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				    囲炉裏を前に裁断前の布を巻き付けて、二人で並んで座っていた。の手首に巻かれていた孫市の手拭は外されていて、代わりに裁断前の布を割いて作った包帯が巻かれている。
 孫市が手際よくやったものだ。
 残りの布をは肩から被り、孫市は風呂上りのように腰から下に巻き付けていた。
 火種が尽きる心配はないから、安心して暖を取れる。
 「なんでもいいがな、寝ないでくれるか」 「はぅ!! え? あ、ごめんなさい…」  徐々に温かさを増して行く部屋の気温に促されるように、は何度か舟を漕いだ。ここで寝てはならないとは思うものの、手持無沙汰な時間が続けば続くほど、疲労感からくる睡魔にうち勝つ事は困難だった。
 ついには隣の孫市へと寄りかかり、安眠を貪ろうとする。
 そこで孫市の鋭い指摘と、緩いチョップが蟀谷に炸裂した。
 「こんな所で寝たら、風邪引くぜ」 「分かってんだけど……暇なんだもん…」 
				「全く、俺の女神は余裕で豪胆だね。この状況下だぜ、悲嘆にくれたり動揺したりするだろ? 普通」 「だって…孫市さんが一緒だから、安心かなって」  蟀谷を擦りながら答えれば、孫市は驚いたように目を見開いた。は言い訳を積み重ねるように言った。
 「傭兵ってすごくサバイバル術に長けてるんだなー、って思って。確かに逃げ道はないし、食糧もない。きっとお城だって今は混迷を極めてて、私達の捜索に割ける人員なんてない。
 でも不思議と大丈夫だと思うの。思えてしまうの…貴方が隣にいるだけで」
 
				「なぁ、女神。貴方の事だから自覚なんて丸でないだろうけどな、それってすごい口説き文句たぜ?」 「く、口説いてなんかないよ!」  顔を上げて、慌てて両手を振れば、孫市は笑った。 「分かってるよ。貴方はそういう罪な女だ。まぁ、そこがいいんだけどな」 
				 注がれる視線から、彼が見せ続けた行動力から、どんな感情を自分に向けているのかは痛い程分かる。そしてそこに流され、寄りかかってしまえればどんなに楽で、心地よいだろう。
 けれどもそれは出来ないとは視線を落とした。
 孫市がの中に生まれている感情の揺らぎに気がついて手を伸ばす。
 後ろから回された腕はの頭を抱いて、労わるように撫でた。
 「安心しろよ、女神。貴方の許しがない限り、俺は何もしないぜ」 「……ごめんね、孫市さん……きっと、私は…一生、許せない」 「おいおい、断言かよ。それも一生?」  こくんと小さく頷いたの視線はか弱く揺れる。彼女の目には強い後悔が浮き上がっていた。
 「うん……私、本当に……ばかだ」  ぽろぽろと涙が溢れてくる。それは次第に嗚咽へと変わった。 「おい、泣くなって。どうしてお前が泣かなきゃならいんだ」  本来なら、泣きたいのは自分だと、叫んでしまいたいところだ。けれども強い後悔の中で苦しむを見てしまえば、そんな幼稚な事は出来なかった。
 「…思い出してた…」 「何を?」 「六年前のこと」  ああその事かと、孫市は顔を顰めた。多くを語らない彼女の心を縛る大きな枷。
 その元となった何かが潜むそこには、歳月が過ぎて、時空を越えた今ても、を苦しめている何かが潜んでいる。
 「吐き出す気はないか? 前にも言っただろう。一切合財、受け止めるつもりだって」  そこから逃れさせてやりたくて、自由にしてやりたくて、孫市は言った。彼に言葉に注がれる惜しみない愛情に、は苦しそうに嗚咽を漏らし続けた。
 胸を苛む痛みに耐えるかのように、眉を寄せて懸命に息を呑む。
 悶え苦しむ、というのはこういう事を言うのかもしれない。
 懸命に耐えて、耐え忍んで、それでも痛みは言葉となって口から零れ落ちた。
 「どうして……どうして、貴方じゃなかったんだろう…?」  あの時と同じ独白。あの時は敢えて見過ごした。けれども今回は、見過ごしてやる事は出来なかった。
 孫市はかけていた腕に力を込めてを掻き抱くと、目を真っ直ぐに見つめて問い掛けた。
 
