二つの海

 

 

 相変わらず世界は崩壊の危機に瀕していた。
荒れた大地、穢れた海、鼓動する火山、辛うじて空に光が射し、微風が吹いている。

『…私のしていることは……ちゃんと…足りているんだろうか……やっぱり、間違った選択だったんじゃ…』

 天高く化ら見降ろす世界の痛ましい姿に胸が痛んだ。

『そうだ、あの子は? 』

 ついこの間、邂逅したばかりの幼き姫の姿を求めて、視線を彷徨わせた。
だが彼女の姿は一向に認める事が出来ず、不安で胸がいっぱいになる。

『ここは…あの子と繋がる世界じゃない??』

 漠然と考えて、すぐにその可能性は低いと首を横へと振った。

『…うんん、そんなはずない……ここは、あの子のいた場所へも通じてるはず……だって…あの子は……』

 は苦しさ、寂しさ、悲しさを一人で抱き締め、唇を噛んだ。

『届いたかい?』

 そんなの耳に、不意に聞きなれぬ声が届いた。
顔を上げて声の主を探せば、淡い光が舞い降りてくる。

『あれで、良かったかい?』

『…あ、貴方が…貴方が、針とか、ツールとか、作物の苗を送ってくれた人?』

 問いかければ、光の中に現れた若い男は頷いた。
見るからに物静かで、デスクワーク専門という雰囲気の青年だ。

『それにしても、君には驚かされるね…あんな事を考え付くなんて…双子が驚いていたよ』

『双子?』

『会ってないかい? 君の暗殺を防いだはずだが…』

『あ、彼らですね。やっぱり、彼らが貴方を探し出した?』

 青年は静かに頷いた。
彼は囁くように話す。

『ねぇ、救世主』

『あ、は、はい』

『私達の世界の為にも、力を貸す事に異存はない。けれど無理をし過ぎたりはしていない?
 これまでにも色々送ろうとしたけれど、時空の扉はなかな開かなかった。
 苗もツールも、奇跡的に届けられただけだ。

 これを送る事で君を救えていれば、本当にいいと思う。けれど、こういう事をするという事は…』

『分かっています、少なからず影響して、最悪の場合、時空に歪みを作り兼ねない…違いますか?』

『…ああ、そうだよ。だから心配なんだ…。その歪みが君に何かしらの影響を与えるのではないかと……。
 特に君がいる時代は、世相的にもとても危険な世界なんだろう?』

『大丈夫です、これくらいの痛み……この世界の有様に比べたら……』

 自然との表情が陰れば、青年は伺うように目を凝らした。
はその様子から、自分の発作の事は彼らの知る所ではないと判じたのだろう。
余計な心配をかけまいと首を横へと振った。

『いいえ、なんでもありません』

『そう…それにしても、君は敏いね。確かに君なら間違えたりする事もなく、時空に抗いきる事も可能なのだろう…』

 しみじみと語る青年に対して、は先日からずっと気になっている事を問いかけた。

『あの、一つ伺いたい事があるんですが…』

『なんだい?』

『貴方方は、女の子の事、何か知りませんか?』

『女の子? どんな??』

『貴方方の同士ではない…と、思います。白銀の頭髪を持つ、まだ幼い子です。とても苦しんでいて…』

 懸命に伝えようとするが、青年は首を傾げるばかりでが望んだような回答を得る事は出来なかった。

『…やっぱり、ご存じないのですね…』

『いや、調べよう。こうしてまた会えるかどうかは分からないけれど、なるべく期待に添うようにするよ』

『有り難うございます』

 ぺこりと頭を下げれば、青年はほんの少しだけ驚いたような顔をした。

『え…あの、何か、変ですか?』

『いいや、不思議な人だと思って……巻き込んだのは、こちらなのに…』

『いいえ、それは違います。私が望んだんです、生きる事を』

『そうか』

『はい』

 自然と互いに沈黙した。
言葉を交わさずとも、良く分かった事がある。
それは互いに眼下に広がる世界を思い、胸を痛めているということ。
時空が違っても、思いは同じという強みが、時として折れそうになる心に立ち上がる勇気を、光をくれる気がする。

『ああ…そろそろ時間だね… 』

 青年が、名残惜しそうに溜息を洩らした。
彼の言葉通りタイムリミットが近いのか、彼を包む光がぼやけて行き、聞こえる声も遠くなる。

『…そうだ…君に一つ、いい事を教えよう』

『はい』

『双子の真の力は別にある。だから彼らのいる時空を早く固定させることだ。
 それだけで君の生存率がぐっと上がるようになるよ。
 戦国時代にいるのならば、これ程心強い事ってないだろう?』

『別の力……あの、時空を固定させる方法って…?』

『あれ? 誰からも聞いてない?? そうか、皆それを伝えられる程、余裕がないんだね。
 簡単な事だよ、君が治める地を増やせばいいのさ。でも、くれぐれも無理をしないようにね、救世主』

 優しい声を残して、光はたちどころに消えた。

『はい…ありがとう』

 

 

