それはある日の事。
午前中の執務を終えたと、補佐をしていたがお茶の時間を楽しもうと和やかに茶器を傾けていた時のこと。
「ん?」
「まぁ…」
三の丸に面した縁側で、二人は互いに顔を見合わせた。
無理もない。二人の目の前に突如として一つのケースが現れたのだ。
「…何時もこうして送ってきてたんだね」
「私、始めて見ましたわ〜」
「私もだよ。何時もは現れた後だもんね」
空間を歪ませることなく、元々そこにありました…とでもいうように、現れたケース。
セラミック製の銀色の光沢が目に眩しい。
『懐かしいなぁ…このフォルム…』
この時代では到底お目にかかれない光沢を放つケースを前にがしみじみと懐かしんでいると、が興味津々と言う様子で茶器を置いて立ち上がった。
続いても茶器を置いて立ち上がった。
二人で近寄って行って見降ろしたケースは、二泊三日の旅行に持って行くのに丁度いいくらいのスーツケースと、ほぼ同じ大きさだ。
「見た感じ、普通のケースだよね」
すぐさま触る気にはなれなかった。数々の前例もあるから、当然だ。
かといって、このままここに放置というわけにもゆくまい。
それに正直なところ、興味の方が防衛本能よりも勝ってしまった。
頭では嫌というほど分かっているのだ。皆が立ちあう場で触れた方が無難だろうな…という事くらい。
けれども、セラミック製の箱には蓋の部分に何かのシンボルと思しき形のガラスが填め込まれていて、中が見通せるようになっている。そしてその窓から見えるのは、彩り鮮やかな宝石が散りばめられたブレスレットだ。
女としては、その美しさにどうしたって心は奪われる。
自然と、箱に向かって伸びるの手に気がついて、が不安そうに顔を強張らせた。
「様、危険ですわ」
「う、うん…分かってるんだけど……」
に諌められるものの、どうしても興味が先立ってしまい、はケースへと手を掛けた。
「うん、今回は何も起きない……って事は…大丈夫かな?」
以前のように触れた瞬間に時空を泳ぐことはない。
ならば中身に触れてみても問題はないはずだ。
はそう勝手に決め付けて、その場に腰を降ろして本格的にケースと向かい合った。
両手で側面を慎重に撫でて、掛けられているバックルに指先を重ねた。
鼓動が高鳴り、じわりじわりと掌に汗が浮く。
『何も起きませんように!』
神にも縋る思いで、勢いよく指先でバックルを弾けば、蓋は難なく跳ね上がった。
瞬間的に身を引き、両の瞼を閉じて息を呑む。
が、やはり何も起きない。
が閉じていた片方の瞼を開いて、視線だけでケースを見やった。
「………何も……起きないね?」
「そう…ですわね……僥倖ですわ」
緊張感丸出しの擦れた声でが言えば、もまた胸の前で両手を合わせて及び腰のまま同意を示した。
彼女も同様に蓋が開くと同時に硬直していたらしい。
「…今回は…大丈夫って……事なのかな?」
何分か待ってみても、意識が時空を泳ぐことはない。
こうなると俄然、気が緩む。
「様…念には念を入れて、やはり…皆様をお呼びした方が…」
「へーき、へーき。何かあったならとっくに起きてるよ。
何もないって事は、ただの贈り物かもしれないよ? もしかしたら、よくやってるねーって、ご褒美かも!」
「は、はあ…」
終始そわそわした様子のを余所に、は満面の笑みで指先を箱の中へとすすめた。
真紅の敷布が敷き詰められた台座に所狭しとばかりに、色とりどりの宝石が散りばめられたブレスレットが収まっている。最終確認でもするように指先で三回ほどブレスレットを突いた。
何も起きない事を確認した上で、はブレスレットを一つ、取り上げた。
「わぁ〜! こうやって直に見ると、とっても綺麗〜。ほらほら、ちゃん、凄く綺麗だよ〜?」
「そ、そうですわね」
目にも眩しい煌びやかな宝飾が散りばめられたブレスレットを、は嬉しそうに掲げている。
太陽の下でブレスレットに据えられた宝石がそれはそれは美しく光り輝く。
たったそれだけのことなのに、はとても楽しそうだ。
