今そこにある世界

 

 

 家康が室を辞した時、襖の向こうの空気は極限状態になっていた。
中で何が起きているのか分からないが故に、皆、気が気ではなかったからだ。

「お話がありまする」

 これまた分かり切っていた事だと、家康は先手を打った。
評議場へと場所を移して、家康はの状態を述べた。
 想像以上に彼女は疲弊している事。
その小さな手に余る何か大きなものを押し付けられてしまったのだという事を、掻い摘んで話した。
 幸村や兼続はにそれ程の緊張と重責を与えた相手に怒りを覚えたようだ。

「なんと言う事だ!! あのような非力な方に、そのような重責を課すとは…!!
 不義だっ! 一体どこの輩だっ!!」

「真田の槍で、成敗してやりましょう」

 激昂する二人を諌めるべく、家康は続けた。
の様子では、それは人ではなく天意のようだ。
誰かをどうこうすればいいというものでもないらしい。

「思いますに……時が来るまではそっとしておき、普段は支えて差し上げる事が肝要かと」

「分り申した、一層励みまする!!」

 やたらとやる気になる伊達、徳川一門や諸将を前に家康が難を逃れたと安堵の溜息を漏らせば、形の異なる問いかけが左近から上がった。

「しかし……なんでよりにもよってあんたなんですかね」

 左近の吐いた毒に家康は目を丸くして笑う。

「ああ、仕方ありませんな。儂は皆の父ですから」

「ハァ?」

 皆が目を丸くするのを見ながら、家康はカッカッカッ! と腹を揺らして笑う。

「家康は、皆の父なのだそうですよ。様がそう仰られました」

 やたらと「父」という部分を強調し、自分は恋愛レースとは無縁である事を示唆した。

「では父は、財務管理に戻るとしますかの〜」

 ほてほてと歩き出した家康を見送り、慶次、左近は同時に顔を顰めた。

「言うねぇ〜」

「…あのオッサン本ッッ当に狸だな…」

「あの……そうなると、様への縁談は、家康殿を通さねばならなくなるのでしょうか??」

 一人真面目に考える幸村に、政宗が呆れたように答えた。

「言葉のあやに決まっておるだろう、馬鹿め!!」

「あ、ああ…ですよね。は、はははは…」

 

 

 話し続ける皆の声を遠くに聞きながら廊下を一人歩んでいた家康は、人気のない書庫の前まで来ると足を止めた。
顔に貼り付けた柔和な笑みを掻き消し、溜め息を吐く。

『何かが動き出しおった』

 には重き荷はあの戦だと言ったが、そうではない事を家康はもう既に理解していた。

『…それにしても…ほんに見事なものよ…』

 窓から見下ろした城下町を眺め感嘆の息を漏らす。
彼の目に映る活気溢れる城下町はあまりにも眩しくて、自然と眦は細くなった。

『…全ての始まりは、あの挟撃だ』

 物思いに耽り始めた彼は、自分がへと下ることにした経緯の全てを思い出していた。

「お金はいいので、この二人を頂けますか?」

"大丈夫"

「いいんですよ、これで。うちの国は畑を荒されてる訳じゃないし」

"大丈夫、貴方は、死なない"

「家康様、大きな…とても大きな手ですね」

"私が、死なせない"

 向けられた言葉の中に潜む揺ぎ無い思いに、かけられた春の木漏れ日のような柔和な微笑みに救われた。

『そして訪れたのは、あの変化……今でこそ、いい笑い話よ』

「うちの殿様は、救援されても報いなかったらしい」

「厄介払いをして終わりだそうだ」

「何様だ、あの男は」

「兼続や政宗が下ったのならば、彼らの領地は家のものではないのか?」

「あやつはずるい、何もしていない」

 危機を救われ、の望むまま兼続、政宗の両名送り出した時。
自領の民は、皆、家康に不信感を抱いた。

「あの男は、何時かわしらを裏切る、切り捨てる」

「わしらの痛みなど、理解してはくれないだろう」

「隣国の様ならどうだ? あのお人は変わっとるが、大層民思いだそうな」

「どうせなら、様が我らの君主様であればいいのにのぅ」

 新しい土地は得た。その土地から得た金で荒された土地も癒せた。
けれども一度離れた人心を取り戻す事は困難だった。

「…徳川殿、北条へ帰依なされ…」

 そんな中、隣国の北条から、突然圧力外交を突きつけられた。
到底今の自分には太刀打ち出来ない勢力からの申し出に、彼は思案する。

「…様のような方でもなければ、誰が治めようと同じ事……」

「また戦か…もう、うんざりじゃ」

 自領を護るためには、戦わねばならない。
けれども人心は離れ、国力は乏しく、国内とて結束しているという雰囲気ではない。
そんな時に決起してどうなるというのだろう。
自身諸共粉微塵に打ち砕かれ、再生した土地共々蹂躙されるのは目に見えている。

