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「………実感がないなぁ…」
「え?」
「…実感がね……全然なくてね……そう……何もかもが…夢……」
ぼそぼそと呟くようには話す。
そんなの視線の中には、囲炉裏が映る。
囲炉裏の中で赤々と色づいた炭は、時折パチパチと音を立てて木片を弾けさせ、小さな火の粉を生む。
舞いでも踊るようにパチパチと弾けて、一瞬の内に消えて行く火の粉。
元となる柔らかな火の揺らめき。
その揺らめきの向こうに、時折見えては隠れる黒い塊。
それを見たは、次の瞬間には衝動的に動いていた。
「姫ッ?! よせ!!」
伸ばした手で取り上げた黒い塊―――――火箸で、己が喉を突こうとするの腕を掴み、揉み合う。
「放して、きっとこんなの夢!! 悪い夢なんだから!!
こんな事したって、私は死なない!! そうよ、死ぬわけない!!
本当の私は、きっとまだ元の世界で寝てて…それで!!」
「いい加減にしろ!!」
少し力を込めて引き寄せれば火箸が宙へと飛んだ。
行動を封じるべくの両腕を掴んでその場へと押し倒した。
落ち着かせようとしている間に、火箸が落ちてきて畳に刺さる。
運が良かったのか悪かったのか、投げ出されたの掌が火箸に当たり火傷した。
「ッ!?」
痛みで顔を顰めれば、左近は畳に刺さった火箸を片手で引き抜き、の手の届かぬ所へと放った。
からんからんと乾いた音を立てて火箸が転がる。
その音を聞きながら己の腕を庇うように握り締めて悶えるを、畳の上に押さえつけて、珍しく怒鳴った。
「止めろ!! そうだ、熱いだろう? あんたは生きてる!! これは夢じゃない!!
台風が来てるのも、あんたが死にかけたのも、あんたを救う為に左近が命を張ったのも、全部、現実だ!!
怖くてもいい、泣いていい、甘えてもいい、だが自暴自棄にだけはなるな!! 命あっての物種だろうが?!」
動揺を示し、宙を泳ぐの瞳を真っ直ぐに見据えて、左近は問いかけた。
「…それとも、夢がいいというのか? 夢の方が、良かったと? 左近達と出会ったことすら、夢にしたいと?」
するとは眉を八の字に曲げて両の瞼を閉じた。また涙が溢れる。
「実感が…ないの……私の世界は、とてもとても平和で…戦なんかなくて……とても便利で…こっちとは雲泥の差。
皆が良くしてくれてること分かってる、この世界ではとても恵まれた生活をしてるって、知ってる。
でも……私の世界なら、私は誰かの命を背負う事もなかったし、こんな危険な目にあったり、誰かを巻き込んだり
なんかしないで済んだのに…って…」
吐露された言葉の中に、自分を巻き込んだ事への自責が含まれていた事に左近は目を見張った。
あの錯乱の中で、この人はそんな感情にまで翻弄されていたというのか。
『…本気かよ……なんで…そんな感情にまで………』
「…怖い…逃げたい……こんなの現実じゃないって…思いたい…」
「怖い」と言っていた。ずっと、ずっと泣いていた。
生死の境を、しかもあんな形で味わったばかりなのだから、当然だと思っていた。
けれどもそこに含まれていたのは、彼女が本当に恐れていたのは、誰かを巻き込むことへの恐怖であり、自責だった。
「…だって、私のせいで………左近さんまで……死んじゃうところだった…」
この人は夢ではない事を知っている。
ちゃんと最初から分かっている。
それでも夢に逃げたいと願ったのは、誰かの命を危機に晒したことが辛かったからなのだと知った。
なんと清廉で聡明な人なのだろう。
常々彼女の生き方は美しいと思ってはいたが、これは想像を遙かに超えている。こんなにも小さな体で、非力な人なのだから、素直に与えられた権限を受諾し、当然と行使すればいいのに、それが出来ない。自分が命を張った事とて武士の務め、家臣の忠義だと割り切ればいいのに、それが出来ずに自分を責めて泣くのだ。
その涙は、自分自身の為ではなく、他でもない家臣の為のもの。
今この瞬間は、命をかけた左近だけのものだ。
「……死にませんよ、姫も、左近も…」
知ってしまえば、溢れて来る愛しさを思い留めることなど出来なくなった。
左近はの腕から手を放し、髪を透きながら強く強く抱き締めると、許しを願った。
「この俺が、そんな事、許しやしませんよ…。
