功名が辻

 

 

 武田軍を家臣としてから三週間が過ぎた日の朝の事だった。
白んだ空の元で、小鳥の囀る声と、大工衆が奏でる木槌の音が程良く響く。
師走に入っていながらにして、冷え込みはどちらかといえば緩い。お陰で復興作業も順調に進む。
まだまだ災害復興が完遂したわけではないが、一言で言ってしまえば"平穏"とはこういう日を言うのかもしれない。

「なんかいいよね〜。こういうゆったりした朝って…」

 がよそってくれた碗の中の粥をれんげですくい、は口元へと運ぶ。

「何時以来かなぁ…? もう随分と遠い気がする…」

 安らいだの横顔を見て、慶次が笑う。

「ここんところ色々あったからねぇ」

「本当、あり過ぎたよね」

「でも、でも、あのような事ばかり続いたりはしませんわ」

「そうだよね」

 気を使ってくれるは微笑んで答えた。
「はい」と頷かれて、は相槌をし、二口目の粥を口元へと運ぶ。
そこで、突如として静かな城内に剣呑な声が響いた。

「そこをどけ!!」

「お前ちょっとは落ち着けよ」

 近づいてくる足音と覚えのある声に、は口に入れていた木製のれんげと粥を同時に噴き出した。

「んっ!! ぐふっ!! ぬぐーっ!!」

 口を拭い、汚した膳をなんとか整えようとやきもきしていると、後方から慶次の的確な突っ込みが入った。

さん、火鉢に挟まれて、寝間着姿の時点で、手遅れなんじゃないのかい?」

 抱えた膳を退けようとしていたが硬直し涙で瞳を潤ませる。
「どうしよう? どうしたらいい?」と視線で訴えるに慶次が答えるよりも早く、を動揺させた声の主は部屋の敷居を跨いだ。

ッ!!」

「ヒィィィ!! ご、ごめんなさいっ!!」

 ついいつもの癖で頭を両手で抱え込んだ。
当然抱えていた膳が落ちて、畳を汚した。
が慌てて後片付けを始める。

「一体何の騒ぎじゃ〜?」

 音に驚いて顔を出した秀吉、信玄、幸村の前で、は頭を両手で覆い隠したままの姿で硬直していた。

「…あの…これは一体…?」

 幸村が目を白黒させているが、無理もない。
当事者であるでさえ天変地異に襲われましたという顔をしていた。

、聞いたぞ。無事なのかッ!! 顔色は……悪くないな?! そうだ、胸は?! 胸の傷はどうした?!」

 突如として部屋に入って来た美丈夫は、の事を一方的に力一杯抱きしめた。
かと思えば、次の瞬間には頬を撫でて顔色を確認し、そのまま肩を引っ掴んで互いの間に距離を置くと、思い切り着物の前を割った。