『どうしたらいい? どうすれば、乗り切れる?』

 焦りが募り、寝食すらままならい日々が続く。
けれども時は待ってはくれない。
困難な選択に決着をつけよと、差し迫ってくるだけだ。

「徳川殿、何を迷う事がある? 簡単な事でしょう。家を討ちなされ。さすればそこもとの国は安泰。
 この土地共々、領地も貴殿にお任せしましょう」

「い、いや…でも、しかしですな………」

 目の前に下げられた餌を取るのは確かに簡単だ。
けれども、彼は知っている。その餌が毒に塗れていることを。

「殿、某は反対です。北条は先の戦、我らが救援を願っても日和見を決め込むばかりでした。
 そのような国に、何故、膝を折らねばならぬのですか。
 ましてを裏切るとなれば、信義に反します!」

「市の心は長政様の御心と共にあります。私達は徳川の臣、北条の臣ではありませぬ」

 浅井夫妻の言葉は、まさに自分の心境を言い表したものだ。
けれども、一国の主として数多の命を預かれば、私情を優先させるわけにはいかない事もある。
これもまた真理なのだ。

 彼に突き付けられた選択肢は、北条につくか自分を救援してくれたを取るか。二つに一つ。他はない。

殿、そなたは今何を考えている? そなたならば、どんな結果を選ぶだろうか?』

 散々迷い、答えを模索して、一縷の望みを掛けてへと度々文を送った。
だが懇談の申し出は全て体よく断られた。
家にも北条からの何らかの圧力が掛かっているのではないかと、不安になった。

『会いたい、会わねばならぬ。何故だ、何故、会っては貰えぬ』

 一方で、送られてくる文を目にして、心が解れた。
文面には嘘偽りはなく、彼女の本心だけが綴られていると感じたからだ。

 


   お手紙有り難うございました。です。家康様、お元気ですか? 私は元気です。

   最近、ようやく売り飛ばしていた襖の一部を買い戻しました。
   私は他の事に使いたかったんですけど、左近さんと幸村さんが怒るんです。
   せめて自室には襖を入れろって。別に襖なんてなくても生活出来るのにね。
   あ、これは左近さんと幸村さんには内緒ですよ。

   そうそう、兼続さんと政宗さんの仲も、段々打ち解けてきたようです。
   時折喧嘩してますけど、じゃれてるみたいで見ていて可愛いです。

   家康様はお変わりありませんか。何か私に出来る事があればいいのだけれど…。
   また何時かお会いしたいです。

   貴方の手に触れる事で安心します。
   よくやっているね、と褒められている気がします。

   何時か、あるべき所へあるべきものをお返しする為に…私も頑張ります。
   家康様も、お体に気をつけてどうかお元気で…。

 

 

『……この文は温かい…なのに、何故会うては貰えぬ…何故だ?』

 届いた文を何度も何度も読み返し、その文の裏にある事情を垣間見ようとした。
そして、ある時、ふと気がついた。

『……左近? そうか、あやつか。あやつが、懸念しておるのか』

「殿!! また北条が兵を!!」

 打開策を模索する為に続けた言い訳。
それに焦れた北条は、演習の名目で度々徳川領の境目に兵を集めた。

「…徳川殿、何を迷うことがある。さ、ご決断を…」

『どうすればよい? この難局を打破するには、どうしたらいい?
 おお、おお、そうだ。まずは、あやつだ。島左近だ。
 あやつをどうにか説き伏せ、殿と謁見せねばならぬ…』

