誓約書

 

 

 凶弾を受けて倒れたはず、命を落としたはずなのに、たった一枚の紙片に触れた瞬間、不可思議な現象が起きた。
無理やり全身を引き裂かれたような痛みを覚えて、悲鳴を上げて、ただ一度瞬きをした。
そして目を開けた瞬間、自分の目に飛び込んできたのは、眩いばかりの光だった。

『……え? え? 何、ここ? 天国? それとも地獄??』

 思うように体が動かないのはともかくとして、状況把握に努めようと視線を走らせれば、光の中に人影を見た。
逆光で相手の顔はよく分からなかったが、その者は、自分の事を見て大層喜んでいた。

「…よ、良かった…間に合ったみたいだ…」

 問いかけようと口を動かすのに、声らしき声が出なくて、もどかしい。

「ああ、無理しないでいいよ。救世主さん」

 仰々しい肩書だと、息を飲めば、逆光の中に現れた影は一方的に話し続けた。

「いいかい? 時間がないから、説明だけする。今はただ聞いて理解出来るように努めてくれ、いいね?」

 体の自由は効かず、声すら上げられないのであれば、自分に出来る事はない。
ならば下手に足掻くよりも現状を理解し、その為に労力を傾けた方が賢明だ。
そう判じて、は瞬きした。
瞬きする事で自分の意思の在り処を伝えようとしたのだ。
 の意思を確認した者はいう。

「まず、確認だ。僕達の世界は、一人の科学者の戯れによって一度滅んだ、それは知ってるよね?」

 何時だった邂逅した女の使者に教えられた話を思い出し、瞬きで肯定を示した。

「よし、いいぞ。僕達が送り込まれて失敗したことも、知ってるね??」

 また瞬きで答える。

「僕達の時間は一度、消えてしまった。皆、諦めるしかないかったんだ。
 けれど、君が現れた。最後の可能性だ」

 それも知っている。今知りたい事はそれではないと、視線で懸命に訴えた。
焦りと恐怖で胸が張り裂けそうだった。

「ああ、怖がらないで。大丈夫だよ、僕達は君の味方だ。
 今日、君が暗殺される事を、僕達は知っていた。だからなんとか救いたかったんだ」

 意味が分からないと、目の動きで訴えた。
すると話しかける影は一端身を引いて、ぼろぼろの紙切れを持って戻ってきた。
寝たままの状態にあるらしいの目でもよく見えるようにと、細心の注意を払って、の視野の中へと差し出す。

「見て、君と武田信玄との間で交わされた誓約書だ」

 にとってはつい先程取り交わしたはずの仮の書面を、どうして彼が持っているのか。
そしてあの書面が、ほんの一瞬でどうしてここまで古びてしまうのかと目を白黒させるうちに、自然と理解した。

「そう、ここは未来だ。君が降臨した時代から、ずっとずっと先の世界」

 そんな世界へと飛ばされたのか。
ならば元の世界は、時代はどうなっているのか。

「慌てないで。君は一時、こっちへ精神が来ただけに過ぎない。体の方はまだ元の世界にいるよ。
 ねぇ、覚えているかい? 君の元へと色んな物を送った同士がいることを」

 は懸命に肯定の瞬きを繰り返した。

「うん、良かった。彼は、君へと物資を送れるだけの技術を手にしてるよね。
 今回君を救ったのは僕と弟なんだけど、僕達はその同士とは異なる力を持っていて、今回は弟の力を使ったんだ。
 弟の持つ力は時間軸に作用する。簡単に言ってしまえば対象物を一時だけ入れ替える力だよ」

 は大きく目を見張った。

「そうだよ。君は今、弟の体の中にいる。逆に弟は君の体の中。
 弟は君の体へと飛んで、君の危機を回避させたんだ」

 彼の言葉が本当であるならば、元の時代に残されている自分の体には一体何が起きているのだろう。
彼らは自分を救うと言った。だがそれはあくまで対象を変えるだけだ。
ならば自分の代わりを務めるのは誰なのか。
それを考えると、胸に渦巻いた恐怖が増した。

「大丈夫、動揺しないで。対象を変えると言っても、命は奪わない。
 僕らが見た神託の書での結論は、誰かが撃たれたと出ている。こればかりは変えられない。
 僕らが変えてはならない。その意味がどれ程大切なのかは、君なら分かるよね?」

 そこで言葉を区切りの理解を確認すると、彼は先を紡いだ。

「だから誰かが君の代わりを務めなきゃならない。
 でも誰かが死んだなんて書いてないから…大丈夫。誰も今回の事では死ないんだよ」

 視線で懸命に「本当か? 本当に大丈夫なのか?」と問いかければ、話しかけていた声が固さを纏った。

「いいかい、救世主。よく聞いて。
 僕ら兄弟は君のお陰で生を繋いだ。またこの世界に戻る事が出来た。
 でもここは元々僕達が派遣された世界じゃない。
 僕達が知ってる世界とは、ちょっとづつ何かが違う、別の世界なんだ」

