孫市を加えて改めて向かい合った苦情処理は、思った以上の速さで進んだ。
今日はどういうわけか慶次も逃げ出さずにその場に残り、黙々と従事している。
元々慶次も孫市も、細かい事にあまり深く拘る性質ではない。
その為、実直な幸村や兼続、屈折した愛情を持つ三成と違って、ちょっとやそっとの罵詈雑言に反応することがない。
それだけに、作業が滞る事はなかった。
彼ら二人は、確かに長時間のデスクワークには不向きな人間だ。
けれども猫の手でもいいから借りたい時ともなれば、いないよりはいてくれた方が断然いいに決まっている。
心配なのはこれまでの慶次のようにすぐに飽きて逃げ出す可能性だったが、意外にもその心配も無用のようだった。
というのも、この数日ですっかり左近との呼吸が合うようになってしまっていたからだ。
「左近さん、これ…後で兼続さんに」
「はいはい。…と、えーと…」
「あ、墨ですよね?」
無言で手を動かし、手元の墨を政宗がの前へと出せば、もそれをとってそのまま左近へと横流しした。
「助かりますよ」
このように三人は視線も合わせずに書簡や備品をやり取りする。
二人の間に違和感なく政宗が混ざっている事実もある。 と左近が特別な関係へ変化した訳ではないのは明白だ。
『とは言え、面白くはないよな……おい、慶次。お前何やってたんだよ?』
『ちょいとこれは計算外だったな』
絶妙な間で助け合う三人を遠巻きに見て、孫市と慶次は視線で語り合う。
『幸村が使えなくなってる時点で、ちゃんと気付いて牽制しろよ。あいつは色事に関しちゃ気は抜けない相手だろ』
『悪ぃ、悪ぃ。ま、そう目くじら立てるなよ』
どうしても聞き慣れぬ電子音が鳴って、机の上で今日もツールが光る。
「殿」
「姫」
政宗と左近の声が重なり、が「はーい」と返事をすると同時にツールを取り上げる。
自分達の知らないところで積み重ねられている日常が、また一つ、顔を覗かせる。
遅れをとる二人としては、やはり面白くはない。
ツールを取り上げたは、ディスプレイを開いて今日は何があったのかを確認する。
途端、顔を強張らせて己の口元を抑えた。
「うわぁ……すごっ!!」
「どうした? さん」
「何かあったのか?」
ここぞとばかりに問い掛けてくる慶次と孫市の前で、は慌てて画面を閉じると首を横へと振った。
二人に見せたくない何かがあったのではなく、自身がそれを見たくないという様子だった。
「う、うんん、なんでもない。大丈夫よ。さ、続けましょ」
見たがらないものについて追求するのも悪趣味だと思ったのか、二人はしぶしぶ机へと視線を戻した。
は閉じたツールを改めてじっと見つめ、こくんと喉を鳴らした。
何かいいようのない悪寒が、の背には這い上がってきていた。
その日の夜、日付が変わった頃合。
浅い眠りの中にいたは、耳障りな音を耳にして、閉じていた瞼を開いた。
音の根源を視線で探せば、雨戸がガダカタと音を立てて揺れていた。
それが妙に気になって、床から起き上がる。
緩慢な歩みで窓に近寄り、雨戸をほんの少しだけ開ければ、生暖かい風が頬を撫でた。
頬に何かがぶつかって、思わず瞬きする。
「…え? あ……め…?」
それがなんなのかは、雨戸と瓦に広がり始めた染みが教えてくれた。
この瞬間、の中にあった懸念が、一つの形を持った。
「…雷………雹……そして、雨…」
瞬時に窓枠から離れて、枕元においたツールに噛り付いた。
戦々恐々としながらパネルを操作して、天気予報を掲載するサイトを開く。
そこに映し出されたのは、現世で現在起きている台風被害の映像だった。
横倒しになるダンプカー。
土砂崩れによって崩落した道路。
氾濫した川に呑み込まれる二階建ての家屋。
淀んだ水から辛うじて覗くのは屋根瓦ばかりで、そこに逃げ遅れた人影がちらほらと見てとれる。
昼間垣間見た映像よりも、状況は更に酷くなっている。
地域図を示す画像の下には、リアルタイム更新で増え続ける行方不明者数を示す数字画像。
その横には強調するように赤く太い文字で暴風・津波への警告と、落雷による停電発生を知らせる一文が躍る。
「……一日…遅れで………こっちにも同じ事が起きてる……?」
そこで顔を上げて、は再び窓枠へと身を寄せた。
見下ろした城下に並ぶのは、現代とは似ても似つかない平屋作りの脆い家屋。
「…嘘…ち、ちょっと……待って……いくらなんでも……冗談でしょ?」
