誓約書

 

 

「実はのぅ、おじさんはおことの存在を確かめに来たのだよ」

 息を呑んで、距離を置こうとするの細腕を、信玄は捕まえて抱き寄せる。
また脳裏であの得体の知れぬ声が喚き散らし始めた。

『早くしろって!! 間に合わなくなるぞ!!』

「わしが見限った地にはね、おことが大層気にする謙信もいたのだよ」

「謙信公が?!」

『おい、まだなのかよっ?! まだ出ないのかっ?!』

『だめだ…まだ迷っているんだね、浮かんでこない』

『どうする?! どうしたらいい?! このままじゃ、変えられなくなる!!』

「あやつの易に出たのだよ。"この地に人ならざる者が降りた"と。
 わしはその者の器を確かめたくて、来たのだよ」

「一緒にいた? 信玄公と、謙信公が?!」

 こくりと頷き信玄は言う。

「わしはね、知りたいのだよ。この乱世を治めるのが誰なのか。
 そしてそれは王道であるのか、そうではないのか。

 成しえる者がいるとするのならば、それはどのような者なのかを…」

「乱世を治める方法があって…その者がにいると、そう言われたのですか??」

『もう時間がない!! 早く、うんと言えよ!! "誓約"を取れ!!』

「そうじゃよ? 少なくとも謙信は、おことが鍵だというのだよ。
 おこと次第で、天は地獄にも極楽にもなると」

「だから、見限った? 元の主君を??」

「不思議な話じゃろぅ? 疲弊した地に突然現れた素性の分からぬ君主、しかも女子じゃ。
 その者がいずれ天下を治める事になると、謙信はそういうのじゃよ。
 わしじゃって正直半信半疑じゃ。じゃが、易のもう一つの相も気掛かりではある」

「…地獄に…する?」

 の顔に動揺が浮き上がり、顔が強張れば、信玄はゆっくりと頷いた。

「易が外れであればいい。だが何度見ても、結果は変わらぬのだよ。
 そればかりか、時が過ぎるごとに、問題の者が持つ領地は増えて行く。
 よくよく調べてみれば、その者には常に天意が寄り添い、どういうわけか才知長ける者が膝を折ると来ている。
 となれば見過ごせぬよ」

「か、買被り過ぎですよ。私、そんな大それた存在なんかじゃ…」

「まぁ、おことがそういうのなれば、それでも良いがの…」

 見るべきものを見たのであれば、早々に立ち去れとでも言いだしそうなの機先を制し信玄は言った。

「ただ、わしの目的はそれだけでもないのだよ。
 わしの元の主は大国に尻尾を振るばかりで民を顧みようとはせぬでな。嫌気がさしたんじゃ。
 先も言ったじゃろ? わしらの騎馬を欲する者に、王道をよしとする者は少ないと」

 改めて距離をおいて、信玄は己の面に手を掛けた。
自ら面を外し、まっすぐにを見つめる。

「信…玄……公? 何を…?」

「改めてお頼み申す。武田信玄、幕下武田騎馬軍三万三千。家への帰順をお許し願いたい」

 間近で見た信玄の顔。真摯な眼差し。
それを見ては惚けたように瞬きを何度となく、繰り返した。

「どうしてもわしが信じられんようであれば、誓約書でもなんでも書くよ?」

 脳裏に響いていた声と同じ単語を耳にして、の顔色が変わる。

「誓約…書…?」

「不安に思う者もいるのじゃろう?」

 信玄は息を呑むの傍から立ち上がると、上座にあるの文机の元へと歩を進める。
遠のく信玄の背を見送りながら、の背には強烈な悪寒が湧き上がって来た。

「これで信が得られるとは思わぬが、気休めにはなるじゃろ?」

 信玄は筆をとり、広げた白紙に流れるような速さで文字を載せて行く。

「場合が場合じゃし、今は白紙に書くしかないがのぅ……これ自体は手付みたいなものと思ってくれて構わんよ。
 正式な書は、おことが認めてくれれば、明日にでも改めて用意しよう」

 信玄が話しながら筆を進めれば進めるほど、は背に走る悪寒が強くなった。
言いようのない恐怖に包まれて、慄く。
何かを言わなくてはならないと判じていながら、声が上がらない。

「これで少しでもおとこが心変わりしてくれるといいんじゃがのぅ」

 信玄は最後に己の親指を噛み切って、血判を推してからを振り返った。
その頃にはの顔面は完全に青褪めて、体さえも硬直していた。

「これでいいかね? 殿??」

 血判書を片手に信玄がの前へと戻り、動かぬの手に書を握らせた。
駄目だと、受け取ることが怖いと、は視線で訴え首を横に振ろうとするが、上手く行かなかった。
自分の体なのに、自分のものではないかのように硬直し、全く動かなかったのだ。

殿?」

 信玄と視線が絡む。
が脅えたように両の瞼を閉じた瞬間、銃声が轟いた。

「うっ!!」

 信玄が顔を上げた直後に、の体が揺れた。
不意に前のめりに倒れたの体を信玄が支えれば、再び銃声が轟く。
乾いた音が上がり、板戸に銃撃の痕跡がつく。
信玄は咄嗟に己の体でを包み込み庇った。彼の腕の中に囲われたの胸には赤い染みが広がり始める。

