思わぬ拾い物 - 慶次編

 

 

 城に帰って、すぐ、自室の押入れの中に引き篭もった。
長い時間立て篭もってでもいるかのように、暗闇の中に蹲り続け、ついに夕食にも顔を出さなかった。
 何事かと周囲が気を揉んでいる事は分かっている。
けれど、踏ん切りがつかない。
前への第一歩が踏み出せない。

「姫、左近です」

 襖の向こうから、遠慮がちに声をかけられた。

「湯の支度が出来てます。お入りください」

 皆まで言わずとも分かった。
少しでも気が晴れればいいと、敏い彼が気を回してくれたのだ。

「ありがとう、今、行くね」

「はい」

 人目を避けるように浴場に向かい、温かい湯に浸かれば、自然と涙が溢れた。

「ひっ…うぅ…ひっく……えっく………ふぇぇ〜」

 必死で殺す嗚咽を聞きながら、慶次は苦い思いを噛みしめた。
浴室と庭を隔てる板を挟んだこちらとあちら。
隔絶されたそれぞれの世界に、ぞれぞれの味わった苦痛があった。

「…粋じゃないね…俺も、あいつも…」

 屋根から落とされた時、の目にあったのは、落とされた事への恐怖ではなかった。
風魔のした戯れへの痛みしかなかった。

「…粋じゃ…ない」

 あの時の、の眼差しが忘れられない。
何時も朗らかに笑っていた。
妙な事を考えたり、時には高揚に任せてギラギラとした眼差しで暴れだしてみたり。
眠そうな顔をしながら愚痴を漏らしてみたり、失敗に恐縮して縮こまってみたり、褒められて照れてみたり。
この時代にはない女性ならではの喜怒哀楽を見てきたが、そこにあれ程の悲しみを見た事はなかった。
 彼女が起こす変化を見るのが面白くて、楽しくて、つい気を許していた。忘れていた。
彼女は何も、どこも、"特別"ではない。"どこにでもいる一人の女性なのだ"と言う事を。

「すまん、さん」

 ごろつきに絡まれている時点で、顔を出せば良かった。
本当は、あの時、既にあの場にいたのだから。
だが自力で難局を切り抜けようとするの胆力に感心し、見慣れぬ技で自分の倍以上もある男を自力で撃破してる勇姿に見惚れた。そして次は何が起きるのか、どうするものかと興味本位で、傍観を決め込んだ。
 その結果が、これ。

「………さん、本当に…すまん…」

 一枚の板を隔てて繰り返される謝罪と、嗚咽。
それは自分だけが抱えた、自分だけの痛み。
例えこの板を取り払えたとしても、相手の思いと交わるような類の感情ではなかった。

 

 

 頭から湯船に浸かり、好きなだけ泣いて、は重い腰を上げた。
軽く自分の頬をつねり、気を抜けば、またすぐに溢れて来る涙を掌で拭う。

「このままじゃ、いけない。皆、心配してるはず。さ、早く何時ものさんに戻らなきゃ」

 そう言い聞かせて、風呂を出た。
自分の部屋へ向かう時に会った左近に、とても心配そうな顔をされた。
空元気すら出せなくて、必要最低事項を取り交わすのが精一杯だった。

さん、落ち着いた?」

「え、ええ…彼女は、まぁ…」

「そう、当分、そっとしておいてあげて」

「分かりました」

 何も聞かず余計な事も言わない。
そんな左近の優しい目を見ると、自分の中の核がガラガラと音を立てて崩れてゆくのが分かった。
押さえ込んでいる激情の全てがこの場で爆発するのを恐れたは、左近に願った。

「こんな時間に悪いんだけど…慶次さん、呼んでくれる?」

 普段なら「左近ではないんですね?」と軽口を叩くこの男が、無言のまま応じてくれたのだから、今の自分は相当酷い顔をしていたに違いない。
自分が引き篭もってしまったせいで停滞した業務とて山とあったはず。
その事にすら触れない優しさに感謝するとともに、自責が募る。
全ての非への謝罪は、また明日改めてするとして、今はまず部屋に行って、寝巻きから着替えなくてはならない。
一刻も早く、この胸を占める悪感情をここではないどこかで解き放たねばならないと思った。

