今そこにある世界 | |
家康が室を辞した時、襖の向こうの空気は極限状態になっていた。 「お話がありまする」 これまた分かり切っていた事だと、家康は先手を打った。 「なんと言う事だ!! あのような非力な方に、そのような重責を課すとは…!! 「真田の槍で、成敗してやりましょう」 激昂する二人を諌めるべく、家康は続けた。 「思いますに……時が来るまではそっとしておき、普段は支えて差し上げる事が肝要かと」 「分り申した、一層励みまする!!」 やたらとやる気になる伊達、徳川一門や諸将を前に家康が難を逃れたと安堵の溜息を漏らせば、形の異なる問いかけが左近から上がった。 「しかし……なんでよりにもよってあんたなんですかね」 左近の吐いた毒に家康は目を丸くして笑う。 「ああ、仕方ありませんな。儂は皆の父ですから」 「ハァ?」 皆が目を丸くするのを見ながら、家康はカッカッカッ! と腹を揺らして笑う。 「家康は、皆の父なのだそうですよ。様がそう仰られました」 やたらと「父」という部分を強調し、自分は恋愛レースとは無縁である事を示唆した。 「では父は、財務管理に戻るとしますかの〜」 ほてほてと歩き出した家康を見送り、慶次、左近は同時に顔を顰めた。 「言うねぇ〜」 「…あのオッサン本ッッ当に狸だな…」 「あの……そうなると、様への縁談は、家康殿を通さねばならなくなるのでしょうか??」 一人真面目に考える幸村に、政宗が呆れたように答えた。 「言葉のあやに決まっておるだろう、馬鹿め!!」 「あ、ああ…ですよね。は、はははは…」
話し続ける皆の声を遠くに聞きながら廊下を一人歩んでいた家康は、人気のない書庫の前まで来ると足を止めた。 『何かが動き出しおった』 には重き荷はあの戦だと言ったが、そうではない事を家康はもう既に理解していた。 『…それにしても…ほんに見事なものよ…』 窓から見下ろした城下町を眺め感嘆の息を漏らす。 『…全ての始まりは、あの挟撃だ』 物思いに耽り始めた彼は、自分がへと下ることにした経緯の全てを思い出していた。 「お金はいいので、この二人を頂けますか?」 "大丈夫" 「いいんですよ、これで。うちの国は畑を荒されてる訳じゃないし」 "大丈夫、貴方は、死なない" 「家康様、大きな…とても大きな手ですね」 "私が、死なせない" 向けられた言葉の中に潜む揺ぎ無い思いに、かけられた春の木漏れ日のような柔和な微笑みに救われた。 『そして訪れたのは、あの変化……今でこそ、いい笑い話よ』 「うちの殿様は、救援されても報いなかったらしい」 「厄介払いをして終わりだそうだ」 「何様だ、あの男は」 「兼続や政宗が下ったのならば、彼らの領地は家のものではないのか?」 「あやつはずるい、何もしていない」 危機を救われ、の望むまま兼続、政宗の両名送り出した時。 「あの男は、何時かわしらを裏切る、切り捨てる」 「わしらの痛みなど、理解してはくれないだろう」 「隣国の様ならどうだ? あのお人は変わっとるが、大層民思いだそうな」 「どうせなら、様が我らの君主様であればいいのにのぅ」 新しい土地は得た。その土地から得た金で荒された土地も癒せた。 「…徳川殿、北条へ帰依なされ…」 そんな中、隣国の北条から、突然圧力外交を突きつけられた。 「…様のような方でもなければ、誰が治めようと同じ事……」 「また戦か…もう、うんざりじゃ」 自領を護るためには、戦わねばならない。 『どうしたらいい? どうすれば、乗り切れる?』 焦りが募り、寝食すらままならい日々が続く。 「徳川殿、何を迷う事がある? 簡単な事でしょう。家を討ちなされ。さすればそこもとの国は安泰。 「い、いや…でも、しかしですな………」 目の前に下げられた餌を取るのは確かに簡単だ。