上擦る声。震えが全身に走り、腕には鳥肌が立った。
「待って、待って、冷静に……一日遅れなら、まだどうにか、何か出来る事があるはず……」
掌の中で加熱して行くツールを再び見下ろした。
地図を検分し、時間を確認する。
「…あ…はは、ははは…そんな……うそ…やっぱり…そうなるの? ……直撃…コース辿ってる…?」
背筋が冷え切る一方で乾いた笑いが止まらない。
これが思い過ごしならいい。心の底からそう思う。
けれどもそうではあるまい。
何故ならただの予感だと、思い過ごしだと片づける気にはなれぬ前例を、二つも見た。
落雷で寸断された村。
突然の雹で負傷した部下。
いや、実害はなかっただけで、天候だけをとって見るならこの数日、全く外れていない。
と言う事は、今この画面に映る光景は、明日のこの世界の姿。
「半蔵さん!!」
はすぐさまツールと雨戸を閉じて、声を張り上げた。
夜着を脱ぎ捨てようと箪笥へと歩みを進めれば、背後に半蔵が降り立った。
「今すぐ、全将兵を叩き起こして下さい!! 将は一刻後に評議場に集合です!!」
有無を言わせぬ迫力のに目礼をして半蔵は姿を消した。
着替えをするべく箪笥を引いたの目に飛び込んだのは、自分の運命が切り開かられた時に着ていた水着だった。
普段なら目も向かない物に視線が行くということが、何かの巡り合せのように思えた。
背に貼りついた予兆の重みを一層強く感じながら、は着の帯を緩めた。
評議場へと顔を出せば、夜勤組以外は皆寝ぼけ眼だった。
余程急かされたのか着替えもままなっていない様子で、夜着に羽織を一枚重ねただけという姿が多い。
三成などは寝起きが相当悪い性質なのか、凶悪な面持ちだ。
「説明している時間がありません、すぐに行動に移します」
だとしても構う余裕はないと、は室の中央へと歩みを進めた。
緊迫した表情、全身にまとう空気から、何かが起きたことを察した一同は、表情を改める。
「慶次さん、今すぐ旧城…あーもう面倒だから浅井城でいいや。
浅井城へ出立して物資の確保、それから民の収容をするように言って下さい。
余裕があるようであれば、そこから領下の城全てに同じ伝令を」
「おうさ、任せな」
「幸村さん、兼続さん、小隊を組んで彼らと共に出立。この近辺の住民を、今すぐこの城へ入れて下さい。
全ての民に例外は認めません。持つものは日持ちする食糧と暖の取れる衣服、それから金子だけです。
子供や病人、お年寄りを見逃すことがないように。職人に限って、商売道具を持参することを許可します」
「ハッ!」
「よかろう」
「左近さん、政宗さん、地下室から三階までの荷物を全て四階以上に移動させて下さい。
事と次第によっては収容した民を三階以上に入れる事になります。
捨てる物、捨てない物の検分は慎重にお願いします」
「承った」
「委細、承知」
「孫市さん、炭、火薬、砲弾、武具の類の保護を頼みます。同時進行で松明を大量に用意して下さい。
火の管理は特に優先事項です。絶やすことがないようにお願いします」
「了解、任せてくれよ。貴方の期待に答えてみせるさ」
「家康様、秀吉様。残った将兵、大工衆、それからここに入ってくる領民で動ける男性全てを統括。
ギリギリまで城壁の補強と、完成に労力を傾けて下さい」
「ハハッ!!」
「サルめにお任せ下され」
「三成は私の傍で補佐。正直、冷静でいられる自信がない」
「分かった」
家臣団筆頭格へ漏らさず指示を出したは、続いて後方に控える将を見やった。
「半兵衛さん、秀長さん、小六さんは三人で幸村さん達とは別に小隊を編成。
ありったけの兵糧を集めて下さい。それと、飲み水の確保も。
赤字国家に戻っても構いません。糸目をつけないように。
刻限はあまりありません、昼前には城へと戻って下さい」
「「御意に」」
「任せてくれ!!」
「成実さん、小十郎さん、鬼庭さんは領民が混乱を起こさないように誘導を。
きっとごたごたになると思うから、その仲裁もお願いします」
「おう!」
「「お任せ下さい」」
「残る徳川勢、ニ隊に別けます。酒井さん率いる一隊は補強工事の全面的な後方支援を。
井伊さんが率いるもう一隊は国境付近の巡回強化。
何か不穏な動きがあれば、明日の昼までそこで粘って下さい。昼を過ぎたら、何があっても撤退です。
領が侵されようと、家屋や田畑が焼かれようと構う事はありません。一目散に城へ戻って下さい」
「お任せ下され」