				「過去を見るのはもう止めろ、取り戻せるもんじゃない。でも、作り出すことは出来るだろう?」  瞬間、は顔を顰めて呻いた。 「…分かってる、皆、そう言う。でも……無理なの…」 「え?」 
				「そんな事言われなくても、ちゃんと頭では分かってる。でも心がついてゆかないの。どんなに逃れようとしても、目を背けても、必ずそこに戻ってしまうの」
 「どうして?」 
				「怖いから、苦しいから、求めた安らぎの果てにまた何かがあるんじゃないかって……不安になる。そうすると、自然に思い出す」
 「だから、投げ出すのか?」  こくんと小さく頷いて、は吐き出した。 「そうやって、この六年……なんとか生きてきた。生きて、来れた」 「………何が、あった?」  低い声。自分にしか見せぬといった顔で、孫市は問い掛ける。 「教えろよ、全部背負ってやるから。洗い浚い、俺に聞かせろ」  珍しく命令口調で促された。けれども彼の注ぐ眼差しは優しく、包み込んでくる腕も愛情に溢れている。
 こんなにもひたむきに思ってくれている男の腕の中に抱かれて、真剣に問われてしまっては、これ以上はもう耐えられない。そう痛感したは、瞼を閉じて震えながら語りだした。
      事は彼女が学生の頃へと遡る。社会経験のなかったは、幼馴染みと共に人生初の労働を自主的に経験する事にした。
 の世界の言葉で言うところのバイトという制度だそうだ。
 元々彼女の世界では成人するまでは皆平等に勉学に励む事になっていて、この世界のように幼いながら労働に従事する事はないのだそうだ。
 そうした決まり事に合わせて生活していたは、腰掛け程度の社会経験が許される年齢になると、幼馴染みと共に一般的な茶店に勤める事になった。
 上司と同僚に恵まれて、不慣れながらも与えられていた仕事を懸命にこなして、日々楽しく過ごしていたそうだ。
 そこでは人生初の恋をして、その相手とも深い仲になったのだという。
 事件が起きたのは、その茶店に勤めて、二年が経ったある日の事。雪が降る季節だった。
 「…不倫…してたの…」  震えながら、は呟いた。 「不倫って……マジかよ?!」  目を丸くして問い掛けた孫市の前で、はこくと小さく頷く。 「……一番信じていた友達が……尊敬していた店長と不倫してた。店長には、出来たばかりの子供さんだっていたのに、二人は不倫してた…」
  の説明を受けて、孫市が密かに安堵の溜息を吐いた。第一声が漏れた時に、彼はが不倫していた事を疑ってしまったのだ。あの切り出し方では無理もない。
 が経験していた事ならばともかく、そうではないのであれば、別段咎めるような話でもない。
 孫市は平然とした顔での言葉の続きを待った。
 はそんな孫市の腕を振り払い、立ち上がった。
 肌に巻きつけていた布をその場へと落として、背を向ける。それから身を捩って、腰を示した。
 「見える? この傷跡」  促されるまま視線を流せば、確かに薄らと傷跡が見えた。 「……刺されたの、後ろから突然……店長の奥様に…」 「ちょ、ちょっと待て、なんで貴方が刺されなきゃならない? 不倫したのは」  こくんと小さく頷いて、は肩を震わせた。嗚咽が漏れる。 「そう、私じゃない……でも友達は……私の名前を語ってた」  孫市が息を呑んだ。はぽろぽろと大粒の涙を零しながら言い続けた。
 
				「奥様は、完全に信じてた。メールアドレスの小文字と大文字の違いを見分けることが出来なくて、相手は私だと信じてた。お店で突然刺されて、お客様とか、同僚とか、居合わせた沢山の人が私を助けてくれて
 ……私は数週間入院するだけで済んだけど……でも奥様は……その時の事がショックで流産したし、
 お店だって閉店せざる得なかった」
 「それは貴方のせいじゃないだろう?」  こくこくとは頷いた。 「分かってる、皆そう言ってくれる。でも、辛いし…苦しくて、悲しかった。当時付き合ってる恋人は、私が入院してる間、一度もお見舞いには来てくれなかった。
