誓約書 |
「実はのぅ、おじさんはおことの存在を確かめに来たのだよ」 息を呑んで、距離を置こうとするの細腕を、信玄は捕まえて抱き寄せる。 『早くしろって!! 間に合わなくなるぞ!!』 「わしが見限った地にはね、おことが大層気にする謙信もいたのだよ」 「謙信公が?!」 『おい、まだなのかよっ?! まだ出ないのかっ?!』 『だめだ…まだ迷っているんだね、浮かんでこない』 『どうする?! どうしたらいい?! このままじゃ、変えられなくなる!!』 「あやつの易に出たのだよ。"この地に人ならざる者が降りた"と。 「一緒にいた? 信玄公と、謙信公が?!」 こくりと頷き信玄は言う。 「わしはね、知りたいのだよ。この乱世を治めるのが誰なのか。 「乱世を治める方法があって…その者がにいると、そう言われたのですか??」 『もう時間がない!! 早く、うんと言えよ!! "誓約"を取れ!!』 「そうじゃよ? 少なくとも謙信は、おことが鍵だというのだよ。 「だから、見限った? 元の主君を??」
「不思議な話じゃろぅ? 疲弊した地に突然現れた素性の分からぬ君主、しかも女子じゃ。 「…地獄に…する?」 の顔に動揺が浮き上がり、顔が強張れば、信玄はゆっくりと頷いた。 「易が外れであればいい。だが何度見ても、結果は変わらぬのだよ。 「か、買被り過ぎですよ。私、そんな大それた存在なんかじゃ…」 「まぁ、おことがそういうのなれば、それでも良いがの…」 見るべきものを見たのであれば、早々に立ち去れとでも言いだしそうなの機先を制し信玄は言った。 「ただ、わしの目的はそれだけでもないのだよ。 改めて距離をおいて、信玄は己の面に手を掛けた。 「信…玄……公? 何を…?」 「改めてお頼み申す。武田信玄、幕下武田騎馬軍三万三千。家への帰順をお許し願いたい」 間近で見た信玄の顔。真摯な眼差し。 「どうしてもわしが信じられんようであれば、誓約書でもなんでも書くよ?」 脳裏に響いていた声と同じ単語を耳にして、の顔色が変わる。 「誓約…書…?」 「不安に思う者もいるのじゃろう?」 信玄は息を呑むの傍から立ち上がると、上座にあるの文机の元へと歩を進める。 「これで信が得られるとは思わぬが、気休めにはなるじゃろ?」 信玄は筆をとり、広げた白紙に流れるような速さで文字を載せて行く。
「場合が場合じゃし、今は白紙に書くしかないがのぅ……これ自体は手付みたいなものと思ってくれて構わんよ。 信玄が話しながら筆を進めれば進めるほど、は背に走る悪寒が強くなった。 「これで少しでもおとこが心変わりしてくれるといいんじゃがのぅ」 信玄は最後に己の親指を噛み切って、血判を推してからを振り返った。 「これでいいかね? 殿??」 血判書を片手に信玄がの前へと戻り、動かぬの手に書を握らせた。 「殿?」 信玄と視線が絡む。 「うっ!!」 信玄が顔を上げた直後に、の体が揺れた。 『ああ、だめだ!! 間に合わない!!』 信玄は面をつけ直し、軍配を振り上げると、続けざまに放たれた銃弾を叩き落した。 「曲者じゃっ!!」 「様!!」 銃声と信玄の声を聞きつけた面々が隣室から飛び込んでくる。 「まさか、まだ毛利の残党がっ?!」 「いや、その可能性も否めないが…」
毛利の暗殺という可能性が第一だが、下ろうとしたばかりの武田武将に疑惑の目が向くのは当然だった。 「申し訳ないが、返してもらいますよ。信玄公」 険しい面持ちで左近が信玄に代わりを介抱しようと進み出て来る。 『いや、まだだ!! "誓約"が成立すれば…!!』 「あ……あ…」 は床に落ちた誓約書へと手を伸ばした。 「姫、動いちゃならない!!」 「雨戸を早く閉めるんじゃ!!」 「せ…い……や…」 大騒ぎになる中、気がついた幸村が、誓約書を取り上げての前へと差し出した。 「姫、しっかり!!」 左近がの胸を押さえて出血を止めながら叫んだ。 「おい、佐治はまだかっ!!」 顔が白み、唇から色が失われて、目の焦点もぼやけた。 「様!! 深手ではありません、どうかお気を確かに!!」 は己の胸を押さえる左近の掌の上に、自らの掌を重ね合わせた。 「…せ…いや……く…」 「ここにあります、これをどうするのです? どうすれば?!」 息も絶え絶え訴えるの意思を、幸村は懸命に汲み取ろうとした。 「うああああああ!!!!!」 身を劈くような悲鳴を上げて、全身を仰け反らせたかと思えば、が飛び起きた。 「よしっ!! 間に合った!!」 続いて、喜々たる様子で叫ぶ。 「…様?!」 「なんじゃこりゃ…一体これは…」 「姫?! 一体何をして…!?」 目を剥く一同の前で、閉ざしていた瞼を開いたは叫んだ。
「誰でもいい!! 早く!! 代わってくれ!! オレがここにいられる間に早く!! 口調、表情から、であってではない誰かが、を救うべく躍起になっている。 「どうぞ!!」 誰より早くそれを悟った幸村が、迷うことなく進み出た。 「六文銭の文様…真田幸村か、いいだろう。左肩に行くぞ、貫通させる!!」 「はい」 幸村が奥歯を噛み、覚悟を決めるとは両手を差し出した。 「ぐあっ!!」 低い声で呻いて、幸村が崩れた。続いて、幸村の着物が赤く染まる。 「……………」 それは咄嗟の行動だったようで、居合わせた全員が衝撃で固まっている。 「…ほぅ、薄桃色かー」 「…奇麗なもんじゃな…」 「って何してるんですかー!?!?!」 思わず秀吉と信玄が独白すれば、我に返った幸村が吼えた。 「アンタら、何言ってんだ」 「す…すまん、つい…」 「いやぁ、おじさんじゃからのぅ」 殺伐とした空気を纏う将達を余所に、家康がの前へと進んで乱れた着物を元に戻す。 「時に、姫に一体何が起きてるんですか? 知ってんでしょう? 教えて下さい」 真剣な眼差しの左近に問われたは、一息吐くと言った。 「あー、悪い。そろそろ限界だ。その辺は多分本人に説明してる頃だと思うからさ。だから後で聞いてくれよ」 一方的に語ったの中に入ったらしい何者かは、その後ですぐに姿を消したようだった。
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