思わぬ拾い物 - 左近編

 

 

 風魔撃退に成功した後、散らかされた城内を皆で片付けた。半日掛かる作業だった。
幸いだったのは、掲示板作りにやって来た大工衆の手を借りる事が出来た事だ。
お陰で困難を極めると思っていた作業の殆どを、比較的スムーズに終える事が出来た。
労う意味をかねて、手伝ってくれた大工衆や城下に住まう人々に簡単な夜食を振る舞い、その日はお開きにした。
細々とした残務処理や、への事情聴取は翌日以降へ持ち越された形だった。

「左近さん、いいですか?」

 日は暮れて、すっかり夜の帳が降りた頃。
左近の部屋を風呂から上がったが訪れた。

「はて、どうしました??」

「少しお邪魔してもいいですか?」

「どうぞ」

 時間としては夜更けだ。こんな時間に深い仲でもない男の元を訪れる危機感のなさに驚く。
けれどの顔色を見れば、それも仕方がない事かと納得した。
 の手には水の入った桶と、新しい手拭に包帯。そして薬と酒入りの瓶が一つづつ。

「肩の具合は…」

「大して酷くはありませんよ」

「本当に? 見せて下さい」

「ええ、それで気が済むなら」

 広げていた書を閉じて、目前に座ったの前で、肩を曝け出した。
自分でやったのか、肩には包帯が不恰好に巻かれていた。

「もう…やっぱり……全然ちゃんとなんかしてないじゃないですか」

 は進み出てきて、手を伸ばして包帯を解く。

「少し、痛いかもしれませんけど……我慢して下さいね」

「煙草、いいですかね?」

「どうぞ」

 左近は煙管を懐から出して、器用に片手で火をつけると、煙管を口に運んだ。
別に口寂しかったわけではない。
こうする事で湧き上がってくる欲に目が眩まないように、気を紛らわせようとしただけだ。

「良かった…針…折れて中に入ったままになってたりしたらどうしようかと思ったけど……
 それはないみたい…」

 は独白しながら、包帯を外し、桶の中に入れて来た水に濡れた手拭を絞った。
血が止まりつつある傷口を拭いて、手馴れた動作でまず血と汚れを取り除く。

「効き手じゃありませんからね、そんなに痛手でもないですよ」

 次に手拭を少しずらして酒入りの瓶を取った。
消毒の為に酒を傷口へとかければ、左近は眉を少しだけ動かした。

「あ、ごめんなさい、痛かったですか?」

 上目遣いで見つめられて、軽く首を振った。

「いいえ、平気です」

 心配をかけたくないと思いながら、同時に意識は別の場所へと向いていた。
触れられる度に、鼓動が跳ね上がる。
向けられる円らな瞳に浮かされそうになる。

「じゃ、続けますね」

 自責と不安の中にあるの眼差しは、あまりにもか弱く、それでいて煽情的だった。
その瞳を、甘く切ない熱と涙で満たしてみたくなる。

「消毒が終わったら、薬、塗りますから」

 傷を見る時や、薬を塗り付ける時の接近で目に入る項や桜色の唇はもとより、白い浴衣に包まれたの胸にどうしたって意識は奪われる。

「え、ええ…頼みます…」

 柔らかそうな唇が動く度、動作に合わせて艶やかな黒髪と胸元が揺れる度、理性は悲鳴を上げた。
壊れ行く理性を繋ぎ止めようと、一際強く、深く、煙草を吸い込む。
けれどそんな事くらいでは、湧き上がってくる衝動を抑えられそうになかった。
 煙管を持つ指先が、震える。
喉を流れる煙の味では、物足りない。
今ここにいるこの人の香りを、味を、舌で、指先で味わいたくなる。
 の気がつかぬところで、汗ばむ掌。
徐々に浮き上がったもう一方の己の掌。それを見て、我に返り、焦る。

「…姫は…平気なんですか?」

「何がですか??」

 これはまずい、流されてはならないと、自分を諌めるために声を出した。
内容は何でも良かった。ただ、今、この部屋を支配する沈黙が恐ろかっただけ。
この手の中にある無垢な花を、散らしてしまわないようにする為の口実が欲しかっただけだ。

