傍にいるということ - 慶次編

 

 

 照れたようにはにかんで笑って、それから視線を天へと向けた。
そこで何かを見つけたように、はにっこりと微笑む。

「ん。決めた。あの橙色の星にしよう」

「ん?」

 他が指し示した星へと慶次が視線を向ける。

「あの星なら、一際大きく輝いてるし、しぶとそう。あれが、慶次さんの星ね」

「そうかい、なら……願掛けでも、しておくかい? 俺の星だ、三回なんてみみっちい事は言わないぜ」

「だめだよ。願掛けは、流れてなければ意味ないんだから。それに、だからと言って流れらちゃ困るから。
 慶次さんの星にはずっとずっと天にいてもらって、私の事見守ってて貰わないといけないんだから…ね?」

 深い意味はないのだろうが、こんなにも嬉しい言葉があるだろうかと、慶次は頬を綻ばせた。
けれども同時に、敏い彼は気がつく。

『…無理してんなぁ…相変わらず…』

 星に拘るのも、歴史に縋るのも、の中に無意識の焦りがあるからこそだ。
"気にしていない"と無邪気に振舞い、"自分はもう大丈夫だ"と、周囲に安堵を促す。
だがそれは、裏を返せば"そうしていなくては、必死に目を逸らそうとしている現実を思い描いてしまうから"で
あって、"少しも平気ではない"事の証明に他ならない。

 自身でさえ気が付いているかどうかが怪しい、無意識のSOS。
そこに気がついて、彼女の抱えた胸の痛みの深さ、重みを察してしまえば、見過ごすことなど出来なくて。
せめて自分の前では全てを吐き出し曝け出させてやりたくて、慶次は呟いた。

「大変だねェ、さんは」

「え?」

「願掛け一つするのに、あれやこれやと考える」

「だって、決まりごとだもん」

 そう言ったが、慶次の手の中に収まる漬物をつまんだ。
慶次は好きなようにさせながら、顔を顰める。

「決まりごとね」

「慶次さんはそういうの嫌いだったけ?」

「嫌いというか、なんというか………くだらないと思うのさ」

 溜息でも吐くように言って、慶次は徐に身を起こす。

「なぁ、さん」

「はい?」

「決まり事もいいけどな、たまには放り出した方がいいぜ」

 軽く握った拳での胸元をぽんぽんと小突いて、彼は言う。

「一番肝心な決め事は、誰かがくれるもんじゃない。あんたのここで決めるもんだ」

「慶次さん?」

「あんた、振り回されすぎちゃいないか」

 真剣な眼差しで言われて、は瞳を大きく見開いた。
次の瞬間には逃れようとでもしているように、視線を伏せて僅かに顔を背ける。

「あんたは色んなことを知ってる。分かってる。
 けどなぁ、そこに従い倣うんじゃなく、たまにはそっから自分なりに、好き勝手に歩いてみなよ。
 きっとあんたにしか出来ない結末になる。それはあんたにだけ許された特権だ。ものは使いようだぜ」

 慶次の言葉を聞いていたが、反論しようと顔を上げる。
そんなの唇を指先で抑えて、慶次は続けた。

「いいかい、さん。"特権"ってのは、使いこなせる奴だから手に出来るんだ。
 なら迷っちゃならないし、出し惜しみもしちゃならない」

 眼差しで肯定を促せば、は自ら慶次の腕を退けた。

「慶次さん、私……特権なんて、いらないよ…」

 八の字に曲がった眉が、揺れ動く瞳が訴える。

「…特権なんか持ってても、出来る事は限られてるし、本当にしたいことなんて、出来ないんだから…」

 自嘲的な笑みを目にすれば、慶次は盛大な溜息を吐いた。

「…大変だなぁ、本当にさんは…」

「もう、さっきから、何?!」

 呆れられたのだろうか。それとも落胆された?
困惑しながらも、自分なりに懸命に考えている事を否定された気がした。
心に生じた不安や動揺を悟られるのを恐れて、わざと膨れっ面になって見せれば、慶次は首を横に振った。