大好きなを害するでもなく、微笑ませる装飾品なのであればと、自然との気も緩んだ。
『本当に御褒美なのかもしれませんわね』
これだけで済んだのなら、それこそこのお話は、女性達の微笑ましい和やかな一時で片づけられる。
けれども現実はそう容易くはない。
悪夢は、もう既に静々と始まっているのである。
「んー、ブレスレットによって違う石が散りばめられてるのね。私なら……ルビーがいいかなー。
ちゃんのイメージだと……アクアマリンとかいいかも。折角だし、二人で一緒につけようか?」
一人で楽しげにブレスレットと向かい合うの隣で、は小さく相槌を打つ。
その時、彼女は、箱に挟まっている数枚の紙に気がついた。
『えっと……これは…なんでしょう?』
「あの、さ…」
挟まっていた紙を取り上げて、広げながらが顔を上げる。
それとほぼ時を全く同じくして、が己の腕にルビーのあしらわれたブレスレットを嵌めた。
瞬間、ケースがきっかいな音を奏でて、輝き出した。
「へっ、えっ、き、きゃぁ!!」
次の瞬間、もその場へと前のめりに崩れる。
例の発作か?! とが動揺するが、どうもそうではないようだ。
「うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……な、何これ…? お、重いぃ…っ」
中庭に敷き詰められている玉砂利を掻き毟るようにしながらが呻く。
なんとか両腕に力を込めて、身を起こそうとするものの、体はびくともしない。
まるでの上には突忍が三人ばかり伸しかかっているかのような重圧がかかっていた。
「こ、これは一体…!?」
理由を確かめようと、が手にしている紙へと視線を落とした。
中に綴られた文面の第一行目を視線で追えば、今度はケースから奇妙奇天烈な調子の音曲が流れ始めた。
それだけじゃない、ケースの上には体の線のはっきりとした衣服を着た異人の男の姿が現れる。
"ようこそ!! トランス・ブート・キャンプへ!!!"
あまりにも突拍子がなく、脈絡もない出来事について行けずに、再度顔を上げたが茫然と立ち尽くした。
人間あまりにも驚愕が続くと、叫び声すら上げられなくなるものらしい。
足元ではが「ふんぬーーーっ!!!」などと、うら若き乙女にあるまじき声を上げてもがき苦しんでいるし、眼前には異人の男の爽やか過ぎる笑顔だ。
どうしよう? こういう場合は、どうしたらいいのだろう?
普段ならば、こういう場合は夫に全てを委ねて来た。だが残念な事に今夫は任務についていてこの場にはいない。
ならば外で警護に当たってくれている伊達成実に頼ろうか? そうだ、それがいい。否、それしかないのだと、瞬時に判じて駆け出そうとするものの、異人の男の言葉がそれを阻んだ。
どうも現れた異人の男はこちらの都合などお構いなしのようだ。勝手に喋っている。
"これから君はたった一ヶ月で、理想の肉体を手に入れる事になる。
辛い事もあるかもしれないが、最後まで私と一緒に頑張ろう!!"
「…え゛っ?!」
話される言葉の意味がちんぷんかんぷんのと違って、当然には箱から流れる音声の意味が分かるから、青褪めずにはいられない。
「いやいやいや…あの…ト…トレーニングって……この、状況で?
っていうか、トランス・ブート・キャンプって一体何よ?!」
「様、意味が分かりますの?!」
に尊敬の眼差しで見つめられ、は息も切れ切れ答えた。
「んと…簡単に言うと、慶次さんみたいにムキムキになる為の特殊訓練をしようね!! って、
そう言ってるの。この箱」
「まぁ、健康的ですのね」
それはそうなのだが。
それにしてもこの異常な重力は一体何だ。
こんな風に大地に寝そべっている時点で、どんな効果的なトレーニングであろうと、出来るはずがない。
"まずはトランス・ブート・キャンプについて説明しよう!
トランス・ブート・キャンプは見た目にも配慮した最新鋭の画期的なツールだ。
同封のリストバンドを選んで装着する事で、全ての設定が自動的に済むようになっている!!
