暗闇の中で見つけた恋 - 慶次編

 

 

「…ん」

 温かかった、気持ちが良かった。
久々に見た甘い夢に、惑いながら溺れた。
閉じていた瞼を薄らと開ければ、失ったはずの愛しい人の眼差し。
彼の唇が、自分の唇を求めながら躊躇うように、何度となく瞼に頬に触れた。
それがもどかして、寂しくて、は自ら彼の唇に己の唇を押し当てた。
 驚いたように一瞬固まった彼は、が寂しそうな眼差しを送ると、すぐに微笑んで、自ら唇を重ねてきた。
包み込んでくれる逞しい腕、優しい息遣い。甘い甘い抱擁に酔いしれる。

「……ん…慶次…さ……ん…」

 死の世界はこんなにも甘美なのだろうか。
いや、死の世界であればこそ、君主だ家臣だ、どこの世界の生まれだという柵はない。
望むまま、願うまま、素直になっていいのかもしれない。
漠然とそう考えて、は己の腕を伸ばした。
 大きく逞しい腕と細く白い腕が絡み合う。
慶次の太い首の後ろに己の腕を回し、逃さぬように、もうおいていかれないようにと、は彼を束縛する。

「…いかないで……離れないで……私…私…」

さん、俺はどこにもいかない。ここにいるぜ」

 まだ朧な意識の中。
その中で求め、強請られる。
役得どころの話ではない喜びに、慶次は破顔し、素直に応じる。

「…慶次さん……慶次さん……私…私…慶次さんのことが……好き……おいていかないで…」

「嬉しいねぇ。俺もな、ずっとずっと前から……惚れてたんだぜ」

「本当?」

「ああ。本当さ。だから、寝ちゃならない。目を覚ましなよ、さん」

 生者の世界へ呼び戻そうと試みれば、は両の瞼を閉じて首を横へと振った。

「や、いやだ…慶次さんと一緒にいく。残りたくなんかない」

「違う、そっちは、俺の世界じゃない」

「やだ…おいていかないで……いやだ……慶次さんといる」

 呼び戻すつもりが、生死の境を彷徨うにとっては、生死を分かつ河の前での悟しにでもなっているのだろうか。
駄々っ子のように泣きながら、頑なに覚醒を拒んだ。

「やだ…慶次さんと…ずっとずっと一緒にいるの…いらない、天下も未来も…おいていかないで、お願い」

「違う、さん。そうじゃない、俺はここにいるんだ」

「やだぁ…」

 埒のあかないやりとりに困った慶次は、ふと気がついたように顔を上げた。
周囲を見渡せば、隣室へと続く板戸がある。
 慶次は抱きかかえたままで、そこを開け放った。奥に何か彼女の気を引き覚醒を促せるものがあればいいと期待したのだが、空振りだった。
 そこは前の持ち主があの隠し通路を通る時に休めるように作った室の一つでしかなく、囲炉裏や簡素な寝床はあったが、彼女の気を引けるような物は何一つなかった。

「参ったねぇ」

 一先ず寝床へとを寝かせて、備品が置かれている棚へと向かった。
見つけ出した縄を部屋に張って、剥いだの着物と、自分の着物を干した。
その時に見つけた裁断前の布でを包み込み、囲炉裏へと向った。
湿気る炭と格闘して火を入れて、囲炉裏の傍へとを移動させる。
僅かに生まれた温かさを逃さぬように板戸を戻して、浸水に備えて補強した。
 一連の作業を終えて一息吐いてからの隣へと戻れば、彼女は泣いていた。
慶次と離れた事でまた闇の中を彷徨ってしまったとでも言うのだろうか。
の顔に蘇りつつあった生気は、急速に失せつつあった。

さん、さん、大丈夫かい?」

 手を握り、呼びかけながら抱きしめるものの反応は薄い。

さん、俺はここだぜ」

 囁いて、口付けを一つ落とせば、闇に迷うの意識が再び混濁を纏いながら戻ってくる。
生き永らえるさせる為ならば。彼女を黄泉の国から奪い返すために気を引けるものが、自分の存在だけなのだというのならば、これも一つの手かもしれないと慶次は小さく溜息を吐いた。

「悪いな、さん。後で怒っていいぜ、好きなだけな」

 それだけ言って、慶次は寝かしつけたの肌へと手を伸ばし、唇を走らせ始めた。

 

 

 混沌とした世界に光が差したように思えたのは何時の事だろう?
もう正確に覚えてはいないけれど、生きとし生けるものの生が常に光と共にあるということはよく分かった。
愛しい人の姿を追い、死出の旅路を彷徨う。
追いかけても、追いかけても、少しも距離は縮まらず、宛を失い悲嘆に暮れた。
半ば自棄になりかけていた。
そんな折、耳元に彼の―――――慶次の声を聞いた気がした。

