遠い世界からの神託

 

 

 広げられた世界地図を前には一人でうーんと唸り続けている。
腕組みをして眉を寄せる姿は、今までに見せたどんな表情よりも真剣そのものだった。
場を辞してよいと言われても、そんなを見てしまえば、部屋から出る事は憚られて、慶次、幸村、左近を始めとした指揮官クラスは評議場に残ったままだった。今は片倉小十郎、竹中半兵衛、酒井忠次を始めとした副将クラスが場を辞して、止まったままの政務を切り盛りしている。

「……幸村さん」

「はい」

「この地図、引っくり返してもらっていいですか」

「は、はい」

 意図が分からぬまま幸村は言われた通り、評議机の上で地図を引っくり返した。

「………うーーーーーーーん……やっぱ、こうなんだよなー」

 けれども今まで使っていた近隣地図と照らし合わせると、違和感が出るのもまた事実だ。

「…すみません、戻して下さい」

「はい」

 こんな感じで何度も何度も地図を検分した。

「………どうしよう…? このままで……いいんだろうか??」

「えっ?!」

 地図を引っくり返す事を言っていると思ったのか、幸村は再び地図へと手を伸ばした。
そこで、ピシャリと音がした。広げた地図の上へと振り降ろされたのは三成の扇だった。

「!」

「……何時まで遊んでるんだ」

 冷淡な眼差しで射抜かれたは、初めてそこで気がついたとばかりに目を丸くした。

「あれ? 会議、終わりって言いませんでしたっけ?」

「それは聞いた」

「じゃ、なんで?」

 暢気な問いかけに、三成が扇を振り上げれば、兼続と左近とが彼を背後から羽交い絞めにした。

「離せ、兼続、左近!! 今日と言う今日は我慢がならん!! 一度シメてやる」

「女性へ手を上げるのは不義だぞ、三成!!」

「殿、落ち着いて!! 姫にも考えがあるんですよ、きっと!」

「うん、あるよ。というか、根底から覆されてるから、マジ、これは悩まないとヤバイと思う」

 左近のフォローをは即答で肯定した。
受け答えはしているものの、心ここにあらず。
顎に手をやって考えているの顔には遊んでいる様子はなく、真剣に何かと向かい合っている様子しかなかった。

「どうしよう…かな…本当………まさか、こんな落とし穴があったなんて………」

 独白して指先で眼下の地図をなぞり続けた。
解決の糸口を探そうにも、それすらままならいとの横顔は物語る。
それを見ていれば、横から口を挟む事は無粋な気がして、誰もが見守るしかない。
進退、正に極まるという状態が半刻以上続いて、皆、自分で入れた茶を飲むくらいしか出来なくなった。
も幸村が気を利かせて入れてくれた茶を軽く三杯は飲んでいた。

「……うーーーん……どうしよっかなー」

 さっきから同じ言葉の繰り返し。
何をどうしたいのか、どうするとまずいのかすら分からない。
けれどもそれはにとっても同じようだった。

「あのー、失礼致します〜」

 そこへ天の救いか悪魔の悪戯か、一報が舞い込んできた。

「ん? あ、ちゃん? おはよう、どうしたの??」

 の友人としてだけでなく、傍仕えとしての位置を確立し、日頃はの私室回りの世話に明け暮れている服部。服部半蔵の愛妻が、漆塗りの箱を手に現れたのだ。

「ええと、あの…お取り込み中申し訳ございません」

 彼女は諸将が集まり国の今後を話し合う場に女子が立ち入るなど怖れ多いとばかりに身を縮めながら敷居を跨いだ。

「…様、あの…その……この箱が…」

「あ。それって確か…」

「はい」

 以前この箱の中には突如としての私物が現れた事がある。
それを手にした瞬間、の意識は次元を越えてどこかへと飛ばされた。
その時に被った酷い精神的打撃で、は床に伏せる事になったのだ。
 の傍まで進んで来て、世界地図の横へと置いた漆塗りの箱には、そんな曰くがあった。

