今そこにある世界

 

 

「どうですかね。姫の容体は」

「…魘されていらっしゃいます…とても苦しそうで…」

 水を貼った桶を両手で抱えているの目には薄らと涙が浮かぶ。感受性が強いらしい。
彼女はの抱えた痛みをはっきりとした形で見知る事は出来なくても、本能で感じ取っているようだ。

様……本当に…お気の毒で…」

「やりますよ。傍についていてもらえますかね?」

「はい、お願い致します」

 温くなった水が貼られた桶を受け取って、左近は身を翻した。
彼の顔には珍しく苛立ちと焦りがあった。

『…気に入らないぜ。こういうのは…』

 誰か目に見える者からの攻撃ならば、自分が策を練り、百戦錬磨の若武者が打破する。
だがこのようにの心に直接手を出されては、打つ手がない。
その事実が歯痒く、また苛立たしい。

 彼のように気を揉み、焦りを感じている者は、他にもいる。
兼続は自室へと篭もり魔祓いの為の祈祷を始めるし、幸村は城下の医者を片っ端から訪ね歩いた。
家康、政宗、長政の三人は古い文献に打開策を求めて、城の地下にある書庫へと篭りきりだ。
あの慶次でさえも落ち着かないのか、の部屋の前に陣取り、貧乏揺すりを続けている。
彼の視線は暗く、鋭く、全身に張り詰める空気は冷たい。
逼迫した戦時下にあって、尚傾くこの男が、これ程の緊張と苛立ちを抱え込むとは、やはり異常事態だ。

『それだけ、事は厄介ということですか。さて、どうしたものか…』

 まずは水の替えが先だと、水場へと歩みを進めた。
井戸から汲み出して瓶に貯めておいた水を桶へと移して、元来た道を戻る。

「左近だ。さん、いいかい?」

「あ、はい。ただいま」

 がそっと襖を横へと引いた。
立ち入らずにその場で桶を手渡したが、その時に見たの姿は、酷いものだった。
 頬は紅潮し、額どころか首筋にまで玉粒のような汗が噴出している。
繰り返される呼吸は荒く、きつく閉じられた瞼の奥からは無意識の涙が溢れる。

「失礼致しますね」

「あ、ああ……」

 は桶と共に奥へと下がった。襖が閉められる。

「慶次さんよ」

「なんだい」

 家臣随一、最強にして最後の守護神とでもいう体で、鉾と共にそこに陣取る男へと左近は声を向けた。

「……あんたも見たんだな」

「…さてね、覚えはないねぇ」

「そうかい。いっちょ手合わせでもどうですか」

「いいぜ……但し、手加減は出来ないがな」

「望むところだ」

 立ち上がった慶次を伴って、その場から離れようとした矢先、室の中に変化が起きた。
バタバタと足音が続いて、襖が再び引かれる。

「どうしたい、さん」

 慶次が問えば、は言った。

「お目覚めになられました」

 二人の顔に、幾分か安堵が戻る。
けれども、二人はすぐに顔を引き締めた。
二人に配慮しているのか、視線を泳がせるは、小声で言った。

「それで……あの……」

「どうしたんです?」

「い、家康様を……」

「家康?」

「はい、家康様を…呼んで欲しいと仰って…」

 重鎮と呼ばれる自分達ではなく、新参者を指名した。
そこに落胆と共に言い表しようのない痛みを覚えた。

特に彼らはに対して特別な感情を持っている。心中穏やかでないのは、当然だ。

「いいでしょう、ちょっと待って下さい」

 冷笑を顔面に貼りつけた左近が身を引けば、慶次もまた釈然としない様子で、その場に再び腰を降ろした。

 

 

 程なく呼び出された家康は、巨体を揺らし、額に汗をかきながらこの場へとやって来た。
その頃にはの室の前に各将が噂を聞きつけて揃い踏みだった。
 何ゆえ自分が指名されたのかが分からない家康は、半八つ当たりを含む数多の視線に恐れ戦いた。
各々が抱えている事情を把握している分、この状態を仕方がないとは思う。
思うには思うが、こんな逆恨みのような状態に置かれては堪らない。
それこそ下手を打てば彼らに縊り殺ろされそうな雰囲気なのだから。
 家康は努めてとぼけた様子で、額に浮かんだ汗を拭いつつ、一人の待つ室の中へと入って行った。

