二つの海

 

 

「死ね…死んでしまえ!!」

「そうだ、お前さえいなければ、綺麗に収まるのに!!」

「消えろ!!! 消えちまえ!!」

 静寂、暗闇、強烈な敵意。

『なんで……どうして……どうしてそんな事言うの…?
 私は、ただ、生きたいだけ……ここを平和にしたいだけ…なのに…なんで…?』

「黙れ!! 偽善者め!!」

「お前の行いの裏で、泣く者がいないとでもいうのか!!」

「消えろ!!」

「死ね!!」

『なんで…どう…し…て………?
 そんな事……言わないで……私だって、好きで…ここにいるわけじゃないのに……』

 押し寄せる沢山の悪しき感情に翻弄されて、意識を繋ぐことが敵わなくなる。
心に鎌首をもたげていた弱音が溢れ出て来る。

「そうだ、眠ればいい」

「…そのまま、身を任せて……」

「無に落ちろ……そうすれば楽になる…」

「このまま、全てを手放し、諦めて眠りに…」

 酷く冷たい世界に取り込まれているのに、流されてしまえばその冷たささえ心地が良い。
それは、あまりにも甘美で、虚しい錯覚。

『もう…だめなの? どうにも…出来ないの?? …もう…諦めるしか…ない…の?』

 抗わねばならないと思うのに、思うように意識は保てず、体の自由も利かない。
今のに出来る事は、悔し涙を流しながら、震える指先を動かして足掻くことだけだ。
けれど、必死で足掻けば足掻くほど、あの液体はの体を強く絡めとり、締め付ける。

『…う…うぅ…くっ……ここには、誰もいない……助けなんか…こない…』

 押し寄せる憎悪に、雑言に、身を締め上げ打ちのめす痛みに耐えかねて、心が折れそうになる。
抵抗を忘れて、彼らの望みを聞き入れれば、この痛みからは解放されるのかもしれない。
否、抱えた全ての重責からだって解放されるに違いない。

『逃げたい……全てを忘れて……何もかも……』

 力が抜けて行く。心が悪しき感情に呑まれてゆく。
一方で、心の奥底では、まだ一粒の希望の光が諦めてはならないと、叫んだ。
その光の中に見えるのは、沢山の思い出。
自分を信じ、支え、自分の為に骨身を削ってくれた、雄将達の姿が見える。

『…会いたい…皆のところに…帰りたい… 』

 頭に響く声は諦めだけを促し、の存在そのものを否定する。
けれども、心に残る思い出は、彼女を必要だと、何時如何なる時も主張し続ける。
相反する沢山の思いの狭間で、は己を望む声を求め、そこへ帰ることだけを願った。

『…逃げ出せない……あの人達の…世界だもの……。
 私の為に、色々してくれた……皆の住む、未来なんだもの……私にしか出来ないことだもの……。
 私は、ここから、逃げる事なんて……出来ないんだ!!』

 その光を頼りに、折れかけた心を叱咤激励すれば、再び襲い来る憎悪が牙を剥いた。

『ひっ!! うぁぁぁぁぁっ!!』

 恐れて悲鳴を上げれば、

「去ねぇい!!!!」

 瞬間、聞き慣れぬ声が耳に届いた。
何者かに腕を引かれて、見覚えのある崩壊した未来へと連れ戻される。

『……誰…? 誰なの…?』

 限界を超えた精神では、視界を標準に保つことなど出来なかった。
薄れゆく視界、意識の向こうに感じたのは、何時だったか感じた強烈な覇気。

"…戻れ、まだここはうぬには早かろう……"

 向けられた阿鼻叫喚で聴覚機能が麻痺しているのか、男の声を直に聞くことは出来なかった。
ただ、辛うじて、男の唇が動く瞬間だけは見る事が出来た。

『誰…? 貴方は…一体……誰なの??』

 が懸命に目を凝らせば、横たわる大地は、荒廃した未来のそれ。
そこにふわりふわりと黒い羽根が舞い落ちる。

『……羽根? どうして……こんな…ところに…?』

 疑問を抱いたまま、の意識はそこで途絶えた。
意識の消失とともに、の姿もまた時空を彷徨うように薄れて行く。
 折角の機会だ、逃がしはしないと、黒い液体がを捉えようと蠢く。
360度、隙間なく円を描き取り囲む、黒い液体。
それが液体が食指を伸ばすよりも早く、再び強い波動が黒い液体を打ちのめした。

「失せよ、時に弄ばれし亡者共よ…」

 横たわり、消えつつあるの姿の後方には何者かの影。

「…うぬらの死も……また必定よ」

 影が淡々と話し、手を振り上げれば、彼から生じた漆黒の気が液体を切り裂いた。
消えたの姿を確認した影は、緩慢な動きで踵を返す。
 その影が立ち去った後には、遠き未来の崩壊の痕跡以外何一つ、残りはしなかった。

 

 

