暗闇の中で見つけた恋 - 左近編

 

 

「っはぁ!!」

 濁流に流されながら、清流を求めて泳いだ左近は、ようやく辿り着いたそこへとを先に押し上げた。
続いて腕力にものを言わせて己の身を引き上げる。

「……はぁ…はぁ……一先ずは、難を逃れたってとこですかね」

 彼は現状を把握するべく四方を見渡した。灯りすら差し込まぬそこは、三畳程度の広さを持つ部屋だった。
手探りで確認してみれば、四方全てが積み上げられた岩によって覆われている事が分かった。
 の膝下が沈む水面には、台風による濁流よりも前に流れ込んでいたであろう地下水が広がっていた。
比較的透明性を持つそこを覗き込めば、十数段の階段が見えた。

「ここが階上ってだけか。さて……抜け道でもあると有難いんですがね」

 気圧の関係だろうか。これ以上の浸水はない事に一先ず安堵して、左近は胸を撫で下ろした。
左近は独白した後、未だに意識を戻さぬへと視線を移す。

「姫? 無事ですか、そろそろ起きて下さ…」

 横たわり続けるの肩に手を掛けて振り返らせる。
水を大量に飲み込んでしまっているのか、に反応はない。
左近はを座らせて背後に回ると掻き抱いた。
の手を彼女の体の前で交差させる要領で強く抱けば、腕が胸部を程良く圧迫したようだった。
の口から、飲み込んでいた水が吐き出された。
これで意識が戻ってくれれば御の字だと考えたが、それは甘い考えだったようだ。の意識は一向に戻らない。
 不安になった左近は再びの事を横たえると、手首へと手を重ねて脈を取り、口元に掌を翳して呼吸を確かめた。
瞬間、彼の顔に強い焦りが湧き上がってくる。
の呼吸と鼓動は、共に止まっていた。

「冗談じゃない、姫、死なせませんよ。家系図、作るんでしょうが!!」

 そう吐き捨てるやいなや左近はの胸骨の上へ両手を重ね合せて刺激を与え、人工呼吸を施し始めた。
渡り軍師として放浪している間に聞きかじった医療の知識ではどこまで出来るか不安だった。
だが、しないよりもしていた方がまだマシだと、彼は懸命に蘇生を試みた。

『それに姫……姫は天意に導かれて戦国に降り立った御方だ……
 なら、姫が死ぬのはここじゃない、そうでしょう?!』

 腕が痺れ、戦歴の兵と言われる左近でも、相応に疲労感は募った。
だが左近が予見した通り、天はの死を拒んだようだ。
格闘する事数分、は息を吹き返した。
 圧迫される胸元に嫌悪感を覚えたのか、無意識に体が抵抗を示す。
投げ出されていた腕が宙を横切って左近の二の腕を叩いた。

「良かった、戻った」

 緩慢な動作で身を捩ったは、身を起こすと口元と胸元を押さえて大きく噎せ込んだ。

「げほっ…ごほっ………ごほっ…」

 全身で疲労を示すの背中を見た左近は、肩で盛大に息を吐いた。
今はただただ、純粋に安堵した。目の前でが動いていることが嬉しかった。

「はぁ…はぁ………はぁ……」

 肩を動かしながら深呼吸して、ようやくが周囲へと視線を走らせ始める。

「あ……私……一体? …ここは…?」

 そんなへと手を掛けて現状を説明しようとすれば、は何があったのかを思い出したようだった。

「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 左近に触れられた瞬間、はパニックを起こした。
金切り声をあげて泣き叫び、己の全身を強く両手で覆った。

「いやぁ!!! やだ!!! もう、こんな思いは沢山!! どうして私のなの!!
 なんで私なのよっ!! なんで私ばっかりこんな目に合うの!!」

 それは、あって当然の反応。
むしろ今までなかった方がおかしいとさえ思える反応だった。
左近はを両腕で抱き抱えて、彼女を労わるように背と頭を撫でた。

「あの時死にかけてた人なら、全世界探せば私以外にだっていたはずよ!!
 なのに、何で私なの?! どうして、私が…私だけがこんな目に合わなきゃなんないのっ!?
 どうしてよ!!」

