暗闇の中で見つけた恋 - 孫市編

 

 

「げほっ!! ごほっ!! ごほっ!!」

 胸元に強い圧迫を覚えて、飲んでいた水を吐き出した。
反射的にのた打つようにうつ伏せになれば、背中を何者かに擦られた。

「ふぅ…ようやく息を吹き返したな」

 安堵が滲む声色から、相手が誰か見当をつけて、まだ定まらぬ視線を送る。
すると彼はの前へと掌を差し出した。

「大丈夫か? 俺の女神」

「……孫市さ…ん」

「ん? どうした、どっか痛むのか?」

 鈍い反応を見せれば、中腰の彼が心配そうに顔を歪めた。
差し出された掌を見つめながら、何が起きて、こうなっているのかを理解しようと懸命に脳を働かせる。

「…あ、私……落ちたんだ…」

 蘇った記憶の中で見たのはツールの爆発。
炎上した森林。
そして崩落した城壁とその下を走っていた濁流。
 そこに落ちて押し流されたことを思い出し、もうだめだと思った瞬間に、何者かに抱かれた。

「お、おい、本当に大丈夫か? 泣くなよ」

 蘇った記憶に恐れ戦き、自然と涙が溢れた。
生きながらえた事への喜びを隠せなかった。
 中腰だった孫市はその場に腰を落とすと、を抱き寄せて、慰めるように肩を撫でた。

「ま、孫市さん…私、生きてる? 生きてるよね? 死んでなんか、いないんだよね?」

「当たり前だ、俺が死なせるもんか」

 孫市の服を力一杯握り締めれば、絞られた形になったそこから大量の水が滴り落ちた。

「!」

 そこで初めて、彼が自らあの恐怖の中に身を投じた事を実感した。

『俺の思いも察してくれ。愛する人が、一人で大きな重責を背負わされて苦しんでる。
 何もしてやれない悔しさ、助けてやれない痛さがどんなものか…貴方は想像出来るか?
 代われるものなら、俺が代わるのに 』

 彼が紡いだ言葉は口先だけではない。
その確固たる証拠を、今こうして彼は行動力を持って示した。
並大抵のことではない選択を、あの一瞬で容易に選び、実行したのだと気がつけば、申し訳なさが込み上げる。
 自然と、は言葉を失う。
それに気がついた孫市は明から様に慌て出した。
があの事故で再び言葉を失う程の恐怖をと苦痛を抱え込んでしまったのではないかと、考えたのだ。

「女神、何か話すんだ。どんな内容でもいい、なんでもいい、声を出すだけでいいんだ。
 辛かろうが、苦しかろうが、今は俺がついてる。心に貯めちゃならない」

 涙で歪む顔を覗きこみ、慈しむように頬を、肩を、背を撫でる。
不快であったはずの声が、言葉が、眼差しが、こんなにも心地のよいものだとは思わなかった。
ただの女好き、軽薄な女たらしの常套手段だとばかり思っていたのに、今自分に注がれるそれは、自分だけに見せると言った誠心誠意が現れた眼差し、声、そのものだ。

「ま、孫市さ〜ん、ごめんなさい〜」

 泣きながら抱きつけば、孫市は安堵したように肩で大きく息を吐いた。

「なんだよ、怖かっただけか。心配させんなって。焦ったぜ」

「だって、だって…私のせいで、あんな怖い思い…」

 しゃくりあげながら訴えれば、孫市はよしよしと後頭部を撫でて笑う。

「あんなの物の数じゃないって。貴方の為なら例え火の中、水の中ってな。
 俺にとっちゃ、貴方を失う方が恐怖さ」

「孫市さん、孫市さん」

 繰り返される名前は、何時ものように一線を画した響きではなかった。
そこに多少の引っかかりを覚え、期待を含めながら問い掛けた。

「どうした?」

「孫市さん」

 まだ心の整理が出来ないのか、は泣きながら自分を呼ぶばかりだ。
孫市は好きなようにさせてやりながら、が落ち着くのを静かに待った。
やがけて濁流のように競り上げて溢れだしていた涙、声、感情が果てて、は落ち着きを取り戻し始めた。

