狸からの救援要請

 

 

 夕刻、城を出立した率いる軍は神速の動きを見せた。
先頭を駆ける松風の上にはの姿。
速さはともかく、慣れぬ振動に振り落とされまいと、渾身の力を込めて慶次にくっついている。

『全く、豪胆なお嬢さんだねぇ 』

 見ればは松風の速さに目を回すどころかしっかりと前を見据えていた。

『…惚れそうだぜ…』

「そろそろ着くぜ」

「うん」

 程なく、三将が率いる軍は、徳川家の本陣後詰として到着した。

「おお、おお、助かりましたぞ」

 陣中に構える徳川家康の声を聞いたは、緊張と高揚を綯い交ぜにした顔をした。
だが家康は、当然この場に隣国の君主自体が来ているとは思っていなかったのか、駆けつけた三将へ声をかけてきた。

「すいませんがね、俺に声を掛ける前に、姫に声かけて欲しいんですがね。それともあんたの目は節穴かい?」

 松風から降りた慶次の手を借りて下馬しているの耳に、左近の棘のある声が入った。
は慶次の肩に手を置いて抱かかえられている姿のまま、左近を嗜めた。

「こら!! そんな事言っちゃだめでしょ!!」

 振袖こそ着て居ないが、武具の類を一切つけていない軽装の女性。
それが同盟を申し込んで来た家の当主だとは、誰だって思うまい。

「え…あ……」

 目を丸くする家康の前へとは歩みを進めて、何か期待に満ちた眼差しで彼を見上げた。

「初めまして。です」

「ああ、これはご丁寧に…徳川家康です」

「あ、あの、家康様、お手を拝借しても宜しいですか?」

 すっと掌を差し出されて、家康は躊躇う。
三将揃い踏み。
目の前に現れた君主を名乗る女は丸腰だ。
左右の強国から攻められている現状を考えれば、背筋に冷や汗が流れる。

『もしやこの者は既に伊達・直江軍のどちらかと手を組んでいるのか…?』

 硬直し、二の句を続けられない家康の顔には明らかな焦りが浮かび上がった。

『儂の首を手土産に…投降するのか…』

 とすれば、最早逃げ道はない。
己の部下は全て前線で、最小の守りだけを残すこの場には、軍の勇将とその配下。
もう逃げ場はないのだと、もう諦めるしかないのかと、家康は覚悟を決めた。
 直後、家康の言葉を待たずして、が家康の掌を取った。

「大きな、大きな掌ですね……とても温かい……」

「え…あ…?」

 その掌に頬を寄せて、は呟くように問うた。

「吉法師様は、ご健在ですか」

「…い、いや、消息不明で…儂も探しておって…」

 しどろもどろ答えた家康の前でが見せた眼差しは、複雑な色をしていた。
嬉しげでもあり、悲しげでもある。

彼女の意図が測れずにまじまじと見つめれば、は顔を上げて、柔らかく微笑んだ。
の笑みは、家康に一つの確証を与えた。

『大丈夫、貴方は死なない。私が、死なせない』

 掌を自ら離して、「ご無礼お許し下さい」と目礼してから、は家康から離れる。

「慶次さん、幸村さん」

「おうよ!」

「はっ!!」

「兼続さんと政宗さんに一騎打ち申し込んだら、勝てますか?」

 この時代、主君からの問いかけは意味をもたない。それは即ち違える事の許されぬ命令だ。
その辺を知っているのかいないのか、は平然と言う。

「二人に会ってみたいんです。だから殺さないで下さいね」

 彼女の目には、二人の負けという文字は、なかった。
過信なのか、妄信なのか、どちらにしても性質が悪いと左近は密かに眉を寄せる。

「…敵わないねぇ…ま、興じて見せようか」

「ご期待に通りに」

 あれだけ固辞したがった君主と言う職を押し付けたのだ。
例え無理難題であろうとも、この願いを聞き届け戦果とせねば、彼女からの信は得られはしまい。
そう考えた二人は顔に武士としての決意を貼り付けて、それぞれの馬を駆り、戦地へと飛び出して行った。