「よしよし、もう大丈夫、大丈夫だ。偉いな、よく頑張った、耐えてたな、偉いぜ」

 家臣としての言葉では、今はに不安を与えるばかりだ。
重責を突き付け、追い詰めてしまうだけだと判じた彼は、あえて口調を変えた。

「うっ…ぅぅ…ひっく……ふぇぇ……左近さ…ん……私……私…」

「ああ、そうだな。怖くて当然だ、死にかけたんだからな」

 強く強く抱き撫でながら慰める。

「…もう、こんなの嫌だぁ!! 嫌なのっ!! どうして、なんで?!
 私が何したって言うのよ!? 何の得もないのに、どうして私ばっかり、こんな目に会うの!!
 私の世界じゃない、私の…私の仕事じゃないはずなのに!! どうして? なんで?!」

「ああ、そうだな、その通りだ。いいんだ、あんたは左近の前ではそれでいい。
 主と臣じゃなくたって、今くらいはいいだろう」

 左近の言葉を聞き、温もりを背に感じては涙する。
そして止めようにも止められなくなっていたのであろう鬱積を吐き出し続けた。

「わけの分かんない言いがかり付けられたり、命を狙われたり、どうしょうもないことしろって言われたり!!
 なんで、どうしてこんな思いしなきゃならないのっ?! あの時、生きたいって願ったのは私だけど、
 でも、私の命って、こんなにも色んな事背負わなきゃならない程の価値があるって言うのッ?!
 荷が勝ち過ぎてるじゃない!!」

「苦しいよな、辛いはずだ。いいんだ、もっともっと、吐き出していい。
 俺は何を聞いたって、幻滅なんかしない、する必要がない。だから安心しな。
 あんたは今は一人の女だ。君主だって、万能じゃない。いいんだ、そうやって思いのまま泣いて、喚いて、
 縋って、何が悪い? 人なら誰だってすることだ」

「左近さん………左近さん、怖いよ……怖い…」

 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら泣き続けるの顔を覗き込み、指先で溢れる涙を拭った。

「…私、また死にかけた……今度こそ……だめだって…死んじゃうって思った。
 ……でも、でも…あの子助けなきゃって、頭の中、それで一杯で……それで…」

「ああ、偉い。その咄嗟の判断が二人を救った。
 誰もが出来ない事だ。その代償がこれじゃ、割に合わないよな?

 腹立たしくもなる、当然だ。いいんだ、もっともっと泣いて、怒っていい。
 誰だってあんたを責めやしないよ」

「左近さん……左近さぁん」

 枯れるほど声をはり上げて泣き、左近の逞しい胸板には顔を寄せるは、時折苦しげに咽る。
そんなの背を撫でて慰めながら、左近は冷静に考える。

『そろそろ暖をとらせた方がいいな』

 寒さは人から冷静さを、希望を奪う。
まして今のには自分だけの力で平静さを取り戻せるだけの余裕はない。
ならばそれを取り戻せるように自分が導いてやらねばならない。
 左近は視線を巡らして四方を固める岩肌の一角に嵌めこまれた扉を見つけると、を両手で抱きあげた。
驚いたを安心させるように努めて柔らかい視線を向ける。

「ちょいと移動しますよ」

 視線で促せば、は子供が父親に甘えるかのように、左近の首に両手を絡めてきた。

「しっかり掴まってな」

 軽く抱えなおして歩みを進めて、填め込まれた板戸を蹴破った。
古くなっていた戸は、試しも含めて三回も蹴れば、容易に外れた。
土埃を上げながら倒れた扉の向こうには、こじんまりとした室があった。
 囲炉裏や簡素な寝床がある事から、そこは階下を走る通路を移動する時の休憩所、兼倉庫のようなものなのだろう。
部屋の両端に備え付けられた棚や、そこに置かれる備品からそう見当をつけた。

