暗闇の中で見つけた恋 - 慶次編

 

 

 

 どうっ!! と轟音を上げて、填め込まれていた板戸が吹き飛んだ。
驚いて慶次が顔を上げれば、そこに立っていたのは黒装束の忍だった。
 彼の冷淡な視野には深い眠りの中に身を委ねると、彼女を抱く慶次の姿が入った。
彼ら二人は互いに裸だった。咄嗟に思い余って慶次が彼女に手を掛けたのかと思ったが、そうではなかった。
慶次の腕の中で眠る彼女の顔には苦痛はなく、安堵が見える。
 そこで何があったのかを瞬時に悟った忍―――――服部半蔵は、低く言った。

「邪魔だったか」

 その通りなのだが、まずはこの場からの脱出が先決だと、慶次は顔を顰めてみせた。
顔色から彼の言わんとしていることを悟った半蔵が、一つ手前の部屋へと身を引いた。
慶次は乾していたの着物を取ってに着せると、囲炉裏の中の火の始末をする。
それから自分の体裁も整えて、眠ったままのを抱えて立ち上がった。
 半蔵が待つ隣室へと戻れば、そこには人一人が辛うじて通れそうな穴が口を開けていた。

「こんなもん、なかったぜ?!」

 彼が驚愕すれば、半蔵はその中へと歩き出しながら言った。

「こうした場には、つきものだ。仕掛けで開く」

 なるほど、失念していただけかと慶次は苦笑する。
どうやら自分は、想像以上にこの腕の中で眠る姫に狂っているようだ。
普段なら見落とすはずもないであろう可能性を、彼女の生死が関わった途端、見落としてしまうくらいなのだから。

「まぁ、さんが相手じゃ仕方ないかね」

 自分への言い訳を呟いてから、慶次は半蔵の後に続くべく第一歩を踏み出した。
縦横無尽に走る細い通路を進み続けた彼らは、最終的に城の地下室へと辿り着いた。
浸水し始めているそこをこれ以上水で埋めないために城内に篭もる人々の桶リレーが続いている。

「ああ!! 姫様じゃ!! 姫様が戻られたぞっ!!」

 最下層で従事していた民が人影に気が付いて視線を移した。
彼がそこにいた者が誰なのかを一目で判じて喜びに任せて絶叫すれば、の生還を祝う声があちこちで上がった。
彼女の生還は、それだけで人々に力を与えるようで、意気消沈していた人々の中に生気を呼び戻した。
 桶リレーを続ける人々を押し退けて、を筆頭とした女中集が駆け下りてくる。
彼女達は慶次の腕に抱かれているをひったくると騒ぎ始めた。

様、様!! ご無事ですか?!」

「姫様、意識が!!」

「おお、御身体がなんと冷えて……誰か、床と湯の支度を急ぐのです!!」

「姫様、姫様!! どうかお目覚め下さい!!」

 こうなってしまってはもう仕方がないと、慶次は諦めたように身を引いた。
元々そこから探しに来ていたらしい半蔵が、ほんの少し同情するように慶次を見ていた。
そんな半蔵に対して慶次は、余裕を含んだ眼差しを送り、薄く笑った。
二人で過ごした一夜で、確実に二人の関係は変わった。今更焦る事はないと、彼の眼差しは語っていた。

 

 

様ー!! ご無事で何よりでしたわー!!」

 意識を失っている間に女中集に風呂に入れられて、体の隅々まで磨き上げられた。
天守閣の自室へ戻され、床の上でが目覚めた時。
一番最初に目に入ったのは、涙でぐしゃぐしゃになったの顔だった。
彼女は感極まって、思いっきりに抱きついてきた。
続いて、まだ直撃中の台風との攻防に明け暮れる秀吉、家康が顔を出し、その場で二人して膝から崩れ落ちた。
二人の顔は安堵一色に染まっていた。

様!! なんという無茶をされるのですか!!」

「そうじゃ、そうじゃ!! だからあれ程早く城へ戻って下されと…」

「御身をなんとお考えか!!」

「全くじゃ、生きた心地もせんかった!!」

「しかし、ご無事で何よりじゃ!!」

「でも、ご無事で良かったわぁー!!」

 大きな瞳を瞬かせるの横に進み出てきた秀吉と家康。
彼ら二人の左右から繰り出される小言を聞きながら、は首を傾げ続ける。

「小言なのか感動なのかどっちかにしたらどうだ」

 呆れたような声を上げるのは、政宗。
彼の後方から、兼続、三成、幸村、左近、孫市、慶次が入って来る。
身嗜みを改めた慶次を見上げ、は一度だけ首を傾げた。

「あの……」

「なんじゃ?」

「どうされました?」

 家康と秀吉が身を乗り出し、抱き付いていたが距離をおく。
固唾を呑む一同の前で、は何度となく瞳を瞬かせる。

「ここは、どこですか?」

「…………………ハイ…?」

「私は……誰でしょう?」

「何ーーーーーーーーーーーーっ?!」

 居合わせた全員が悲壮感を顔に貼り付けて絶叫した。
その反応を受けたは、脅えたように体を縮み上がらせるとへと抱きついた。

「えっ、あ、な、何? なんなの? ごめんなさい」

「ちょっと待て、本当に誰が誰なのか、自分が誰なのかも分からないというのかっ?!」

 三成がにじり寄ると同時に、慶次が身を乗り出した。
真っ青な顔をして、息を呑んでを食い入るように見つめている。
 ただでさえ派手な格好を好み、厳つい体格の慶次にそのように見つめられては、恐れをなすのは当然の事。
はこくこくと頷きながら顔を伏せてしまった。
その様子から察しても、彼女の言葉には、嘘はないように思えた。

