人は石垣

 

 

「…姫…」

 呼ばれて左近へと視線を向けて、は大丈夫だ頷いて見せる。

「私は、大丈夫。慶次さんもいてくれるし。全然平気。
 それよりも、皆の方が心配。お願いだから、無理はしないで。絶対に死なないで。
 下ってもいいから、絶対に生きてね」

 何を言い出すのかと、目を見開く左近や幸村には言う。

「生きていれば、きっと、きっと、また会えるから。何でも出来るから…だから、皆、無理はしないで…ね?」

 彼らが蹴散らされて、落ち伸びるという事は、即ち自分の身の危険を意味するというのに、それでいいという。
そんなが相手だからこそ、彼らは命さえ投げ打てるのだろう。
決意を改めて顔に貼り付けた面々を見て、慶次は、深い息を吐いた。

「安心しろ。さんには手は出させない」

「慶次さん」

「松風がなくたって、ここに火の粉が及んだら、命がけで地の果てまで逃がしてやるさ」

「うん、信じてる。皆の事も、信じてる。だから本当に無理だけは、しないでね」

 慶次を見上げて頷き、続いては己の中に湧き上がってくる不安を抑え込み、皆を鼓舞するべく表情を改めた。

「先発で出ます。この状況では奇襲の意味すらないかもしれませんが…」

「やらないよりゃマシってとこか。頼みますよ、幸村さん」

 六文銭の文様が刺繍された額当てをつけて、幸村が槍を取る。
評議室から出てゆく彼の背中を、は己の目に焼き付けるようにじっと見送った。

 

 

 幸村達が出立して半日と経たずに、半蔵が届けた書簡は事実であると分かった。
開戦のホラ貝が鳴り響き、その音に驚いた野鳥が飛び立つ。
 夕暮れの空。聳え立つ岩山の向こうで繰り広げられている男達の戦いを想像する。
それだけでもは身を切られるような痛みを覚えた。

 復興の最中に襲いかかって来た魔手。
荒れた大地の元で、疲れ果てた将兵が余裕のある数多の敵と切り結ぶともなれば、当然、旗色は悪くなる。
城に届く伝令は、想像していた通りの惨状報告ばかりとなった。
何時誰が討ち死にしたと言われてもおかしくない状況だった。

「…慶次さん、お願い、ちょっと私室に…お願い……」

 初めて経験する負け戦。
つい昨日まで、すぐそこで笑い合い、他愛無い会話を交わしていた誰かがいなくなるという事。
その重みを知り、悲しさを知り、痛みを思い知った。
学生の頃、歴史の授業で習った、たった一文字にまとめられる"戦"というものが、実際にはこれ程の悲しみと痛みを纏っているというのか。この感覚は、筆舌に尽くし難い。
 自分が今まで当然とばかりに受諾してきた"平和"は、こうした数多の"戦"を経て、多くの天下人が作り上げたものに過ぎない。感謝しなくてはならない、大切にしなくてはならないと痛感し、同時に気がつく。
この世界、時代では、その"平和"を、他の誰でもない自分自身が、が作らなくてはならないのだ。
だとすれば、こうした数多の感情を抑え込み、耐え忍んで、勝機を見出さねばならない。
 そう知っていながら、やはり心がついていかなかった。

『どうしよう…怖い…苦しい………怖い…』

 は周囲に不安を与えぬ為、混乱を呼ばぬ為に、自ら身を引こうと考えた。
慶次の手を借りて、ほんの一時でいいから場を辞そうとするものの、それよりも早く、第一の訃報が齎された。

「真田幸村様、敗走!! 生死不明!!」

「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 響いた言葉を耳にした瞬間、はその場に崩れ落ちた。
慶次の腕に抱かれて、泣き叫ぶ。