 退院して、知ったの。その人、私が入院した次の日には、もう他の人と付き合ってたって。
 私とは……寝られたらそれで終わりの仲だったんだって」
  尻すぼみになった声。落とされた肩。堪らなくなって振り向かせてみれば、は自嘲の笑みを顔に貼り付けていた。
 
				「バカだよね…つまらない男に引っかかって、大事にしなきゃならないものをさっさとあげちゃって。尊敬していた人の家庭は崩壊。愛した職場は今じゃ跡形もなくなってただの駐車場…。
 信じていた友達は……あれがきっかけで学校辞めて、家にも帰らずそのまま行方知れず…。
 …私、あの時に、色んなものを失った。もうこんな思いは、沢山なの。二度と、経験したくないの」
  孫市は無言でを抱き寄せた。慰め、労わるようにを撫でる。
 
				「孫市さんが言うように、恋がない人生は寂しいとは思う。でも、誰かが私の心の傷を背負えるはずもない。自分で乗り切らなきゃならない事だって分かってるけど……それが出来るくらいなら、葛藤なんてしない。
 今でもずっとずっと、後悔してるの。なんであげちゃったんだろう? 許してしまったんだろう? って。
 付き合った時だって、一ヶ月くらしか経ってなかったのに…もっと大切にすればよかった。
 もっと、もっと、相手をちゃんと見極められるようになってから、許せばよかった、って」
  孫市の胸板に額を押し付けて、苦しいとは訴え続けた。 
				「…忘れたいの……思い出したくなんかないの……でも、思い出しちゃうの…恋は人を狂わせるって。男と女がいれば、そうなるのは必然だってちゃんと分かってる。
 でも、もうあんな痛くて怖い思いをするのは嫌。そんな思いをするくらいなら、私は…独りでいい…」
 「怖くて、痛い…か」 
				 そんな状況と理由で、背後からいきなり刺されればトラウマになるのは当然だと孫市は喉を鳴らした。 「ごめんなさい、孫市さん…私の為に、あんな危険な目に合ったのに……ごめんなさい…」  孫市の思いには答えられないと、答えるだけの勇気はないと、は泣き続けた。ただその涙は、過去に囚われて苦しむが故の涙ばかりではなかった。
 が見せる視線の奥には、その過去を踏み越えたいという願望が強く揺れていたのだ。
 「…なぁ、女神…」  孫市が低い声で問い掛ける。 「試してみる気はないか?」  顔を上げれば、孫市はの頬を撫でた。 
				「俺で、試してみる気はないか? 嫌な過去を忘れるなら、新しい恋に身を委ねてみるのも一興だぜ?貴方は無理しなくていい、ありのまま、全てを俺に委ねれば、それでいい。それすらもだめか?」
  孫市の意図が読めずに首を微かに傾げれば、孫市はの方へと体を傾けた。 「ん!」  次の瞬間、緩やかな動作で顎をしゃくられて、唇を奪われる。今の話を聞いて、どうしてこうなるのか。何をするのかと、驚き怒って手を振り上げる前に、瞼は勝手に閉じた。
 途端、重なった唇から、孫市に触れられる頬や肩から、全身へ何かが広がった。
 それは待ちわびていたような、焦がれていたような、柔らかく温かい甘美な感情。
 それこそ異性と触れ合う事でこんな感覚を得た事は生まれて初めての事で、は戸惑いを隠せなかった。
 「なぁ、俺に一回だけ、賭けてみないか? 俺は期待を裏切らない男だぜ」  一度だけ身を離して孫市が最後の確認とばかりに問う。だめだと、嫌だと言ってしまえれば、逃れられるのに、の喉の奥からは言葉は出てこなかった。
 熱に浮かされた瞳が雄弁に物語る。
 欲しい、物足りない。あの安らぎに満ちた感覚に、ずっとずっと包み込まれていたい。
 手放したくなどない。あの感覚で覆いつくして、そこへと閉じ込めて欲しい。
 それは六年前から渇望し、手に入れる事が出来なかった感覚と感情そのものだ。
 「安心しな、貴方の初めてはそいつじゃない。この俺だ」  の全身に満ちる願望を察した孫市は口の端を吊り上げて笑うと、をその場へと掻き抱いて崩れ落ちた。   
				   
				 どうっ!! と轟音を上げて、入り口に立てかけておいた箪笥が吹き飛んだ。孫市が顔を上げれば、そこに立っていたのは黒装束の忍だった。
