思わぬ拾い物 - 左近編 |
風魔撃退に成功した後、散らかされた城内を皆で片付けた。半日掛かる作業だった。 「左近さん、いいですか?」 日は暮れて、すっかり夜の帳が降りた頃。 「はて、どうしました??」 「少しお邪魔してもいいですか?」 「どうぞ」
時間としては夜更けだ。こんな時間に深い仲でもない男の元を訪れる危機感のなさに驚く。 「肩の具合は…」 「大して酷くはありませんよ」 「本当に? 見せて下さい」 「ええ、それで気が済むなら」 広げていた書を閉じて、目前に座ったの前で、肩を曝け出した。 「もう…やっぱり……全然ちゃんとなんかしてないじゃないですか」 は進み出てきて、手を伸ばして包帯を解く。 「少し、痛いかもしれませんけど……我慢して下さいね」 「煙草、いいですかね?」 「どうぞ」
左近は煙管を懐から出して、器用に片手で火をつけると、煙管を口に運んだ。 「良かった…針…折れて中に入ったままになってたりしたらどうしようかと思ったけど…… は独白しながら、包帯を外し、桶の中に入れて来た水に濡れた手拭を絞った。 「効き手じゃありませんからね、そんなに痛手でもないですよ」 次に手拭を少しずらして酒入りの瓶を取った。 「あ、ごめんなさい、痛かったですか?」 上目遣いで見つめられて、軽く首を振った。 「いいえ、平気です」 心配をかけたくないと思いながら、同時に意識は別の場所へと向いていた。 「じゃ、続けますね」 自責と不安の中にあるの眼差しは、あまりにもか弱く、それでいて煽情的だった。 「消毒が終わったら、薬、塗りますから」 傷を見る時や、薬を塗り付ける時の接近で目に入る項や桜色の唇はもとより、白い浴衣に包まれたの胸にどうしたって意識は奪われる。 「え、ええ…頼みます…」
柔らかそうな唇が動く度、動作に合わせて艶やかな黒髪と胸元が揺れる度、理性は悲鳴を上げた。 「…姫は…平気なんですか?」 「何がですか??」 これはまずい、流されてはならないと、自分を諌めるために声を出した。 「あいつに…その…」 「あー、大丈夫です、ちょっと驚いたけど」 柔らかく微笑む姿から、彼女は男を知っているのだと落胆した。 「全く、止めて欲しいですよね。首なんかに噛みついたりして。 彼女の発した言葉からも分かる通り、あの男がした事の意味を、彼女は何一つ理解してはいなかった。 「…クックックック…そうですか、そりゃ確かに大変だ」 安堵で思わず笑えば、は膨れっ面になった。
「もう! 笑い事じゃないですって。頚動脈なんか噛み切られたら、血塗れになっちゃうんですからね? 「そうですね」 そう答えて、再び煙管を口に運んだ。煙草の煙に、の香りが混ざる。 「沈香…ですか」
「え? あ、そういう銘柄なんですね、これ。私は、お香の事はよく分からないんだけど……。 「…今度、町に香を探しにいきましょうか??」 「えー、嬉しいけど、いいですよ。だって高いでしょ?」 「少しくらいは、いいと思いますがね」 思わぬところでの嗜好を知り、胸が浮き立った。 『しかし…沈香ってこんなに甘く苦く感じるものだったか?』 浮かんだ疑問の答えは、自分の中にある事にすぐに気がついた。 「はい、薬はここまで。もうちょっと待ってくださいね。包帯、新しいのにしますから」 丁寧に包帯を扱う指先は白く華奢で、落ち着いている息遣いが妙に艶かしく見える。 「姫」 「はい?」 途中で思わず手を掴んで、まっすぐに見つめれば、は無垢な眼差しを向けてきた。 「…もういいですよ、後は左近が自分でやります」 「だめですよ、さっきも変な形になってたじゃないですか。任せて下さい、これでも慣れてるんですよ」
抱えた限界に気がつかずに、手を差し伸べてくるこの人の善意は、どこまで甘美であり残酷なのだろうか。 「大丈夫ですよ」 無欲な笑顔を目の当たりにすれば、掴んでいた手からは自然と力が抜けた。 「左近さん」 「なんですか、姫」 「本当に…ごめんなさい……でも、安心しました。怪我、大した事なかったし、それに……あの人の事…」 ふと手を止めて、眼差しを伏せる。 「私だけじゃ、あの人からは逃れられなかった」 「…いいえ、左近は姫の護人ですから」
