び天を仰ぎ見た。
自然と洩れる溜息の数が増えて行く。
『慶次さん、ちょっと来て』
『慶次さん、力貸してくれる?』
『慶次さんにしか頼めないの、お願い〜』
かの者が下る前は、あの瓦版に記される事は、殆どがと彼女の無茶苦茶の片棒を担いだ自分の話だった。
『三成ー、ちょっと知恵貸して』
『なんであんたは何時もそうなのよ!!』
『うるさい、馬鹿三成!! どっか行っちゃえ、あんたが教育係なんて地獄よ、地獄!!』
それが、今ではどうだ。
城の中でも外でもあの男に我が物顔で彼女を独占されているような気がしてならない。
『噂は別にいい。人なんてもんはどうしたって他人の事を口にしたがる。そんな生き物だ。
だが………さん自身は、どう思ってる? 俺のこと、あいつのこと…どう感じてるんだ?』
自分が傍から離れた事を悔いてくれていればいい。
不安になってくれていれば、それだけで満足だ。
だがその可能性は低いだろう。
なにせときたら、元々は鍼灸師。慣れぬ政務に忙殺されて、口煩い教育者に絡まれて疲弊しているはずだ。
そんな切羽詰った状態では、常にそこにいた者が密かに距離を置いたとしても、気が付けないのではないか。
現に城から離れて三日経つが、お咎めもなければ呼び出し一つない。
『俺の一方的な思い…だったって事かねぇ』
思い上がっていたつもりはない。
逆上せるほど子供でもない。
けれどもこうして目に見えて袖なくされては達観してばかりもいられない。
『………さんに惚れてるからこそ…俸禄以上の働きをして来た。
だが見込みのない恋に身を捧げ、陶酔していられるほど、俺は純粋じゃあない…。
……これまでの働きの分…いわば未払いの禄を請求したとしても……とやかく言われる筋合いは…ないねぇ…』
慶次が何かを決めたように一度瞬きをした。
次の瞬間、彼の目が暗く鋭い光を湛える。
それと同時に、彼を中心に言い表しようのない覇気が辺りを席巻した。
軒先に巣を掛けていた鳥が脅えて飛び立ち、往来の喧騒が冷や水を打ったように一瞬にして静まり返る。
人々は出所の分からぬそれに脅え、警戒し、不思議そうに辺りを見回すが、原因の究明には至らなかった。
「さんも流石に焦れて街に飛び出してくる頃だ……探してくれるかい?」
再び瞼を閉じた慶次が、松風に対して言葉少なく告げる。
鼻を鳴らして答えた松風は、が立ち寄りそうな場所へと向かって、ゆるりゆると歩み始めた。
あたりを付けての立ち寄りそうな場所を巡ってみると、四ヶ所目にしての背中を見つけた。
自らが好んだ朗らかな笑みを浮かべて、民と他愛無い話に耽っているを見ると妙に安堵した。
それと同時に、言い表しようのない落胆も覚えた。
何時もはその光景の片隅に、自分がいたはず。
けれども今は、その絵の中に自分はいない。
なのには自分がいなくてもああして微笑む事が出来ている。
それが悔しくもあり、寂しくもあった。
慶次は松風から降りると、松風の背を軽く叩いた。
それだけで相棒の言わんとしている事を悟った松風は、気を利かせる様に踵を返して城へと戻って行った。
『…さて、どうしようか…』
何時ものように声をかけようか。
それとも、捕まえてどこか人気のない所に閉じ込めてしまおうか。
逃れられぬように手足の骨を砕き、悲鳴すら上げられぬように喉を潰してから事に及ぶのも悪くない。
ああ、でもそれではあの声を聞けなくなってしまう。
やはり喉を潰すのは止めておこう。
代わりに猿轡でも噛ませるか?
