人は石垣

 

 

「やれやれ、情勢は決したのぅ…天意は人ならざぬ者を欲するかね」

 見物を決め込んでいた男が、ついに心を定めて動いた。
毛利軍が丘陵地帯に伏せていた兵を挙げて、軍を挟撃するよりも早く、ホラ貝が高らかに鳴り響く。
何事かと双方が目を見張る最中、風林火山の旗を掲げた紅蓮の騎馬隊が、高台から怒涛の勢いでなだれ込んできた。

「?! 風林火山だとっ?! 武田騎馬隊か!!」

「な…これは……?! お舘様?!」

 敵兵に囲まれながら武を奮う左近と幸村が別々の場所で顔色を変えた。
状況の大きな変化について行けずに、ほんの一瞬、我を見失ったのだ。
その隙を突ければ、彼らを囲う毛利兵にも勝機はあっただろう。
だが毛利兵はその一瞬の隙を、味方にする事は出来なかった。
 彼らは動きを止めた左近や幸村よりも、武田騎馬の登場に驚き、動揺していたのだ。

「さぁ、蹴散らそうかね!!」

 動きの止まった兵の波を斬り裂きながら、所狭しと雄々しき騎馬が土煙を上げて駆け抜ける。
紅蓮の騎馬隊を率いるのは、勿論、高みの見物を決め込んでいたあの男だ。
彼は手にしていた軍配を猛々しく奮い、激を発した。

「武田信玄、義によりて殿にお味方致すっ!!」

 彼の声に呼応して、彼に続いた騎馬隊が駆け、毛利軍の隊列を掻き回した。
乗り手のいない馬を操っていた兵が、幸村と左近の元へと上手く馬を走らせる。
二人は勝機を見逃さずに手綱を掴むと、鞍の上へと飛び乗った。

 俊足の騎馬で駆け上がった信玄の後を、違う場所から幸村と左近が追う。
三体の騎馬は敵を蹴散らしながら毛利の陣中深くに切り込んだ。
 陣に詰めていた敵将が、状況が飲み込めずに目を剥き、叫んだ。

「なっ……ば、馬鹿なっ!! 貴様は、我らの援軍のはず!! 裏切るというのかっ!!」

「裏切る? ワーハッハッハッ!! 勘違いしてもらっちゃ〜、困るよ。
 元々わしは君主を見限り、流離っとっただけじゃ。それを勝手に誤解したのはそっちだよ?」

「なっ!!」

 顔面蒼白となった毛利の将の背後に、影が舞う。

「御首頂戴」

「ぐあっ!!」

 将が討たれた事で兵の間に動揺が走れば、すかさず幸村が声を張り上げた。

「聞け、毛利の兵よ!! 今、将は討たれた!! 
 そなたらの主は罪なき民をも囮とした!! 貴公らの働きを信じていれば、かような愚策は用いまい!! 
 兵たる者よ、恥じよ!! 守るべき民を盾とするそなたらを、天意は決して許さぬぞ!!」

 小さな動揺は、徐々に大きな波紋となって広がり、あちこちで兵から戦意を喪失させた。

「引けば見逃してやる!! だが、まだやるというのなら!! 覚悟をする事だ、地獄へ落ちる覚悟をな!!」

 左近が吼え、その言葉を肯定するように、領へと続く森がざわめく。
その向こうから迫りくる音に、多くの殺気に気圧されした敵兵は、一人また一人と手にしていた武器を下した。
 広がった不安と巧みに活用し、形勢逆転をなした左近は、戦意を喪失した者には目もくれずに、居残る敵将を目指した。幸村と信玄が続いて馬首を返す。
 今や武田騎馬隊の横やりを受けて、この戦は防衛線から掃討戦へと姿形を大きく変えていた。

 

 

 と別れて逃げ惑うの息は段々と上がり始めていた。

さん、大丈夫かい?!」

 背を預かる慶次に声をかけられても、すぐには答えられず、頷くことで精一杯だった。
足に力が入らず、走り過ぎで腹部が痛い。
空気が欲しいと願うのに、なかなか思うように呼吸が出来ずに焦り、苛立つ。
 板張り廊下を駆けて抜けて、曲がり角を曲がり、階段を上がり降りしながら懸命に逃げれるだけ逃げ続けた。

