石田三成という男 |
促されるまま板間を奥へと進んで木製の引き戸を横に引いた。 「ああああああああ!!!!!!!!」 それよりなにより驚いたのは、湯殿になみなみと揺蕩うお湯は、嗅ぎなれた硫黄の匂いを纏っていた。 「そんな、嘘!!! これって!!! もしかしてもしなくても!?!?!」 は瞬時に理解した。自分が堪能していた温泉が枯渇したのは、の住まう社へ続く水流よりも先に、源泉から横へ別の水路を引いた者が居たからなのだと。 「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、貴方ねぇ!!!!!!」
重い水の上げ下ろしに泣かされた日々を思い、は激昂する。 「温泉泥棒!!! こんなの酷い!!!」 目尻に涙をためて抗議するに三成は告げた。 「俺を泥棒というが、そもそもお前は誰の許可を得てあの社に住んでいた? 不法占拠はの方だと理路整然と指摘された。ぐうの音も出ない。 「これまでは温情で不法占拠を許されていたに過ぎぬ。 三成はがかつて見せた仕草をまねる様に指を立てた。 「一つ、今後数百年枯渇しない温泉を、ここでも昼夜問わず楽しめる。 三成の弁を聞きながら、見守る彼の友人と部下は思った。 『一番最後が殿にとって一番肝心なんですよね』 『一番最後が三成殿にとっては一番大切なんですよね』 『一番最後がお前にとって一番重要なのだろう?』 「うー、うー」と唸るに三成は問いかけた。 「さぁ、どうする? これから冷気の強い冬場が来る。
元々石田三成という男は完璧主義者だ。 『だめ押しの一手が必要か』 「信じられない…本当に…信じられない……こんなことの為に…一体いくら使ったのよ…」 茫然自失と言わんばかりのの独白を、三成は問いかけととったようだ。 「基礎工事は全て国費で賄ったぞ」 「はぁ!?」 自分も納税者の立場だ。が三成の発言に目を吊り上げた。 「案ずるな、横領ではない。お前の情報をもとに湯をこちらへ引いた。 「この館で温泉を使った湯殿があるのは、この離れだけですよ」 すかさず左近が補足を入れた。 「殿の邸宅となる母屋に温泉はありません」 「…マジで?」 が紡いだ言葉の意味はよく分からないが、表情が意味を物語っていた。 「本当…正気なんですか…。私なんかを雇用する為に、温泉を移動させた??」 「ああ」 期待が重い。好意が痛い。 「そんな当然のように肯定されても……」 「お前にはそれだけの価値があるから、仕方ない」 「よくそういう事、臆面もなく言いますね?」 羞恥はないのかと毒づくが、三成の顔色は涼しいままだ。 「ああ、でも…ここ吉継さんの邸宅ではないんですね」 「未婚の男女で、同じ敷地内に主従同居は流石に不味かろう。噂や陰口の類は嫌なのだったな?」 「ええ、まぁ…はい…」 「家賃を払えなどと、せこい事は言わぬ。 全て建前だ。 「石田さんって、随分お友達思いなんですね」 「まぁな。俺の事は三成と呼ぶがいい」 「はぁ、分かりました」 がっくりとは肩を落とした。 「それじゃ…今日の所は一先ず帰ります。帰って少し検討させてください」 「分かった。左近、送ってやれ」 「はい、お任せを」 そこで自らが送ってやればいいのに、私情より仕事を優先し、引いてしまうのがなんとも三成らしい。 「吉継さん、腹黒くて行動派のいい友達を持ちましたね?」 「ああ、面白いだろう? 自慢の友だ。 「えーーーー、マジでー? やっぱ正気じゃない人の友達だけあって吉継さんも正気じゃないなー」 頭を抱えながらとぼとぼと来た道を引き返して行くの後に左近と幸村が続いた。 「このままこちらに移り住んでしまえば宜しいのに」 「幸村さんまで言うの?」 「いえ、これから帰って風呂を沸かすのは大仕事なのではありませんか?? 時期に夜になりますよ??」 「あー、言われてみるとそれもそうねぇ…今日は清拭で手を打とうかなぁ…」 気のいい幸村は左近共々の帰宅に同伴した。 「ああ…悪夢だ……本当に…信じられない……」 慣れ親しんだ山の麓まで近づいた時、嫌な予感がしたのだ。 「あんた…あんた、常々馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、マジもんの馬鹿なんじゃないの!?!!!」 