帰順

 

 

 家康が示唆したトラブルの処理が一段落した頃。
の手を借りて身支度を整えて、再び、家康と対峙した。
白鳳の間に残っていた家康は、盟主としての席ではなく、下座に座っていた。

「家康様?」

 その不自然さに首を傾げれば、家康は両手をついて平伏する。

「……こういう場では、"骨折り"と言うて下され、様」

 長政に激を発した時から、彼のへの呼称は変わっていた。
その意味を示すように、家康は顔を上げる事はなく、そのまま言う。

「徳川家康、配下浅井長政・市、そして徳川一門。
 これより、家がご当主様を主と仰ぎ、子々孫々までお仕えする所存にござる」

「ハイ?」

 素っ頓狂な声を上げるを上座に座らせた左近が、やっぱりかと口の端を吊り上げる。

「うちの姫は懐はでかいし人はいいんですがね。
 いまいち政治に疎くてね。分かり易いように説明して頂けますか」

 そこで初めて顔を上げた家康は落ち着いた声で答えた。

「元より北条に我らを遇するつもりはありますまい。
 まして、あの窮地で儂を救うて下さったのは様ただお一人じゃ。

 そのような方を討てなどとよく言うわ」

「だが、その借りは今ここで返した。あんたがこの先付き合う筋合いはないんじゃないのかね?」

 部屋の隅により掛かる慶次の言葉を受けて、も頷く。

「そうですよ、今回の件で思いッッッッ切り、北条を敵に回しましたけど、平気なんですか??
 北条が喧嘩売りたいのは、うちだけだと思うんですけど…」

「構いませぬ、家康は様の元へと家臣、民、領と共に帰順致す。様の敵は、家康の敵です」

「これよりはどうかお傍でお使い下さい」

 家康の言葉を継いで、家康の後方に座していた長政が下げていた頭を更に下げた。

「無条件で全面降伏ね……しかもうちにですか……こういっちゃなんだが、あんたも物好きだね」

 左近の言葉を視線で制して、は上座から立ち上がると、家康の前へ進み出る。
そこで膝を突いて家康の前へと掌を差し出して、家康の手を取った。

「嬉しいです、家康様…本当に、心強い……これから宜しくお願いしますね。長政さんも、市さんも」

 家康と繋いだ手を放しつつ後方へと視線を流した。
浅井夫妻は互いに一瞬だけ視線を交わし安堵したように頷いた。

「さて、話が済んだところでもう一つ、はっきりさせなきゃならない事があるんじゃないかい?」

 慶次の言葉を聞き、は「そうだった」と掌を打ち鳴らした。
きょろきょろと当たりを見回せば、どこからともなく、先程の忍者が姿を現した。
 彼はまだ膝を折ってはいない。

「あ、あの……半蔵さん…ですよね? さっきは助けて下さり有り難うございました」

 ぺこりとお辞儀をすれば、半蔵は冷ややかな眼差しのまま小さく首を横へと動かした。

「妻が世話になった」

「いいえ、それで、あの……ちゃんにはもうお話したんですけど……聞いて頂けましたか?」

「受諾」

 無用な会話を好まないらしい半蔵はそれだけ言うと、再び姿を消した。

「……これは、喜んでいい所だよね??」

 左近に視線を送りながら問いかければ、左近は首を縦に振った。

「奴さん、どうも話すの好きじゃないみたいですからね。
 詳しい話は奥さんの方に伺えばいいんじゃないですかね」

「そうだよね、うん、そうしよう!!」

 程なくその場に呼ばれたに何がどうしてそうなったのかと経緯を問えば、は分からないと首を傾げ、自分と彼が再会した時のことを懸命に語るばかりだった。

 

 

 