「覚悟!!」

 何度そう言われただろうか。
十を超えた所で馬鹿馬鹿しくなって数えるのを止めてしまったその言葉を聞きながら、繰り出される刃に
斬り付けられぬようにと身を捩る。

 瞬間、バランスを失って、盛大に転んだ。
鴬張りの廊下を僅かに滑り、手に擦り傷が出来た。

「?」

 こんなかっこうのチャンスを敵が見逃すはずもないのに決めの一手が及ばぬ事に不審を抱き、顔を上げた。
そしてそこで、すぐに自分が置かれている状況を理解した。
 の目の前には敵が仕掛けた火薬壷があり、今まさに爆ぜようとしていた。

さんっ!!!」

 慶次が気がついて手を伸ばそうとするものの、火薬壷から先に閃光が迸った。

 

 

「残る兵糧、武具は全部分捕りじゃ!! 城へ運ぶんじゃっ!!」

 兵糧庫を制圧した秀吉が、率いていた兵へと下知すれば、兵は陣に射かけていた火を消し始めた。
元より秀吉はそのつもりだったようで、急襲時に極力兵糧ではなく陣を対象にして火を放っていたようだ。

「兄上ーーー!!」

「秀吉〜!!」

 豊臣秀長、蜂須賀小六が兵を統率し、秀吉の元へと合流をし始めた頃、災害の爪痕残る森林を越えて、援軍となる徳川家康と竹中半兵衛が現れた。

「徳川家康、推参!! 目にもの見せてくれようぞーー!!」

「いやだ、俺は……俺は、死にたくない、いやだぁぁぁ!!」

「お、俺もだ…こんなところで死にたくないよぉぉぉぉぉ!!!!」

 逃げ惑う毛利の兵はいよいよ旗色悪しと悟ると、我先にと武器を捨てて敗走し始めた。

「くっ……も、もう良い、撤収せよ!!」

 辛うじて残っていた将も、兵糧庫を落され、圧倒的な力を持って駆け回る武田の騎馬隊を見ると、策を弄じて形勢を盛り返すのは無理と判じたのだろう。口々に撤退命令を発し始めた。

「この戦では捕虜はとらん!! 投降を望む者以外は皆、追い返すんじゃ!!」

 秀吉の言葉に、逃げ遅れていた毛利兵の間に安堵が広がる。
押し寄せた波が、想像以上の速さで引いて行く様は、実に圧巻であり清々しいものだった。

「…なんとかなったな…」

 左近が肩で息を吐いて馬首を返し、奮戦していた兵を労う意味を兼ねて、幸村が叫ぶ。

「勝鬨を上げよ!!」

 幸村の声に呼応した兵の勝鬨が上がり、それに追い立てられるように毛利は自領へと逃げ帰って行った。

「…お舘様、お久しゅうございます…」

 騎馬を巧みに操って、敗走する毛利勢に睨みを利かせる信玄の元へと幸村が進む。

「おお、元気じゃったか。幸村」

「はい!!」

 快活な声を上げた幸村の後方から、左近も合流した。

「信玄公、まさかここで出てくるとは思ってもみませんでしたよ」

「わし、カッコ良かったろぅ?」

「ええ、助かりました」

「うんうん、気にせんでいいよぅ。ところでの、頼みがあるんじゃがの」

 幸村が目を見張ると同時に、何かを察したように左近が不敵に笑い、頷いた。

「言われるまでもない、ご案内致しましょう?」

「おー、話が早くて助かるのぅ。時に左近」

「はい?」

殿は美人さんかのぅ?」

「ええ、とってもね、いい女ですよ?」

「え? あ、あの…お舘様??」

 目を白黒させている幸村の肩をぽむぽむと撫でつけて、信玄は馬首を城へと向ける。

「さて、凱旋しようかね」

「あ、は、はい!!」

 意味深に光る信玄の眼差しに気付かぬ幸村は、嬉しそうに破顔した。

 

 

 パラパラと木片を飛ばして爆ぜた火薬壷。
そこから走った火が城へと爪先を伸ばす。

…さ…ん……嘘だろ…!?」

 慶次が擦れた声で名を呼んだ。もくもくと上がる黒煙の向こうは、まだ見えない。
対して、呼ばれた当人はというと、その場で目を丸くして座っていた。
立ち込めていた黒煙が、突然の気流の変化で流れて晴れてゆく。
消えた黒煙の向こう、爆ぜた火薬壷のあった位置には、思いもよらぬ人影があった。