「……なんてこった……」

 もうそれ以上の言葉は何も言えないと、慶次が腹の底から溜息を吐く。
その時の声色に何かを感じたのか、は顔を上げた。
周囲を見渡せば、自分を気遣う多くの人々の心配そうな顔、顔、顔。
中には絶句し、その場に崩れ落ちている者もいる。

それらの反応を受けては、申し訳なさそうに眉を八の字に歪めた。自然と目尻に熱い物が込み上げて来る。
これ以上は迷惑はかけられないと懸命に目尻を拭えば、自分の手首に真新しい包帯が巻かれていた。
考えてみれば、体にも幾分か疲労感がある。
これらの点から察するに、何か大変な事が起きていて、自分はそこに巻き込まれていたのかもしれない。
では、その大変な事はなんなのだろうか? 思い出そうと努めるが、一向に思い出せない。
特に、絶対に忘れてはいけないことが一つすっぽりと抜け落ちてしまっている気がする。

「……ごめんなさい……ごめんなさい…」

 悲しいと、悔しいと、切ないと、は泣いた。
翳ったの横顔が、彼女の抱え込んだ感情の全てを言い表していた。
そんな姿を見てしまえば、非常事態と言えど多くを求めるのは酷だとしか思えなくて、皆が気まずそうに
固唾を呑んだ。どうしたらいいのか、何をどうすればいいのか、皆すぐには思いつけなかった。

 そこへ突然変化が起きた。
奇妙な空気が蔓延する室の中へと、全身ずぶ濡れの伝令兵が飛び込んで来たのだ。

「伝令!! 西の城壁全面崩壊!! 城下が完全に水没致しました!! 城内へも水が!!」

 瞬間、が目を大きく見開いた。
霞がかった記憶が一気にフラッシュバックする。

「地下、一階共に破棄!! 
 兵糧、火薬、薬、武具、書物、持てる物資を持てるだけ持って、総員二階へ退避!!」

 は弾かれるように叫ぶと、すぐに立ち上がった。

「ハハッ!!」

「って、皆こんなところで何してんですか!! 持ち場に戻るっ!!」

 呆然としている面々の前を夜着のまま通り抜けて、は階下の評議室へと向う。

「な、おい、こら、待て!!」

「姫、ちょっと待って下さ…」

様!!」

「お、おい!! 思い出したのか?!」

さん、ちょっと待ってって」

 三成、左近、幸村、孫市、慶次が慌てて後を追った。
彼らの制止を振り切って歩き続けるは、途中で足を止めた。
通り過ぎていた廊下を数歩戻って、汚れる廊下を掃除している女達の中の一人の前で腰を降ろす。

「兼続さん、お医者様呼んで!!」

「どうした?!」

 後を追ってきた慶次や他の者には脇目もふらずに、は兼続を呼んだ。

「この人、妊婦さん!! 産気づいてる!!」

 指摘されて見下ろして見れば、その場に座って噴出した汗を拭うことも出来なくなっている女は確かに妊婦で、既に破水が始まっているようだった。
 兼続が颯爽と階下へと駆けて行く。
その場に残ったはと言うと、

「えーと、どうしよう…どうしたらいい?!」

「なんで左近に聞くんですかっ!!」

「ちょ、俺を見るなよ!!」

「いや、二人なら、なんか経験ありそうだったから。
 っていうか、こういう場合は動かさない方がいいよね? それとも寝かせた方がいい? ね、どっち?! ねぇ!」

「だから、左近に聞かないで下さいよ!!」

「しらねーって!!」

 左近と孫市を見ながら狼狽していた。範疇外の事を問われる二人も珍しく混乱を示している。
そうこうするうちに階下から兼続が産婆と医者を引き連れて戻ってきた。
彼女の看護は一先ずその産婆と医者に任せる事にしたは安堵の溜息を吐いた。
そんなの背後では、左近と孫市がが自分をどう言う目で見ているのかがよく分かった、と肩を落としている。