「…? あ、ああ!! 旦那様、半蔵様!!」

 竹林の中で目覚めた瞬間、彼女の前には一人の忍者の姿があった。
待ち焦がれた最愛の夫との再会を悟り、は感動のあまり涙を零した。

「お会いしたかった……とてもとても、寂しゅうございました」

「何故、あの城にいた?」

「あ……様?? 様は何処ですか??」

 城ではなく、眠っている間に場所を移されたことに気がついて、は混乱する。
そんなに構わず、半蔵は言う。

「…館に戻れ……我が主もじきに決まろう」

「……半蔵様…もしや、様を…?」

「否」

 その一言でほっとしたようには胸を撫で下ろした。

「…街道までは送ろう」

 さっさと話を決める半蔵の掌から、真新しい若竹色の着物が放られる。
それを拾い上げたは、しばし考えた後、そのままそこへと座りこんだ。

?」

 は葛藤しているのか、視線を何度も彷徨わせた。二人の間にほんの少しの沈黙が過ぎる。
己の中の葛藤にようやく結論を見出したのか、はようやく口を開いた。

「…い……いや……です」

 何時如何なる時も従順に従っていた愛妻の、初めての反抗。それに驚き、半蔵が踵を返した。
彼女の心の在り処を冷徹な視線で問えば、は萎縮しながらも言った。

「…お…お友達だと……言って下さったんです」

 わなわなと震えて、嬉しそうに微笑みながら、涙を零す。

「……私、里でもどこでも、役立たずで……忍者にもなれなくて……。
 半蔵様のお嫁さんにして頂けたことしか、喜べることなんか、何もなくて……。
 どこにいても、誰からも相手にしてもらえない……」

 覆面の下に隠された半蔵の眉がぴくりと動いた。

、それは」

「わ、分かってます、私は、里のお荷物だから…仕方ないって。
 で、でも、そんな私に様は優しくして下さった。
 初めてなのです、私のことを知らず…ありのままの私を見て、居心地がよいと…そう言って下った……」

「…私、半蔵様の妻であることを誇りにしています。妻である事に不満なんてありません。
 昔も今も、変わらずお慕いしております……でも、でも……ずっとずっと、寂しかった」

 ちらちらと上目遣いで、半蔵の心の動きを伺いながらは言う。

「半蔵様のこと、どのような任も卒なくこなされると信じております。
 けれども、何時、どこで、半蔵様が何をされているのか、私は存じません。
 里の者は、私は忍ではないからと、何も教えてくれません」

「それは当然のこと」

「存じております。でも、とてもとても、寂しいのです。不安で心が痛いのです。
 何時帰っていらっしゃるのか、お怪我はされていないかと、不安にならない日はありません。
 どんなにどんなに信じていても、この不安だけは、掻き消す事は出来ぬのです」

 自分の言葉で感極まってきたのか、の声は段々と泣き声になってきた。
懸命に話し続けようと、しゃくりあげて涙を拭い、は続ける。

「半蔵様のお傍にいられないこと、半蔵様と共に苦楽を過ごせぬことが、悲しい。
 ……私は、里では誰からも相手にされずとも、半蔵様の妻であればこそ、楽ばかり……。
 それがとても寂しい……とても苦しいのです」

 息を呑む半蔵の前で、堪えが利かなくなったは、胸にある思いの全てを吐露し続けた。

「里では何時も独りぼっち。
 里の外に出ても、半蔵様のご迷惑にはなれないから、深く語る事が出来ずに独りぼっちです。

 半蔵様、は半蔵様の感じる苦楽を共にしたいのです。
 それが出来ない今の生は、には、まるで闇の中に取り残されたようです。
 ……時に、生きている意味すら、見失いそうになります」

 半蔵の目が初めて大きく見開かれた。

「お前は忍ではない。闇は忍だけのもの」

「いいえ、いいえ。には、半蔵様の生に寄り添えない世界は、闇と同じです」

「ずっとそこにいたと言うのか」

 こくりと頷いて、それからはぽつりと呟いた。

「でも……光が見えました」

 言いたい事を言い終えたの顔には、何時もの柔らかさが戻り始めていた。

「光…か」

「はい、手を差し伸べて下さったのです」

「………がか…」

「…はい…」

 安全な館の中にあって、何時如何なる時も笑みを絶やすことがなかった愛妻。
彼女は知らず知らずのうちにこれ程の痛みを抱え込んでいたと言うのか。
外に出すことが彼女を傷つけてしまうのではないかと配慮してのことだったが、それが仇になったようだ。
 半蔵は小さく溜息を吐いた。彼の眼差しには苦渋の色が宿る。
それは目の前にいる女性を心から愛しているからこそ噛みしめる苦さだ。