「見てられないのさ、今のさんはな」

「どういう意味ですか、そりゃ、頼りないかもしれないけど…」

 くだらないポーズはこの男にはやっぱり通じないのだと痛感し、素直に言葉を紡いだ。
すると慶次は「そうじゃない」と視線で告げてから天を仰いだ。

「そうさなぁ…さんは、まるで神さんみてぇだと思ってな」

「神様?」

「ああ、神さんだ」

 またとんでもない事をこの男は言い出したものだと目を丸くした。
緊張を解せとばかりに杯を視線で勧められて、は自分の杯を傾けた。
杯の中に残る美酒が齎す熱に煙に巻かれないように、細心の注意を払いながら慶次の言葉を待つ。
 対して慶次は、自分の大きな杯に残る酒を一息で飲み干した。まるで景気づけの一杯という様子だ。

「俺は思うんだがね、神さんってのは、随分と虚しい存在なんじゃないかね」

「どうしてですか? 神様なら万能でしょ?」

「どうかなぁ…もしもな、その神さんとやらが万能で、本当にいるなら、世はこんなに乱れちゃいないだろう?
 誰かが誰かを裁いたり、統治する必要もないわけだ」

「神様がしてくれるから?」

 「おう」と頷いて、彼は漬物を口に運ぶ。
手元の杯が空なのに気がついて、酒樽から注いでやれば、慶次は自然な仕草で杯を煽った。

「もしかしたらな、神さんは世と人を作るので精一杯で、もう力はないんじゃないのかね」

「ああ、なるほど…そういう考え方ですか」

 少し納得して己の杯を傾けた。

「きっとな、切なくて、悔しくて、たまらないだろうねぇ。折角作ったのに、世は乱れて、全ての人は幸せじゃない」

 そこで慶次は言葉を区切ると、柔らかい視線でを見つめた。

「いくら苦しんでても、助けてやりたくても、もう自分の力は及ばない。伸ばした手すら、人には見えない」

「!」

 まじまじと慶次を見上げれば、彼はゆっくりと頷く。

「そう、誰かさんとそっくりだねぇ」

「私は、人ですよ」

「ああ、さんは人さ。神さんじゃない。ただ、ちょっとそっちよりなんだろうな。位置づけが」

 慶次が暗に示した言葉を受け取って答えれば、彼は大きな手を伸ばしてを抱き寄せた。

「ちょ、ちょっと?! 慶次さん? こ、零れる!! 勿体無い、零れちゃうからっ!!」

 両手で杯を取り落とさぬようにバランスをとれば、慶次は軽々とを抱き上げた。
己の膝の上へと座らせて大きな掌でぎゅっと抱きしめる。

「違う世界から来て、天下を平らげて、色んな命を救おうとしてる。でもさんは小さい。
 こんな風に俺の手の中にすっぽりと入っちまう」

「慶次さん? 酔いすぎなんじゃ…」

 杯を置いた厳つい指先がの顎をへと伸びた。
猫を愛でるように顎を下から突付いて、彼は言う。

さんは、人で女だ。神さんじゃない。
 けどな、さんの世界で出来ないことをしちまったのも事実だ」

「……だから、神様の親戚って位置づけ?」

「おう」

 自分の顎に触れる指の感触が妙にくすぐったくて、は片目を閉じた。

「もう、慶次さん、くすぐったい。これじゃ神様じゃなくて猫扱いですよ」

「おー、こりゃすまないね〜」

「もう!」

 膨れっ面れで文句を言いながら、は慶次の背へと凭れ掛かった。
背中全体で慶次の体温、鼓動を感じれば、妙に安らぎを覚えた。
"護られている"と実感した事で気が抜けたのかも知れない。
自分に無意識の内に課していた"何か"が、自然と解け落ちてゆく気がした。