『…さん…』

「慶次さん?」

さん、戻ってきなよ』

「どこ? どこにいるの? 私はここ、慶次さん待って…いかないで、一人にしないで…」

さん、こっちだ、そっちじゃないよ』

 の足下には薄い靄がかかる。
一歩足を踏み出せば、爪先が小石を蹴った。
耳を澄ませば、鈴やかな水の音がする。
三途の河―――――あの世とこの世を隔てる河だ。

さん、戻るんだ』

「でも、でも…」

 慶次の声は対岸からではなく、の背から聞こえていた。
一歩踏み出せば、死の世界。
後戻りすれば、生の世界。
自分の魂が、生と死の狭間で酷くあやふやな状態にある事は薄々勘付いていた。
それだけに、焦った。気が逸った。
早くこの河を渡る術を探さなくてはならない。
河を渡り、対岸にいるあの人の―――――慶次の元へと行かねばならないと強く思った。

「待って、慶次さん。待ってて…必ず傍に行く…」

『違う、そこは俺の世界じゃない…俺はこっちだ』

 耳元で紡がれる朗らかで懐かしい声。
じわじわと肌には温もりが湧き上がってくる。

「嫌だ…!! これ…嫌……お願い、触れないで……戻りたくない……」

 面積を増やして行く温もりが、全身を覆い尽くした時。
それは死出の河が目前から消えてしまう時を意味するのではないか。
もしそうなってしまったら、慶次へと繋がる手掛かりの糸が途切れてしまう。
それだけは避けたいと思った。
は泣いた。

「お願い、誰だか知らないけど…慶次さんの振りして呼びとめるのは止めて……!!
 私には彼じゃなきゃだめなの」

『それは俺も一緒だよ、戻ってきな。さん』

「嫌だ、お願い、お願い!! 私に触れないで…甘い言葉で…心を汚さないで!!」

 全身を包み込む温もりが心地よい。そして同時に恐ろしい。
は死出の河を前にゆるゆると膝をついた。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 溢れ頬を伝う涙に反して、口からは何故か荒い息が漏れた。

「あ…何…? 何なの? 何が起きて…」

 もう一度立ち上がって対岸へと渡れる岸辺を探そうとするものの、膝に力が入らなかった。
背筋に這い上がるゾクゾクとした感覚は、恐怖とは異なる未知の感覚だった。

「…やだ…なに…これ……なんなの…? 一体、何が…起きて…」

 徐々に強くなる温もりと感覚は、視覚すら容易に惑わせた。
視界の中でチカチカと白い光が瞬く。
背筋に貼りついていたはずのゾクゾク感は、急速に足を伸ばし、今や全身を覆い尽くしている。

「やだ…やだぁ…止めて……」

 上気する頬。
喉元から漏れる息遣いは荒く、熱っぽい。
その場に座り込んでいる事さえ、容易な事ではなくてはその場に横たわった。
そう、これではまるで、目に見えぬ何かに絡み付かれ、何かを引きづり出されているかのようだ。

「いやだぁ…慶次さん…傍に…いく……傍に…いて…」

 全身を這う何かが胸元を弄る。
唇から命を奪おうとしているかのように何かが重なり息苦しくなる。
けれどもそれらの感覚は、怖ろしさだけでなく、どこか何かが違った。
怖いと思いながら、嫌悪していながら、抗いきれない温かさと心地よさを纏っていた。

「…助け…て…慶次さ……」

 靄の向こうに聞こえていた河のせせらぐ音が遠のく。
錯覚が作り出していたかのように、対岸にいるはずの慶次の背が掻き消えて行く。

「いやぁ!! おいて、行かないでぇ!!」

 手を伸ばして叫ぶのと同時に、腹の奥に強い鈍痛を覚えた。

「あ…あっ…あっっ…くぅ…うっ…く」

 痛みに呻き、全身が震えた。
薄皮一枚の所でとぐろを巻いていたあの未知なる感覚が、その痛みの後で肌の上どころか心の中までも
侵食してきた気がした。

「いやぁ…やだ…やだ…これ…いや…」

 脅え、震え、泣き続ける。
無意識の内に子供のように首を左右に振って手をばたつかせて抵抗すれば、何か大きな物に手を掴まれた。

さん…一度でいい……目を開けろ…俺を見ろ』

 河が遠くなる毎に耳元に聞こえる慶次の声が強くなる。

「やだ…邪魔しないで……なんで、どうして…こんな酷いこと……」

『俺はここにいる…そっちじゃない…』

「やだぁ……放して…」

 解放を願えば全身を覆い尽くす感覚は一層深さを増した。
腹の中に受けた痛みが酷くなる。

「お願い、慶次さ……助けて……怖い…」

 溢れ伝う涙を拭うのは唇。
全身に這い回るのは、逞しい腕。
 本当は薄々分かっていた。
残してきた自身の体に、何が起きているのか、何が起きてしまったのかを。
ただそれを認めたくなかった。
 彼でなければ、意味がない。
彼でなければ、悦べるはずもないのだから。