いや、終始声を聞く方が享楽的だ。悲鳴が、請願が、絶望を経て、徐々に快楽の淵に堕ちて行くのを堪能するのも悪くない…と、これからの事を思い描いた。
「!」
瞬間、何かを感じ取ったようにがびくりと硬直して、周囲をきょろきょろと見回す。
咄嗟に身を屈めて物影に隠れて探りを入れれば、は心配そうにする民の前で慌てて取り繕う。
それから名残惜しそうにする人々に別れを告げて歩き始めた。
『へぇ…勘付いたかい』
元より敏く、頭の回転の速い女だ。
あの一瞬で身の危険を悟り、危機から逃れようと行動を起こしてもなんら不思議はない。
そういう秘めた魅力の多い女だからこそ、惹かれたのだ。
かつて彼の知己である阿国は言った。
"慶次様はお日様のような笑顔の下に厳しいお顔を隠しておいやす。
せやけど、それを決して他人にはお見せやない"
彼女の弁は正しい。
『ああ、そうさ。人には必ずもう一つの顔がある』
それは常に朗らかで大らかな慶次であっても例外ではない。
いや、寧ろ今までの傍にいた時に見せていた顔の方が、偽りなのかもしれない。
に嫌われぬよう、怖がられぬように作っていた顔というだけの話ではないのか。
『なんだろ…この感じ……重苦しくて…鋭い悪意みたいな……感じ…』
歩き出したを、一定の距離を保って、追いかける。
『…早く、ここを離れた方がいいかもしれない…』
歩き続けるは焦り始めたのか、徐々に小走りになる。
呼吸が上がり、多少なりとも苦しそうだ。
『どうする? 振り向いてみる? ううん、今はだめだ…私一人じゃ…きっとどうにもできない』
振り向くことすら、怖いというのだろうか。
は振り返ることなく、道を進んで行く。
『そうだ、その調子で逃げりゃいい。どの道、もう逃さない。逃れさせやしない。
この手で捕まえて、閉じ込めてやる……それで…』
一定の距離を保ったままの小さな背中が、再びびくりと揺れた。
足を止めて己の両手で二の腕を撫でさする。
恐れを振り払おうとしているのか、はたまたそうではないのか定かではない。
が、はここで慶次の予想外の行動を起こした。
駆け出して逃げて行くのかと思えば、怖々とした様子で振り返ったのだ。
再び慶次は長屋の影に身を隠す。
原因を突き止められなかったは、今度こそ警戒心を強くしたようで、一気に駆け出した。
『そら、おいでなすった』
狩りを楽しむように、虎が逃げ始めた獲物を追い掛ける。
逃れる獲物は慣れぬ着物に悪戦苦闘しながら懸命に帰路を急ぐ。
疲れるのを待つように、じわじわと迫れば、は往来から離れて人気の少ない小道に入った。
この道は城下に降りる時によく使った近道の一つだ。
『選択を誤ったね、さん…人気がない道じゃ、俺からは逃れられないぜ』
慶次が喜々とした眼差しになり、足捌きを速める。
背に向けられる悪意との距離が縮まった事を感じたの顔色は、当然どんどん青褪めてゆく。
音を上げればいい。
諦めて足を止めて、大人しく迫りくる魔手に落ちれば、少しは優しくしてやる気が起きるかもしれない。
だがにはそのつもりはなく、何かを探し求め、必死で活路を切り開こうと足掻き続けている。
『そうだ、あんたはそういう女だ。簡単には、諦めない』
知っている。他の誰よりも、の気性は知り尽くしている。
だからこそ、望むのだ。打開策を知り、そこへ到達する事で逃げ延びれると思い込んでいる彼女の傲慢を打ち砕き、己の手で籠絡する事を。
『さあ、どうするね? あんたの背に、もう牙は届いてる。後は、噛み砕くだけだ。
あんたはもうその事に気がついてる筈だ。さぁ、どうやって抗う?! !!』
虎が嘶き、鋭い爪を立てて、獲物に手傷を負わせようとする。
本能がそうさせたのか、背後から伸びた太い腕をは擦り抜ける。
目と鼻の先には、大通りへと繋がる別れ道。
けれどもは、その道を選びとることはなかった。
城に続く大通りではない方の細道へと足を向けたのだ。
『?!』
不審に思う一方で、「ああ、そうか」と納得した。
今日は三成も街に降りているはずだ。
大方彼を探して、彼の元に逃げようと、そういう事なのだろう。
ますます、見逃せなくなった。
捕まえて、かの者の目の前で手酷く教えてやらねばならない。
誰が、誰のものなのかという事を。
それによって体が壊れ、心が壊れてしまうかもしれないが、それはそれで構わない。
壊れた後も慈しみ、傍に置き続けるだけだから。
『誰に頼ろうとも、あんたはもう…俺からは逃れられはしないのさ』
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