爆破したのはかつて湯殿でに襲い掛かった麓の村の若者だった。 「私が中に居たらどうしてくれるのよ!!!!!」 住む場所が無くなった事実にが泣き叫ぶと、若者は叫んだ。 「居て欲しかったよ!!! なぁ、…一緒に死のう?」 「え?」 ままならぬ思いが狂わせたのか、ただ色欲に塗れているだけだと捨て置いていたのがまずかったのか。 「分かってるんだ、最近おめぇの所に都から色んな男が訪ねて来てるよな? 「いやいやいやいや、無理! ない、有り得ない!! 貴方と死ぬとか、結婚とか話が飛躍しすぎてる!!」 身の毛がよだつと、は体を強張らせた。 「御嬢さんを殿の邸宅へ。ここは左近が引き受けます」 「はい」 幸村も下馬し、すぐに左近の馬に乗り換えた。 「しっかり掴まっていて下さい」 「え、あ、はい」 巧みな手綱さばきで馬首を返した幸村は、を伴って、町を目指した。 「ーーーー!!! 俺と一緒にーーー!!」 遠ざかる馬に向かい、村民らに取り押さえられた男が追い縋り絶叫する。 「本当…なんなの…助六さん…怖すぎる…」 狂気に満ちた目で心中を望まれて、の心は大きく搔き乱された。 「安心して下さい。あの離れは仮にも石田三成殿の邸宅の一角、危険は及びませんよ」 「そ、そうだよ…ね? 大丈夫…だよね?」 「ええ」 「吉継殿との主従の契約は、落ち着いてから考えましょう。 「あ、有難う…幸村さん」 「いえ、急ぎますね」 「はい、お願いします」
考慮する時間が欲しいからと帰宅したはずの想い人が真っ青な顔をして戻ってきた事実に、三成だけでなく吉継も怪訝な顔を見せた。 「戸締りを気を付けて、もし不安でしたら私も今宵は母屋に泊まりますので」 「はい…よ、よろしくお願いします」 重厚な木製の扉を閉めては離れの中に引っ込んだ。 「……衣装…全部燃えちゃったかな……」 は独白しながら幸村が勧めてくれた通り、風呂場へと足を向けた。
「狂気の沙汰だな」 「ええ。流石にあれはちょっと…殿に同情します」 が風呂場に身を落ち着けた頃、母屋の一室では幸村が吉継と三成に事情を説明していた。 「どういった結果になるにせよ、あの社へは戻せそうにないな」 「村民の心情もあるから、再建はすぐに取り掛かるとしてもこれは難題だ」 「村人に殿は大層好かれておりますし、交渉に長けておりますから頼られてもいます。 「だからと言って下手に戻しても件の若者が放免されていたとしたら、逆恨みの流れもあるかもしれない」 「はい。逆恨みくらいでは済まないのではないでしょうか? なにせ心中狙いでしたし」 「左近が殺しているといいのだがな」 無茶苦茶を言い出した三成の目は真剣だった。 「手に入れられぬから殺す、では幼児ではないか」 「しかし俺達が熱心に通ったのも今回の件に拍車をかけたのだとしたら、悪い事をしてしまったな」 「いえ、遅かれ早かれ彼は行動を起こしたでしょう。 「全く獣か」 吐き捨てて、三成は己の膝を掌で打った。 「吉継、社はお前が再建せよ。人足は最小限にすればよい」 「何か思いついたのか?」 「最小限の人足で事に当たればそう易々と社は完成せぬ。 「なるほど」 「それにここでの生活に慣れれば社に戻りたいとは思わなくなるやもしれぬ」 つまりがそう思うように立ち回れと、三成はそう言いたいようだ。 「しかし再建は俺がしても良いのか? ここはお前が再建し、の印象をよくする流れではないのか」 「俺は離れを作った時点でにかなり圧力をかけてる。 「なるほど、そういうことか」 「ああ、招致したいお前の先行投資という名目で着手すればいい」 秀吉子飼いの策士だけあって懐柔策には余念がない二人である。 「ですが当面はそういったお話をされないようにお願いします」 偶然とはいえ、現場に立ち会った身だ。の動揺を幸村は誰より肌で感じている。 「そうだな、春までは自由にさせてやるくらいで丁度良かろう」 一先ずの目途だと三成は期限を切った。
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利で動く男の懐柔策は規模が違う。(19.07.17.) |