誓約書

 

 

 城に及んだ被害の後始末を終えている最中、凱旋した面々は、予想外の分捕り品を持ち帰って来た。
秀吉の機転の賜物と言って過言ではなかった。

「こ、こりゃ、どういう事じゃっ?! 様は無事なんかっ!!」

「おお、何という事だ!!」

 方々がすすけ、大工衆までもが暴れた惨状が残る城を一目見て、何があったのかを悟った秀吉と家康は顔を真っ青にして、その場に崩れ落ちた。
 そんな二人に気がついたのは、襷掛けをして掃除に精を出すだった。彼女の頬も多少煤に汚れていた。

「まぁ、お帰りなさいませ。皆様」

「おお、おお、か…これは一体…」

 家康の心配の種を察したは微笑んで答えた。

「ご安心下さいませ。様はご無事ですわ」

「そうか、そりゃ良かった!!」

 秀吉と家康が安堵の溜息を漏らす。
と、同時に、彼らの後方から城へと入って来た三体の騎馬が目に入った。幸村、左近、信玄だ。
幸村や左近の姿は見慣れているからともかく、信玄の出で立ちに慄いたは、身を竦めると縮こまってしまった。
 下馬した信玄がそれに気がついて、柔らかい声を発する。

「おやおや、驚かしてしまったかのぅ。すまんねぇ、お嬢さん」

「は、はい……い、いえ…あ、あの…」

 おたおたするに左近と幸村が言う。

「左近が軍略の師と仰ぐお方でね、姫にお目通りする」

「まぁ…」

「今回の危機を、救って下さったのです」

「まぁ、まぁ!! それはそれは…大変な粗相を致しましたわ。申し訳ございません」

 が身を改めて、頭を垂れる。

さんは、半蔵さんの細君でしてね。の奥向き一手に仕切ってくれてんですよ」

「ほほぅ!! こりゃまた驚きじゃの〜」

 朗らかな声を上げる信玄の人となりに触れて、すっかり安心しきってしまったのだろう。
は「顔をおあげ」と言われると素直に顔を上げて、柔らかい笑み見せた。

 

 

「なんか階下が騒がしくありません?」

「さて、なんかあったのかねぇ…」

 評議場に戻ったは、用意させた薬箱を開いて慶次の手当に勤しんでいた。
「さし障るような傷ではない」と慶次は言ったが、「大事になってからでは遅い」とに押し切られた形だった。
当のも転んだ時に出来た擦り傷を慶次に治療されたばかりで、互いが互いを自然と気遣う姿は微笑ましいものだ。

「でも、さっき入った報告聞いて、少し安心した」

「そうかい? そりゃよかった」

 名立たる将は誰一人失わないで済んだ事には安堵していた。
一方で、この国を護るべく礎となった者達の魂を慰霊する墓碑を建設せねばならない事も理解していた。

「…予算、ちゃんと組まなきゃね…」

 小さく独白すれば、慶次は大きな掌を動かしての眦を拭う。
慶次の太い指先には、が流した涙が薄らと浮かんでいた。

「逝った奴らも幸せさ。さんは、ちゃんと胸に刻んでる」

「…そうかな、足りてるかな?」

「足りないって言うのかい?」

 問われては大きく頷いた。

「だって人の命は、本当に重い……これくらいじゃ、全然足りてないんじゃないかって、不安になるよ」

「そうか。けどな、胸に刻む事、感謝する事。それだけで充分だろうさ。
 姿形を失えば、人は自然と忘れるもんだ。だから胸に刻み、忘れまいとするさんの心意気は
 充分通じてるはずだぜ」

「そっか……有り難う、慶次さん」

「いいや、気にしなさんな。それよりもな」

 慶次の声色が僅かに変わった事に気がついたは、腕に刷り込んだ薬の上から巻く包帯から視線を反らして、慶次の目を見上げた。

「さっきのアレ、ちゃんと皆に言うんだぜ?」

「アレ?」

 慶次は自分の唇を示し、言った。

「助け賃として風魔に唇奪われたって話だ」

「あー、あれやっぱ言った方がいい?」

「ああ、特に左近、幸村、三成、孫市にはな」

 そうする事で防衛網を強化しようとしている慶次の思惑には気がつかないは、眉を寄せて苦笑する。

「不意打ちだったし、それに助けてくれた事を考えたら、安いもの…。
 っていうか、私にしたら犬に噛まれたくらいにしか思えないんだけどなぁ…」

「伏せててもいいが、後々奴さんの口からバレた時の方がきっと面倒だぜ?」

「あー、それもそっか……分かった、ちゃんと話とく」

「そうしな」

 全く気にしていないような口ぶりで、本当はかなり癇に障っているのだろう。
慶次は無意識の内に指先を動かして、の唇を軽く拭った。
不意打ちを食らう形になって驚いたは、一瞬、身を竦ませると次の瞬間には笑ってみせた。