…ねぇ、姫……どうしても、信じられないなら……生きてるって実感が得られないというのなら……
左近流の方法で、与えましょうか?」
泣きながらも視線で問い返したの唇に優しく己の唇を落とせば、は瞳を大きく見開く。
左近が許しを待ち、じっと見下ろす。
その視線を受けて、はしばし考える。
そこではふと何かに気づいたように柔らかく微笑んだ。
許しを得たと判じて左近がの事を抱き締めると同時に、は両の瞼を閉じた。
「左近さん、助けてくれて、ありがとう………怖かった、すごくすごく、怖かった…でも、嬉しかった………」
腕と腕を絡めたの顔には探していた物を見つけ出したような安堵が広がる。
それを態度だけでなく言葉で間で示された左近は、苦笑した。
『…参ったな、完全に俺の負けだ…命を張っただけはある……得難いものを手にしたもんだ…』
「姫、誤解のないように、ちゃんと言っときます。
左近の愛は姫だけのものですよ。これは一時の衝動なんかじゃない。
だから勘違いだけは、しないで下さいね?」
「…うん……左近さん、大好き…」

どうっ!! と轟音を上げて、填め込まれていた板戸が吹き飛んだ。
左近が驚いて起き上がれば、そこに立っていたのは黒装束の忍だった。
彼の冷淡な視野には深い眠りの中に身を委ねると、彼女を抱く左近の姿が入る。
彼ら二人は互いに裸だった。咄嗟に手癖の悪い左近が彼女に手を掛けたのかと思ったが、そうではないようだ。
左近の腕の中で眠る彼女の顔には苦痛はなく、安堵が見える。
そこで何があったのかを瞬時に悟った忍―――――服部半蔵は、低く言った。
「邪魔だったか」
「ええ、まぁ……ああ、それよりも半蔵さん、傷薬、持ってませんかね?」
左近が半蔵の視線からを隠すように腰の周りに落ちていた布を手繰り寄せる。
半蔵が懐から塗り薬の入った瓶を取り出して放れば、左近は片手でそれを受取って、蓋を開けた。
すくい上げた薬を投げ出されているの左手を取り上げて、火傷の上へとたっぷりと塗り込めた。
「これ、火傷にも効きますかね?」
「伊賀の秘薬だ。効かぬものはない」
「それを聞いて安心しましたよ、女の肌に火傷の痕なんて残したかないですからね」
薬を塗り終えた左近は薬瓶に封をして半蔵へと投げ返した。
それから己体に巻きついていた布の一角を器用に口で裂くと、包帯代わりにの左手に巻きつけた。
「さて、それじゃ、戻るとしようか」
独白を受けて、半蔵が一つ手前の部屋へと身を引く。
それを確認してから、左近は乾していたの着物を取り上げて、眠ったままのへと着せた。
続いて自分の身なりも整える。続いて囲炉裏の火を始末してからを抱き抱えて、立ち上がった。
半蔵が待つ隣室へと戻れば、そこには人一人が辛うじて通れそうな穴が口を開けていた。
「こんなとこにありましたか」
察しをつけていたのかと視線で半蔵が問えば、左近は肩を竦める。
「色々ありましてね、それどころじゃなかったんですよ。
ま、落ち着いたら探すつもりだったんだが…あんたが先に来た。それだけの事ですよ」
半蔵を先頭に、縦横無尽に走る細い通路を進み続けた彼らは、最終的に城の地下室へと辿り着いた。
浸水し始めているそこをこれ以上水で埋めないために城内に篭もる人々の桶リレーが続いている。
「ああ!! 姫様じゃ!! 姫様が戻られたぞっ!!」
最下層で従事していた民が人影に気が付いて視線を移した。
彼がそこにいた者が誰なのかを一目で判じて喜びに任せて絶叫すれば、の生還を祝う声があちこちで上がった。
彼女の生還はそれだけで人々に力を与えるようで、意気消沈していた人々の中に生気を呼び戻した。
桶リレーを続ける人々を押し退けて、を筆頭とした女中集が駆け下りてくる。
「まぁ、大変、意識が!!」
「なんと冷えて……誰か、床と湯の支度を急ぐのです!!」
「姫様、姫様!! どうかお目覚め下さい!!」
想定していた通りの反応だなと、左近は小さく息を吐いて歩き出した。
「すいませんがね、湯殿までは左近がお送りする事になってんですよ」
をひったくろうと手を伸ばした女中集の手を巧みに交わして、左近は歩みを進める。
「お、さんじゃないですか。丁度いい、頼みますよ」
脱衣所まで付いて来た女中集と、その場へ先に着いていたらしいへと、左近はを預けた。
「左近」