「あいつに…その…」

「あー、大丈夫です、ちょっと驚いたけど」

 柔らかく微笑む姿から、彼女は男を知っているのだと落胆した。
だがその落胆も、長くは続かなかった。

「全く、止めて欲しいですよね。首なんかに噛みついたりして。
 頚動脈噛み切られるんじゃないかって、流石に背筋が凍りましたよ」

 彼女の発した言葉からも分かる通り、あの男がした事の意味を、彼女は何一つ理解してはいなかった。

「…クックックック…そうですか、そりゃ確かに大変だ」

 安堵で思わず笑えば、は膨れっ面になった。

「もう! 笑い事じゃないですって。頚動脈なんか噛み切られたら、血塗れになっちゃうんですからね?
 下手すれば出血多量で死んじゃうんですよ!?」

「そうですね」

 そう答えて、再び煙管を口に運んだ。煙草の煙に、の香りが混ざる。
風呂上りに香を炊いたのだろうか。
煙草の煙に溶けるそれは、甘く甘く、それでいてほんの少しだけ苦い。

「沈香…ですか」

「え? あ、そういう銘柄なんですね、これ。私は、お香の事はよく分からないんだけど……。
 お風呂一緒にしたさんにいい香りだねって言ったら、貸してくれたんですよ」

「…今度、町に香を探しにいきましょうか??」

「えー、嬉しいけど、いいですよ。だって高いでしょ?」

「少しくらいは、いいと思いますがね」

 思わぬところでの嗜好を知り、胸が浮き立った。

『しかし…沈香ってこんなに甘く苦く感じるものだったか?』

 浮かんだ疑問の答えは、自分の中にある事にすぐに気がついた。
甘さはへの思い、苦さは己の理性。それだけの話だ。

「はい、薬はここまで。もうちょっと待ってくださいね。包帯、新しいのにしますから」

 丁寧に包帯を扱う指先は白く華奢で、落ち着いている息遣いが妙に艶かしく見える。

「姫」

「はい?」

 途中で思わず手を掴んで、まっすぐに見つめれば、は無垢な眼差しを向けてきた。

「…もういいですよ、後は左近が自分でやります」

「だめですよ、さっきも変な形になってたじゃないですか。任せて下さい、これでも慣れてるんですよ」

 抱えた限界に気がつかずに、手を差し伸べてくるこの人の善意は、どこまで甘美であり残酷なのだろうか。
少し、自覚をさせた方がいいだろうか? それとも、知っていてわざと?
視線で問い掛けても、残念ながらその答えは得られない。

「大丈夫ですよ」

 無欲な笑顔を目の当たりにすれば、掴んでいた手からは自然と力が抜けた。
の手によって治療が再開される。

「左近さん」

「なんですか、姫」

「本当に…ごめんなさい……でも、安心しました。怪我、大した事なかったし、それに……あの人の事…」

 ふと手を止めて、眼差しを伏せる。

「私だけじゃ、あの人からは逃れられなかった」

「…いいえ、左近は姫の護人ですから」

 軍師という肩書きを口にしなかったのは、今は別の場所にいるであろう真の主の事を考えてではなかった。
"護人"という言葉を使う事で、一縷の望みをかけた。

気がついてくれますように。鈍くて、ひたむきで、まっすぐなこの人が、今こうして大人しくしている男が、本当は貪欲な獣である事を察して、自ら逃げ出してくれますように。
 そして、出来る事ならば…気がついた上で、全てを受け入れてくれますように。

「そっか、なら安心だな」

 からからっと笑われて、密かに込めた思いは、見事に玉砕。思わず盛大な溜息が漏れる。

「姫……男は安心されたらおしまいなんですよ。その言葉じゃ喜べませんねぇ」

「えー、そうなの? でも……女が身を落ち着けたくなる場所っていうのは、
 大抵、落ち着ける相手の傍にありますよ」

 「知りませんでした?」とはにかんで微笑まれれば、白旗を振るしかない。

「ご教授痛み入ります。肝に銘じますよ」

「そうしてください」

 ぽんと、肩を軽く叩かれた。終わりの合図だ。
身を引いて後片付けを始めるを見ながら、乱れた着衣を元へと戻す。

「それに…左近さん、特に女の扱いに慣れてそうだから。気をつけないと、本命さん逃がしちゃいますよ」

「ええ?!」

 煙管を片付け始めた矢先、向けられた言葉にどきりとして顔を上げた。
他意はないらしいは、相変わらず片付けに夢中だ。

「上手く言えないんだけど……今、触れた時……ちょっとクラっときた」

「……な、何にですか?」

「んー、なんというか……なんか、このまま寄りかかってみたいな、とかそんな感じ」

 これはもしかすると、するのか? と胸に飛来した希望に追い縋る。

「昔、姉と母が交わしていた会話で……"体で女を魅了する男が世の中にはいるんだよ"って聞いた事があって。
 私はそれこそ子供の頃の話で、ピン! とこなかったんだけど……。
 今ようやくその意味が分かった…そんな気がしました」