「一先ずは、ここで休みますか」

 を抱えて室へと入り、畳の上へと下ろそうとした。
だが余程怖かったのだろう。は左近の首に絡めた腕を解こうとはしなかった。

「少し、待っててくれませんかね。寒いでしょう? 囲炉裏に火くらい入れましょうや」

 自分は逃げも隠れもしないと、解いた手で背を撫でて言い聞かせれば、ほんの少し距離を置いたが瞳を涙に潤ませながら「本当?」と問う。

「すぐに傍に戻りますって。だから、ちょっとだけ、待っててくれませんかね。ね?」

 こくんと小さく頷いてが手を解けば、左近は立ち上がり、備え付けられている棚へと向かった。

「お、こりゃいい。縄に布に火打石か、なんとかなりそうだな」

 棚の上から一本の荒縄、裁断前の布を三枚、火打石を見つけ出した左近は、てきぱきと動いた。
綱を棚と棚の間に結んで洗濯紐とし、にそこへ濡れている着物をかけるように言った。
乾くまでの間、代わりに裁断前の布を巻くように目の前に置いてやる。
それから自分は火打石を片手に囲炉裏へと向かった。
どんな場所で事情があろうとも、人前で肌を晒すことには抵抗もあるだろう。
左近は気を利かせて、へ背を向けるように座った。

「姫?」

 思わず、何時もの癖で呼んで、左近は慌てて掌で己の口元を覆い隠した。
今の呼称が一層の精神を追い詰めてしまう事を恐れたのだ。
 だが左近の咄嗟の失言も無理もない。風邪を引くからと配慮して布を託して背を向けたはずなのに、当のは着替える様子もなく、それどころか背後から抱きついてきた。
 左近の腰へ腕を伸ばして絡めて、背へと額を押しつける。

「…姫…」

「……怖い……ごめん…なさい……まだ、怖いの……動けない…動きたく…ない…」

 か細い声で、弱々しく訴えられて、ぐらりと理性が揺れた。

『いやいやいや、まずいだろ。それは。つけ入ってるだけだ』

 思わず首を横に振って、鎌首を擡げた欲を振り払った。

「えーと…じゃ、もう少し待てますかね?」

 囲炉裏に手早く火を入れて、腰に絡んだ掌を優しく撫でた。

「蹴破った戸を戻しますよ。囲炉裏に火を入れた意味がなくなりますからね。
 しばし囲炉裏にくっついてて下さい。ね?」

「うん」

 が従順な反応を示すのはいいとして、心なしか幼さが目に付くことが気がかりだった。
ショックで精神が幼児退化しているのかもしれないと、不安になってくる。
左近はすぐに戸を戻して、ちょっとやそっとでは外れないように補強を施してからの傍へと戻った。

「さて……こうなっちまうと仕方がない、左近が脱がすしかなくなるんですが…構いませんかね?」

 ほんの少しの逡巡の後、は小さく頷いた。
気恥かしさはあったのだろうが、誰かに寄り添い支えてもらわねばならぬほど、心が弱っているようだった。

「じゃ、失礼しますよ」

 帯に手を掛けて解き、着物を脱がせば、下には降臨した時につけていた水着があった。
何の因果だろうかと目を細め、小さく息を吐いた。
白い肌に、白い水着。鳥肌が立つ肌に、の長い黒髪が貼りついて、妙に艶めかしい。
妙な気を起こす前にとばかりに、左近は裁断前の布を取り上げると、の肌に巻きつけた。

「もう少し、囲炉裏にくっついててくれますか? 乾したいんでね」

「…左近さん…」

「はい?」

「傍に…居て……怖いの…」

「ええ、いますよ。姫が望んてくれるなら、左近はずっとずっと姫の傍にいます。だからもう少し我慢して下さい」

 頬を撫でて言い聞かせれば、は唇を噛み締め、無言で涙する。
こんな顔もするのだと、驚くと同時に、嬉しくなった。
知らぬ一面を垣間見て、こうして無条件に甘えられ続ける事を考えれば、命を張ったかいがあったというものだ。

「姫の傍にずっとずっと居たいんでね、左近にも暖とらせて下さい」

 安心させるように柔らかい眼差しを送ってそう告げれば、はようやく左近の着物から手を放した。
左近は身を引いてから脱がした着物から水気を切り、張った縄へと引っかける。
続いて自分の着物を脱いで同じように水気を切るとの着物の横へと引っかけた。
二枚目の布を腰に巻いてからへと視線を向ければ、一応それくらいの配慮をする余裕は戻ってきているようで、は背を向けて囲炉裏と向かい合っていた。
 膝を立てて両手で全身を抱え込んでいる姿があまりにも可愛らしくて、思わず笑みが漏れた。