「殿、某は反対です。北条は先の戦、我らが救援を願っても日和見を決め込むばかりでした。 「市の心は長政様の御心と共にあります。私達は徳川の臣、北条の臣ではありませぬ」 浅井夫妻の言葉は、まさに自分の心境を言い表したものだ。 『殿、そなたは今何を考えている? そなたならば、どんな結果を選ぶだろうか?』 散々迷い、答えを模索して、一縷の望みを掛けてへと度々文を送った。 『会いたい、会わねばならぬ。何故だ、何故、会っては貰えぬ』 一方で、送られてくる文を目にして、心が解れた。
『……この文は温かい…なのに、何故会うては貰えぬ…何故だ?』
届いた文を何度も何度も読み返し、その文の裏にある事情を垣間見ようとした。 『……左近? そうか、あやつか。あやつが、懸念しておるのか』 「殿!! また北条が兵を!!」 打開策を模索する為に続けた言い訳。 「…徳川殿、何を迷うことがある。さ、ご決断を…」 『どうすればよい? この難局を打破するには、どうしたらいい? 八方塞がりな現状に悩む日々は一週間と続かなかった。 「徳川殿、貴殿には失望した。もう何もせずとも宜しい。ただ手を出さぬよう」 『いかん、このままでは殿が…!!』 自分を見限り、北条がついに忍を動かした日、第六感が警鐘を鳴らした。 「長政よ、市よ、儂は賭けに出ようと思う」 「賭けでございますか?」 「うむ、一世一代の大博打じゃ。だが、ここで見誤れば、儂らに先はない。そう思う」 「……殿、お供しても宜しいですか」 「ああ、ああ、頼む……のぅ、長政」 「はい」 「…儂が手を取らずば、を討て。 「ははっ!」 動いて、すぐ彼は自分の勘に間違いがなかった事を痛感する事になる。 「成実殿〜。橋の修理じゃが、じきに終わりますじゃ」 「あまった木材で厩を直そうと思うんじゃが、様は喜んで下さるかのぅ?」 「おー、悪いな。様には俺から言っとく、きっと喜ぶぜ」 「そうかそうか、そいつは良かった〜」 財政難にあるといいながら、の治める地には妙な活気があった。 「政宗」 「なんじゃ、兼続」 「三本松長屋に住む住民が家賃の値上げで揉めている。力になってやってくれ」 「そうか、分かった。儂が間に入ろう。ああ、そうだ、兼続。 「分かった、私が義を説いてこよう」 「おう」 遠目に見聞きした兼続、政宗の会話に息を呑んだ。 『ああ、ああ……なんと言うことだ……あの娘は……なんと大きな者なのか……』
疲弊していたはずの土地が、国が、人々が、たった数日でここまで変わった。 『真に恐れるべきは、北条ではないのではないか。この家康と誼を結びたがる、あの者ではないのか』 緊張と恐怖を胸に諌めて迎えた懇談の場。 「啼かかぬなら、啼くまで待とう、ホトトギス」 「困るんです。起きるべき事が起きて、正常に機能しないと。 「貴方は、私に救われたと言うけれど、本当は救って欲しいのは私の方なんですよ…神君家康公」 「…だってあの二人、まだ家康様の土地を蹴散らしたこと、謝ってないじゃないですか」 彼女には自分を害する意志はない。 『……様はほんに大きい。そんな御方が、脅えるものとは一体なんぞや? 「助けて下さい、家康公……重い……すごく、重たい…」 「……お願いです、家康公……言って下さい。今だけでいい、一言でいいから…言って下さい」 「… 『家康がいる』と……… 『家康に任せよ』と」 『…守らねばならぬ、支えねばならぬ……遠き世の為に……何故だろう…そう思えてならない……』 嘆いていた。 「……私が、どうしてここに来たのかが、分かった…」
「…私には………抗えない…抗いようがない………でも抗わなくてはならない…。 『……様の痛みは……』 「……子々孫々、引いては日の本の民、全ての痛み」 ぽつりと呟いて、家康は頭を掻いた。
"遠い未来との約束---第一部" 了
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ついに物語が動き出しました。これからオリジナル展開もっさりの予定です。 願わくば先々までお付き合い頂けると有り難く…。(08.03.29.up) |