「おや、殿。しばらく会わない間に少しやつれましたか?」
「減らず口はいい。あいつはどうしてる?」
「まぁ、無事ですよ。左近が下手を打つとお思いで?」
思慕の念を寄せる君主と信頼する部下を同時に失うかどうかの瀬戸際で、相当、精神をすり減らしていたのだろう。
知らせを聞いて飛んできた三成は、全身から疲労と不機嫌のオーラを撒き散らす。
それを見て、左近は心配はないと、何時もの左近節を炸裂させた。
「ふん、悪運の強い奴らだ」
三成らしい言葉に苦笑し、左近は身を翻した。
「さて、俺らはそろそろお暇しましょうか? 姫はこれから入浴です」
三成を促して左近はその場を後にした。
一連の騒ぎを遠目から見ていた半蔵の視野には、左近の横顔が入る。
そこには三成とは違った意味でのポーカーフェイスを貫く左近には珍しく、浮足立っているような色が見て取れた。
閉ざされる扉の向こうで愛妻に介抱される眠ったままのを一瞥し、二人と再会した時の事を思い出す。
『無理もないか』
視線を外した半蔵もまた安堵の息を漏らすと、己が業務へと戻って行った。

「様ー!! ご無事で何よりでしたわー!!」
意識を失っている間に女中集に風呂に入れられて、体の隅々まで磨き上げられた。
天守閣の自室へ戻され、床の上でが目覚めた時。
一番最初に目に入ったのは、顔面を涙でぐしゃぐしゃにしたの顔だった。
彼女は感極まって、思いっきりに抱きついてきた。
続いて、まだ直撃中の台風との攻防に明け暮れる秀吉、家康が顔を出し、その場で二人して膝から崩れ落ちた。
二人の顔は安堵一色に染まっていた。
「様!! なんという無茶をされるのですか!!」
「そうじゃ、そうじゃ!! だからあれ程早く城へ戻って下されと…」
「御身をなんとお考えか!!」
「全くじゃ、生きた心地もせんかった!!」
「しかし、ご無事で何よりじゃ!!」
「でも、ご無事で良かったわぁー!!」
大きな瞳を瞬かせるの横に進み出てきた秀吉と家康。
彼ら二人の左右から繰り出される小言を聞きながら、は首を傾げ続ける。
「小言なのか感動なのかどっちかにしたらどうだ」
呆れたような声を上げるのは、政宗。
彼の後方から、兼続、三成、幸村、左近、孫市、慶次が入って来る。
身嗜みを改めた左近を見上げ、は一度だけ首を傾げた。
「あの……」
「なんじゃ?」
「どうされました?」
家康と秀吉が身を乗り出し、抱き付いていたが距離をおく。
固唾を呑む一同の前で、は何度となく瞳を瞬かせる。
「ここは、どこですか?」
「…………………ハイ…?」
「私は……誰でしょう?」
「何ーーーーーーーーーーーーっ?!」
居合わせた全員が悲壮感を顔に貼り付けて絶叫した。
その反応を受けたは、脅えたように体を縮み上がらせるとへと抱きついた。
「えっ、あ、な、何? なんなの? ごめんなさい」
「ちょっと待て、本当に誰が誰なのか、自分が誰なのかも分からないというのかっ?!」
にじり寄る三成の後方に控える左近は顔面蒼白だ。
「…ごめん…なさい…」
三成の剣幕に驚き、後方に控える男の悲壮感溢れる表情に罪悪感を覚えたらしいは、顔を伏せた。
その様子から察しても、彼女の言葉には、嘘はないように思えた。
「…姫…」
呼ばれて、それは自分の事なのかと、顔を上げ、瞬きを繰り返す。
自分のことを呼んだ男の目を見て何かを思い出しかけて、けれどもそれが上手くは行かなかったようだ。 は顔を顰めた。
その時に視界に入って来たのは、自分を気遣う多くの人々の心配そうな顔、顔、顔。
中には絶句し、その場に崩れ落ちている者もいる。
その中心に自分がいる事を思えば、罪悪感を抱えるのは当然の事で、感極まってしまったのだろう。
の眦には自然と涙が浮き上がった。
は気丈にも、これ以上は迷惑はかけられないとばかりに、己の眦を懸命に拭った。
そんな姿を見ていれば、胸が痛んで、多くを求めてはいけない気がして、左近は言う。
「まぁ、いいじゃないですか、記憶くらい。こうして生きてんだし」
軽い口調で言ったつもりが、言葉とは裏腹に表情はそうではなかったようだ。
左近と顔を合わせたは一層、悲しそうな顔をする。
何度となく溢れて来る涙を拭った。
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