寒色から暖色へと幾つかに分けてリストバンドが用意してあるから、君のニーズに合わせて装着してくれ!!
体にかかる負荷は、装着するリストバンドの宝飾の色が寒色に近ければ近いほど軽くなる。
逆に暖色になればなるほど、強力な負荷がかかるようになってるぞ!!"
「え゛!! リ、リストバンドってもしかして、コレのことっ?!」
が怖れ慄いて叫んだ。
の手首に嵌るブレスレットにあしらわれている宝石は、それはそれは見事なピジョン・ブラッド。
どう考えても、これこそが難易度最大の証だ。
"トレーニングに自信のない初心者は、慣れるまではリストバンドは使わなくていい。
まずは動きを覚えて体力をつけることから始めよう!
体力には自信があるという君、リストバンドはもう選んだかい?
なら、次の説明だ! まだ選んでいない君は、選びながら説明を聞いてくれ"
状況を判じたが手にしていた紙を放り出した。
彼女はの腕からなんとかリストバンドを外そうとする。
が、頭上で勝手に話し続ける男の声は、恐ろしい事を言い出した。
"このトランス・ブート・キャンプは【自然に、確実に、身に付く】がコンセプトだ。
これから行うトランス・ブート・キャンプについてこれる体力を自然と培えるように設計されている。
リストバンドを選んで装着すれば、必ず君は一ヶ月後には理想のボディを手に入れられるんだ。
恐れず挑戦する心を持って、リストバンドを選んでくれ"
「いや、ちょっと、無理!! 色、間違ってるから!!! 選び直させてよっ!!」
"さぁ、説明を続けるぞ!!"
「人の話を聞けー!!」
"このリストバンドはとっても画期的だ。
トランス・ブート・キャンプでも遅れや脱落、三日坊主が出来ないようになっているんだよ"
「まぁ、何故ですの?」
"リストバンドは一度つけたら全てのカリキュラムを終了するまで、自分で外すことは出来ない。
これによって、君は、常日頃から適度な負荷を実感し、体を自然に鍛える事が出来るようになるんだ!!
詳しい事は付属の解説書にも書いてあるから確認してみてくれ"
外せない事を悟ったが再度放り出していた紙を拾い上げて開いた。
読めない部分を読み飛ばしているのか、大きな瞳が忙しなく動いている。
「まぁ…本当!」
示された部分を探し当てたのか、が小さく息を呑んだ。
「どうしましょう…」
何時の間にか、はその場に正座して、異人の男の解説を真剣に聞き入っていた。
しかもケースが発しているであろう自動音声を相手に相槌を打って、会話までしている。
そんなのことを視線だけで見上げて、はしみじみと思った。
『ちゃんって、通販にハマりそうだ』
"確認は出来たかい?"
「およそは出来ましたけど……どうして付け続けなくてはいけませんの?」
"不思議かい? 何、簡単な事さ。
このリストバンドは、嵌めた瞬間から君の体の全神経を支配する。
そう!! トランス・ブート・キャンプの開始と同時に、カリキュラムをこなすべく、
自動で体が動くようになっているんだ!!"
「はぁ…とても親切設計ですのね」
「何、その拷問みたいなセッティング!! そもそも外す事も出来ないって、それだけで不良品じゃん!!」
"尚、リストバンドには調節用のメモリがついている。
これを操作する事によって、体にかかる負荷を仲間と分かち合う事が可能だ!!
とても楽しいトレーニングだから、ご家族、同僚、友人を問わず、皆で誘い合わせてチャレンジしてみてくれ!!"
要約すると、自分一人では負荷は減らせない。
だが他人を巻き込み、相手に自分の分を回す事は可能という事か。
「えええええーーーーっ?! 何それーッ!!! まるでねずみ講じゃんっ!!」
アホな機能が満載されたツールに、言い表しようのない恐怖を覚えた。
思わずが絶叫する。
その横で、は相槌を打ち続けた。
彼女は彼女なりにの力になろうと、説明書と思しき紙と残りのリストバンドとを交互に見やりながら懸命に使い方を理解しようとしていた。
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