 

 

 徳川の陣中に残るは用意された席に腰を降ろし、暇そうに足を揺らす。
護衛を努めるべく傍に立つのは出撃命令を与えられなかった左近だ。

「…来てくれると思わなかった。ありがとう」

「…それをここで言いますか」

 主君の口から漏れた独白の意図を察して、呆れたように返せば、は苦笑した。

「…だってさ、乗り気じゃなかったみたいだから」

 本当にこの人は、戦と言うものの意味が分かっているのかと、呆れと共に苛立ちが込み上げた。

「姫自らが動くのに、城になんか残ってられないでしょうが」

「そっか、ありがとう」

「いいえ」

 どう切り出そうか、何をきっかけにしようかと、思案する。
餞別とばかりについては来たが、これ以上は無理だ。元々付き合う義理もない。
ならばこの戦の終結と共に、己の腹に収めている一言を言わなくてはと、適切な言葉と機会を探す。
 そんな左近に、は呟くように言った。

「…ねぇ」

「はい?」

「暇だね」

 言うに事欠いてそれか?
無謀ともいえる援軍に軍を動かして、家臣には難題に近い一騎打ちまで命じておいて、口から出る言葉はそれなのかと、腹に収めていた感情が顔へと出そうになる。
 だが次の瞬間、その熱は急速に冷めた。
ふと気がつけば、自分の掌に絡まった小さな掌。

『…震えて…いる?』

 駄々っ子のように足を動かして表情では平静を装ってはいるが、その指先が伝えてくるのはこれ以上はない不安と恐怖。

『…ああ……そういえば、この人は……君主になる事を望んではいなかった……逃れようと、必死だった』

 それが、たった数週間でここまで変わった。否、変わろうと、今も努力し続けている。

『……そんな人が、戦を好むはずがない……この人も……望んでここにいるわけじゃない…』

 顔に出さず、口に出さず、一人で耐えて、己の中に収めた感情と必死で戦っているのだと理解した。

『…この掌は、無意識の声…という奴ですか…』

 知ってしまえば、腹で渦巻いていた怒りなど、自然と霧散した。
無謀であり、無知であり、掴み所のない人ではあるが、こうして改めてきちんと見ると、この人はとても小さい。
この人の命はなんと儚げで、それでいて美しいのか。

 この手を自分は離そうとしていた。それこそが上策としか考えられなくなっていた。

『…間違いだ、その選択は……下策中の下策だな…』

 左近は言葉にならない彼女の思いに答えるように小さな掌を優しく握り返した。

「…そうですね、言葉遊びでもしますか」

 鬱積や棘を失った声で言われて、は一瞬身を固くする。それから伺うように左近を見上げた。

『姫の傍には左近が控えてますからね。大丈夫ですよ 』

 互いの視線が宙で絡み合った。
向けられた視線から左近の心の動きを察したのか、は安心したように柔らかく微笑んだ。

「えー、私、しりとりなら結構強いよ?」

 不可思議な光景だが、その光景は、不思議と心に力をくれる光景だった。
死を覚悟し、悲壮感だけが漂う陣中。
その中にあって、丸腰で笑っている。
それは気がふれているのか、はたまた勝利だけを確信しているからこそなのか、定かではない。
けれどもその光景には、出来る事ならば自らも身を寄せたいと思わせる何かがあった。

「家康も混ぜて頂いて構いませんかな?」

「はい、どうぞ」

「手加減はしませんよ?」

 一人の存在で、悲壮感は何時しかどこへやら。
劣勢のはずの徳川陣中には、和やかな空気が広がり始めていた。

 

 