軍師という肩書きを口にしなかったのは、今は別の場所にいるであろう真の主の事を考えてではなかった。 「そっか、なら安心だな」 からからっと笑われて、密かに込めた思いは、見事に玉砕。思わず盛大な溜息が漏れる。 「姫……男は安心されたらおしまいなんですよ。その言葉じゃ喜べませんねぇ」 「えー、そうなの? でも……女が身を落ち着けたくなる場所っていうのは、 「知りませんでした?」とはにかんで微笑まれれば、白旗を振るしかない。 「ご教授痛み入ります。肝に銘じますよ」 「そうしてください」 ぽんと、肩を軽く叩かれた。終わりの合図だ。 「それに…左近さん、特に女の扱いに慣れてそうだから。気をつけないと、本命さん逃がしちゃいますよ」 「ええ?!」 煙管を片付け始めた矢先、向けられた言葉にどきりとして顔を上げた。 「上手く言えないんだけど……今、触れた時……ちょっとクラっときた」 「……な、何にですか?」 「んー、なんというか……なんか、このまま寄りかかってみたいな、とかそんな感じ」 これはもしかすると、するのか? と胸に飛来した希望に追い縋る。
「昔、姉と母が交わしていた会話で……"体で女を魅了する男が世の中にはいるんだよ"って聞いた事があって。 どういう会話を子供の前でしてるんだと、の姉と母に呆れた。 「でね、得てしてそういう人は自覚があるかないかの、どっちかなんですって。 「断定ですか?」 「うん、自覚があるんだとしたら、凄い性質が悪くなっちゃうじゃないですか。 片付けをあらかた終えて、は立ち上がる。 「それじゃ、お暇します。こんな時間に、すみませんでした」 「いや、こちらこそ……光栄です、色々と」 意味深に笑って、送り出すべく立ち上がった。 「…あ」 「え?」 その時に見たのは揺れた長髪の向こうに浮かぶ、あの赤い痣。 「…姫、ちょっといいですか」 「はい?」 おいでおいでと手招きして、己の間合いに閉じ込めると、それからが両手で抱えている桶を、その場に降ろさせた。 「少し、学んで下さい」 「何をでしょう?」と返される前に、左近はを抱き寄せて身を屈めた。 「へ?」
あの時とは全く違う状況。少なくとも安堵は出来るはずの相手が突然とった行動。 「ひゃぅっ!!」 くすぐったさに反応して上がった声は、一際大きく、甘かった。 「え? え? ええっ?!」 竦んだ体をそのまま体よく畳の上へと転がして、左近はの上に圧し掛かった。 「え? あ、あの……左近…さん?」 指先で髪をすくい上げ、口付けてから髪を離した。 「こういう時間に、男の部屋来ちゃだめですよ。それと…そういう痣も、早く消さないとねぇ」 体をずずいと寄せて、わざわざ耳元で囁いた。 「…………これで少しは分かりましたかね? あいつがしたかったのは、こういう事なんですが」 「ええええっ?!?!!」 目を開けたはガチコチに固まって赤面し、その後絶叫した。 「ま、俺への嫌がらせ目的でしょうけどね」 「そ、そうか……別に頚動脈を噛み切りたかったわけじゃ…ないんですね」 「多分ね…そういう揺さぶり方も…あるって事です」 こくこくと頷くから離れれば、は一人で独白していた。 「そ、そうか…気をつけなきゃ……。 やれやれと、左近は密かに溜息を吐いた。 「そういう事です」 「有り難うございます、左近さん。以後気をつけますっ!!」 正座して真摯な眼差しで言われて、ほんの少し良心が痛んだ。 「それじゃ今度こそお暇します。おやすみなさい」 桶を取り上げて軽く頭を下げてから、は左近の部屋を出た。 「……あー、俺、とんでもないトコに仕官しちまったなぁ…」 この夜、彼がこのまま眠る事が出来なかった事は、言うまでもない。
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流石の左近でも、無垢な彼の人を落とすのは至難の技らしい…。って事でもう少し続きます。(08.03.04.up) |