「ほら、落ち着いたらそろそろ涙を拭いなよ。貴方に涙は似合わないぜ?」

 指先で涙を拭えば、はこくこくと懸命に頷いた。

「ごめんなさい、取り乱して」

「いいって、無理するなよ。怖くて当然だろ」

 それから孫市は一旦身を引いて立ち上がった。

「と、そろそろな、移動していいか?」

「移動…? そういえば、ここ、どこなの?」

「隠し通路の途中に作られた中継地点ってところじゃないか?」

 立ち上がった孫市が自分の服の中から何か筒状のものを取り出す。
彼がそれを軽く振って、底を打てば、ボムッ! と音が上がって、筒の先端が燃え上がった。
驚いて目を丸くすれば、孫市は不適に笑う。

「傭兵雑賀衆を舐めてもらっちゃ困るぜ。これくらいは常備してるさ」

 しゅうしゅうと火花を上げる筒の灯りを頼りに立ち上がって、二人で四方を確認した。
この頃には、のぼやけていた眼差しも定まっていた。

「お。おあつらえむきだねぇ」

 孫市の声に身を翻した。
頑丈な岩に囲まれ、逃げ道はないのだと思い込んでいたが、三畳程度の広さの部屋の中央に板戸が填め込まれている。

「出口って事はないだろうが……ここよりはマシだろ」

「え?」

 見てみろよと視線で背を促されて、再び視線を180度回転させる。

「足元だ」

 言われるまま見て、彼の言葉を理解した。
そこはまるで大きな水槽のようだった。
台風によって流れ込んできた濁流よりも前に、地下水が流れ込んでいたのか、満ちている水は比較的透明性がある。
故に見通す事の出来た水面の中には、よくよく見てみれば、階段が備わっていた。
つまりここが階上で、気圧の関係でたまたまここへの浸水がないというだけの話だ。
耳を澄ませば、遠巻きに濁流の音がする。

「本体が、直撃してる?」

「らしいね」

 思わず身震いして身を引いた。
自然と孫市の傍に寄り添い、彼の服を掴む。
それを受けて、孫市は眉を動かした。

『ま、悪い傾向じゃない。放っとくか』

「女神」

「あ、はい」

 松明代わりの筒を預けて、孫市は填め込まれた板戸へと向かい合った。
湿気で噛み合わせが悪くなってしまっているのだろうか。
なかなか動かない板戸と格闘すること数分。

「やれやれ、仕方ないか」

 孫市は独白し、再び服の中から筒を取り出した。
今度は先端を噛み切って、板戸の周りに何かを撒くと、の元へと戻り預けていた筒を取り上げた。
 何をするのかと目を見張れば、孫市はいう。

「はい、息吸って」

 言われるまま吸い込めば、今度は止めろと言われた。
こくこくと頷いて従うと、彼は自分もまた同じように息を吸い込み止めた。
次の瞬間、孫市の手の中にあった筒が、板戸に向かって宙を泳いだ。
 折角手にしていた火種に何をするのかと慌てて手を伸ばそうとしたのは束の間。
は孫市の腕に抱かれて、彼と共に口を広げる自然が作り出した水槽の中へと落っこちた。
驚いて藻掻いたせいで、口の中に含んだ空気が大量に漏れた。
時同じくして、階上で派手な爆音が数回に渡り上がる。

「っ…んっ!! うぐぐ…!!」

 吸い込んだ空気をなくして、反射的に水面を目指そうとすれば、孫市の手がそれを阻んだ。
水面に辛うじて出た手首を、爆風で弾き飛ばされた破片が切り裂く。
息苦しさと痛みで水中で暴れれば、孫市がの手首に付いた裂傷を己の掌で覆い隠した。
止血するように強い力を込め続ける。
 頭上で上がり続ける爆破から護ろうとしてくれた事を悟り、安堵はしたものの、胸の息苦しさには耐え兼ねた。
まだ階上で続く爆音は途絶えない。
 もうだめだと、瞼をきつく閉じて眉を寄せれば、急に締め付けられていた胸の中が軽くなった。
何が起きて、どうしてそうなったのかと、数回瞬きした。
その時に見知ったのは、孫市がの顎を取り、唇を重ねて己の空気を分け与えているという現実だった。