『参ったね…本当に、強情な姫さんだ……だが、俺はそんなさんも好きなんだよねぇ』

「やだ…慶次さんの振りして……そんな事言わないで……」

『何言ってんだい、俺は俺だ』

「違う、違う…慶次さんは、こんなこと…しない…! 出来ない!!」

『だって俺は、もういないから…かい?』

 小さく頭を縦に振れば唇をまた塞がれる。
嫌悪せねばならないはずなのに、甘美な感覚は、一層深くなった。

『一度でいい、目を開けてくれないか』

 答えないの顔を撫で、髪を撫で、耳元で囁く。

『それで、俺は諦める。そう望むなら、あんたを手放してやる…だから一度でいい、俺を見ろ』

 それで助かるなら。
再びあの場所へと戻れるのならば、何を厭う事があろうか。
は己の意識を手繰り寄せて、己を誘おうとする声に、全てを任せるように瞬きした。
一度、二度、三度。そうする内に闇は消えて、視界には和室の天井が見えてくる。

「…? ここ…は?」

 次の瞬間、顎を取られた。

「ようやく、目を開けたな? お帰り、さん」

 次の瞬間、視界の中に入って来たのは慶次の嬉しそうな顔。
ずっとずっと見たいと思っていた、傍にいて触れていて欲しいと思っていた男の顔がそこにある。

「あ……なん…で…?」

 感極まって溢れだした涙を慶次の唇が拭いとった。

「…聞こえたのさ…あの河の手前で……あんたが俺を呼んだ声が……俺の為に泣いた声が…ずっとずっと聞こえてた」

「だから、戻って来た?」

「ああ、そうさ。さっきから言ってるだろ? 俺はこっちにいる」

 強く掻き抱かれると同時に、背に貼り付き、全身を覆い尽くしていたあの感覚が強さを増した。

「えっ、あっ…ちょ……これ、何? どうして…?!」

 混乱し、羞恥し、瞼を閉じれば、耳元には慶次の少しも悪びれない声がする。

「こうでもしなきゃ、さん俺の声聞かないからね」

「そ、そんなぁ…」

「で、まだ嫌かい? 気持ち悪いのかい?」

 慶次でなければと思い嫌悪していたことだ。
自分の目で相手が誰なのかを知れば、悪寒などあっという間に消え失せる。
それどころか身を委ねるのが恐ろしいと思っていた感覚全てが心地よくて、手放したいとは思えなくなった。

「あ…っ…それは…」

 羞恥で赤面し言葉を失うの事を軽く持ち上げて、振り向かせる。
それから顎に軽く唇を落とし、慶次は言った。

「悪いな、体からおよそは分かってるんだがね。無粋でも聴かせて貰うぜ? 
 なんせこっちは眠ってる女に手出しちまったんだ、言葉で聞かなきゃ、安堵なんざ出来ねぇさ」

「…慶次さん……もう、ばかぁ!!」

 言葉と裏腹に、体は正直だった。
自然と伸びた手が慶次の首に絡む。
つたない抵抗を封じようとしていた慶次の腕が、の左腕から離れる。
自然と動いたの左腕はすぐさま慶次の背に触れた。

「…もう…どこにも行かないで…」

「行きゃしないよ。俺はずっとずっとこれからもさんの傍にいる」

 心を一つに溶かして、肌を一つに重ね合わせる。
素直に快楽に身を委ねて、意識を蕩け合わせた。
一度、二度、三度、途中からもう回数など分からなくなるくらい意識は弾けた。
心を許した男との交わりがこんなにも良いものだとは知らなかったは、快楽に打ち震えると同時に何度となく涙を零し、その度に慶次に慈しまれた。
 頬を撫でる大きな掌のくれる温もりが心地よい。
優しい眼差し、逞しい体躯。朗らかな声。
どれをとっても、何をとっても、愛おしい。

『……ん……嬉しいな…』

 自分が慶次から施される行為に呑まれ、満たされてゆくのと同じように、慶次もまたの軟肌に溺れて行く。
それを朦朧とし始めた意識の中で理解すれば、一層喜びが増した。

『…私…慶次さんのものになれたんだ………』

 無意識の内に、名を呼び問いかける。

「慶次さん……私……もう…慶次さんのもの?」

「ああ、そうだよ…あんたはもう俺のもんだ……逆に、俺の全てがあんただけのものだ」

 無骨な男だと自称しながら、女心をよく理解しているらしい。
慶次は照れることもなくすぐに答えた。
が嬉しそうに微笑む。

「そっか……そうなんだ…」

『嬉しいな、幸せだなぁ』

「ああ、そうさ…さんは、もう俺のもんだ…手放しゃしないぜ?」

「うん……そうだね……放さないで…」

『……放れたくない……失いたくない…』

「ずっと、ずっと…このままで……」

『このまま時が…止まればいいのに…』

 安心感と慶次のくれた温もりが誘うのか、の意識が眠りの世界に落ちて行く。
そんなの事を見て、慶次はくすぐったそうに笑った。

「参ったねぇ……心地良さそうな顔して……寝ちまうかい」

『…このまま……ずっとずっと…傍に……』

「ま、そんなところもさんらしくていいよな…」

 耳元で「好きだぜ」と囁けば、は無意識に満足そうに微笑んだ。

『…私…もう…死んでもいいかも………幸せ……』

「続きは、また城に戻ってからな」

 慶次が独白した。
慶次もまたとの宵伽を堪能したといわんばかりの顔だった。
手を絡め、体を寄せ合い、二人はどちらからともなく眠り落ちた。

 

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