「嫌だ、嫌だ!! 死んでない!! 死んでなんかいないっ!!
 幸村さんは生きてる!! だよね?! お願いだから、そう言って!!」

 沈痛な面持ちでの肩を抱く慶次の瞳からは肯定も否定も汲み取れない。
それが悲しくて、辛くて、は身を翻したかと思えば、次の瞬間には天を仰ぎ叫んだ。

「お願い、私が必要だというのなら、私の臣を護って!!
 私には、必要なの!! 幸村さんも、左近さんも!! 秀吉様も、皆々、必要なの!!
 見てるんでしょ?! 知ってるんでしょ?! なら、どうにかして、手を貸して!!!」

 誰の目から見ても、今のは半狂乱だった。

さん、さん!!」

 人目もある。
辛いだろうがこんな状況だからこそ、には凛然としていてもらわねば困る。
 はこの国の象徴だ。
象徴は、常に燦然としていなければならない。
象徴がその光を失ったとなれば、人々の心は迷い、あっという間に求心力を失う。
窮地だが、窮地だからこそ、今を乗り切る為には、には冷静さを失われるわけにはいかないのだ。
 慶次は険しい面持ちでの腕を引いて、を振り返らせた。

「生きてる。幸村は、生きてるよ。大丈夫だ。だから落ち着くんだ、な?」

「わ、分かってる…分かってる、ごめんさい…取り乱しちゃいけないって知ってる。でも!!
 でも抑えが効かないの!!」

「ああ、分かってる。分かってるよ」

「お願い…お願い、誰か助けて!! 幸村さん達を護って…!!」

 

 

 まだ夕暮れであるはずなのに、復興すら済んでいない森林の中では辺り一面が暗闇と同じだった。
深みこそないものの、まだ捌けきってはいない泥水でぬかるんだ大地には、度々足を取られた。
無造作に倒れた木々が眼隠しとはなるが、この足場では容易に進軍も出来ない。
けれどもそれは相手も同じはず。なまじ復興活動で慣れている自分達の方に利があるかもしれない。
 そう判じた幸村は、戻った斥候の情報を元に、先行する敵部隊を少数精鋭で奇襲した。
出鼻だけでも挫ければ御の字だと考えていたが、彼らが襲ったのは兵糧を運ぶ隊列だった。
しかもその隊は、兵ではなく毛利が以前下した領から駆り出された民で構成された部隊だった。

「しまった!! 罠か!!」

 気がついた時にはもう遅く、伏せられていた兵から弓矢を射かけられていた。
雨のように降り注いだ矢を凌いでも、安堵は出来なかった。
直後、自国へと投降した領の民をも囮とした毛利の兵になだれ込まれたからだ。
 奇襲はあえなく失敗。連れて来た手勢の半数以上をその場で失いながら、自力で活路を開いた。
幸村は命乞いをする敵領の民を伴って、暗い森の中へと敗走するしかなかった。
配下の兵も同じように行動したようで、散り散りに敗走した。
再起を試みるにも苦々しい状況だった。

「何という卑劣な行為を…!!」

 唯一の救いは、少数精鋭だった事、ただそれのみで。今更歯軋りしても、全ては後の祭だった。

 

 

「何?! 幸村さんが敗走したっ?! そうか、先行してたのは囮か…」

 敷いた本陣の中で左近が舌打ちする。
彼は運び込まれた物資を見やり、喉を鳴らすと一度だけ城のある方向の空を見上げた。

『そうだな、護れればそれでいい…俺がいなくても…まだ殿が、兼続さん達がいる』

「火計だ」

「そりゃいいけどよ、どこでやるんだよ?」

「ここでやりますよ」

「ここって、本陣を捨てるのかっ!?」

 補佐官としてついて来た蜂須賀小六に迫られて、左近は言った。

「ええ、捨てますよ。幸いこっちは布陣したばかりだ、捨てるにしたって捨て方を選べる。運がいいね」

「お前、正気か?!」

 日々の激務と劣勢に直面し、乱心でもしたのかと小六が顔を強張らせれば、左近は首を横へと大きく振った。

「正気ですよ」

「だったらなんだってこんな…」

「愚策を…ですか? けどね、小六さん。俺達には後がないんですよ。
 今からじゃ、姫も民も、どこにも逃げられない。
 って事は、俺達は毛利をなんとしても、ここで食い止めるしかない。