 使者が去って、荒廃した未来に一人取り残された。
何時もなら聞こえる家康の声がまだ聞こえない。
掌に温もりを感じているから、彼はきっと自分の体を前に気を揉んでいることだろう。
それでも、家康の声は聞こえて来ない。

『……段々、遠くなっていってる気がする……』

 足元に広がる荒廃した世界を見て、薄々勘付いている事を噛み締める。

『…この発作に……耐えられなくなる日が、きっと来る……そんな気がする…。
 …その前に、どうにかなるといいんだけど……どうにかなるかな、無理かな………』

 先の見えない契約に意識を向けると、どうしても心が弱くなる。
それではいけないと、そんな事をしても何一ついい事はないと分かっている。
分かってはいるが、なかなかそこから逃れる事が出来ない。

『あの世界にいられる間はまだいい。でも、ここに来てしまうと……怖くなる、逃げたくなる。
 ……でも、逃げる事なんて出来ない………この結末を知ってしまった以上、逃げていいはずがない。
 ……私は、どうしたらいい?』

 心細さと背負わされた重責があまりにも重くて、零れ落ちそうになる涙。それを天を仰ぐことで堪えた。

"辛い事、苦しい事と向き合うなら、自分の支えになり護ってくれる男の一人や二人、先んじて用意しておくもんだ"

 孫市に言われた言葉が、妙に引っかかる。

『本当に、そうなんだろうか。誰かにこのことを話せたら、苦しみは軽くなるというの? 本当に??
 一体誰がこのことを信じてくれる? こんな遠い遠い未来の結末を…誰が信じられるというの…?
 気のふれた人間扱いされるのがオチ……私は、そっちの方がずっと辛い…』

 胸を裂くような痛みを覚えて、身を折った。
ゆっくりと大地に降り立って、瞼を閉じた。
荒れた大地を照らし出す木漏れ日を糧に、

『まだ方法はあるはず、何か自分にも出来る事はあるはず 』

 と、言い聞かせた。
そうしなくては、崩れ落ちそうになる自分を支え続ける事など出来なかった。

『………? え? 何?!』

 一体どれ程の時間、そうしていたのだろうか。
は孤独と寂しさを噛み締めて、耐えて時を待っていただけのはず。
この世界へは精神が飛んだだけで、出来る事はない。
それだけに、流されるように時を待っていただけなのに、背に、言い表しようのない寒気が忍び寄って来た気がした。

『なに…? なん…なの??』

 吹く微風の中に強烈な憎悪を感じ、恐れを感じた。
この場にいてはならないと思いながら、同時に逃げ場もなければ逃げ方も知らない事を思い出す。

『…一体、何が起きようとしているの…?』

 何時かのように、精神を苛むような、世界の崩壊の瞬間を疑似体験するとでもいうのだろうか?
出来ればそれは避けたいと、一歩後ずさる。
そこで、何かに足を取られて、は転んだ。

『きゃぁ!』

 咄嗟に瞼を閉じて、尻餅をついた。
すぐさま瞼を開けて、立ち上がろうとするものの、そこに広がった異様な光景に困惑した。
 の足を取ったのは、あの幼い姫君から溢れていた、どす黒い液体―――――この星の血液、そのものだった。

『どうして、なんで…これがここに??』

 出所を知り、原因も知っているはず。
なのに今日は、何故かこの液体に言いようのない気味の悪さを覚えた。

『……やだ……やだ……こないで……』

 まるで、目に見えない何かに囚われ、脅かされてゆくような恐怖を覚える。
は己の足に、手首に絡むように流れ広がって行く黒い液体から逃れようと、身を起こそうとした。
瞬間、どす黒い液体が、一つの意思を持った獣のように蠢いた。
黒い液体が水柱のようにうねって、の首を、腕を、足を捉えて、黒い液体の上へと引き倒す。

『…やぁ…!! 誰か、誰か……助けてっ!!』

 足首が黒い液体の中に沈み、肘が、腕が、脹脛が液体で浸食されてゆく。
喉を絞められる苦しさから声を上げるに上げられず、首を振って抵抗を示すことしか出来なかった。

『いやぁぁぁぁぁぁ!!!』

 さざ波のように沸き立った黒い液体に襲われて、液体が作り出した渦の中へとなす術もなく引き込まれた。
恐怖に勝てず、瞼を閉じれば、耳を劈くほどの叫びが襲いかかってくる。
その叫びは、時にに助けを求め、時にを憎み罵倒した。

「助けてくれ…嫌だ、消えたくない…嫌だ」

「どうしてだ、どうして俺達を消そうとするんだ!! お前にそんな権限はない…!!」

「死にたくないっ! 助けて!!」

「お前がいるから、お前さえいなければっ!!!」

『止めて、止めて…!! いや、なんで、どうしてっ!!』

 わけも分からず一方的に責められて、気がどうにかなりそうになる。
話し合いをしようにも、自分を責める者たちにはその意思はなく、取りつく島もない。

『助けて、お願い、誰かっ!! 私をここから、逃がしてっ!!』

 声に出来ず、心で何度も唱えた願いを嘲笑うように、響く声はの心を打ちのめし続けた。

 

 

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