 懸命に理解しようと高ぶる感情を抑えようとした。
きつく瞼を閉じて、上がる呼吸を整えようと躍起になる。
そんなを慰めるように、声の主の掌が額を撫でる。

「この世界には、君の名前はまだ伝わっていない。という事は、この時代も、まだ不安定という事だ。
 だから、お願いだ。君の力でこの時代を安定させて。そうすれば、僕達も君の事を支援出来るようになる。
 うんん、僕達だけじゃない、他の時代の同士も、生を取り戻せれば、きっときっと君の力になってくれる。
 だから一緒にあの未来を回避する方法を探そう、ね?」

 上がる息を堪えて、歯を食いしばる。
瞬きを繰り返せば、大粒の涙が頬を伝った。
その涙をを拭いながら、声の主は語り続けた。

「いいかい、よく覚えおいて。僕達は君が成した事を記した神託の書を辿って君を見つけ出した。
 けれどその書には空白が一杯だ。この先の事を教えてあげたいとは思うけど、ダメなんだ。分からない。
 だから、この書を書く人間を、早く見つけ出して。そして仲間にするんだ。いいね?」

 瞬きを繰り返し、どんな書なのか、それを記したのは誰なのかと視線で問いかけた。
突然、の視界を照らす光が、白から赤へと変わった。寝かされている室が一層暗くなる。
耳には彼の声を掻き消すように鳴り響くサイレンの音が入ってくる。あまりの音の大きさで、眩暈がした。
 「これは一体何事なのか?」と視線を彷徨わせれば、額を撫でていた掌が離れた。

「…ああ、もうタイムリミットだ…」

 へと懸命に語りかけていた声が遠のき始める。

「弟が、戻ってくる。君も、元の体の中へと戻る。
 色々と辛いだろうけど、頑張って。そして忘れないで、君には僕達がついてるからね」

 このまま引き離されるわけには行かないと、は両目を閉じて渾身の力を込めた。

「…だ…れ………本……の…主……名前………教え…」

 擦れた声を耳にした者が、驚いたように目を丸くした。
続いて、慌てて手にしていた誓約書を放り出し、書を取り上げて、筆者を確認すると叫んだ。

「春日源助!! この手記の筆者は春日源助だ!!」

 

 

「…さん…」

 意識の戻らぬを取り囲んで、諸将は皆沈痛な面持ちだった。

「う…うぅ…ん…」

「姫?!」

様!!」

 呻いて、ゆっくりと両の瞼を開けた。
視覚の調整とばかりに何度か瞬きを繰り返し、あちこちに視線を流せば、見慣れた顔が総出で自分を覗き込んでいた。
 すっかり慣れてしまったこの光景に、不思議と安堵して、自然と笑みが零れた。

「…ただいま…」

 はにかむように告げて、身を起こす。
手を貸してくれたに寄りかかりながら周囲を見渡した。
誰一人として欠けてはいない事実に安堵すると同時に、先程の出来事が気になって問いかけた。

「あの…誰か、身代わりになったよね? 誰?」

 皆が一様に言葉を呑み、答える事を嫌がった。
一人で色んな事を背負い込みがちなの心労を増やすわけにはゆかないという配慮だった。

「お願い、教えて。知りたいの。だって、私、死ぬところだったんだよ?? お願いだから、誰なのかを教えて」

 哀願すれば、自然と家康との視線が幸村へと流れた。
それを見逃さず、は幸村を見る。

「幸村さん…なのね?」

「はい。ですが、お気遣いなさいますな。左肩を痛めただけです」

「見せてもらってもいいですか?」

 無言で頷いて幸村は進み出る。
の前で晒した幸村の肩には赤い染みが広がる真っ白な包帯が巻かれていた。

「ご安心下さい。貫通しておりますし、処置も迅速でしたから炎症等の心配もありません」

「……有り難う、幸村さん…本当に、有り難う。何時も何時も、ごめんなさい」

 は身を改めると幸村の手を取った。
彼の掌に額を擦りつけて泣きながら感謝と謝罪を繰り返せば、幸村は安心したように柔らかく微笑んで、の頭を撫でた。

「いいえ、貴方を護れた。身に余る栄誉です。
 私は、貴方が生きていて下されば、それでいいのです」

「でも…でも、痛かったよね? 苦しかったよね? こんなに血が出て…」

「それは貴方も一緒だ。いいえ、胸に凶弾を受けたのですから私以上に苦しかったはずです。
 お体にお変わりはございませんか?? どこか、辛いところは…??」

「ない、大丈夫。びっくりしたけど、もう平気。痛くないよ。仮に傷口が残ってても、それくらいへっちゃらだよ」

 ぼろぼろと大粒の涙を零してが言えば、秀吉が横から口を挟んだ。

「ああ、その心配はないんさ。傷口一つ残っとらん。綺麗なもんじゃったわ」

「え?」

 何故知っているのかと、顔を上げれば、慶次の拳によって秀吉が壁際まで吹っ飛んでいた。

「秀吉様…?」

「な、なんでも…ない…んじゃ…」

「あ、はぁ…」

 未だ尽きぬ涙を流すの頬を、幸村の指先が拭う。

「もう泣くのはお止め下さい、様。私は、生きております故。心配は御無用です」

「幸村さん……本当に、本当に有り難う」

「はい」

 鼻をすすって、己の掌で溢れる涙を拭った。
それから姿勢を正せば、幸村が察したように体裁を整えて下座へと下がる。
は周囲を見回して、一番遠くに信玄の姿を認めると、一呼吸おいて口を開いた。

 

 

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