さん、俺だ。入るぜ」

 左近と別れてすぐ自分の部屋へと戻って、着替えを済ませた頃。部屋の外から慶次の声がした。

「はい」

 部屋へと招き入れて、それからすぐに座布団を勧める。
「いや、いい」と言葉少なく断って下座に腰を落ち着けた慶次の前で、は正座だった。

「ごめんなさい、勝手に団子屋からいなくなって」

 何を言い出すのかと思えばそんな事で、慶次はぐっと奥歯を噛みしめる。

「一人で行かないで、最初から慶次さんを呼べば良かった。馬鹿なことをした…ごめんなさい」

「いや、俺こそ……護れなかった」

「…うんん、二人とも生きてる」

 生きてはいても、二人とも辱めを受けた。
女としては、ああした行為は、魂を汚されたようなものだ。それを考えたら大手を振っては喜べないし、命があったんだから良かったよね? などという気にはなれない。
 それを示すように目の前のの全身には覇気はなく、縮こまった体のあちこちが震えていた。

「……お願いが……あるの」

「なんだい」

「…松風を、貸して欲しい」

「乗って、どうするね?」

「分からない、でも思い切り、走りたい」

「分かった。俺も……一緒でいいかい?」

 控え目に問えば、は小さく一つ頷いた。

「こんな事、慶次さんにしか、頼めない………ありがとう、迷惑掛けてばかりで、ごめんなさい」

 謝られる謂れはなく、お礼を言われるような事もしていない。
自責を抱える慶次に手を引かれて、二人は厩へと降りる。
 厩でまどろみを楽しんでいた松風は、不意に流れ込んできた夜風に誘われるように立ち上がった。
慶次の周りの空気が張り詰めていることから、何事かがあったのだと察知する。
 彼の後方には、最近彼が良く構っている女の姿。その女の顔を見た松風は、自ら馬首を垂れた。
色のない眼差しをするへと顔を寄せて、慰め、労わる。

「…ごめんね、松風。こんな時間に、ごめんね…」

 慶次に抱え上げられて、松風の上へ。
二人で松風を駆って、城下を抜けて、街道を突っ走り、森の中を駆け抜け続けた。
松風にぎゅっとしがみつくは、松風の速さではなく、もっと他の事から逃れたがっているのだと思った。
 松風の息が上がるまで駆けに駆けて、満点の星が煌く夜空を見渡せる丘陵地帯へと飛び出した。

「一旦休もうか」

 そこで松風を休ませる意味も含めて、足を止めた。
丘陵地帯の頂きに聳える巨大な一本の樹木の麓へと身を寄せた。
近くに小河があるのかせせらぎの音がして、心に優しい。
 慶次の手を借りて降りたは、力なくそのままそこへと座り込んだ。
きょろきょろと辺りを見回し、何かを確認すると、ほっと安堵の息を吐く。
それから、すぐに天を仰いで、胸一杯に息を吸い込んだ。
 次の瞬間、絶叫。滂沱の涙。
人目を気にして、君主としての自分を違えぬ様に、多くの人の負担にならないようにと溜め込んでいた感情。
その全てを、はここで初めて、誰憚ることなく爆発させた。

 溢れる涙で肌が荒れ、目元は腫れ上がる。
声が枯れて、ひゅうひゅうと喉で息を吸うことで精一杯になっても、溢れる涙が止まる事はなかった。

さん」

 松風の手綱から手を放し、遠慮がちに伸ばされた大きな掌に身を委ねる。
の悲嘆はずっと続いて、空が白くなる頃ようやく落ち着いた。
泣き疲れて寝入ってしまったのだ。
 慶次はを抱き上げると松風を駆り、来た道を戻った。

「安心しなよ、さん……あいつに次はない」

 慶次の独白は、の知るところではなかったが、彼の中の揺るぎない核となった。

 

 

