暗闇の中で見つけた恋 - 左近編

 

 

「…ごめんなさい、きっと…きっと、思い出すから…ごめんなさい…」

 涙を拭い続ける時に見た己の左腕には真新しい包帯。
考えてみれば、体にも気だるさに似た疲労感がある。
これらの点から察するに、何か大変な事が起きていて、自分はそこに巻き込まれていたのかもしれない。
では、その大変な事はなんなのだろうか? 思い出そうと努めるが、一向に思い出せない。
特に、絶対に忘れてはいけないことが一つあったような気がする。
なのに、それがすっぽりと抜け落ちてしまって思い出せない。

「姫、そんなに自分を責めなさんな」

 労ってくれる婀娜っぽい男の声に安堵する。それと同時に、彼の声を聞いて、彼に優しくされればされる程、胸の中に空いた穴が大きくなってゆくような気がした。
記憶を失ってしまっていても、魂の中に残る"何か"がそれを頑なに拒否していた。
思い出したい、忘れたくない、失いたくない…それだけは嫌だと、強く強く叫んでいる。
けれども、思いに反して意識は残酷で、一番大事な"何か"だけを霞で包んで覆い隠す。

「……ごめんなさい……ごめんなさい…忘れたくなんかないの…。
 本当は、きっときっと……とてもとても大切な事……なのに!! 何も……思い出せない…。
 皆の事も、自分の自分の事も……思い出したいのに……どうしたらいいの? どうして……ごめんなさい…」

 それが悲しいと、悔しいと、切ないと、は泣き続けた。
翳ったの横顔が、彼女の抱え込んだ感情の全てを言い表していた。
 そんな姿を見てしまえば、非常事態と言えど多くを求めるのは酷だとしか思えなくて、皆が固唾を呑んだ。
どうしたらいいのか、何をどうすればいいのか、皆すぐには思いつけなかった。
 そこへ突然変化が起きた。
奇妙な空気が蔓延する室の中へと、全身ずぶ濡れの伝令兵が飛び込んで来たのだ。

「伝令!! 西の城壁全面崩壊!! 城下が完全に水没致しました!! 城内へも水が!!」

 瞬間、が目を大きく見開いた。
霞がかった記憶が一気にフラッシュバックする。

"……一日…遅れで………こっちにも同じ事が起きてる……?"

 現代とは似ても似つかない脆い平屋造りの家屋を見下ろし息を呑み、

"バカか、お前はっ!! 周りを見なさいよ!! こんだけ天候が荒れてくれば、いい加減分かるでしょ?!
 台風がすぐそこまで来てるのよ!! 今は矜持より、命でしょうよ!! なんで分かんないの!!"

 もめ事を起こした大工の棟梁を素手で殴って叱責した。

"ああ、それよりも聞いてくれ。旧城は一先ず無事だ。
 だが俺が出る前に周囲の川が氾濫した。今頃、こっちとの接続は分断されてるはずだ!!
 何が起きてるか知らんが、あの分じゃ、ここが孤立するのも時間の問題だぜ!! 俺は何をすればいいね?"

"早速だけど補強手伝って!! 今は一人でも力のある人が必要なの!!
 半蔵さん、もし近くで聞いてたら今すぐに国境へ伝令を!! 全軍撤退!! 城への帰還を命じます!!"

 帰還した慶次から得た情報と自分が下した命令。
生々しいやり取りの間に、三成と交わした会話が混ざり込む。

"落ち着け、一体どうした? 何があるというんだ。言ってみろ"

"……あ、あ…み、三成…どうしよう……どうしよう……またくる…"

"なにが?"

"台風……それも、この前のより……ずっとずっと大きいの……沖合いで三つの低気圧が一つになっちゃったって…!!"

『…そうだ、台風だ……今、ここは…台風に脅かされてる…!!』

 入り乱れる記憶に翻弄されて呻いた。
酷い頭痛と耳鳴りがの身に襲いかかり、を苦しめる。

"……四日後……四日で来る…"

"よし、迎えうつぞ"

"どうやって?! 自然災害なのよ?!"

"だがこの前は乗り切った。こっちは兵糧も薬もある、怪我人も少ない。
 "もう"じゃない、"まだ"四日あるんだ、ならば備えるだけだ!!"

『…備えなきゃ……また来る……備えないと……皆が死んでしまう…!! そんなの、ダメだ!! 護らなきゃ!!』

 痛みに耐えかねて両手で頭を抱えて身を捩れば、周囲が尚のこと、慌てふためいた。
入り乱れる記憶の向こうで、秀吉を始め、皆が自分のことを呼んでいる。
その声の中に、医者を呼びつける声も混じっている。
それらを知りながら、彼らに答える事よりも、現れては消えて行く記憶の先を必死で追い求めた。
 飛び散った陶器が埋まった粘土質な大地の上を、民は弱音一つ吐かずに懸命に資材を運搬した。
泣くばかりだった女達は自発的に動き出し、焚き出しに精を出した。
そんな中、襲いかかって来た第二の自然災害。
突風に誘われて落ちた自分の体を受け止めてくれたのは、部屋の隅で茫然自失になっている若武者と、その横にいる変わった形の兜をかぶった青年に相違ない。

『…知ってる…私は、この人達を知ってる……困難になる度、私は、この人達に守られてきた…』

 天に轟いた雷鳴。
暗雲の中を泳いだ稲光から逃れるべく、女子供を救おうとする女の姿がある。
女は意識を失った飯炊き女を崩れる足場から逃すべく突き落し、寄り添う子供を護るために手早く何かを操作する。

"様、どうか動かないで下さい!! 崩れますっ!!"