「…!?」

 驚きがあり、申し訳ながあった。
危険を冒させた上に、今またこうして面倒を掛けている。
けれどもそれらの感情以上に、胸には心地よさと温かさが湧き上がり満ち溢れていた。
 は開いた瞼を、自然にゆっくりと閉じた。
孫市が心配そうに視線で伺えば、投げ出されていた片手が彼の首の後ろへと回る。
無意識の内にされたであろうその行動に、安堵と共に満足感を得た孫市はの腰をそっと抱き寄せた。
 階上で響いていた爆音が途絶える。
それに合わせて水面へと顔を出せば、は孫市の肩に顔を埋めて、謝った。

「ご、ごめんなさい…驚いちゃって…」

「いいや、別に気にしてないぜ? 役得だ」

 まだの腕は孫市に絡んだままだ。

「落ち着いたか?」

 問い掛ければ「そんなに取り乱してもいない」と答えた。
すると孫市は口の端だけを吊り上げて薄く笑った。

「そうなのか? 俺はてっきり…」

「…てっきり、何?」

「脅えてるのかと思ったんだよ」

「…なんでそうなるのよ?」

 むっとしたように眉に力を込めて、気持ち凄むように見やれば、孫市は少しも動じない。
それどころか、益々楽しみが増えたと言わんばかりの色を顔に貼り付けた。

「……自覚ないのか?」

「え?」

「……この腕だよ、腕。俺としては、どうせなら、上がってからお相手したいところだ」

 指摘されて初めて気がついたらしいは一気に赤面すると、突き飛ばすようにして孫市から離れた。
立ち泳ぎを駆使して、先程立っていた岸辺へと寄って行き這い上がれば、孫市も岸辺へと這い上がる。

「まー、それはれそとしてだ。手、見せてみろ」

 躊躇したものの、ズキズキと手首が痛むのは事実だ。
このような状況で隠しても何の得にもなりはしないと判じたは、大人しく孫市へ向かって左の腕を差し出した。
の腕を取った孫市は、傷口を己の口へと含んだ。

「っ!」

 手首がずきんと痛む。
細々とした破片が突き刺さっていたのか、孫市が血と共に吸い上げた破片をその場へと吐き捨てた。
続いて懐から幾つかの小瓶を取り出した。
小瓶の中には薬が入れてあるようで、それら使い手際良く消毒と応急処置を施して行く。
最後には自分の手拭を裂いて包帯を作り、の手首へと巻き付けた。

「とりあえず今できる事はこの程度だ、我慢してくれよ」

「あ、はい…その、すみません…面倒ばかり掛けて」

「いや、俺こそ悪かったな。まさかあそこで手伸ばすとは思ってなかった」

 互いに謝り合い、それからどちらからともなく距離をおいて立ち上がった。

「足元に注意しなよ」

 孫市の言葉通り、そこいら中に木片と小粒の岩が弾け飛んで転がっていた。
動き出した孫市の背を見るの眼差しは、動揺で揺れていた。
自分の腕に孫市が唇を寄せた時に胸の奥に湧き上がってきたざわめきに惑っているようだった。

『……気の迷いだ……流されちゃ…だめだ……。
 …この人は、あの人とは違う……ちゃんと護ってくれる人だけど……
 でも、もう…恋はしないって…決めたんだから………期待は、しちゃだめだ…』

 強い葛藤があるようで、はそれを悟られてはならないと、懸命に感情を押し殺し続ける。
そんなの感情の揺れに気が付かない孫市は、三度、懐から筒を取り出して底を打った。
またその場に微弱な光が戻る。
 その光を頼りに吹き飛ばした板戸の前へと進んだ彼は、ぱっくりと口を開いた板戸の向こうを見やった。
次の瞬間、溜息。色合いには落胆が含まれる。