 夜が明けて、城に戻ってみれば、門扉の前で兼続が仁王立ちで待ち構えていた。

「先に言っておくが、中は修羅場だ」

 何かがあった事はもう明白で、更には慶次が深夜、渦中のを伴って城を出立。
その後朝帰りともなれば、城に残された諸将が暢気に構えているはずがなかった。

「えーっと……」

 戻って来るまでに目を覚ましたは、多少吹っ切れたようだった。
疲れてはいるし、泣いていたせいもあって酷い状態ではあったが、昨日よりかは幾分かマシな顔をしている。
それを見てほんの少し安心したのか、兼続は言葉を続けた。

「特に左近と幸村が修羅と化している」

 松風の上に座したままのは、引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
「援軍が必要であればそうなる」と言った兼続は、次に恐ろしい事を言い出した。

「更に、非常に言い難いのだが。
 君が拾ってきたあの少女は、された事に対してあまり傷ついてはいない」

「え? ハイ? 今、なんて…??」

 混乱するに兼続が説明するより早く、門扉の向こうで響く金属音と絶叫。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!! 様ーーーっ!! 慶次殿とどちらへーーーっ!!」

「どけ、ちび助!! あの傾奇野郎、朝帰りだとっ!!! 左近の刀の錆にしてくれる!!!」

「ご助勢仕りますぞっ!! お二方っ!! 政宗様、そこを退いてくだされっ!!」

「馬鹿者どもがっ!! 少しは落ち着かんかーっ!!」

 どうやら門扉の前で一人で食い止めているのが政宗。
そんな政宗に襲いかかっているのが、幸村、左近、そして本来なら彼の配下の伊達一門のようだ。

「何があったのか、大まかな事は彼女から直に聞いた」

 中の修羅場を一切意に介さずそう前置いて、兼続は話し続けた。

「だが彼女は、あれでも夫のある身だ。非常に言い難いのだが、君ほど初心ではない」

 さらりと言われた言葉に、思わず意識が遠のいた。

「三度、言い難いのだが。あの男は夫の商売敵だかなんだかで、よくああして絡んでくるのだそうだ。
 寧ろ彼女は、君の事を大層心配していたぞ。報告は、以上だ」

「あ、ああ……そ、そうね……そうよね……お嫁さんだったんだもんね……
 たかがあれ位で動じないわよね…」

 自分を慰めるように、言い聞かせるかのように独白した。
けれども体は正直で、脱力感と共に後方へと倒れた。
松風を操る慶次の胸板が支えてくれた事に、ほんの少しの安堵を貰い、ふぅと一つ溜息を吐く。

「どうするよ、さん」

「どうもこうも……」

 問い掛けられて返答に詰まる。
けれども、猶予は刻々となくなっていってるらしい。門の向こう側で上がる音が熾烈になって来ている。
このまま放っておくと大惨事になるんだろうなと踏んだは、少し身を起こして松風の頭を撫でて、兼続と慶次を見た。

「一緒に怒られてくれる?」

「ああ、勿論だ」

「よかろう、それが必要なのであれば」

 確証を取り付けて、安堵すると、は松風に身を寄せて耳元で一言囁く。

「ひっ!!」

「「「「ぎゃーーーーーーーーーっ!!!」」」」

「「「ぐはぁぁぁぁっ!!」」」

 立て続けに上がった呻き声は家家臣団のもの。
散り散りに蹴り飛ばされた彼らの前には、松風の勇姿。
自分の頭の上を猛スピードで飛び越えられた政宗は硬直し、兼続はぶち破られた扉を前に涼しい顔をしている。

「……いくらなんでも…松風で突貫は……」

 慶次が引き攣る中、いち早く起き上がった幸村、左近の絶叫が轟く。

様、そこにお座りなさいっ!!」

「姫、そこに座んなさいっ!!」

 意表を突く方法で皆の注意を本題から見事に逸らすことに成功したは、慶次共々こってり説教を食らい、向こう三日間の外出禁止令を言い渡された。

 

 

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移り気な彼が執着し始めるきっかけがこれ…って事で、もう少し続きますよ。(08.03.04.up)