「……様……私を庇ってくれました。私と同じように女性なのに、本当は怖くて仕方なかったはずなのに……
 ………私を庇って風魔と喧嘩をしてくれました」

 ぴくりと半蔵の顔を引き締まる。

「風魔とよく会うのか?」

「はい、旅に出てから時折絡まれます。もう慣れてます。
 酷いことを言われたり、されたりはするけれど……諦めています、私では抗いようがありませんから…」

「何故、我を呼ばぬ」

 声に怒りが篭もれば、は項垂れた。

「…邪魔にはなりたくないから……これ以上、半蔵様や、色んな方のお荷物にはなりたくない。
 ……我慢していれば、風魔は飽きて立ち去ります」

 珍しく苦虫を百匹は噛み殺したような表情になった半蔵に気がつかずに、は独白するように語る。

「…様は……お荷物扱いしないんです。私の事。
 ……半蔵様の妻だと知らなくても、普通に接して下さって……助けて下さったんです。
 あんな風に接して下さる方に出会ったのは…初めてです」

 しんみりと語り、同時に顔を綻ばせた。

「……友達になりたいって……言ってくれて……とてもとても…嬉しかった…」

「友か」

「はい」

 の前へと半蔵は腰を落とし、指先での頬に流れる涙を拭う。

「…半蔵様………あの……出来れば……出来ればなのですが……」

「なんだ」

は、様のお傍にいたいです。
 それで、様のお力に半蔵様がなって下さったら、とてもとても嬉しいです」

 結局、そこへ話が行き着くのかと眉を寄せた。
忍者としての自分を求めてあらゆる勢力から声を掛けられた。
だが主と仰ぐべき器にはまだ会えてはいない。だから戦国を流離っている。

『絡め手か』

 自分がだめなら細君から攻めるとそういう事か。
視線に嫌悪を含ませれば、それを気取ったは言った。

「違います、様は、本当に私の夫が何方なのかをご存知ありませんでした。
 配下の方が口にして、初めて、気がつかれました。
 半蔵様が主と決めた方が既にいらっしゃるのならば……は口は挟みません。
 けれど……こうも思います。……その方が、何時か、様を害するとしたら……
 それはとてもとても辛くて悲しくて苦しいことだと…」

「絆されたか」

「かもしれません。でも、本当に嬉しかったのです」

 は半蔵の手を取り、まっすぐに半蔵を見つめて緩やかに微笑んだ。
の笑みは、覚悟を決めた者が見せる笑みだった。

「あの、半蔵様、旦那様……どうかここでをお斬り下さい」

「?!」

「このままでは、は半蔵様のお邪魔になるばかりです」

「何を言う」

 ふるふると首を横に振り、は真剣に訴え続けた。

「殿方のお仕事に女だてらに口を挟みました、無礼です。
 でもこのまま里に戻ってもの世界は何も変わりません、闇の中のままです。
 様と巡り合い、惹かれました。でも今は乱世。何時、敵となるか分かりません。
 けれどそうなって、初めて友と呼べる方を失ったら、にとっては、そこは闇ではなく地獄です」

 半蔵の掌から手を外し、髪をずらして頭を垂れて首を差し出した。

「どうか、お斬り下さい。は弱い……このような闇の中……耐えて生きる事は出来ませぬ……。
 ならばせめて、せめてここで……お慕いする半蔵様の手にかかって、眠りたい……」

 

 

 そこまで話したところで、ははたと気がついたように閉じていた瞼を開いた。
勿論、場の空気は凍りつき、皆は一様に絶句している。

『なんていうか、凄い……この子は、きっと無意識なんだろうけど……凄まじい天然なんだろうけど……』

「気の毒だ」

 思わずが漏らした第一声に、皆、頷くことしか出来なかった。

「え?」

 こんなに愛されているのに。
好きだからこそ、愛しているからこそ、大切に大切に閉じ込めて何不自由なく過ごさせて来たのに。
 そりゃ、閉じ込められ続ければ鬱積も溜まるだろう。
だとしても今は現代ではない。一歩外へ出れば、数多の危険で溢れている戦国乱世。
そんな中で安全に、血生臭い事柄に晒されることもなく、今まで生を繋いでこれたのは、一体誰のお陰なのか。
そしてそれを享受できたのは、与えてくれる者が、どれ程自分のことを思い、心を割いてくれているからなのか。
それをこの子はきっと分かっていない。

 非力な自分を持て余し、足掻く事に精一杯で、気がつくことすら出来ないのだと思った。
だから臆面もなく寂しいと言い、苦楽を共にしたいと強請った。
その上願いが叶わぬのならば、愛に殉ずるからその手で殺せと来たもんだ。
 それは、はっきり言ってただのない物強請り。
だとしても、彼女にとっては生死を分かつ大問題。