「あ、あの……孫市さん?」

「ん、ああ。悪い、不安にさせたか?」

 言葉で肯定すれば、止め処が効かなくなるのだろう。
は無言を貫いてその場に立っている。
そんなを手招きで呼び寄せて、孫市は言った。

「とうやら休憩室だな。囲炉裏に、寝床がある。家捜しすれば使える物も出てくるはずだ」

「あ、じゃ、私が探します」

「了解、じゃ、俺は囲炉裏に火入れるか」

「はい」

 互いにそこで落とせるだけの水を落として、それから迷わずに隣室へと足を踏み入れた。
手にしていた筒の火花を使い囲炉裏に火を入れた孫市は、もしもの時の備えとばかりに部屋の中にあった備品が乗った箪笥を全身を使って動かし、板戸がはめ込まれていた入り口を塞いだ。
 一方で家捜しを続けたは、孫市がどかした備品の中から裁断前の布や荒縄を見つけ出した。
荒縄を部屋の両隅に聳える棚へと括りつけて、それから己の羽織っていた着物を脱ぎ捨てる。

「ん? お、おいおい」

「え?」

 のしている事に気がついた孫市の声には驚きと喜びが綯交ぜになっている。
が振り返れば、彼は目を丸くして口元を抑えていた。

緩んだ口元を隠すために手をやっていただけのようで、よくよく見てみれば赤面していた。

「あ、ご、ごめんなさい、慣れないですよね、こんな姿」

「あ、ああ」

 彼にしては珍しく反応が純朴に思えるが、無理もない。
の身を包むのは、彼女がこの世界に降臨した時に着ていた純白の水着だけだ。

「えと、これは…その、水着といいまして、私の世界で避暑地で水遊びする時に着る服なんですよ」

「服? それが?!」

「え、ええ」

 見つけ出した裁断前の布をせかせかと体へと巻きつけて、は「これでどうでしょう?」と問う。

「あ、ああ…」

 曇った声で答えた孫市は苦悶に満ちた眼差しだ。

「まだ、だめですか?」

「いや、いい。さっきのよりは、マシだ」

 背を向けて肩で盛大に息を吐いた孫市の顔は困惑と喜びの真っ只中で歪みっ放しだ。

『そりゃな、俺だって男だ。直球勝負な水着とやらは嬉しいぜ?
 かといって、まだ生乾きの体で布巻きつけたって、体の線がモロ見えだろ。
 何も出来ないのにあの姿を見せられ続けるってどうよ? まるで拷問だぜ?

 なんで俺の女神はその辺、気がつかないかねぇ…そこんところに…気がつくだろ、普通…』

「ま、孫市さん?」

「ん、ああ、悪い…平気だ、ちょっと動揺した」

「…意外……」

「え?」

「孫市さんすごく軟派な感じがしたけど…意外と硬派で初心?」

「…あのなぁ…」

 惚けた問いかけを受けて、孫市は顔を顰めた。
それからズカズカと近寄ってくるとの肩を抱き、続いて顎をしゃくって、悩殺するような視線を送った。

「密室で二人きり、手も出せないのに惚れた女が目の前である意味、裸体だぜ? 動揺するだろ、普通」

「はぅ!?」

 指摘された意味に今気がつきましたと言わんばかりには身を竦ませて小さくなった。

「分かりゃいいんだ、分かりゃ」

 が緊張した事を悟ったのか、孫市はの頭を指先で掻き混ぜるように撫でつけると、自ら距離を取った。

「そういう理由だから、不用意な真似して煽ってくれるなよ?
 俺だって男なんだ、理性持たないぜ。特に貴方が相手じゃな」

「は、はい……気をつけます」

 乱された頭髪を手櫛で直しながら答えたは、やはり何も分かってはいなかった。

「あ、でも…」

「ん?」

「孫市さんも服、干した方がいいですよ。風邪引いちゃうから」

 悪意も何もない一言を受けて、孫市は本日何度目かになる溜息を、肩を動かして盛大に漏らした。

 

 

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