「お。絶景だな」

 横から覗き込んでいたもう一人の男が呟くと同時に、その男へと幸村が飛び蹴りをぶちかます。
それでの中の止まっていた時間がようやく動き出したようだった。

「……き…」

「き?」

 涼しい顔をして、露にさせた胸元をしっかりと見続けている美丈夫へ、の鉄拳が飛んだ。

「キャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

 絶叫して胸元を隠したは、そのままバタバタと部屋の中を駆けて、の席となる上座後方に控える慶次の腕の中へと飛び込んだ。

「な、なななっ、な、何すんのよーーーーー!! バカ、変態、色情狂ーーーッ!!
 慶次さん、あいつ殺して!! 今すぐ、半殺しにして川に流して!!」

 眦を濡らし、ぎゃんぎゃん喚き散らすの事を大きな掌で撫でながら慶次が宥める。

「まあまあ、落ち着きなよ、さん」

「だって、慶次さん!!! あ、あいつ!! 今、あいつーっ!!」

 言葉にならない恥辱だと真っ赤な顔で訴えるに慶次は「分かる、分かる」と相槌を打った。

「そうだな、酷いな。だよな。けど安心しな、そんな事くらいじゃ俺は幻滅しないからな」

 微妙にズレてる回答に耳を貸さずに、は慶次の厚い胸板へと顔を捩じ込んで泣き続けた。

「ヒドイッ!! こんなのってないっ!! もうお嫁にいけないッ!!」

「あー、安心なって、さん。そしたら俺がもらってやるから」

「そんな話は認めませんッ!!」

「おい、待てよ、慶次。どさくさに紛れて人の女に手出しすんな!!」

 幸村に殴られた男と幸村が取っ組み合っていたのに動きを止めた。
度重なる物音と悲鳴を聞きつけて、何事かと左近と家康が顔を出す。

「あれ。殿、もう帰って来ちゃったんですか?」

「おお、久しいな。孫市殿ではないか」

 左近と家康に声をかけられて二人の男が、ようやくそこで冷静さを取り戻した。

「む、いたのか、左近。それに秀吉様も…ご無沙汰しております」

 殴られたせいで頬を盛大に赤く腫らしながら三成が起き上がる。

「おう、三成……なんちゅーか、やるの〜」

「は、はぁ…」

 秀吉の前に立つと、無意識であっても安らぐようで、三成は表情を柔らかくして応答した。
そんな三成の耳にの声が入った。

「酷い〜っ!! こんなのなーいーっ!! 見られたーッ!!」

「あー、そうだな、驚いたよな…」

様、どうかお心を強くお持ち下さい!!! 魂まで汚されてはおりませぬ!!」

 の横へと何時の間にか座り、えげつない言葉尻でフォローを入れている幸村。
そんな幸村の言葉に励まされたのか、は慶次の胸の中から顔を上げる。

「本当? 私まだ、綺麗なまま?」

「ええ、勿論です」

「そうそう、俺の女神は何時でも綺麗なもんさ」

 ここぞとばかりにその輪に孫市が加わる。

『あ。殿の蟀谷に血管が』

 何があったのかが分かっていない左近は現状維持での傍観姿勢を取る。

「あんな事されたけど……私、大丈夫だと思う?」

「当然さ」

「そうですとも、した方が悪いのです!! 様には非はありませんッ!!」

「そうさなぁ。さんの細腕で剛腕の三成を振り払えるはずもないしねぇ」

 を取り巻く防衛網が繰り出す攻撃に腹が立ってきたのか、一人非難され続ける三成の全身から負のオーラが迸り始めた。

「……言わせておけば……」

「な、何よ〜ッ!!」

 涙目で三成を見上げたの前へと三成は進み、立ち塞がろうとする幸村と孫市を蹴り飛ばした。

「どけ!! 有象無象どもっ!!」

「やっ、ちょっと、痛いッ!! 放してよっ!!!」

「暴れるな、往生際が悪い!!」

 首根っこを掴んで慶次の腕の中から引き剥がしに掛る三成の口調は、今や何時ものそれだった。

「胸に凶弾を受けたというから心配して飛んで来てやれば、なんだその態度は!!」

「だって…!!」

「だってじゃないっ!! 何度も言っているだろう!! 食事は着替えてからにしろッ!!」

「いや、だから……食べたらまた休むつもりで…」

「嘘を言うな、嘘を!! どの道、食い終わったらすぐに仕事するつもりだったんだろうがッ!!」

「そうだけど…でもそれは、秀吉様達がさせてくれないから…」

「黙れッ!! お説教だ!! そこに座れ!! バカ女!!」

 慶次の腕に縋りついて逃れようとすると、それを許さぬ三成。
激しいやり取りだが、少し前までは日常茶飯事の如く、繰り返されていた事だ。
慣れている面々にとっては、今更驚くような事ではない。
それどろか懐かしい出来事を久々に見ましたという顔をしていた。

「俺のしたことを非難したい気持ちは分かる、その事については詫びる。
 だが考えてもみろ。元々寝間着だぞ? 脱がしやすいに決まっているだろう!! 
 ああいう形で剥かれたくなければ、常日頃からちゃんとした装いをしてればいいんだ!! それを横着するから…」