「やだ、もー、何かついてました? くすぐったいですよ」

「あー、うん…煤がな」

 言葉を濁す慶次と円らな瞳を瞬かせているの元へと、左近が現れる。

「姫、戻りましたよ」

「左近さん!! お帰りなさい!! 無事で良かった!!」

 声を聞いただけで花のように顔を綻ばせて、は喜ぶ。
そんなの安堵に満たされた笑みを目にすると、左近はほっと一息吐いた。

『そうだ、この笑みの為なら、俺はなんだって出来る』

 左近が咄嗟に抱いた感想は、今となってはを慕う全ての人の総意だ。

 

 

 細かい経緯を聞いて、客間である青龍の間に入れば、いかにも胡散臭い風体の男が座していた。
彼の横に座している幸村が目をこれでもかという程、輝かせている。 

「おやおや、おとこもおったんかい?」

「こりゃまた驚きだな」

「えーと…あの…?」

 の前に立つ左近の肩越しに男の姿を認めた慶次が、目を丸くする。
胡散臭い風体の男と慶次の視線の間に立つは、双方を交互に見て首を傾げた。
左近が視線で「気にしなさんな」と言いながら、の肩へと手を添えて、上座へと促した。
促されるまま上座へとが座せば、男が軽く一度拝礼する。
礼節の一つだと判じたのか、もまたぺこりと頭を下げた。

「お初にお目に掛る」

「あ、は、はい」

 先に口を開いたのは男の方だった。

「わしは武田信玄、おことが殿かのぅ?」

「エッ?! あ、は、はい…です。ほ、本当に本当に、あの、信玄公ですかっ?! 風林火山の?!」

 目を丸くするの前で、男はカッカッカッ! と声高らかに笑った。

「ああ、そうじゃよ? しかし意外じゃの。風説ではおことはこの世の理には疎いと聞いておったんじゃがの」

「うっ…す、すみません」

「……ふぅむ」

 思わず謝ってしまうをまじまじと眺めて、信玄は己の顎を掻く。

「綺麗じゃのー」

「お、お舘様!!」

 幸村が過剰反応し、の後方に座した慶次が顔を顰める。
場の流れを見守る左近の顔までもが僅かに引き攣れば、信玄は更に唸った。

「ふむぅ…モテモテじゃの」

「はい?」

 意味が分からないと瞬きを繰り返したは、信玄のペースにすっかりハマっている事に気がついて、首を横へと小さく振った。そうする事で己のペースを取り戻そうとしているのかもしれない。

「あ、あのですね、信玄公。お世話になった事は感謝しますが、出来ればご用件を伺いたいのですが…。
 失礼は承知の上ですが、何分今は領地の再興と、戦後処理でとてもとても忙しくてですね…」

「ああ、ああ、分かっとるよ。猫の手も借りたいのじゃろ?」

「え、ええ…」

「ふむぅ……おこと、おじさんをどう思うかね?」

「ハ、ハイ?」

「おじさんをどう思うかね?」

 同じ言葉を言われて、は顔を顰めた。

「どうとはどのようにでしょう? 好きかとか嫌いかとかですか? もう少し具体的にお願いします」

「すまんのぅ。んー、では、どうかね。おこと、おじさんと武田騎馬軍団の頭になる気はないかね?」

 左近を除いて、場に居合わせた全員が目を丸くして信玄を凝視した。
左近だけがそう来ると思ったとばかりに、薄らと笑っている。

「で、どうかね?」

「んー…止めておきます」

 一方、問われたはというと、しばし考えた後に首を横へと振った。
これには驚いたと信玄は目を見張る。

「おや、駄目かね」

「駄目というか…なんというか……申し出はとても嬉しいんですけれど……そこまでの余力がないんです。
 戦場で助けて頂いたそうですし、そのご恩にも報いたいとは思いますから、宿やお礼はご用意します。
 けれど、永続的に…となると話は別です」

 ふんふんと相槌を打つ信玄をまっすぐに見つめて、は問いかけた。

「左近さんに聞いた話では、信玄公は以前いた領地や主君を見限って、この地へといらっしゃったそうですね?」

「そうじゃよ」

「なら尚の事、ではなく余所へ行かれるべきです」

「断言かね?」

 二人のやり取りを聞く立場にある幸村は不安そうに忙しなく視線を動かす。
そんな幸村の思いに気がついたのか、はほんの一瞬、幸村へと視線を向けた。

「武田騎馬軍は、戦国最強の騎馬軍団よ。私にだってそれくらいの事は分かってる。
 でもね、だからこそ、その軍を安売りするべきじゃないと思うの」

 目を見張った幸村から信玄へと視線を戻し、は言う。

「隠してもどの道耳に入るでしょうから、先に暴露しますけど…。
 近々は同盟を組んでいた国々の幾つか受け入れる事になります。でも自体も御覧の通りの惨状です。
 つまり、私は貴方方の持つ能力に、相応のお礼を用意する事ができません」

「自領の後始末すら出来ぬ国よりも、おじさんの騎馬は役に立つと思うよ?」

「信玄公…つまらない揺さぶりは結構です」

「おや?」

「"人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵"をモットーとする貴方が、そんな事を本気で言うとは思えない」

「カッカッカッ!! こりゃ、一本取られたの〜」

 大きな声で笑い、信玄は肩で息を吐く。
一度瞬きした仮面の奥の信玄の眼光は、見定めようとする為か、鋭さを増した。

 

 

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