「わ、悪かったわよ…でも、混乱するじゃない。この状況で妊婦さんが産気づくなんて…」

「はいはい、もういいですよ」

「ったく…冗談きついぜ」

 すっかりやさぐれてしまった二人の機嫌を取りながら評議場へとは足を踏み入れた。
評議場の中の空気が、の復活によってがらりと変わった。
悲壮感ばかりだったそこが、希望の光で満たされたのだ。
 その中において、唯一慶次だけが複雑な眼差しでの小さな背中を見つめていた。
彼は先程のの視線の動きで、一番認めたくない事実に気がついてしまったのだ。
おそらくの記憶は戻った、きっと自分との事だけを除いて。
その証拠に指示を飛ばし始めたは自分に気が付く事もないまま、一同を鼓舞し続けている。

「とにかく、皆、気を引き締めて!! まずはこの状況を打破する事が先決です!!
 西の城壁が決壊するなんて、想定外もいい所なんですから!!
 もう携帯電話もないし、頼れるものなんてないのよ!!」

『…本当に……神さんなんか、この世にはいないねぇ…』

「慶次さん、ぼやっとしないで!! 荷上げと城の補強、お願いします!!」

 の言葉を受けた慶次は、一度小さく溜息を吐いて瞬きをすると、何かを吹っ切るように表情を改めた。
後に"城・地獄と奇跡の篭城Xデー"と呼ばれるようになった災害後半戦の正念場は、こうして幕を切って落とした。

 

 

 四方八方を滅茶苦茶にして去った台風二連発を凌ぎきり、復興へと動き出した城天守閣に座すは、目の前に座る慶次に向かい、苦笑いを見せていた。

「ごめんなさい…実は全ッッッッ然、本当に何一つ、覚えてない」

 記憶を失ったと言った瞬間に見せた落胆した表情に罪悪感を覚えているのか、は両手を合わせた。
あの慶次がこんな顔をする事自体が想定外だったようで、焦り恐縮しているようだ。

「慶次さん、凄く危険な事してくれたんでしょう?」

「…さん、どことどこを覚えてるんだい?」

 質問に質問を返されて、頭を捻る。

「ええと……そう、ツール! あれ、慶次さんに投げてもらって…それから……っ…!」

 それ以上を考えようとすると、酷い頭痛を引き起こすのか、は顔を歪ませる。

「それで……その後は……気が付いたら、ちゃんが抱き付いてきて……」

 しっかりあの一時の事だけが抜け落ちているようだ。
分かってはいたこと、確認の為に来ただけだと、覚悟はしていた。
とはいえこうして改めてはっきりと言われると胸につまされるものがある。
 慶次は盛大な溜息を一つ吐いてから、口を開いた。

「じゃ、最後にもう一つだけ…問わせちゃくれないか」

「あ、はい」

「その手首の傷も、覚えてないんだね?」

「…手首の…傷…?」

 包帯を巻いた手首を見下ろしたは、表情を曇らせる。

「ごめんなさい、やっぱり思い出せない……でも…ね…」

「ん?」

「なんだか、とても大切な気がする。この傷を見ると、苦しくて、悲しくて、切なくて、でも嬉しくて、安心して……
 不思議な感じ……それなのに……どうして、忘れてしまったんだろう…なんで?」

 自問するの顔が陰るのを見た慶次は、己の膝を一度打った。
その音で我に返って顔を上げれば、慶次は今までに見た事のない笑みを浮かべていた。
包み込むような優しさと、お日様のような温かさと、それでいて、ほんの少しの寂しさの滲んだ笑みだ。

「まぁ、いいさ。振り出しに戻っただけだ」

「慶次さん?」

さん、もういい。あんまり気にしなさんな。今は養生して早く元気になってくれ」

「許してくれるの?」

「ああ、元より怒っちゃいないぜ、俺は」

「でも…」

「いいんだ、さん。あんたが無事なら、俺はそれでいい」

 そう言って慶次は立ち上がった。

「さて、復興に従事してくるかね」

 

 

 の私室を後にして、ほんの少し歩くと、慶次は歩みを止めた。
珍しく肩で溜息を吐いて、復興中の城下を見下ろす。

「これで…良かったんだろうさ。俺もさんも生きてる……僥倖だ」

 思い込もうとでもしているような独白を漏らせば、慶次の背後に半蔵が降り立った。

「お、なんか用かい?」

 肩越しに見下ろせば、半蔵は艶のある声で言った。

「極限状態の中で得た重要な記憶は、時として気が緩むと同時に消える事がある。
 人は脆い、だが同時に強くも有り、貪欲でもある。塞ぎこむ必要はない。必要と判ずれば、主自ら取り戻そう」

 珍しい事もあったものだと目を丸くすれば、半蔵は顔色一つ変えずに言った。

「あの夜あった事は仮初でもなく幻でもない。少なくとも、影が知っている」

 それからすぐに半蔵は姿を消した。
彼の言葉に妙に安堵した慶次は、それもそうかと破顔した。

「そうさな。やり直しゃそれでいい。さんの命と引き換えたんだとしたら…記憶なんざ、安いもんだ」

 再び歩き出した慶次の顔には、もう迷いや悲しみはなかった。

 

"遠い未来との約束---第三部"

 

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愛する女の為に失うのであれば、本望だ。慶次ならではの恋模様。(09.02.01)