様っ!! 様!! どうか、どうか目をお覚まし下さいっ!! 様っ!!」

 擦れるまで自分を呼び続ける家康の声に導かれて、は意識を取り戻した。

「…あ…っ!! んっ…うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 目覚めた瞬間に目にした家康の安堵した顔、耳にした彼の優しい声。
それには安堵して、思わず絶叫した。
渾身の力を込めて寄り添う家康を引きよせて、彼の腕の中に齧り付く。

「いやっ!! やだぁ!! 知らないっ!! 私、わた……あ、いやだ…助けて……助けてっ!! 私っ!!」

様、様!! 様っ!!」

 両手でしっかりと抱きとめて、家康は叫ぶ。

「お気を確かに!! 分かりますか、家康はここにおりますぞ!! 様!!」

「あ、あっ…あっ……影が……液体が……首に…」

 家康はを何とか落ち着かせようと、大きな掌で背を撫でて、真剣な声色で語りかけ、相槌を打った。
が紡ぐ支離滅裂な言葉を、家康は懸命に拾い上げようとする。
そんな彼の、真摯な姿を見る事で、はようやく安堵し、落ち着きを取り戻し始めた。

「どうされたのですか、何が恐ろしかったのですか。家康にお聞かせ下さい、様」

 喉を鳴らし、何度となく息を呑んで、乾いた唇で言葉を探した。
けれども何をどう説明したらいいのかが、分からなかった。
今言える事、肌身をもって感じた事は、ただ一つだ。

「……殺され…かけた……」

「なんと!! それは誠ですか、様!!!」

 目を剥いて息を呑んだ家康の前で、は唇を強く噛んでいう。

「…こんな事、初めて………誰か…分からないけど……助けてくれた……その人がいなかったら…私……」

「…そうでしたか、それは…恐ろしかったでしょうな。よく耐えられました、ほんに、よく…」

 強く手を握り、相槌を打つ家康の声は、震えている。
護れぬ歯痒さと、ただ手を拱いて苦しむを眺め続けねばならない辛さに耐え切れず、悔し泣きしているようだった。彼の声は震えていた。

「…様、生きて帰られてほんにようございました。ほんに……」

「家康様……家康様は…私の事、必要って言ってくれるんだね…」

「何を言われますか!! 当たり前でしょう!!
 全世界の誰が、様を疎んじようとも、家康の心は変わりませぬぞ!!

 貴方は、必要な人です。貴方が必要であればこそ、天意は貴方に恩恵を与えるのですぞ!!」

「本当? 私は、このままで…いいの?」

「当然です、貴方は貴方なればこそ、皆が貴方につき従い、貴方を支えようとするのですよ!!」

 家康の言葉を聞いて、は安心したとようやく全身に込めていた緊張を解く。
家康はを床の上へと横たえながら、温かい眼差しを注ぎ続けた。

「どうかお忘れなきよう。御身は尊い、皆、貴方を慕っております、貴方が必要なのです。
 貴方が選ぶことは間違ってなどおりませぬ、どうか自信をお持ち下さい」

「…有り難う……」

 がゆっくりと瞼を閉じれば、家康は無言で頷きながら繋いだ掌にほんの少し力を込めた。

「ゆるりとお休み下され。家康は、ずっとずっとお傍に居りますよ」

 

 

「家康殿…今、ええかの?」

「おお、秀吉殿」

 が眠りに落ちてからしばらくすると、秀吉が顔を覗かせた。

「何か、あったのかの? 殿が泣いとったが…」

 問われた家康は、の事を見下ろすると、小声であった事を語った。

「なんと!! そんな事が!!」

 仰天する秀吉が、困ったように眉を寄せる。

「…ついに自覚されてしまったか…」

「そのようです」

「こりゃいよいよもって早く、信長様を見つけ出し、頼らんとならんな」

 相槌を打った家康が、改めて問うた。

「時に、どうされたのですか?」

「あ、そうじゃった。実はな、信玄公が様の発作について発見したんじゃよ」

「なんと!」

「信玄公の発見で、様のご心痛を少しでも軽く出来るとええんじゃがの」

「そうですな……ですが秀吉殿、どうかその前に…貴殿からも様に"必要だ"とお伝え下され。
 御心がとても弱ってござる」

 家康の言葉を受けて秀吉は何度も頭を振った。

「そうじゃな、こんな世界じゃ。様のようなお立場で、存在を否定される事がどれ程、不安でお寂しいことか…」

 秀吉は疲れ果てたの寝顔を見ながら、苦しげに視線を伏せた。

「このお方には、常に微笑んでおってほしいものじゃ」

「同感です。儂らの言葉で、御心が晴れれば良いのだが…」

 家康の気落ちした声色に、これはなかなか手強そうだと考えた秀吉は、しばし考え込むように腕を組んだ。
数分ああでもない、こうでもないと考えた秀吉は、閃いたように掌を打ち鳴らした。

「そうじゃ、家康殿。こういう時はあいつに任せよう、きっと適任じゃ!」

「適任者…ですか?」

「うむ、真田幸村。実直、律儀、でもって堅物の代名詞じゃ。そういう男ほど、こういう時は強い!!
 信玄公の話は、様が落ち着いてからしてもええじゃろ、まずは様のご心痛を消す事が先なんさ」

「尤もですな、彼に、賭けてみますか」

 

 

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