傍にいるということ - 三成編

 

 

 誰か忘れられぬ対象がいるのであればまだいい。
その男以上の想いを持って忘れさせてやると豪語し、努めるだけだから。
けれども今彼女が恋い焦がれているのは人ではなく、切り離された世界そのものだ。
そんなものを相手にして対等に渡り合えるはずがない。

『…忘れろ…というのは簡単だ。だがそれをしてどうなる?
 そこは、お前の故郷だ……切り離そうとして、切り離せるものでもあるまい。
 故郷を恋い慕うお前を、誰が責められようか。そんなのはただの傲慢だ。
 分かっている…分かっているのに……それでも、俺は……俺はお前に……』

 頭ではよく分かっていても心がついて行かない現状が悔しい。
自分はどうしてここまで狭量なのかと、独占欲が強いのかと、己の不甲斐無さに腹が立つ。
三成は己の奥歯を噛み締めて、瞼をきつく閉じた。
それは自然と仄暗くなって行く眼差しを、の目から隠す為の行動だった。

「もう…遠いなぁ………戻る事…ないんだな…」

 が独白する。

『…諦めている…苦しんでいる…。…ここから…今生から……俺達の世界から…逃れたいと…願っている…。
 …それこそが、お前の真の望みだというのか…』

 否定出来ない。
責める事など、出来ようはずもない。
その理由を、一番よく知っているのは、三成自身だ。
 出会った頃ならばまだしも、傍にいて執務の補佐をするようになってからは嫌と言うほど思い知っている。
彼女は危機感が薄く、情に厚い、どこにでもいる普通の穏やかな女だ。
それが何の因果か一国一城の主となり、多くの家臣を抱えて、自身の思想を支持する民の命を預かり、この時代に立つことなってしまった。抱えている困惑や鬱積がどれ程のものなのか、想像するのは容易い。
 それだけでも難儀だというのに、目に見えぬ何かに脅かされ続ける日々。
普通の神経ならばとっくにどうにかなっている。
 疲れ果て、現実から逃避したいと願い、故郷へと思いを馳せる時があって何がいけないというのか。

『…叶えてやれるものならば、叶えてやりたい……だが、その望みは叶わない…。
 否、例え出来るとしても、俺は……叶えたくない…。叶えれば、お前は俺の手の届かぬ所へ行ってしまう…』

 苦しくて、胸に溢れる想いが悲しくて、堪らなくなった。

「…日常……か」

「うん、日常」

 気持ち落胆した様子で独白した三成に向かいは自嘲気味に笑って見せた。

「…普段何も考えずに過ごしてるけどさ……失ってみて、初めて分かるね。こういう尊さっていうのはさ」

 諦めたとでも言うように、は小さく息を吐いた。

「だからこそ……こっちの世界の人の日常は…護れるなら、ちゃんと護らなきゃ、なんだよね」

『…気丈なことだ…。対して俺はなんと浅ましい想いを抱いているのか……どうしてこんなにも、俺は無力なのか…』

 自分の事は諦めた。どうにもならない事だから諦めるしかなかった。
だから代わりに、この世界には平穏を与えたい。
暗にそう言って、再び湯呑を取り上げ傾けた。
 それはあまりにも悲しすぎる思考。
想い人の言葉であればこそ、到底、受け入れられるものではなかった。

『俺はただ…お前には、微笑んでいてほしいだけなのに……俺の力では、遠く及ばない…。
 …これは、俺には過ぎた願いだとでもいうのか…天よ…』

「ン? 何、どうしたの? 三成」

 堪りかねて顔を上げて手を取れば、は当然目を丸くした。
手の中にまだ納まっている湯呑が、反動で小さく揺れる。
 取り落とさないように湯呑をしっかりと握るの指先を見て、次の瞬間には三成は己が目を見張った。

『あああああーーー!! 理想の背中ッ!!』

『いてもたってもいられなくなっちゃったのよ』

『……こっちに来てからというもの、全然してなかったからね、もうね禁断症状でさ…』

『申し遅れました。、現在君主やってますが、本来は鍼灸師です 』

 初対面の印象はこれ以上はないくらいに最悪だった。
だが今思い返してみれば、あの出会いに全てが潜んでいる。
自分にしか、出来ないこと。
自分だけにしか、与えてやれないこと。
そこに気がついてしまえば、嬉しくて、自然と笑みが漏れた。

「何? 本当にどうしたの? 三成」

 繋いだ手を離して、突然立ち上がる。
益々行動が読めないと、怪訝な顔をしたの前で、背を向けた。
羽織をその場に脱いで、三成はその場へと再び腰を降ろす。

「…ほら」

「え?」

「好きにしていい」

 言葉少なく言えば、は目を丸くした。
彼が言わんとしている事を悟ったようだ。

「え、いいの? 嫌だったんじゃ…」

「日常が恋しいのだろう」

「う、うん」

「俺にはお前を元の世界に帰してやる力はない。だが俺にだって与えてやれるものはあるんだ」

 腹立たしいのか、それとも単に照れ隠しなのか、三成はつっけんどんに言い放つ。
それを受けたは嬉し気に破顔した。
再度手にしていた湯呑の中身を一気に平らげて、文机の上へと置く。