「家康にござる」

 平伏してから顔を上げれば、布団の上に起き上がったを見て、息を呑んだ。
肩から着物を掛けられて、に支えられるの顔には何時もの明るさは微塵もなかった。
あったのは、強い疲労感と、何か計り知れぬものへと向けられた恐怖だけだ。

「…様…」

 何も言われず、求められず、長い間沈黙が続いた。

「…家康公…」

 ようやく口を開いたの視線は、不安と恐怖に揺れていて、他のものは何一つ見えていないようだった。

「は、はは」

 彼女は、二人きりになると、時折自分のことを「神君家康公」と呼ぶ。
仰々しいあだ名を与えられたものだと始めの内は困惑することしきりだった。
だが一方で、それを口にする時の彼女の横顔は、何時もはにかみ晴れやかであった。
その呼び方で安堵するのならば。
日々研鑽している彼女に少しの余裕が生まれるのならば、それくらいどうと言う事はないと思った。
その呼び方を、今、ここでされるということの意味。それを考えた。

様」

 顔を上げたへと努めて柔和な笑みを向ける。

「家康に出来る事はござるかな?」

「……助けて……」

 掌を伸ばされて、僭越ながら進み出てその掌をとった。

「助けて下さい、家康公……重い……すごく、重たい…」

 無礼と知りながら、背を撫でてただただ言葉に耳を傾けた。
全身で緊張を示し、脅えも露に縮こまる。そんな彼女の姿は、まるで歩くべき道を失った迷い子のようだ。

「……お願いです、家康公……言って下さい。今だけでいい、一言でいいから…言って下さい」

「何を、申し上げましょうや」

「… 『家康がいる』と……… 『家康に任せよ』と」

 嗚咽が漏れる。
自分の掌を掴む華奢な掌に篭もる力には加減がない。
それだけ、彼女は人に話せぬ何かを抱え込んでしまったのだと悟った。

「…家康が、おりますぞ。ずっとずっと、様のお傍には、家康がおります。恐れずともよいのです」

 小さく丸まる体を抱えて、幼子をあやす様に頭を撫でれば、は声を上げて泣いた。

「……私が、どうしてここに来たのかが、分かった…」

 それは、自分に向けた言葉なのか、それとも異なるのかは、瞬時には判断が出来なかった。

「…私には………抗えない…抗いようがない……でも抗わなくてはならない……どうしたらいいの……!!」

「…様…」

 これ以上、この人の涙を見ていたくはなくて、家康は声に力を込めた。
この城に身を寄せる若武者達の中にあるような恋愛感情とも異なり、擬似親子という関係でもない。
けれども家康は、このか弱い娘と自分との間に、目に見えぬ縁があることを感じていた。
その縁が、自分達を引き寄せ、訴える。
彼女の行く末を切り開け、それが出来るのは、他でもない自分だけの役目なのだと。

様、何を気弱になられておいでか? 家康がおります。様は、どーんと構えていれば宜しい。
 家康が、否、徳川一門が、皆が様と共にある。何も恐れる事はありませぬ」

 力強い声に語りかけられて、肩に掛かった重みが減って行く。

「……私に、出来るでしょうか」

「出来ずとも、よいのです」

 が驚いて顔を上げれば、家康はの頬を伝う涙を掌で拭った。

「出来ずとも、よい。逃げ出しても、よいのです」

「でも、でもっ!!」

「人一人に出来る事は限られておりまする。出来ないと思ったら、それを成し得る者をお探しなさい」

「探す?」

 こくりと頷いて、家康は笑った。

「一人で成せぬ事であれば、皆で当たれば、それでよいのですよ」

 の心に家康の言葉が染み渡る。

「でも、でも!! それで、無理だったら?? 出来なかったら?」

「その時は、その時です」

 そんな事は出来ないとは首を横へと振った。構わず家康は続ける。

「そこまでして出来なければ、それでよい。
 それだけ努力して無理なのならば、きっとそれは他の者でも出来ないことなのです。
 誰に責められる謂れはない」

 断定的に言われて、肩が少し軽くなる。
でもまだ理性が「それは逃げだ、詭弁でしかない」と耳元で囁き、目に焼きついた光景が己を責め立てて急かす。
それを強張る表情から悟った家康は、こんこんと諭した。