 八方塞がりな現状に悩む日々は一週間と続かなかった。

「徳川殿、貴殿には失望した。もう何もせずとも宜しい。ただ手を出さぬよう」

『いかん、このままでは殿が…!!』

 自分を見限り、北条がついに忍を動かした日、第六感が警鐘を鳴らした。
彼もまた、動かざる得なかった。

「長政よ、市よ、儂は賭けに出ようと思う」

「賭けでございますか?」

「うむ、一世一代の大博打じゃ。だが、ここで見誤れば、儂らに先はない。そう思う」

「……殿、お供しても宜しいですか」

「ああ、ああ、頼む……のぅ、長政」

「はい」

「…儂が手を取らずば、を討て。
 手を取ったならば、殿を狙う者全てを屠るのだ。よいな?」

「ははっ!」

 動いて、すぐ彼は自分の勘に間違いがなかった事を痛感する事になる。

「成実殿〜。橋の修理じゃが、じきに終わりますじゃ」

「あまった木材で厩を直そうと思うんじゃが、様は喜んで下さるかのぅ?」

「おー、悪いな。様には俺から言っとく、きっと喜ぶぜ」

「そうかそうか、そいつは良かった〜」

 財政難にあるといいながら、の治める地には妙な活気があった。
自分よりずっと俸禄は低くなったはずなのに、自領よりも、民が生き生きとしていたのだ。

「政宗」

「なんじゃ、兼続」

「三本松長屋に住む住民が家賃の値上げで揉めている。力になってやってくれ」

「そうか、分かった。儂が間に入ろう。ああ、そうだ、兼続。
 この先の空き家に呉服問屋が入る事になった。人足が必要らしいが、組合から圧力が掛かっているらしい」

「分かった、私が義を説いてこよう」

「おう」

 遠目に見聞きした兼続、政宗の会話に息を呑んだ。
あの二人が反目することなく、補い合いながら職をこなしているという事実に、ただただ驚いた。

『ああ、ああ……なんと言うことだ……あの娘は……なんと大きな者なのか……』

 疲弊していたはずの土地が、国が、人々が、たった数日でここまで変わった。
それを成した女を敵に回すと言うことが、どういう事を意味するのか。
そこを敏い彼は考え、密かに恐怖した。

『真に恐れるべきは、北条ではないのではないか。この家康と誼を結びたがる、あの者ではないのか』

 緊張と恐怖を胸に諌めて迎えた懇談の場。
そこで彼女の人柄に直に触れて、懐の深さに感服し、同時に安堵した。

「啼かかぬなら、啼くまで待とう、ホトトギス」

「困るんです。起きるべき事が起きて、正常に機能しないと。
 私には国を平定するような才はないから。私は、ただ結末を知っているだけだから」

「貴方は、私に救われたと言うけれど、本当は救って欲しいのは私の方なんですよ…神君家康公」

「…だってあの二人、まだ家康様の土地を蹴散らしたこと、謝ってないじゃないですか」

 彼女には自分を害する意志はない。
自分が彼女を殺す事は出来ても、彼女にはそれが出来ないのだと悟った。
 それは、同時に家康に一つの未来を自覚させる事になった。
彼女を裏切れば、自分は一時の安寧を手にしても、ゆくゆくは天下の敵とされてしまうということ。
北条は確かに強大だ。だがその北条よりも、彼女の背には大きな何かがある。
それを敵に出来るほど、自分の掌は大きくはない。
ならば、選ぶ道はただ一つなのだと、ようやく決心がついた。
 彼はこうして、家への帰順を決めたのだ。

『……様はほんに大きい。そんな御方が、脅えるものとは一体なんぞや?
 家康を呼んだ真意は、どこに……??』

「助けて下さい、家康公……重い……すごく、重たい…」

「……お願いです、家康公……言って下さい。今だけでいい、一言でいいから…言って下さい」

「… 『家康がいる』と……… 『家康に任せよ』と」

『…守らねばならぬ、支えねばならぬ……遠き世の為に……何故だろう…そう思えてならない……』

 嘆いていた。
彼女にしか見えぬ何かに恐怖し、それを持て余し疲弊していた。

「……私が、どうしてここに来たのかが、分かった…」

「…私には………抗えない…抗いようがない………でも抗わなくてはならない…。
 …どうしたらいいの……!!」

『……様の痛みは……』

「……子々孫々、引いては日の本の民、全ての痛み」

 ぽつりと呟いて、家康は頭を掻いた。
彼は口を吐いて出た自身の独白に、自分で驚いていた。
そんなはずはない。そんな事はない。
そう分かっているはずなのに、彼は自身の呟きを完全に否定する事が出来なかった。

 大きな歯車は、着実に、着実に、回り出した。

 

"遠い未来との約束---第一部"

 

- 目次 -
ついに物語が動き出しました。これからオリジナル展開もっさりの予定です。
願わくば先々までお付き合い頂けると有り難く…。(08.03.29.up)