『!!!』

 若武者に呼ばれた名こそが、自分の名だとはっきりと自覚した瞬間、は大声で叫んだ。

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 呼び覚まされた記憶の本流が、苦痛を越えて、その先を事細かに見せて行く。

"慶次さん、これ、力一杯外へ投げてっ!! 今すぐっ!!"

 慶次に向けて投げ放ったツール。
そのツールに導かれて雷鳴が走る。
雷に打たれたツールは木っ端微塵に砕け散り、暴走した雷撃が城外の木々を裂いた。
耳の中に残るのは轟音、視界にこびりついたのは燃え上がった紅蓮。
そして、自分の立っていた足場が大きく崩れ、自身はその下を走っていた水路の中へと落ちた。

「あ、ああああ!! あ、ああ、ああ、あああ!!」

 は腹の底から声を上げ続けて、己の体を掻き抱いて、のたうち回った。
呼吸困難になり、はぁはぁと肩で息をつきながら懸命に混濁する意識を手繰り寄せる。
 錯乱状態にあるを心配して、周囲が慌ただしく動き回る。

「医者じゃ!!」

「誰ぞはよう医者を呼ばぬかッ!!」

 秀吉、家康が血相を変えて叫び散らすのを、が掌を突き出して留めた。
誰も彼もが驚いて動きを、言を止める。
 肩で深呼吸をしていたは、何度か瞬きをした後に、キッと視線を定めると顔を上げた。

「必要ない!! それよりも、今は対処が先!! 
 階下にいる皆に伝令よ、地下、一階共に破棄!! 
 兵糧、火薬、薬、武具、書物、持てる物資を持てるだけ持って、総員二階へ退避!!」

「ハハッ!!」

 皆が目を丸くしての動向を見守れば、は何時もの調子を取り戻したように、すぐさま立ち上がった。
疲労感が残っている為に多少ふらつけば、慌てて左近が手を伸ばして補佐する。
それを受けながら、は下知を飛ばし続けた。

「って、皆、こんなところで何してんですか!! 早く、持ち場に戻るっ!!」

 バランス感覚を取り戻したは、呆然としている面々の前を夜着のまま通り抜けた。
どうやらそのまま、階下の評議室へと向うつもりのようだ。

「な、おい、こら、待て!!」

「姫?!」

様!! お体は…」

「お、おい!! 思い出したのか?!」

さん、ちょっと待ってって」

 慌てて追い縋ってきた面々を無視して、は階下の評議室へと向うべく歩き続ける。
が足早に階段を下りて、評議場の中へと入れば、その場の空気ががらりと変わった。
悲壮感ばかりだったそこが、希望の光で満たされたのだ。

『……そうか……そういう事ですか…』

 その中において、唯一左近だけが複雑な眼差しでの小さな背中を見つめていた。
敏い彼は、に触れた時に見たの顔色だけで、一番認めたくない事実を確信してしまったのだ。
 の記憶はきっと戻った、自分との事を除いて。
その証拠に指示を飛ばし始めたは自分に気が付く事もないまま、一同を鼓舞し続けている。

「とにかく、皆、気を引き締めて!! まずはこの状況を打破する事が先決です!!
 西の城壁が決壊するなんて、想定外もいい所なんですから!!
 もうあのツールもないし、頼れるものなんてないのよ!!」

『まぁ……よしとしますかね……振り出しに、戻っただけだ』

「左近さん、ぼやっとしないで!! 情報の統制、お願いします!!」

 の言葉を受けて、左近は肩で息を吐くとすぐに何時もの飄々とした色を顔に貼り付けた。

「承った、左近の手腕、御覧に入れましょう」

 左近だけではなく、の一声でその場に揃った城家臣団全てが改めて顔に覚悟と闘志を貼り付ける。
後に"城・地獄と奇跡の篭城Xデー"と呼ばれるようになった災害後半戦の正念場は、こうして幕を切って落とした。

 

 

 四方八方を滅茶苦茶にして去った台風二連発を凌ぎきり、復興へと動き出した新生城天守閣に座すは、目の前に座る左近に対して苦笑いを見せた。

「えーと、その………ごめんなさい…本当に何一つ、覚えてないです」

 記憶を失ったと言った瞬間に見せたような落胆した表情はない。
けれども、自嘲にも似た笑みを漏らした左近を前に、は両手を合わせた。
あの左近が、こんな顔をすること自体が想定外だったようで、は驚き、同時に罪悪感を覚えているようだった。