「…実はこの箱の中から、不思議な音がしますの。まるで様を呼んでいるみたいで」

「……呼ぶ? 私を」

「はい、前回の事もありますから、捨ててしまおうかとも思ったのですけれど……
 また様の道具でしたら大変でしょう? ですから一応持って参りました」

 事情を知る面々は看過出来るものではないと、皆の周りへと集まってくる。
は幸村へと視線を走らせた。

「開けますね」

「はい、お願いします」

 幸村の手によって開かれた漆塗りの箱の中には、戦国時代の猛者から見れば、やはり不可思議な品物が入っていた。

「ああ…今度は携帯端末……でも、なんで今ここに? 電線すらない世界だってのに……」

 すっかり慣れてしまったは、薄桃色の小箱を前に目頭を抑えた。

「家康様、頼みます」

 机に肘を着いて掌を出せば、家康もまた心得ているとばかりに手を取った。

「触れるのですか?」

「うん、それしかないと思う……それに聞いて来なきゃならない事も出来たから」

 箱の中に置いてくれと視線で指示されて、幸村はしぶしぶと箱の中へ小箱を戻した。
が一度深呼吸をしてから、左手を伸ばす。
指先が薄桃色の箱に触れた瞬間、の意識は前回と同様、時空を飛んだ。

 

 

『あ……よかった……大地に緑が戻ってる…』

 久々に見た未来予想図の結果は、北条領併呑が間違った選択ではなかったことを知らせてくれた。
その変化はまだまばら、世界規模で見るなら産毛程度。
だとしてもあの熱砂の海が、こうして緑を帯びて再生していると思えば、純粋に喜ばしい出来事だと思った。
 安堵すると共に、あの声が自分に呼びかけるのを待った。
一刻が経ち、半刻が経ち、それでも声が自分を呼ぶ事はなかった。
は困り果て、自ら声を上げた。

『ねぇ……どこ? どこですか?? いるんでしょう? どこにいるんですか??』

 やがて、の声を聞きつけて、天から光が降りてきた。
光の中にいたのはをこの世界へ導いた老人ではなく、見知らぬ女性だった。

『あ、あれ? あの…おじいさんは…』

 目前に現れた女は、小さく首を横へと振った。

『…私はその者を知らない……そうか、お前が、鍵を握った者か』

『え…? あ、あの、鍵って…??』

『よく聞きなさい』

『は、はい』

『お前の選択で、世界は変わる』

『は、はい』

『この世界は、既に変わりつつある世界。そこにお前の求める者はいない』

 示唆されている事の意味を知り、動揺した。
心の動揺は、体にもすぐに現れたようで、右手に残る家康の温もりが一瞬強くなった。
今その感覚に心を寄せる訳にはゆかなくて、は目前の女へと意識を傾けるように努めた。

『……あ、あの…教えて下さい、どうしても知りたいんです。でないと、私は前に進めなくなります』

 視線で先を促した女に、は先程知った事実を上げて問い掛けた。

『私、今の今まで、自分の世界だと思っていました。自分の世界の過去へ飛ばされたのだと。
 でもここは違った。私の世界じゃない。ここは、どこですか?』

『時空とは常に幾つもあるもの、そこでは全ての命が、別の一生を生きている。
 お前の世界では、その世界の存在を認識せず、干渉方法もまだ存在していない、それだけの事だ』

『は、はぁ………私は、そこへ迷い込んだという事ですね?』

 女は押し黙り、首を横へと振った。

『それは違う。きっと終末の世界を守護した者がお前を呼び寄せたのだろう』

『呼び寄せる?』

『お前は既に一度死んでいる。死んだ魂は次元を超えて宙を彷徨う事がある。
 終末の世界にいた守護者は、最期の望みを掛けて、その時掴める魂を掴んだ……それがお前だ』

 喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からずは押し黙った。
女は『人はそれを宿命と言うのだろう』と呟いてから、へ向い切り出した。

『よく聞いて欲しい、運命を握る者よ。我らに猶予はない』

『は、はい』

『お前は優秀だ、今までに送り込まれたどんな者よりも』

『ちょっと、待って!! 待って下さい、他にもいるんですか?! 私みたいな存在が?!』

 仰天して問えば、女は掌をの前へと差し出して、それ以上の問いかけを退けた。

『今お前が身を寄せる時代から見た遠い未来、一人の科学者が時空を飛んだ。
 その者に悪意があったかどうかは問題ではない。
 ただその者が遠い過去で何かに干渉し、結果として世界の未来を大きく変えてしまった事が問題なのだ』

