治外法権の女 |
大谷吉継にが仕えるようになって一月が過ぎた。 「、少しいいか」 「あ。三成さん」 「お前が処理したこの帳簿、全面的に間違ってる」 三成が提出された数枚の書面と小冊子を持参して吉継の執務室に現れた。 「え。全部ですか!?」 仰天するの背後に三成は腰を下ろして、持ってきた書面と数冊の書物を文机の上に広げた。 「計算ではなく、掛け値に使う資料が違うのだ」 「あ、そうだったんですね」 納得とばかりには相槌を打った。 「この項目とこっちの項目は赤い冊子の掛け値を使うが、残りの項目は青の冊子から掛け値を拾わねばならない」 「なるほど〜」 どこからどの数字を拾うのか、丁寧に一ヶ所づつ示す三成を見る吉継の目は柔らかい。 「処理の仕方を教えるから、覚えてくれ」 「はい、お手を煩わせて申し訳ありません」 「気にするな」 「はい」
寄り添い頭を突き合わせている二人を見ていると気を利かせて席を立った方がいいのかとも思うが、二人きりにするとが嫌がる。三成と二人きりになることが嫌なのではない。は主従になってしまった以上、吉継の傍にいる事が職務だとでも思っているようで、何も告げずに置いて行くと困惑するのだ。 『と言っても、算術士としては手放したくもないのだがな』 「…なるほど。お里事情が違うから、地方ごとであっても掛け値は統一出来ないんですねぇ…」 三成の説明を聞きながら、は自分用の帳面にメモを取る。 「そういう事だ。季節や年度ごとに出来高も変わるからその都度掛け値も見直してやらねばならない。 「国規模か〜。お話が大きいなぁ…。これだと算盤弾ける人が少ないと事務処理、大変ですね」 「吉継がお前を求めた理由がよく分かるだろう?」 「はい」 の視線は帳簿から離れず、三成の視線はから離れない。 『もう少し体を傾けると三成の胸にすっぽり収まると思うのだがな』 二人が動かないから、重なり合う角度を探すように吉継の方が首を傾ける。 「…何やってるんだ、お前…」 そんな吉継に気が付いて三成が怪訝な顔をした。 「いや、もう少しこう…三成、体を傾けてみないか」 「なんで?」 「そうするとうまい具合にお前達が重なる」 「…馬鹿か?」 三成が呆れたような声を上げて、身を起こして腕を組んだ。 「そもお前がきちんと冊子の件をに教えてやれば、こんな二度手間になっていないと思うんだがな?」 「え、でも私が勝手にやっちゃったからいけないんで…吉継さんのせいじゃないような気がするんだけど…」 「部下の監督も上司の職務の内だ」 「それもそうか」と口籠るに計算を続けろと三成は指し示す。 「そういうお前の軍師は今どこで何をしているんだ?」 「執務室で仕事しているが?」 「で、お前はここで油を売っていると」 「人聞きの悪い」 なんとなく部屋の温度が下がったような気がしてが顔を上げた。 『ひっ! 何この空気!?』 「今日、これで何度目だ?」 「何がだ」 「を雇用してからやたらとお前がここに来るな…と思ってな」 「雇ったはいいが、の能力を生かし切れていないお前に変わって俺が指導しているのだろうが」 『え、なんで喧嘩腰? なんで冷戦勃発してるの?』
「それはそれは痛み入る。俺はてっきり誰かさんが目の保養目的でこちらに足を延ばす理由を模索した流れで 「才ある者に適した仕事を配分しているに過ぎないが??」 二人の背後に竜虎の陽炎が見えた気がして、はドン引きだった。 「はいはい、ちょいと失礼しますよ〜」 「あ。左近さん、ナイスタイミング!」 件の軍師が吉継の部屋にやってくる。 「上がれますかね?」 「えーと…」 「構わぬ。急ぎの仕事でもない。もし今日教えたことに自信がなければ、明日改めて聞きに来るがいい」 「そうだな、三成が懇切丁寧に手取り足取り腰取り教えてくれるだろう」 意味深に笑う吉継を恨めしそうに三成はねめつける。 「多分大丈夫だと思うけど、一応、確認がてら明日伺いますね」 「了承した」 自分の文机の上を片したが立ち上がる。 「それではお先に失礼します、お疲れ様でした」 「ああ、お疲れ様。明日も頼む」 「気を付けて帰るのだぞ」 「殿、俺がついてるんでお任せください」 ぺこりとお辞儀して室を後にするに続いて左近が身を翻す。 「で。どうなのだ? 少しは進展しているのか」 「進展していたらこうして顔を見に来るものか」 「全く、難儀なものだな」 「うるさい」 「顔はいいのだから、上手くやったらどうだ」 「顔で落とせるならとっくに落としているとは思わんのか」 「道理だな」 揉めていたかと思えばこれである。 