「その…左近さんには色々お世話になったみたいなのに…本当に、ごめんなさい」

「構いませんよ。で、姫はどの辺まで覚えてるんですかね? 念の為に、聞かせて下さい」

 元より諦めの境地だ。
何か一つでも覚えていてくれるなら僥倖だと考える左近の言葉を受けて、は己の記憶を手繰り寄せる。

「ええと……そう、あのツール! 慶次さんに投げてもらって…それから……っ…!」

 それ以上を考えようとすると、酷い頭痛を引き起こすのか、は顔を歪ませる。
途端、左近は顔色を変える。

「姫、もういいです」

「う、ううん……大丈夫…もう少し…」

 無理をしているのが分かるから、それ以上を求める事は出来なくて、押し留めようとするのに、は突っぱねる。
彼女は彼女なりに、失った記憶を無意識のうちに惜しんでいるのかもしれない。

「…そ、そう……それで……その後は……気が付いたら、ちゃんが抱き付いてきて……」

 苦しそうに肩で息を吐くの傍へと進み出て、背を撫でて落ちくように促した。

「もういいですから。本当に無理だけはしないで下さいよ。すぐに記憶が戻っただけでも運がいいんだ」

「で、でも…」

「いいんですよ、死にかけてたんだ。正に極限状態って奴です。
 それにね、極限状態の中で得た記憶は、時として気が緩むと同時に消える事があるんですよ。
 姫の場合もきっとそれでしょう」

「そう……そんな事になってたんだね…」

 過ぎた事、忘れていた事とはいえ、恐ろしいと身を竦ませるを左近は宥めた。

「もう気にしなさんな。天災は過ぎ去ったんだ」

「う、うん……でもね、左近さん……やっぱり、悪いよ…そんな思いまでしてくれたのに…」

「姫、記憶は記憶ですよ。必要だと思えば、姫自らきっと取り戻す。だから焦る必要はありません。
 それに思い出せなかったしても、もっともっといい記憶を作りゃそれでいいでしょう」

「左近さん」

「だから、もうそんな顔、左近の前ではしないでもらえませんかね?」

 無意識に溢れていたらしい大粒の涙を左近は指先で拭い、笑う。
安心させるための、温かさに満ちた笑みを向けられて、は胸が苦しくなった。

「左近さん…本当に、ごめんなさい、それとありがとう」

 左近の着物を掴めば、瞬間、左の手首に巻かれた包帯が目に入る。
その包帯の白さの奥に何かを思い出しかけて、また失敗した。疲労感が募る。
気がついた左近がの手を取り、包み込むように撫でた。

「伊賀の秘薬を侮りなさんな、跡形もなく、消えますよ」

「そうじゃなくて……何か、思い出せそうだったの。とてもとても大事なこと、なのに上手くいかなくて…」

 表情を曇らせるの言葉に左近は息を呑み、それからすぐに苦笑した。

「姫、左近は、その言葉だけで充分ですよ」

 が漏らした言葉で満足したのだろう。
左近は吹っ切れたような笑みを口元へと貼り付けた。

「さて、それじゃ、そろそろ左近はお暇しますか。でないと、そろそろ殿が乗り込んで来る」

「うっわ、それ、凄い嫌。今は太刀打ちする元気ないよ」

 想像しただけで顔を顰めるを見て、左近は笑う。
そんな左近を見て、もまた自然と笑みを漏らした。ほんの少しだけ、肩から荷を降ろせたようだ。

 

 

 の私室を後にして、ほんの少し歩くと、左近は歩みを止めた。

「で、何の用ですかね?」

 天上へと視線を走らせれば、左近の前に半蔵が降り立った。
半蔵は左近に向い、淡々と言った。

「あの夜あった事は仮初でもなく幻でもない。少なくとも、影が知っている」

「…あんたに気遣われるとは…左近もヤキが回ったかねぇ…」

 顔を顰めれば、半蔵は首を微かに横に振った。

「否定、無用。お前がそれだけ主に懸想する証というだけだ」

「言うねぇ。ま、否定のしようもないんですがね」

 左近は眉をほんの少し動かして、溜息とともに自嘲したような笑みを貼り付ける。
そんな左近の前から、半蔵はすぐに姿を消した。
彼は彼なりに、あの場に踏み入ってしまった事に罪悪感を覚えていたのかもしれない。

「仮初じゃない…か。女心を考えると秘め事にしときたい話なんですがね…今回は救われたな」

 半蔵が紡いだ言葉に妙に安堵した左近は、その場で一人独白した。
再び歩き出した左近の背には、落胆からくる哀愁はもうなかった。

「左近!! 左近、どこにいる!!」

 階下から三成の声が響く。

「はいはい、今行きますよ」

 階段を降りる左近の声は、少し明るい。
流石、軍略家、切り替えは早いらしい。

 

"遠い未来との約束---第三部"

 

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一時の蜜月は霞のように消えてしまった。けれども彼女はそれを嘆いてくれた。彼にはそれだけで、充分だった。(09.02.21.)