 だが幸村さんが敗走した時点で、既に敵の思う壺だ。敵さん、今頃、士気が上がりまくってるだろうからな。
 この劣勢を挽回し、敵の威勢を削ぐ起死回生の策を披露しなきゃ、天意は呼び寄せられないって事ですよ。
 俺達にも後詰はいる。なら本陣作りはそちらに任せましょ、って、俺はそう言ってんです」

 左近の言葉に多くの兵が息を呑んだ。
恐怖に慄く兵に気がついて左近は珍しく声を張り上げて叱咤した。

「お前ら、姫から受けた恩を忘れたか!?
 今ここへ攻め込んで来てる悪鬼どもに、姫のような治世が行えると思うのか?! そう思うなら寝返るがいい!! 
 あの災害の中にあって、は多くの物を失わずに済んだ。それは全て姫の、の人徳のなせる技だ!!
 災害を盾に襲ってくるしかない卑劣漢に出来る事じゃない!!」

「そうだ!! 俺は見たぞ!! 姫様は民の為に自らを犠牲にされた!!」

「俺も見たぞ!! あんな事、なかなか出来るものじゃない!! まして姫様は生きて帰られた、これは天意だ!!
 天は、姫様に天下を帰す事を願っておいでなのだ!!」

「そうだ、そうだ!! これはその為の戦だ!! 俺らの命は、姫様の…の為に使うんだ!!」

「護るぞ!! 死を恐れるな!!」

「姫様の為、ひいては我らの護るべき人の為の戦よ!!」

 従軍していた兵の間から次々に声が上がり、咆哮となる。
左近は満足げに頷くと、歩みを進め、物資の中に組み込まれた油壷へと手をかけた。

「敵をおびき寄せて、本陣ごと焼き払う」

「分かった。だが囮はどうする?!」

 小六の問いに、左近は不敵に笑い答えた。

「囮は、この俺だ。の軍師・島左近」

 揺らぎのない強い眼差しで言われて、小六は一瞬息を呑む。
だがすぐに頷いて踵を返した。

「兵を伏せる」

「頼みますよ」

 

 

「本陣炎上!! 島左近様、陣中に落ちたとの事!!」

「後詰め、戦闘開始しました!! ですが旗色悪く……何卒、援軍を!!」

 慶次に支えられ、に励まされながらようやく我を取り戻していたは、続いて齎された報告に息を呑んだ。
己の脳裏で伝えられた言葉を反芻しているのだろうか。
は何も言葉を発せずにその場へとずるずると座り込む。
 茫然自失となったを慶次が抱きかかえれば、家康が立ち上がった。

「儂が行こう。ここは頼むぞ」

 家康が評議城を出れば、もしもの時の為として残されていた竹中半兵衛が出兵の支度を整えて待っていた。

「お供致します」

「うむ、参ろう」

「あ…あ……あぁ…」

 何か言おうとするものの、適した言葉が出てこない悔しさで泣くの背を大きな掌で撫でて、慶次は慰めた。
一刻と経たずに、家康が半兵衛を伴い、手勢を引連れて城を出立する。
その様を遠目に見ていた不穏な影が、時来たれりとばかりに暗躍した。

 

 

 差し迫る夕闇の中。
毛利本隊と旗色悪い勢の戦いを、高みからひっそりと見物する一人の男がいた。

「さても…どうするかね……天意はどちらに味方するのかのぅ」

 彼は戦の匂いにいきり立つ馬の鬣を撫でて落ち着かせた。
何かを見定めようとでもしているかのように、鋭い光を湛えた眼差しを細める。

彼の背後には紅蓮の騎馬が規則正しく並んでいる。
その中から一体の騎馬が進み出て来て彼の背後に身を寄せた。

「…如何なさいますか」

「ふむぅ…もうしばらく、見てみようかね」

「御意に」

 彼の視線は、ぶつかり合う数多の兵から本陣へと移った。

 

 

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