『…これが虚勢って言うやつなのかな……』

「…不思議ね」

「んー?」

 再び杯を取り上げて、慶次は煽る。
もう一方の手はの膝の上に放り出されたままだ。
そうしていると落ち着くのか、その指先をが撫でたり絡めたりして遊んでいる。

「本当に、不思議……どうして、何時も分かっちゃうの?」

 ようやく、荷を降ろした。
"君主"としてではなく、""としての言葉が出たと、慶次は安堵の息を密かに漏らした。

「私が、限界近付く時……必ず近くにいるのは、慶次さんだ……不思議だなぁ」

「俺じゃ、不服かい?」

「ううん、何時もね、思うの。貴方で良かった、他の人じゃなくて良かった…って」

「光栄だねぇ」

「でも…悔しいな」

 視線を落として探れば、は拗ねた子供のような顔をする。

「頼るのは、何時も私ばっかり。なんか不公平」

 紡がれた言葉が嬉しくて、慶次は笑う。

「いいや、これでいいのさ」 

「どうして?」

「俺が前田慶次だからさ」

 煽っていた杯を置いて、慶次はの前へと己の腕を差し出した。

「見てみなよ、この手。でかいだろ?」

「うん」

 差し出された掌の上へが自分の掌を重ねた。
すっぽり収まってあまりさえでる厳つい掌を慶次は閉じた。
掌の中に納まるの手を圧迫しすぎないように細心の注意を払う。

「これだけでかいとな、色んなものが拾えちまう」

「色んなもの…」

「ああ、人の命とか、天下を目指すもんが起こす合戦の命運とかな」

「重くない? 苦しくはならない?」

「いいや、全然苦じゃないね」

 即答して一度閉じていた掌を開いた。

「ほらな、こうやって、自分の意志で放り出すことが、俺には許されてる」

「そっか」

 少し安心したと顔で語るの掌を、慶次は再び包み込んだ。

「だからな、俺くらいになると、さんくらいデカイもん背負ってる奴じゃないと吊り合わない」

 手にしていた杯を置いて空けた掌での頭を撫でた。

「俺とさんはこれでいい。これでようやく、吊り合ってんだ。
 でなきゃ、さんを導いたやつだって端から俺を選んだりしなかったろうさ」

「そっか、そうなんだ。私だけが選ばれたわけじゃ、ないんだよね」

「ああ、そうさ。さんには俺がついてるぜ。だからな、気にせず下していいんだ」

「慶次さん…有り難う……。慶次さんって、本当に……懐大き過ぎ」

 無条件に注がれる優しさに絆されそうになると呟けば彼は聞こえないふりをして、代わりに耳元で囁いた。

「折角の星空だ。たっぷり堪能しなきゃ勿体無い。また、朝帰りでもしようかね?」

 それは、あの夜のように、一人の女に戻って私情のままに泣いてもいいという免罪符。

「そんなことしたら……きっと今度は謹慎だけじゃ済まないね」

「まぁ、そん時は、松風で逃げりゃいいさ。どこまでも」

 そういいながら慶次は空を見上げた。
月の柔らかな光に照らされて寄り添う二人の姿は、遠目から見れば止まり木とそこに寄り添う雛鳥のように見えた。

「慶次さんはまるで止まり木ね」

 の頭を撫でていた慶次の指先に、雫が一粒触れる。
慶次が労わるように、包み込むようにして、の頬を伝う涙を唇で拭う。
それを黙って受けたは、縋るように慶次の着物を掴んだ。
ぶるぶると震えて、声を殺そうとするの頭を、慶次が大きな掌で撫でれば、の両目から大粒の涙が零れ、口元からは小さな嗚咽が漏れた。

「…何、それでいいのさ。どんな鳥にだって、羽を降ろす場所は必要だ」

 何もかもを見通していながら、彼女の負担にならぬようにと見ていない振りをする。
けれどもこれだけは忘れてくれるなと、見失ってくれるなとばかりに彼は言った。

「泣きたい時は泣けばいい。他人の目なんか気にする必要はない。俺がこうして隠してやるからね。
 いいかい、さん。俺は何時如何なる時も、あんたの傍にいる。この手は、あんたの為だけのものだ。
 だから辛い時は我慢なんかしなくていい。俺だけには言っていいんだからな」

 慶次の低い声に安堵を得たのか、は慶次の大きな胸板に身を預けて小さく頷いた。
の泣き声が夜の闇の中に溶けてゆく。
二回目の朝帰りが決定した瞬間だった。

 

 

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彼だから見抜ける事がある。彼だからこそ、見せられる顔がある。(08.07.11.up)