今そこにある世界 |
「どうですかね。姫の容体は」 「…魘されていらっしゃいます…とても苦しそうで…」 水を貼った桶を両手で抱えているの目には薄らと涙が浮かぶ。感受性が強いらしい。 「様……本当に…お気の毒で…」 「やりますよ。傍についていてもらえますかね?」 「はい、お願い致します」 温くなった水が貼られた桶を受け取って、左近は身を翻した。 『…気に入らないぜ。こういうのは…』
誰か目に見える者からの攻撃ならば、自分が策を練り、百戦錬磨の若武者が打破する。 『それだけ、事は厄介ということですか。さて、どうしたものか…』 まずは水の替えが先だと、水場へと歩みを進めた。 「左近だ。さん、いいかい?」 「あ、はい。ただいま」 がそっと襖を横へと引いた。 「失礼致しますね」 「あ、ああ……」 は桶と共に奥へと下がった。襖が閉められる。 「慶次さんよ」 「なんだい」 家臣随一、最強にして最後の守護神とでもいう体で、鉾と共にそこに陣取る男へと左近は声を向けた。 「……あんたも見たんだな」 「…さてね、覚えはないねぇ」 「そうかい。いっちょ手合わせでもどうですか」 「いいぜ……但し、手加減は出来ないがな」 「望むところだ」
立ち上がった慶次を伴って、その場から離れようとした矢先、室の中に変化が起きた。 「どうしたい、さん」 慶次が問えば、は言った。 「お目覚めになられました」 二人の顔に、幾分か安堵が戻る。 「それで……あの……」 「どうしたんです?」 「い、家康様を……」 「家康?」 「はい、家康様を…呼んで欲しいと仰って…」 重鎮と呼ばれる自分達ではなく、新参者を指名した。 「いいでしょう、ちょっと待って下さい」 冷笑を顔面に貼りつけた左近が身を引けば、慶次もまた釈然としない様子で、その場に再び腰を降ろした。
程なく呼び出された家康は、巨体を揺らし、額に汗をかきながらこの場へとやって来た。 「家康にござる」 平伏してから顔を上げれば、布団の上に起き上がったを見て、息を呑んだ。 「…様…」 何も言われず、求められず、長い間沈黙が続いた。 「…家康公…」 ようやく口を開いたの視線は、不安と恐怖に揺れていて、他のものは何一つ見えていないようだった。 「は、はは」 彼女は、二人きりになると、時折自分のことを「神君家康公」と呼ぶ。 「様」 顔を上げたへと努めて柔和な笑みを向ける。 「家康に出来る事はござるかな?」 「……助けて……」 掌を伸ばされて、僭越ながら進み出てその掌をとった。 「助けて下さい、家康公……重い……すごく、重たい…」 無礼と知りながら、背を撫でてただただ言葉に耳を傾けた。 「……お願いです、家康公……言って下さい。今だけでいい、一言でいいから…言って下さい」 「何を、申し上げましょうや」 「… 『家康がいる』と……… 『家康に任せよ』と」 嗚咽が漏れる。 「…家康が、おりますぞ。ずっとずっと、様のお傍には、家康がおります。恐れずともよいのです」 小さく丸まる体を抱えて、幼子をあやす様に頭を撫でれば、は声を上げて泣いた。 「……私が、どうしてここに来たのかが、分かった…」 それは、自分に向けた言葉なのか、それとも異なるのかは、瞬時には判断が出来なかった。 「…私には………抗えない…抗いようがない……でも抗わなくてはならない……どうしたらいいの……!!」 「…様…」 これ以上、この人の涙を見ていたくはなくて、家康は声に力を込めた。 「様、何を気弱になられておいでか? 家康がおります。様は、どーんと構えていれば宜しい。 力強い声に語りかけられて、肩に掛かった重みが減って行く。 「……私に、出来るでしょうか」 「出来ずとも、よいのです」 が驚いて顔を上げれば、家康はの頬を伝う涙を掌で拭った。 「出来ずとも、よい。逃げ出しても、よいのです」 「でも、でもっ!!」 「人一人に出来る事は限られておりまする。出来ないと思ったら、それを成し得る者をお探しなさい」 「探す?」 こくりと頷いて、家康は笑った。 「一人で成せぬ事であれば、皆で当たれば、それでよいのですよ」 の心に家康の言葉が染み渡る。 「でも、でも!! それで、無理だったら?? 出来なかったら?」 「その時は、その時です」 そんな事は出来ないとは首を横へと振った。構わず家康は続ける。 「そこまでして出来なければ、それでよい。 断定的に言われて、肩が少し軽くなる。 「様は儂らの知らぬ事をよう知っていらっしゃる。努力もしていらっしゃる。人徳もおありだ。 「……家康公…」 声色が幾分か軽くなって来たのを確認して、家康は内心で安堵の溜息を吐いた。 「…様、家康の手を御覧下さい」 は望まれるまま視線を落とした。家康は照れくさそうに笑う。 「しわくちゃで、ごつごつしていて、不恰好なものです。 「え?」 ゆっくりと、ゆっくりと語りかける。 「不思議と……あの時言われた気がしたのです。『お前は死なない、死なせない』と、そう言われた気がした」 安堵を欲して込められていた力が、掌から徐々に抜けて行く。 「人の心の持ちようは、そのようなものです。きっかけは、些細。けれども波及は大なり小なり、必ず起きまする」 「…でも、起きる波がいい事ばかりとは限らない…」 「ええ、ええ。そうですな。けれども、家康はこう思いますよ。 「…試練…」
「その通り、そこで初めて、人は学びまする。けれども、天は試練ばかりを与えはしないものです。 「打開策ですか?」 手から力が抜けて、の顔に生気が戻ってくる。
「ええ。その通り。それは物であるかもしれないし、人であるやもしれないし、目には見えぬものかもしれない。 「…形じゃない…」 もう大丈夫だと、持ち直したのだと、の顔色から悟り、家康はだめ押しの一言を紡いだ。 「様。家康もまた、戦下にて生を見失い、惑った事がござる」 「家康様も?!」 「ええ、ええ。だが、天は儂を見捨てたりはしなんだ」 繋いでいた掌を放し、にかっ! と笑った家康は、の頬を伝う最後の涙を拭った。 「お忘れか? なんの得も、義理もないのに、救援して下さったのは、他でもない。貴方ではありませぬか」 大きく目を見開いてそれは違うと、そこには理由がちゃんとあったのだとは訴えようとする。 「術は千差万別なのです。家康の重き荷はあの戦、家康に与えられた術は様、御身だ。 向けられる温かな眼差しに癒される。 「家康は、これからも様と共にあります。何時までも。様もまた、家康を術とお思い下さい」 現代史において戦国乱世を平らげたとされる、巨雄徳川家康。 「お疲れでしょう。ささ、今日はもうお休み下され。英気を養い備える事も、時に必要ですぞ」 「はい……そうします。ありがとう、家康公。やっぱり、家康公は、皆のお父さんですね」
意図するところは分からなかったが、彼女がそう思うのならばきっとそうなのだろう。 「ええ、ええ。家康は、皆の父ですよ」
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