様は儂らの知らぬ事をよう知っていらっしゃる。努力もしていらっしゃる。人徳もおありだ。
 兼続、政宗、両名が自ら膝を折り、この家康も心服し申した。
 そのような方に出来ぬ事であれば、他の者でも元より出来ぬことですよ。
 全てをお一人で背負わずとも、宜しいのです」

「……家康公…」

 声色が幾分か軽くなって来たのを確認して、家康は内心で安堵の溜息を吐いた。

「…様、家康の手を御覧下さい」

 は望まれるまま視線を落とした。家康は照れくさそうに笑う。

「しわくちゃで、ごつごつしていて、不恰好なものです。
 だが……様は言うて下さった。死を覚悟していた家康に『大きい』と。 『とても温かい』と。
 あの言葉で、家康は生を繋いだのですよ」

「え?」

 ゆっくりと、ゆっくりと語りかける。

「不思議と……あの時言われた気がしたのです。『お前は死なない、死なせない』と、そう言われた気がした」

 安堵を欲して込められていた力が、掌から徐々に抜けて行く。

「人の心の持ちようは、そのようなものです。きっかけは、些細。けれども波及は大なり小なり、必ず起きまする」

「…でも、起きる波がいい事ばかりとは限らない…」

「ええ、ええ。そうですな。けれども、家康はこう思いますよ。
 人が、何かを学ぶ為に天は時々人に試練を与えるのだと」

「…試練…」

「その通り、そこで初めて、人は学びまする。けれども、天は試練ばかりを与えはしないものです。
 天は必ず、試練と共に、それに立ち向かう術を与えるのですよ」

「打開策ですか?」

 手から力が抜けて、の顔に生気が戻ってくる。

「ええ。その通り。それは物であるかもしれないし、人であるやもしれないし、目には見えぬものかもしれない。
 千差万別、これという形はない。だから人は学びながらそれを探し、その術と共に未来を切り開くのです」

「…形じゃない…」

 もう大丈夫だと、持ち直したのだと、の顔色から悟り、家康はだめ押しの一言を紡いだ。

様。家康もまた、戦下にて生を見失い、惑った事がござる」

「家康様も?!」

「ええ、ええ。だが、天は儂を見捨てたりはしなんだ」

 繋いでいた掌を放し、にかっ! と笑った家康は、の頬を伝う最後の涙を拭った。

「お忘れか? なんの得も、義理もないのに、救援して下さったのは、他でもない。貴方ではありませぬか」

 大きく目を見開いてそれは違うと、そこには理由がちゃんとあったのだとは訴えようとする。
そんなの肩に手を置いてから家康は首を横へと振った。

「術は千差万別なのです。家康の重き荷はあの戦、家康に与えられた術は様、御身だ。
 だが様の重き荷は、まだ続く。されどご安心召されい、様の術はここにある城、民、家臣です」

 向けられる温かな眼差しに癒される。
かけられる言葉が胸に染み渡る。

「家康は、これからも様と共にあります。何時までも。様もまた、家康を術とお思い下さい」

 現代史において戦国乱世を平らげたとされる、巨雄徳川家康。
彼の言葉に導かれ、はようやく見失った光を取り戻したようだ。

「お疲れでしょう。ささ、今日はもうお休み下され。英気を養い備える事も、時に必要ですぞ」

「はい……そうします。ありがとう、家康公。やっぱり、家康公は、皆のお父さんですね」

 意図するところは分からなかったが、彼女がそう思うのならばきっとそうなのだろう。
家康はを横たえながら頷いた。

「ええ、ええ。家康は、皆の父ですよ」

 

 

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