「だが同居にまで持ち込んでいるのだ、少しはおいしい思いもしているのだろう?」 吉継が頬杖をついて聞かせろと視線で訴える。 「茶すら出ぬのになんで話さねばならぬ」 「茶の代わりに左近が仕事を何故あんなにも早く切り上げるようになったか、教えてやるから話せ」 「チッ」 舌打ちした三成の前に、床置きのお茶セットを引き寄せて吉継は押し付ける。 「なんで客の俺に入れさせようとするのだよ?」 「お前の入れる茶が一番美味い」 「ったく…」 諦めたように三成がお茶を淹れ始める。 「で、左近がどうしたと?」 「幸村情報なのだが、帰り道、左近はと共に下町へ通っているそうだ」 「下町?」 「ああ、舞台があるだろう? あそこで一曲舞ってから、お前の館に戻っているのだそうな」 「ああ、なるほど…それを見に行くついでなのか」 「そういうことだ。お前が変わってやればもっと仲を深められるのではないか」 湯呑に注いだ茶を吉継の手元に押し出しながら、三成は少し思い悩むような表情になる。 「どうした? 今更きっかけがないとか言い出すなよ?」 「そうではない、実はな」 「うん?」 湯呑を傾ける吉継に三成は言った。 「舞こそ目に入れてはいないが、あの音は夜ごと愛でている」 「というと?」 「風呂に入っている時に、良く歌っているのだよ」 「ああ、そういう事か」 「そういう事だ」 どうりで三成が泊り込まずに本宅に戻るようになったわけだ。 「しかしその程度で満足して良いのか?」 「甘んじるつもりはないが、仕損じてはあいつが居ずらくなるだろう」 「…なるほど…」 『あの石田三成でも臆病になるか』 「もっと着実に地固めがしたいのだよ」 「そうか、上手くゆくと良いな」 三成は湯呑を取り上げて口元に運びながら吉継をねめつけた。 「なんだ?」 言いたいことがある時、言い出せずに飲み込む三成独特の癖を目にした吉継が眉を動かした。 「どうした? 何かあるのか?」 吉継が問いかければ、三成は視線を外しながら問うた。 「お前はいいのか」 「何が?」 「元々を求めたのはお前だろう。お前はを女子として見てはいないのか?」 ああ、そういう事か。恋に落ちたが故に、人間関係の基準がそこに寄ってしまうのだろう。 「常々忘れぬように心がけてはいるが、見てはいないな。あれはお前の女だろう」 「……断言するな、まだ何も進展していない」 「頑張れ」 「どうして、お前はあいつに惹かれなかった?」 「惹かれたぞ? あの回転の速さは新鮮だ」 「女としてだ」 「そこは何とも言えぬ。芸は見事だと思う、声も姿も美しい。 適した言葉を探しながら吉継は語る。 「頭が良すぎるのだ。女子独特の器用さや強かさではなく、ただただ賢い。 「それで?」 「それが、俺には面倒くさい。頼ってくれればすぐにでも力を貸すのに、それは望まない。 「…ふむ…」 三成が思案顔になる。 「お前には、そう見えていないのだろう?」 「ああ、まぁ、そうだな。なんと言うか……上手くは言えないのだが…。 「ほう」 「気を引きたくて、誰より秀でたくて、聞いたことがある。 「答えは?」 「何時も何もないと朗らかに微笑んで首を横に振る。 「どう見えてる?」 三成は湯呑の中に視線を落とした。 「諦めているように見えるのだ。本当に欲しいものなど、手に入らぬと。 「ああ、なるほどな。だからお前はに固執してしまうのか」 挑戦する前から諦められる事が、この切れ者には納得いかないのだ。 「が求めるもの、望むものがなんなのかが分からない。 「ままならぬな」 「ああ。ただのお節介なのだよ。が望んでいるとも限らぬのに」 恋に狂っているからだろうか、珍しく三成は自嘲的だ。 『だがあの手の女が頼る時は、天地をひっくり返すような事をしでかした時だろうな』 言葉にせずとも三成にもそれが先読みできるのだろう。 「そうならぬように、その前に関係を深められることを祈ろう」 「祈るだけなのか」 「こうしてお前に関わる業務を任せているだろうが。おねだりが過ぎるぞ、三成」 ふふふ、と笑われて三成は不貞腐れた。 『本当に似合いだよ、お前達は。心が通い合うと良いな』
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