 そこまではいいかと視線で問われて、は真剣に頷いた。
とんでもない経緯が隠れていたものだと内心では冷や汗をかいたが、そうも言っていられなかった。
今までの経験から言って、この邂逅に傾けられる時間は無限ではない。
となれば、一時の感情で本質を見失う訳にはゆかない。

『未来を生きる人々はきっかけを探し、科学者が飛んだ時代を探した。
 今までお前がしてきたように、狂った歴史を元に戻そうとしたのだ。
 だが科学者も、彼が飛んだ時代も、見つける事が出来なかった』

『…どうして…またそんな事に…?』

『日々、世界は形を変えた。記録が消えて、技術も失われた。
 歴史が変わった事で、生まれるはずのなかった命が生まれ、逆に生まれるべき人が生まれなくなった』

 息を呑んで押し黙ったの顔には冷や汗が浮かび上がった。
聞かされる話があまりにも重たくて、心理的に大きな負担となっている。
耐えなくては、聞かなくてはと思う一方で逃げ出したいとも思う。
そうした幾つもの感情を押さえ込んでいる為に、拒絶反応が代わりに体に出始めていた。

『時空を飛べる未来にいる人々は、この事に気がつくと、残された時間と術を使い、あらゆる時代へと
 同士を送り込んだ。その事を口伝し、あらゆる時代へ助けを求めたのだ。
 だが他の者ではだめだった、歴史を変える事は出来なかった』

『どうして…ですか?』

 嫌な予感がして、喉を鳴らしながら問い掛けた。
女は辛辣な内容をただただ淡々と話し続けた。

『簡単な事……他の者もまた、この時空の人間だからだ。
 一つの時空が刻んだ巨大な歴史の前では、その中に生を持つ者では抗う事が出来なかったのだろう 』

『え…じゃぁ…私は…』

『ああ、そうだ。外から来たお前は…この時空への干渉は出来ても、この時空からの干渉を受け付けない。
 だからお前は宿命を変え続ける事が出来ている』

『そんな……そんな事って…』

 課せられた事の大きさに眩暈がした。
逃げ出したいとの思いがどんどん強くなる。

『鍵を握る者よ、私も何時かお前の前から姿を消す事になる。だがゆめゆめ忘れることなかれ。
 それは間違いではない、未来があるべき姿に戻りつつある徴に過ぎぬ』

 感情に比例して体に現れた拒絶反応は徐々に強さを増した。
動悸が早くなり、息苦しさを覚える。
それでも前に進まねばならない。進む為に必要なことを聞かねばならないと、理性が囁く。
 手に余る話ではある。逃げ出したいとも思う。
けれども崩壊と再生とを自分の目で見てしまった以上、顔を背けて、忘れて、投げ出してしまうことの方がずっとずっと難しい。
 は跳ね上がる鼓動と呼吸を抑えて、壊れそうになる心を奮い立たせ、懸命に問い掛けた。

『私を導いたおじいさんは、大きなきっかけを変えろと言いました。そのきっかけを私が知っているとも。
 でも、本当にそれでいいんでしょうか? 私がしてきた選択は、全て私の世界の歴史に添った事ばかりです。
 ここが違う時空だとしたら、その方法を選ぶ事は、間違いなのではないですか?』

『悩む事はない。最初の歴史など、私のいる未来からはとうに消えている』

『それって…一体…どういう…』

『我らは歴史を戻せとは言っていない。ただ世界の終焉という結末を変えて欲しいだけなのだ。
 死滅した世界が再生するのであれば、例えどのような痛みを伴う歴史であっても、我らに嫌はない』

『そんな……そんな責任重大な事…を…』

 女は手をゆるりと上げて、眼下に広がる広大な世界を示した。

『ごらん、この世界を…些細な再生を得ても、まだこの有様だ。
 このような世界では、人も、動物も、生を繋ぐ事は叶わない。
 私達は、この世界が、生きとし生きる者の命で溢れれば、それでいい…』

 助けを求められながら、肝心な部分は丸投げされている気がしてならなかった。
は思わず湧き上がってきた感情のまま叫んだ。

 

 

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