「お待たせしました」

 一声かけて、後ろから抱き寄せた。
三枚目の布で互いの体を包み込めば、は左近の胸板に額を寄せて、瞬きした。眦から大粒の涙が落ちる。

「まだ、不安ですか?」

「……分からないの…」

 頭を撫でて、背を撫でて、先を促した。

「どうしたらいいのか、分からない…なんで私なのか? とか…今更言っても仕方ないことだって……
 分かってるはずなのに……頭の中はぐちゃぐちゃで……何時ものようにしなきゃ…って思うのに…
 ……全然、きちんと出来なくて…色んな事が……どうしてなのか、分からないの………ただ、今は…まだ…」

「怖い?」

 こくんと小さく頷いて、は左近へしがみついた。

「…ねぇ、左近さん…」

「はい? なんですか、姫」

「私、本当に生きてる?」

「え?」

「本当は、今までの事は全部、全部夢で…ここはもう死後の世界で…
 それこそ地獄みたいなもので…私はそこに落とされただけなんじゃないか…って…」

「姫は地獄に落とされるようなことを出来るお人じゃないでしょう。
 それに勝手に殺さんで下さいよ。左近も姫も、ちゃんと生きてますよ」

 無意識なのだろうか。が自分の視線に入る左近の髪を指先に絡めて遊ぶ。
その仕草は、稚拙でありながら、どこか婀娜っぽい。まるで誘われているかのようだ。
 左近は己の中に秘めた欲に白旗を振りたい心境に陥り、の肩を掴むと己から引き離した。
触れ合えるこの状況を放棄するのは、正直惜しい気がする。
けれども、弱りきっているの心に付け入らないでいられるだけの、自信がなかった。
 愛しい人だから、命を張った。
愛しい人だから、慰め、支えたいと思う。
けれども同時に、自分はいい年をした男で、彼女は女で。
まして愛しい人であるからこそ、抱きたくもなる。
今見せられている知らなかった一面もいいが、それ以上の、もっともっと奥深くに隠されている一面を、自分の手で引き摺り出してみたくなる。
 だがそれはまずい。
己の矜持にも反するし、何よりもの事だけは大切にしたい。
今まで相手にしてきたような、下心を隠して言い寄ってきた女達のようには扱えないし、扱いたくない。
 だからここはどうしても、距離を置くしかなかった。

「…左…近…さん…?」

「…いや、ちょっと…まぁ、その………なんです……くっつき過ぎたかと思いましてね…」

 不安にさせるだけだと知っていて行動に移して、想像通りの反応を見れば瞬時に後悔する。
だが今更また抱き寄せる事など出来なくて。
なんとか場を取り繕おうとするのに、こんな時に限って頭がうまく働かない。
彼女を抱いてしまう言い訳なら、建前なら、さっきから頭の中でうるさいほど浮かんでは消えてゆくのに、そこから逃げる為の口述は何一つとして浮かんでは来ないのだから、情けない。

『俺は何時からこんな欲深くなったんですかねぇ』

 自分に呆れて、自然と顔には自嘲の笑みが浮き上がった。

「…すいませんね、左近も男なもんで…誤解しそうなんですよ」

 直球で理解を求めるしかないとは軍師としても男としても情けないにも程があると思いながら、同時に、それだけ自分に余裕がなくなって来ているのだと悟った。

「……姫?」

 左近の言葉を受けたは、暗い視線をしながらゆっくりと距離を置いた。
理解が得られたのかという安堵と、やはりあの甘えたような行動には深い意味は何一つ潜んではいなかったのだという落胆が綯い交ぜになり、胸を締め付ける。

「…ごめんね…鈍くて………」

「いえ、こっちこそ、すみませんね」

 答えた声は届いているのか、いないのか、の反応は鈍かった。
しばらく、互いに沈黙が続いた。
その間にも泣きやんで、囲炉裏をぼーと眺め続けるだけになった。

 

 

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