「じ、じゃぁ…久々に……揉んじゃおうかな?」

「…針は使うなよ」

「うん、分かってる」

 「始めるね」と柔らかい声で言われて、それからすぐに肩に、背に、の指の感触が降ってきた。
ゆっくりと、ゆっくりと、始まった指圧。
甘美な痛みが背中一杯に広がり、遠いものだと、叶わぬものだと思い描いていた温かさが二人を包んで行く。

「お前も……変わってるな…」

「そう?」

 肘を使い肩を解し、背骨に添って親指を走らせて、凝り固まった体を解した。
力加減によって漏れるの吐息に色艶めいたものを感じないでいられたのは、一重に彼女の声が楽しげだったからだ。

「普通はするよりされる方が好きだろう」

「あー、そういえばそうかもね……まぁ、でも私はこうして解してく方が楽しくて仕方ないんだけどね。
 だってさ、嬉しくない? 人の疲れが自分の指で癒されてゆくの感じるのって……なんか気持ちいいよ?」

 先程までのくさくさしていた様子が嘘のようだ。
今のはきっと充足感に満ちた顔をして、三成の体と向かい合っているのだろう。
弾む声から気持ちの変化を察した三成は、柔らかく眼を細めた。
僅かな心境の変化であっても変化は変化だ。
の中にあった棘が影を潜めたのであれば、こんなに嬉しい事はなかった。

「天職だったわけか」

「んー、どうなんだろね? 下手の横好きかもしれないしね」

 とはいえ、笑って受け答えしてはいるがどのような形であれその天職をこの人は手放さざるえなかった。
そうして得た別世界の生に、物足りなさを息苦しさを覚えているのではないのか。
 の声が弾めば弾むほど、安堵と共に不安もまた湧き上がってくる。

「ねぇ…三成。考え事もいいけどさ、やってる時はもっとリラックスしてていいのよ?」

「リラ…なんだって?」

「ええとね、もっとこう気を抜いていいって言ってるの」

 思考がすぐさま体に現れたとでもいうのだろうか。
の声が困惑を含み、三成の葛藤を阻んだ。

「そんなつもりはない」

 取り繕えば、の漏らした溜息が三成の髪を擽った。

「全く、しょうがない人ね。自覚がないなんて…だからこんなに凝っちゃうのよ」

「…別に構わん……その時は…またこうしてお前が解せばいいだろう」

 声が小さく、そして低くなったのは、彼女に拒絶される事への脅えがあったからだ。

「いっ?!」

 急に強く押し込まれて、目尻に涙が浮かんだ。
痛みに歯を食いしばり、肩越しにを見上げれば、彼女は大きな瞳をきらきらさせていた。

「今、なんて言った? いいの?! ねぇ、いいの?」

「な、何が…」

 視線で力が入り過ぎている事を訴えれば、気がついたらしいは慌てて手を上げた。

「い、いや、ほら。三成って…人に体触られるの嫌がるタイプかな…って思って…」

「あんな公開処刑をされたら、誰だって嫌になると思うがな」

 憎まれ口を叩きながら、三成は再び顔を元へと戻した。

「肩」

「あ、う、うん」

 少ない言葉で許しを与えれば、はまた白く細い指先を背に、肩にと走らせる。

「……たまになら、治療を受けてやってもいい」

「もー、素直じゃないんだから。体楽になってんでしょ?
 たまにとか言わないで、週一くらいでやってあげるのに」

「冗談じゃない」

『そんなに触れられていたら、理性がもつか』

 胸で吐露した言葉に苦笑した。
自分で許しを与えておいて、深層心理がそれとは情けない。
自分にだけ出来ること。
与えてやれること。
けれど裏を返せばそれは…。

「お前だけが…俺に与えられるもの…ということか」

「え? 何が?」

「いや、なんでもない」

 目を閉じてが施す甘美な痛みを噛みしめ、三成は小さく微笑む。
願わくば、この痛みが、甘い一時が、永久に自分だけのものとなりますように。
この人が、それを望んでくれますように。

「世界を変え、場所を変えても…日常は自分次第で作れるものだ」

「うん、確かに…そうね。そうかもね」

 何気ない行動一つの中にある日常。
失ったと思っていたその日常を、この時間を通して彼女が取り戻せたと思ってくれればいい。

「でもさ、ここでこれを日常にするなら、三成が協力してくれないとね」

 密かに願う三成の耳に、の柔らかい声が届く。

「考えておいてやる」

 満足気に微笑んだ三成の表情を、はまだ知らない。
けれどもそれはこの特権を彼女が持っているからこそだ。
ならばこの顔は、彼女が知らないままでいいのだと、そう思った。

「本ッッッ当、横柄なんだから……少しは感謝してさ、素直に有り難うとか言えないの?」

「お前が好きでやっている事だろう」

「はいはい、そうね、有り難うね。ガリガリのバッキバッキのベコボコの背中貸してくれて。
 嬉しくて涙出ちゃう」

「止めるか?」

「え゛っ?! う、嘘、嘘です。ごめんなさい。もう少しやらせて下さい」

「よし」

「ったく…」

 交わされる言葉は相変わらずの悪態。
けれども言葉の応酬に反して、部屋の中の空気は柔らかい。
そこはまるで木漏れ日に満たされた空間のようだった。

 

 

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理想の背中を持つ男にだけ許された特権、それがこれ。(08.07.20.up)