 どういう会話を子供の前でしてるんだと、の姉と母に呆れた。
と、同時に、他の者よりも一歩深くの事を知った喜びに満たされる。

「でね、得てしてそういう人は自覚があるかないかの、どっちかなんですって。
 左近さんは……自覚なさそうだからなぁ」

「断定ですか?」

「うん、自覚があるんだとしたら、凄い性質が悪くなっちゃうじゃないですか。
 そんな左近さん、ちょっと嫌ですよ」

 片付けをあらかた終えて、は立ち上がる。

「それじゃ、お暇します。こんな時間に、すみませんでした」

「いや、こちらこそ……光栄です、色々と」

 意味深に笑って、送り出すべく立ち上がった。

「…あ」

「え?」

 その時に見たのは揺れた長髪の向こうに浮かぶ、あの赤い痣。

「…姫、ちょっといいですか」

「はい?」

 おいでおいでと手招きして、己の間合いに閉じ込めると、それからが両手で抱えている桶を、その場に降ろさせた。

「少し、学んで下さい」

 「何をでしょう?」と返される前に、左近はを抱き寄せて身を屈めた。
風魔がつけた痣の上へと迷わずに己の唇を重ね合わせる。

「へ?」

 あの時とは全く違う状況。少なくとも安堵は出来るはずの相手が突然とった行動。
それをどう判じていいのか分からずに、は大きな目で瞬きを繰り返しながら立ち尽くす。
その間に、左近の口から差し出された舌はの首筋を這い、添えられている唇がきつくそこを吸い上げた。

「ひゃぅっ!!」

 くすぐったさに反応して上がった声は、一際大きく、甘かった。

「え? え? ええっ?!」

 竦んだ体をそのまま体よく畳の上へと転がして、左近はの上に圧し掛かった。
散らばった髪を押さえ込まないように顔の横に厳つい腕を置いて、もう一方の掌で髪を撫でながら優しく見つめる。

「え? あ、あの……左近…さん?」

 指先で髪をすくい上げ、口付けてから髪を離した。
たったそれだけの行動で、の頬は真っ赤に染まった。
続いて左近は差し伸べた手での顎をすくい上げた。
親指で唇をなぞれば、は体を竦ませて目を閉じる。

口から漏れる息はほんの少し熱を纏い、上がった声は甘い響きを含む。

「こういう時間に、男の部屋来ちゃだめですよ。それと…そういう痣も、早く消さないとねぇ」

 体をずずいと寄せて、わざわざ耳元で囁いた。
の竦んだ体が、更に小さく縮こまる。
それを見た左近は徐に身を起こすと、手を差し伸べて抱き起こした。

「…………これで少しは分かりましたかね? あいつがしたかったのは、こういう事なんですが」

「ええええっ?!?!!」

 目を開けたはガチコチに固まって赤面し、その後絶叫した。
初心なの頭を撫でて、左近は言う。

「ま、俺への嫌がらせ目的でしょうけどね」

「そ、そうか……別に頚動脈を噛み切りたかったわけじゃ…ないんですね」

「多分ね…そういう揺さぶり方も…あるって事です」

 こくこくと頷くから離れれば、は一人で独白していた。

「そ、そうか…気をつけなきゃ……。
 こっちでは、まだそういう点がしっかり法整備されてるわけじゃないんだものね…」

 やれやれと、左近は密かに溜息を吐いた。
少し前までは、託けて本気で手を出そうと考えていた。
これだけ初心な相手なら、一晩で墜とす自信はある。
 けれども、押し倒した時に自分を無条件に信じる瞳の中にほんの少しの恐怖が湧き上がっていた事に気がついてしまった。だから、身を引いた。これは早計だと諦めた。

「そういう事です」

「有り難うございます、左近さん。以後気をつけますっ!!」

 正座して真摯な眼差しで言われて、ほんの少し良心が痛んだ。
左近からしてみたら感謝されるような事など一つもしてはいないのだから当然と言えば当然だ。

「それじゃ今度こそお暇します。おやすみなさい」

 桶を取り上げて軽く頭を下げてから、は左近の部屋を出た。
部屋に残った左近は、そのまま畳の上へと寝転がると、天井を見上げてから己の目元を覆い隠した。

「……あー、俺、とんでもないトコに仕官しちまったなぁ…」

 この夜、彼がこのまま眠る事が出来なかった事は、言うまでもない。

 

 

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流石の左近でも、無垢な彼の人を落とすのは至難の技らしい…。って事でもう少し続きます。(08.03.04.up)