二つの海 |
貧血という事にしてを室へと戻してから数時間が経っていた。 「ちょいといいかね、皆の集」 同日の昼過ぎ。 「信玄公…なんですか、こんな時に…面倒事なら勘弁してほしいんですがね」 珍しく刺のある左近の言葉に幸村が目を見張った。 「左近殿、どうされたのですか?!」
「どうした、だと? 幸村さん、あんたよくそんなに呑気に構えてられますね。 「そ、それは…」 「止めんか、二人とも。揉めてもしゃあないじゃろ。左近も、幸村にまで当たるでない」 額に濡れ手拭いを押しつけながら秀吉が間に入った。
「幸村、許してやってくれ。左近は自分が許せんのじゃ。本来なら自分が気づいて止めるべきじゃった。 「…大殿…」 秀吉のフォローを受けて、左近が視線を伏せる。 「幸村、気にする事ないよ。わしじゃって、ちゃんと分かっとるからね」 「…すいません、信玄公…」
信玄の声色から、自分の心の動きなどとっくに読み切られていると悟ったのだろう。 「よいよい。それよりもな、殿の事じゃ」 「そういや、さっき言いかけてましたね。どうかしましたか?」 「うん? ンー、多分、こういう事じゃと思うんじゃがの…」 「こういう事?」 信玄が軍配で己の額をコツコツとつつきながら、口を開いた。 「おことらの認識では殿の発作は、突然来る。はたまた突然現れる何かに触れるからなる。相違ないかの?」 「はい、その通りです」 正座する幸村が肯定すれば、信玄は首を大きく横へと振った。 「いかんのぅ、そこが思い込みじゃ」 「とういうと…?」 秀吉が信玄の横に座り、左近、幸村が身を乗り出す。 「物事には必ず理由があるもんじゃよ? おことらこう考えた事はないかね。 「今生ねぇ…また随分と大きな尺度ですな」 混ぜ返した左近に対し、信玄は珍しく真剣な眼差しを向けた。 「わしからしたら、殿の存在自体が大き過ぎて驚きじゃよ」 それもそうかと、皆が言葉を呑む。 「いいかね、謙信はこう言った。"人ならざる者が南に降りた。その者が天下を極楽にも地獄にもする"と」 「ま、待って下さい、お舘様!! 様が天下を地獄になどと!!」 「ああ、そうじゃ。殿は、地獄門を開く鍵ではないよ」 信玄は、落ち着けと、軍配で幸村の肩を軽く叩いた。 「地獄門を開く者は別にいる、その者が殿を脅かしとるだけじゃ」 「心当たりが、あるんですか?」 信玄は無言で頷いた。 「誰じゃ?! 一体誰が…!!」 秀吉が手拭いを畳に叩き付けんばかりの勢いで身を乗り出す。 「北の大国の主・明智光秀」 信玄の言葉を受けて、幸村が顔を険しくすれば、信玄は続けて言った。 「たぶん、奴じゃろうな」 「信玄公、何を御存じなのですか? 脈略がなさ過ぎでしょう、もっと詳しく聴かせて下さい」 「そのつもりじゃよ」
信玄が軍配をふれば、室の外にいた山本勘助が何冊かの帳簿を持って入って来た。 「幸村に聞いた話を元に、調べたんじゃ」 「これは…?」 「の書庫に眠っておったこれまでの記録じゃ。不思議な事もあるよのぅ。これを見ると良〜く分かりおる。 「なんっちゅうこっちゃ、本当じゃ…様の倒れる時期とぴったりあっとるわ…」 「やっぱりのぅ。おことら、近くばかり見ているから、肝心な事に気が付いていなかったんじゃないかね?」 信玄の言葉に皆返す言葉がなく、恥じ入るように視線を伏せた。 「北に大国が版図を広げつつあるのは周知の事実。 幸村が問えば、信玄は面倒そうに溜息を吐いた。 「そこじゃ。面倒な話なんじゃが、北国の主にはその自覚はあるまいよ。謙信もそう言っとったしのぅ」 「謙信公が?!」 こくりと頷き、信玄は話し続けた。 「謙信の易には二つの相が出たんじゃよ。殿ともう一人、天下を呑む者の姿が…。 「鮮明に…?」 「うむ。朧気に見えていた相が、もっと生々しく見えるようになったんじゃよ」 「そこで、姫は何を?」
「何もしとらん。ただ、あの娘の背に禍々しい影が貼りついておったそうじゃ。 「信玄公……だから、なんですね?」 左近がようやく分かったと頭を振った。 「だから、信玄公はに来た。という事は…謙信公は、北へ行きましたね?」 「左近は鋭いね。その通りじゃよ。
左近と信玄との間で交わされる会話に気を揉んでいるのか、幸村が表情に焦りと困惑を浮かべていた。 「なるほどね、突然の帰順の理由…ようやく納得しましたよ」 「やはり左近はずっとわしを疑っとったか。そうじゃないかとは思っとったがの」 「左近は姫の軍師ですからね」 「よいよい、それも承知の上じゃ。幸村、おこともそう気を揉むでない。 信玄の言葉に左近、幸村は安堵の色を顔に浮かべるが、秀吉一人が首を傾げ続けた。 「のぅ、ちぃとばかしええか?」 「どうしました? 大殿」 「いや…信玄公の話も、謙信公の話も、普通にいいと思うんじゃ。 「一番の問題、ですか?」 「うむ」と秀吉は大きく頷いた。 「じゃってそうじゃろ、北をのさばらせれば、様は苦しむ。 「言われてみれば…」 その辺はどうなのかと、全員が信玄を見やった。 「まるで"二つの海"だな」 「万葉集ですか」 「上手い事言ってる暇はありゃせんよ。様は今こうしている時も苦しみ、傷ついておられる。 「…うーん…」 全員で共に頭を抱える。 「やはり…信長様に頼るしかないんじゃろうか…」 「信長? あのうつけがどうしたというのかね?」 秀吉の独白に信玄が反応する。 「なるほどのぅ。それでうつけ殿に賭けようという腹か。で、見当はついてるのかね?」 「ついてりゃ、こんなに困っとりゃせんよ。半蔵に探させとるが、空振り続きじゃ」 「どの道、八方塞がりって事ですか…」 「しかし、良かったこともあります」 室に蔓延する重苦しい空気を払拭するように、幸村は言う。
「原理が分かった以上、予測が出来るようになります。これからは、北の動きに配慮しつつ、領地を増やすのです。 「準備ったってなぁ…"心の準備"が関の山か……参るな、本当に…」
「ええ、ですが、気の持ちようです。何の心構えも出来ずに襲われ続けるよりはずっと良いはずです。 「そうじゃな、幸村の言うとおりかもしれん。それじゃ、わし、ちょっと様子見てくるわ」 善は急げだとばかりに秀吉が立ち上がった。 「信玄公、おみゃーさんが来てくれて助かったわ。これからも宜しく頼むわ」 室を後にする前に秀吉が言えば、信玄は頷いた。 「わしも人の事、言えてる義理じゃないかもしれんの〜」
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