「敵将、捕らえたぜ!!」

「敵将、真田幸村が捕縛したっ!!」

 それから数刻後、左右別々の陣中より勝鬨が上がった。
の命を受けた慶次と幸村が、念願通りの一騎打ちを果たし、それぞれの首領を捕らえて来たのだ。

「戻ったぜ」

「只今戻りました」

 無傷とは言い難い様子だが、さしたる重傷も負ってない二人の元へは駆け寄る。
懐から出した手拭で幸村の頬についた返り血を拭い取れば、幸村は恐縮し、顔を茹蛸のように赤らめて混乱を露にした。

「あ、な、え、も、も、も、ももももももも申し訳ありま…」

 そんな幸村には微笑をもって答えると、手拭を引っくり返して、今度は慶次を見上げた。

「慶次さん、しゃがんで」

 腰を曲げた慶次の顎についた切り傷を抑える。
その姿は妙に絵になっていて、高揚していた幸村の胸にじくりと棘を刺した。

「痛たかったら、ごめんね」

「いいや、ほっと温まるねぇ」

 軽口を叩く慶次を幸村が視線で咎めるが、離れた位置にいた左近もまた引き攣っている。

「二人とも、お疲れ様」

「はっ」

「おう」

 畏まる幸村、豪快に笑う慶次。
二人の後方から、縄を打たれた二人の男が現れた。

「伊達政宗、および直江兼続、引っ立てました」

 彼ら二人は、別々に捕縛されていた為、まさかこの場で顔をつき合わせるとは思ってもみなかったのだろう。
同時に絶叫し、それからすぐに揉め始めた。

「なっ、貴様っ!! 兼続ーーーーーっ!!」

「おのれ、山犬めぇぇぇーーーーっ!!」

 けたたましく罵り合う二人を前に、家康はただただひたすら思案顔だ。

「さてもどうしたものか」

 投降の意志があればよし、けれどもこの二人の事だ、そう易々と下るはずもない。
だとしたら放逐くらいしか思いつかないのだが、家康からしたら、放逐程恐ろしい選択肢はない。
放逐したら最期、この二人は再び軍を整えて襲いかかって来るような気がしてならない。
ならば残る選択肢は一つ、首を撥ねるしかなくなるわけだ。
けれども、どうにもその選択肢は、この女性の前では選びたくはなかった。

「って、謙さんはっ?! 謙さんはどこっ?!」

 揉める二人の意志や家康の意志などどうでもいいとばかりに、は目を輝かせて慶次の後方を見やった。
そこにいた奇妙な兜の青年と、眼帯をつけた少年とを見つけると、何度も何度も、確認するように交互に二人を見る。

「え、嘘……嘘…貴方が独眼竜なの??」

 の顔面は次第に蒼白なり、見た目にも分かる程の、意気消沈ぶりへと落ち着いた。
よろよろと後退して問い掛ければ、に気がついた政宗は威風堂々と叫んだ。

「それがどうした女!! 我こそは独眼竜、伊達政宗なるぞ、頭が高いわ!! 馬鹿めっ!!」

 捕縛されていてこの勢いとは、流石というかなんというか、大した御仁ではある。
けれどもは政宗からの一喝に怯むどころか、嘆きを露に叫んだ。

「いやーーーっ!! こんなちびっ子認めないーっ!!
 伊達政宗は、私の中では渡辺謙なんだーーっ!!」

 意味の分からぬ落胆をして、当人を真っ向から全否定。
これには流石の政宗も息を呑む。

「はーっはははははっ!! やはり義なき者は誰が見ようとも瞬時に判断されるのだなっ!!」

「やかましいわ、馬鹿め!! よくは分からんが、貴様など興味すら持たれなかったではないかっ!!」

「何をっ!! 我は謙信公の薫陶を受けし者ぞ!!」

 こんな時に、兼続はここぞとばかりに追い討ちを掛けてくる。
キレた政宗はついに足を出した。勿論兼続もそれに負けじと応戦する。
席に捕縛された者同士の、幼稚な蹴りの応酬が開幕した。
 この状況を愉快だと笑っていられるのは慶次くらいのものだった。
幸村も左近も呆れ果てているし、家康については困惑を通り越し、そろそろ胃でも抑えそうだ。

 

 

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