「なんです、殿。姫の着物剥いじゃったんですか?!」

 左近が目を丸くして突っ込めば、三成は頬を微かに赤らめて反論した。

「し、仕方ないだろう!! 凶弾に倒れて瀕死だと聞いたんだ!! 居ても立ってもいられなくって…」

 そこで三成は捕まえていたをじっと見下ろした。

「え…何…? なんなの、まだ何か…あ…」

 問いかけが終わる前に、三成は感極まった様にの事を強く強く掻き抱いた。

「…良かった……生きていて……本当に…」

「三成…?! ちょ、どうしたの…? 本当に…」

 周囲の視線もあって、は混乱する。
そこへ懐かしい声が新たに三つ重なった。

「愛だな、三成」

「全く、騒がしいことこの上ない」

「ご無沙汰しております、我が君」

 離れ離れになってからまだそんなに経っていないはずなのに、随分時間が経ってしまったように感じる。
現代ではその気になれば、簡単に人と会える。例え会えずとも声くらいは何時でも聞ける。
けれどこの世界ではそれがままならない。
出す書面のやり取りでさえ、人馬を駆使してもかなりの時間を要するのだ。
まして、時節の巡りが悪ければ、一度の別れが今生の別れになるとも限らない。
となればが懐かしいと感じるのも無理がないのかもしれない。

「兼続さん、政宗さん…それに、長政さんもっ!!」

「お久しゅうございます」

 家臣としての礼を尽くそうと、長政はその場に腰を下ろす。
それに習うように政宗が腰を落とせば、兼続もまた膝を折った。

「ご健勝、祝着至極に存ずる!!」

「え? 何? 政宗さん、何時もの調子で…」

「そうであったな、"元気そうで何より"と、そう言ったのじゃ」

「うん、そっか。皆、もしかしてお見舞いに来てくれたの?! ありがとう!!」

 嬉しそうに微笑むの顔が影に入った。三成の行動を見兼ねた慶次が立ち上がったのだ。
慶次はと三成の間に手を入れると、豪腕にものを言わせて二人の間を引き裂いた。
 三成が苛立たし気に慶次を睨めば、慶次もまた冷ややかな眼差しで答えた。

「そうですね。殿には悪いが、そういう事は特別な間柄になってからにしてもらわないと…」

「左近」

 左近が進み出てきての肩に自分の羽織を重ね合わせた。
にとっては装いや体調への配慮としか受け取れないが、恋敵からすれば暗に自分の恋人だと意思表示しているようなものだった。
 室の中に俄かに張りつめた空気が流れる。

「おやおや、こりゃまた大変じゃのぅ」

 軽い声で入る横槍に、兼続、政宗、三成、孫市、長政が反応した。

「な…」

「信玄だど?!」

「どうしてここにっ!!」

「へぇ、あの話はマジか」

「……我が君、これは一体…?」

「あ、うん。ちゃんと紹介しなくちゃね」

 長政の問いに、が表情を改める。

「少し話が長くなるだろうから、場所を変えようか。落ち着いてした方がいいでしょ?」

 の提案を受けて、将がぞろぞろと部屋を出る。
室の中に残ったのは後片付け中のと護衛役の慶次だけだ。

ちゃん、ごめんね、やってもらって」

「いいえ、構いませんわ。それよりも様」

「ん? 何?」

「室を移られるのでしたら、お召し物を変えられませんと…」

「あ。そうだね。ええと、どれ着ようかな」

「そうですわね、橙になさいませ」

「うん、そうする。慶次さん、ちょっと待ってて下さいね」

「ああ。でもなさん、何かあったらすぐに呼ぶんだぜ?」

「はーい」

 後片付けをに任せ、慶次に一声かけては隣室へと移る。
そこで手早く着替えを済ませると、慶次と共に階下の評議室へと足を伸ばした。

 

 

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