「……なんというか…その…ごめんなさい」

 全く分かっていないから視線を外して、は思わず天井へと向い謝ってしまった。
半蔵からしたら、愛妻との再会は、これ以上はないメンタル攻撃だったといって過言ではないはずだ。
全くそんなつもりはなかったけど、結果的にはもんの凄い方法を取ってしまった。
まさか、このほわほわした非力で癒し系の代名詞のような人が、あれだけの働きをする男を窮地に立たせるだけの発言力を持っているなんて。一体誰が想像出来ただろう。予想外だ。想定外もいい所だ。
 そしてその事実に気がついて、半蔵の心労を考えれば、どうしても一言、謝らずにはいられなかった。

「…本当にごめんなさい……」

 天井の上にいる半蔵が小さく嘆息する。
を観察する半蔵の目が、ほんの少し温かさを持った。

様?」

「う、ううん。なんでもない。大丈夫だから」

 口でそう言い、視線は天井へと向けて訴えた。
『友として責任を持ってその辺を理解させるので、許してください。もう暫く時間をください』と。
 相手からの返答を待たずに、へと視線を移した。

「……あ、あのさ…ちゃん」

「はい?」

「一応言っておくけど、半蔵さん別に好きでちゃんを館に放り出してる訳じゃないからね?」

「え、ええ…存じておりますよ。半蔵様程の方です、お仕事は沢山おありでしょうし…」

「いやいやいや、ちょっと待とう、そうじゃない。そうじゃないんだよ、ちゃん」

「はい??」

「えーとね、その、そりゃ仕事は大事だよ? 大事だけどさ、何もかもが仕事の為だけじゃなくて……。
 例えば士官の話ね。出来るだけいい御家に士官する事で、少しでもちゃんの生活が楽になったら
 いいなーとか、ちゃんが平和に暮らせたらいいなー、みたいなさ。そういう感覚、分かる??」

「…えーと…?」

「う…だ、だめか……えーと、それじゃ、もっと具体的に話すと…ご飯の時の話ね。想像してみてくれる??」

「は、はい」

「ご飯の時とかとかにさ、成功したからと言って今日は戦場で何人ブチ殺してきました。
 秘密の作戦を貰って火計で敵の陣を焼き尽くしてきました〜なんて話、出来ないじゃん?
 折角ちゃんが作ってくれた美味しいご飯、一瞬でまずくなっちゃうし」

「ええ、ええ、そうですね」

「でしょ? でしょ!? だからね、半蔵さんは、心にそういうのを全部諌めてるだけなんだと思うよ」

「えええっ!! そ、そうなのですか??」

 やっぱり気がついていなかったかと、は冷や汗を流す。

「う、うん。あのね、私が思うに……半蔵さんが闇の中で惑わずに大変なお仕事を卒なくこなせるのは、
 ちゃんという光があるからなんだよ。
 ちゃんが幸せに生きていてくれたら、それでいいって思っているからなんだよ」

「まぁ……まぁ、まぁ!!」

 嬉しそうに顔を綻ばせて、は身を捩った。

「だからね、今度から半蔵さんに「殺してくれ」とか言うのは止めようね。
 そんな事言われたら、半蔵さん、悲しくて苦しくなるからね」

様〜、本当に本当に、そう思われますか?」

「う、うん」

 思うも何も、それがバレバレな関係を構築しているじゃないか。
しかも貴方、説き伏せて、家へ彼を帰順させたじゃないか。
そう思っても、それ以上突っ込む事が出来なくて、は引き攣った笑みを口元に貼り付けた。
 小さく音を立てて、天井に貼られた板が動く。
それに気がついて見上げれば、微かにずれた板間の向こうにいる半蔵と目があった。
彼の目には、に対する敵意や嫌悪はもとより、見定めようとするような色も、もうなかった。

『宜しく頼む』

 半蔵の苦労を分かってしまったは、瞬きする事でYesと答えた。
日の本一の忍者・服部半蔵。彼の最大の弱点は、この愛妻。
恋は盲目とは、よく言ったものだ。

 

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突然の出来事? いえいえ、策略は、当人の知らぬ間に巡らされているものです。(08.03.13.up)