『ああ、だめだ!! 間に合わない!!』

 信玄は面をつけ直し、軍配を振り上げると、続けざまに放たれた銃弾を叩き落した。

「曲者じゃっ!!」

様!!」

 銃声と信玄の声を聞きつけた面々が隣室から飛び込んでくる。

「まさか、まだ毛利の残党がっ?!」

「いや、その可能性も否めないが…」

 毛利の暗殺という可能性が第一だが、下ろうとしたばかりの武田武将に疑惑の目が向くのは当然だった。
自然と室の中に、緊張した空気が張りつめ、皆が疑心暗鬼に陥る。

「申し訳ないが、返してもらいますよ。信玄公」

 険しい面持ちで左近が信玄に代わりを介抱しようと進み出て来る。
刺激しても仕方ないと素直に身を引いた信玄は、せめてもの慰みに、痛みで意識を失いつつあるの手とった。
再びの脳裏に声が響く。

『いや、まだだ!! "誓約"が成立すれば…!!』

「あ……あ…」

 は床に落ちた誓約書へと手を伸ばした。
脳裏に響く得体の知れぬ声の導きに縋ったのだ。

「姫、動いちゃならない!!」

「雨戸を早く閉めるんじゃ!!」

「せ…い……や…」

 大騒ぎになる中、気がついた幸村が、誓約書を取り上げての前へと差し出した。
の胸からの出血は酷く、意識が徐々に遠のいてゆく。

「姫、しっかり!!」

 左近がの胸を押さえて出血を止めながら叫んだ。

「おい、佐治はまだかっ!!」

 顔が白み、唇から色が失われて、目の焦点もぼやけた。
胸にあった先行していた熱さが、痛みに変わってゆく。

様!! 深手ではありません、どうかお気を確かに!!」

 は己の胸を押さえる左近の掌の上に、自らの掌を重ね合わせた。
溢れて来た血で掌が染まる。

「…せ…いや……く…」

「ここにあります、これをどうするのです? どうすれば?!」

 息も絶え絶え訴えるの意思を、幸村は懸命に汲み取ろうとした。
の前に差し出した誓約書を、の手を取り、しっかりと握らせる。
血塗れの掌に握られた誓約書に、の手から滴った血が不規則な染みを作った。
指先に伝った血が、誓約書の上で拇印の型を成す。
 次の瞬間、それは起きた。

「うああああああ!!!!!」

 身を劈くような悲鳴を上げて、全身を仰け反らせたかと思えば、が飛び起きた。

「よしっ!! 間に合った!!」

 続いて、喜々たる様子で叫ぶ。
それからは、すぐに自分自身の胸元へと両手を翳した。
が両目を閉じて己の両手へと意識を集中させれば、奇跡が起きた。
の胸の上に広がった染みが消えて、彼女の胸に吸い込まれたはずの弾丸が宙へと現れる。
取り出された弾丸は、未だ飛び続けているかのように空中で、ゆるりゆるりと回転し続けていた。
まるで弾丸を取り巻く空間が、時間軸共々何らかの方法で巻き戻されたか、切り取られたとでも形容した方が早いのかもしれない。

…様?!」

「なんじゃこりゃ…一体これは…」

「姫?! 一体何をして…!?」

 目を剥く一同の前で、閉ざしていた瞼を開いたは叫んだ。

「誰でもいい!! 早く!! 代わってくれ!! オレがここにいられる間に早く!!
 オレの力じゃ、対象を変えることしかできないんだ!! 肩でも腕でも、足でも、どこでもいい!!
 誰か、この弾、受け取ってくれよ!! 早くッ!!」

 口調、表情から、であってではない誰かが、を救うべく躍起になっている。
そう誰もが感じ取った瞬間だった。

「どうぞ!!」

 誰より早くそれを悟った幸村が、迷うことなく進み出た。

「六文銭の文様…真田幸村か、いいだろう。左肩に行くぞ、貫通させる!!」

「はい」

 幸村が奥歯を噛み、覚悟を決めるとは両手を差し出した。
操られたように宙でゆるりゆるりと蠢く弾丸も軌道を変える。
 の手が幸村の左肩へと触れ、同時に、空中で燻っていた弾丸が消えた。

「ぐあっ!!」

 低い声で呻いて、幸村が崩れた。続いて、幸村の着物が赤く染まる。
何者かが示唆した通り、幸村の左肩は討ち抜かれ、城の土壁に弾丸がめり込んだ。
己の左肩を押さえる幸村が結果を確認しようと顔を上げれば、の中の何者かは、公衆の面前で思い切りの着物の前を割っていた。自分の行動が思惑通りの結果になっているかどうかを確かめたかったようだ。

「……………」

 それは咄嗟の行動だったようで、居合わせた全員が衝撃で固まっている。
そんな中、の中の何者かは、の胸元をまじまじと見て、ついでに撫で回してから安堵したように溜息を吐いた。並みいる将の前に晒されたの胸元は綺麗なもので、傷一つなかった。

「…ほぅ、薄桃色かー」

「…奇麗なもんじゃな…」

「って何してるんですかー!?!?!」

 思わず秀吉と信玄が独白すれば、我に返った幸村が吼えた。
すかさず慶次の拳が秀吉を襲い、信玄の胸倉を掴んで吊るし上げた。

「アンタら、何言ってんだ」

「す…すまん、つい…」

「いやぁ、おじさんじゃからのぅ」

 殺伐とした空気を纏う将達を余所に、家康がの前へと進んで乱れた着物を元に戻す。

「時に、姫に一体何が起きてるんですか? 知ってんでしょう? 教えて下さい」

 真剣な眼差しの左近に問われたは、一息吐くと言った。

「あー、悪い。そろそろ限界だ。その辺は多分本人に説明してる頃だと思うからさ。だから後で聞いてくれよ」

 一方的に語ったの中に入ったらしい何者かは、その後ですぐに姿を消したようだった。
その証拠に、の体は操り手を失った人形のようにそのままその場へと崩れ落ちた。

 

 

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