 彼の冷淡な視野には深い眠りの中に身を委ねると、彼女を抱く孫市の姿が入った。彼ら二人は互いに裸だった。
 咄嗟に手癖の悪い孫市が彼女に手を掛けたのかと思ったが、そうではなかった。
 孫市の腕の中で眠る彼女の顔には苦痛はなく、安堵が見える。
 そこで何があったのかを瞬時に悟った忍―――――服部半蔵は、低く言った。
 「邪魔だったか」 「…まぁね」  顔を顰めてそう言って、孫市は起き上がった。彼がここに現れたと言う事は、ここに来る道が自分達が知る以外にも開けたということだ。
 腕の中で眠り続けるとの甘美な時間を味わい続けたいとは思う。
 けれども現実がそれを許さない。
 「まぁ、落ち着いてからゆっくり楽しんでもいいしな」  賭けの勝利を確信して、孫市は独白した。乾かしておいた自分の着物を手に取り、早々と着込む。
 それからの額へと軽く口付けて、囁いた。
 「さ、帰るぜ。俺の女神」  すっかり出来上がってる孫市の姿を見ていた半蔵が背を向けた。一つ手前の部屋へと彼が身を引くのを確認してから、孫市はの着物を手に取った。
 愛妻家の半蔵が相手であっても、の裸を見せたくなかったようだ。
 横たわる彼女の体にかけていた裁断前の布を退かして、手にした着物を着せる。
 それから眠ったままのを抱えて、彼は立ち上がった。
 半蔵が待つ隣室へと戻れば、そこには人一人が辛うじて通れそうな穴が口を開けていた。
 「こんな所にあったとはな、盲点だったな」  孫市が独白すれば、半蔵は淡々と答えた。 「見つけるは至難。内からでなくば開かぬ」 「なるほど。じゃ、さっさと帰ろうぜ」  半蔵を先頭に、縦横無尽に走る細い通路を進み続けた彼らは、最終的に城の地下室へと辿り着いた。浸水し始めているそこをこれ以上水で埋めないために城内に篭もる人々の桶リレーが続いている。
 「ああ!! 姫様じゃ!! 姫様が戻られたぞっ!!」  最下層で従事していた民が人影に気が付いて視線を移した。彼がそこにいた者が誰なのかを一目で判じて喜びに任せて絶叫すれば、の生還を祝う声があちこちで上がった。
 彼女の生還はそれだけで人々に力を与えるようで、意気消沈していた人々の中に生気を呼び戻した。
 桶リレーを続ける人々を押し退けて、を筆頭とした女中集が駆け下りてくる。
 「大変、意識が!!」 「なんと冷えて……誰か、床と湯の支度を急ぐのです!!」 「姫様、姫様!! どうかお目覚め下さい!!」  こうなってしまってはもう仕方がないと、孫市は肩を竦めた。 
				「おーっと、悪いね。お嬢さん方。湯殿までは俺に送らせてくれないか? それが男の務めってもんだぜ」  ひったくろうと手を伸ばした女中集の手を巧みに交わして、孫市はを抱えたままで湯殿へと歩みを進めた。 「孫市様」 「と、そうだな。これ以上はまずいか。頼むぜ、さん」  脱衣所まで付いて来たと女中集へとを預けて、孫市は身を引いた。 「孫市!!」 「よー、秀吉」 「様は?!」 「疲れて眠ってるだけだ、ってゆーか、俺の事もちったぁ心配しろよ」 「お前なんぞどうでもいいんじゃ!!」 「ひでぇな、お前。普通に真顔で言うなよ、そういう事。俺達ダチじゃなかったのかよ」 「案ずるな、本気だ」  生還の報を受けて駆けつけた秀吉に問われて軽口で返していると、秀吉の後方から三成の声がした。心底心配していたのだろう。全身から憎悪を撒き散らした三成に思い切り睨まれ、詰られた。
 「秀吉、お前こいつにどういう教育してんだよ……?」 「あー、まぁ、普通に済まん。察してやってくれ」 
				「あのなぁ、俺の事も察しろっての。まー、それはいいから野郎は撤収。俺の女神はこれから入浴だ」 
				 しぶとく居残ろうとする秀吉と三成を小脇に抱えた孫市は、その場を軽い足取りで後にした。一連の騒ぎを見ていた半蔵の視野に入る孫市の顔には、勝者独特の余裕しかなかった。
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