「任せてくれ!!」
そこで一息吐いて、は室にいる一同を見やった。
彼らの視線から、護衛への懸念を感じたは、すぐに答えた。
「私の護衛は、半蔵さんと補佐役の三成で充分です。
事が動き出したら護衛がどうの…なんてきっと言っていられなくなる」
「様、それは一体…?」
家康の不安気な眼差しを受けて、は喉を鳴らす。
「これは篭城戦のようなものです、皆さんそのつもりでいて下さい。
対策本部はこの部屋にしますので、何かあったらすぐに知らせて下さい。特に連絡系統だけは乱さないように。
半刻ごとに誰が何をどこでしているのかが分かるように努めて下さい。
では、解散!! 皆さん、すぐに取りかかって下さい」
動き出した将兵を見送りつつが腰を降ろせば、隣に残る三成が冷たい眼差しでを見下ろす。
「…三成…」
「なんだ」
「どうしよう? 次は、何をどうしたらいい? 後一日でここもこうなるんだけど……乗り切れると…思う?」
問い掛けながら、はツールを取り出して広げたディスプレイを彼の前へ差し出した。
一瞥した三成の顔が僅かに強張り、眉が吊り上がった。
今の今まで噛み殺していた眠気など一気に吹っ飛んだという面持ちだ。
彼は溜息を一度吐くと、天井を見上げた。
「半蔵、動いてくれ。お前の兵に伝令をこなしてもらいたい」
舞い降りてきた半蔵へ、三成は言う。
「今下った命を各領地へそっくりそのまま出せ。
慶次に追いついたら、浅井へ命を出すと同時に、城への帰還を命じろ。
左近、政宗、幸村、兼続、半兵衛殿、小六殿、秀長殿へは追加指令だ。
左近と政宗には嵩張る物は二の次にして、実用書の類を優先させろ。
半兵衛殿、小六殿、秀長殿には持ち込んだ装飾品を全て売り捌き、兵糧だけでなく調味料や薬を買い集めるように。
次に幸村、兼続だ。あいつらには第三・四・五・九番蔵に入れられるだけの家畜も伴うように。
蔵は半兵衛殿らが動けば自然と空になる。詰め込めるだけ連れてきて構わんぞ。
まだ時間があるな。階下に待機する伊達勢に今の内に下手になる七・八・十三・十四番厩を破棄させ、高台になる
一・二・六・九・番へ馬を移すように伝えてくれ。厩に空きがなければ、家畜同様、蔵を使っても構わん」
三成の声が終わると同時に半蔵が姿を消し、城のあちこちで警鐘が鳴った。
動き出した兵が火急を城下へ知らせる為に打ち鳴らしたのだ。
真っ暗になっていた城下に、小さな灯りが点り始める。
それを評議場の窓から見下ろし、は瞼を閉じた。黙祷を捧げているかのようだった。
突然の行動は当然の事ながら、膝元に住む民を混乱させた。
特に元北条領に近い現在地では人心掌握がままなっていない状態であったのが痛恨だった。
せめてもの救いは長くの禄を食んでいた・旧徳川領・旧伊達領・旧直江領において、さしたる問題が起きなかったことだけだ。
「ふざけんな!! 今何時だと思ってんだ!!」
「いいから、さっさと歩かぬか!! 姫様のご命令じゃ!!」
「そんな横暴が通ると思ってんのかよ!! 何が人徳のお人だ!!」
「あの人も余所の殿様となんら変わらないってことかよ!!」
「貴様!! 口に気をつけろ!! 手討にするぞ!!」
「へっ、やれるもんならやってみろよ!! どうせ俺達なんか…」
「いい加減にしろ!!」
「し、成実様」
「お前達もだ、姫さんには姫さんの深い考えがある。
こんな時間に驚かせて悪いとは思うが、決して悪意はない。
全て済めば、皆、元通りの生活に戻れよう。それは俺が約束する、だから今は従ってくれ」
深夜、全ての住民に家財を捨てさせて城へと引っ立てるともなれば、不平不満が出るのは当然で、新生城を取り巻くあちこちで民と兵との衝突が起きた。
「はぁ…?! まだ作るんですか?」
「こんな時間から…?」
「悪いのぅ…じゃがお前さんらの力がなくては完成はせん。この通りじゃ!!
賃金も見直すからの、な? な? この通りじゃ、力貸してくれや〜」
「ま、まぁ…旦那にそうまで頭下げられたら、仕方ねぇけどよ…。
でもよ、もう本当にこれきりにしてくれよな…いくら俺達だってこんなに働きづめじゃ死んじまう」
「ああ、ああ。分かっとるよ。ほんにすまんの。恩に着るんさ」
城壁の補強に従事する秀吉や家康の元でも、労働時間の事でちょっとしたいざこざが起きた。
秀吉が賃金の値上げを提案して一旦は場を納めたが、後々の災いになりそうな収まり方だった。
|