「…あ……ぁ……どうし…て?」

 の事を護るように包み込むのは、人よりもずっと低い体温。
着物の袖と逃げ惑って乱れた髪が、どこからともなく吹いてくる微風に揺れる。
逞しい腕の中から身を起こす。
己の事を庇った相手の顔を見上げれば、立ち上がったその者は静かに名乗りを上げた。

「我は…風魔………凶つ風…」

 思いもよらぬ助太刀には目を白黒させ、慶次もこくんと喉を鳴らす。
場を凍てつかせた風魔本人は、至極愉快そうに口の端で微笑むと、淡々と告げた。

「毛利よ…今度は負け戦よ……」

 攻めよせる忍に動揺が走る。
齎された情報の正邪よりも、予想外の助太刀が入り、その相手があの半蔵でさえ手古摺らせる者であるという事実が、彼らの手を止める一番の要因だったのかもしれない。

「我と斬り結ぶか? ……それもよかろう…」

 距離を置くだけで暗殺を諦めぬ敵の忍を冷酷な刃で穿ち、風魔は歩みを進める。
彼の背に火傷を見たは目を見張った。

「ふ、風魔…!!」

 呼ばれて立ち止った風魔は肩越しにを見下ろすと、またすぐに視線をから外した。

「…火傷……私のせいで…」

「勘違いするな…うぬはよき座興……それだけよ…」

「…風魔…」

 慶次が風魔に対しても、毛利から放たれた乱破と同様に警戒心をむき出しにして歩き出す。
二人は廊下の端と端で互いを睨みながら入れ替わるように歩みを進めた。
 座ったままのの元へとやって来た慶次が、へと手を伸ばして小脇に抱え込む。

「悪いね、我慢してくれ」

「う、うん」

 体裁に構っている暇はないと相槌を打つと慶次。
そして立ちはだかる風魔を前に、難渋し始めた乱破の元へ城外から一本の矢が射かけられた。

城への潜入、及び撤退を支援する仲間からの合図のようだ。
矢に結ばれた紙片の色を確認した乱破は忌々しげな視線を送りながら、一人また一人と身を引いた。
 ただ敵もただで帰ろうとは考えていないようだ。
撤収の最中、彼らは放った手裏剣で火薬壷を爆ぜさせられるだけ爆ぜさせた。

「ちょっ!! 止めてよっ!! 火事になるじゃないよっ!!」

 何時もの調子を取り戻し、叫んだに向かい飛んだ手裏剣を、慶次が鉾で叩き落とした。
自分の横をすり抜けるように飛んだ手裏剣を、風魔は片手で挟んで止める。
指と指の間に挟む形で手裏剣を止めた風魔は、後続の手裏剣が飛ぶのを見逃さずに眉を動かした。
指を開いて、挟み止めていた手裏剣をその場へと落とす。
それから彼が片腕を奮えば、そよいでいた微風が痛烈なかまいたちとなって、宙を走った。
かまいたちは敵から放たれた手裏剣全ての軌道を変えて、逆に放った忍全てを尽く射落した。

「…終わりだ…」

 城から忍の気配が消えたのを確認した後、風魔は身を引いた。
慶次の腕から下されたが、慌てて風魔を追いかける。

「待って、風魔!!」

 立ち止ってを見下ろした風魔に、は言う。

「ごめん、私のせいで……でも、有り難う。助か」

 言葉は最後まで続かなかった。
慶次をちらりと視線で見た風魔は、何かを思いついたように口の端を吊り上げる。
慶次が気がついて一歩前に出るより早く、風魔は身を屈めての唇へと己の唇を重ね合わせた。
 ビシリ!! と音でも立てそうな勢いで固まるの背後で、慶次が殺気を纏う。

『今回は見逃してやるよ、お前さんの手柄だからな』

『ほう、それはまた恐悦至極』

 身を起こした風魔と目を細めて彼を睨む慶次との間で交わされた暗黙の会話の内容は、さしずめこんなところだ。

「……あいつはどーして何時も無軌道なの? …この際だから階段から落ちて、瀕死になればいいのに…」

 風魔が立ち去り、ようやく我に返ったは己の着物の袖で唇を拭いながら低い声で呟いた。
それを聞いていた慶次が、カッカッカッ! と豪快に笑えば、は「笑い事じゃない」と叫んだ。

 

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武田信玄登場。果たして彼は味方になるのか、それとも…。(09.10.26.)