二つの海

 

 

 疲労による深い眠りを経て目覚めたは、三の丸の中に造られた茶室にいた。
中庭を眺められる縁側に腰を下ろし、特に変わり映えのない中庭を眺めている。
 質素な小袖に身を包み、羽織を一枚羽織った姿のの傍には、護衛を務める幸村の姿と、の友人兼傍仕えの服部の姿がある。

様、お茶が入りましたわ」

「うん…有り難う…」

 空は快晴。
小鳥達の囀りも可愛らしいもので、あんなに大きく聞こえていた木槌の音も、徐々に遠くなっていった。
それは、城の修復が済み、城下の再興も恙無く済んでいるということで、喜ばしい事のはず。
 けれどもの表情は薄暗い。

「……様…」

「あ、うん…ごめん…考え事してた…」

 一向に食の進まぬの身を案じるの前で、は無理に微笑もうとする。
はそんなを見ているのが辛かったのか、はたまた気を利かせようと考えたのか、ゆっくりと立ち上がった。

ちゃん?」

「そろそろ板場を見て参りませんとなりませんから…」

「そっか」

「はい、すぐに戻りますわ」

 幸村に対して一礼して、は茶室を出る。
風光明媚に誂えられた茶室を顧みながら、は密かに願う。
室に残る幸村がの胸に刺さった刺をどうにか抜き去ってくれればいいと。

 

 

 そよ風に艶やかな黒髪を遊ばせて、は空を見上げ続けた。
がたててくれた茶は手つかずのままで、すっかり冷めてしまった。
 の脳裏にあるのは、あの世界で向けられた憎悪と鋭利な刃のような言葉の暴力。
それらの前では、痛んだ胸もそう簡単には癒されるものではない。
の不調、傷心が分かるから、居た堪れないと、幸村もまた肩を落とした。

 

涙は光る勇気の滴に替えて一歩づつ〜♪

 

 どれくらい経ったのだろうか。
青空に赤みが差してきた頃、沈黙だけが続く茶室に、小さな歌声が響いた。

 

いらない物を捨てたらこんなにも♪ 心の中が無限に広がったよ♪
 傷ついた時にしか見えなものが♪ 今なら瞳に映り始める♪
 じゃすと・とらい・あげん♪ 強くなるちゃんすさ♪

 

 うろ覚えなのか、たどたどしく綴られる歌詞、音曲に、耳馴染みがある。
何時だろう? どの曲だろう? そもそもこれは誰が歌っているのだろう?
ここは戦国、この曲を知る者はいないのはずなのに…と漠然と考えて、やっと気がついた。

 

一人静けさの中で目を閉じる♪ そんな時間が自分を育てて行く♪
 大人へと変わって行くその時人は♪ 自信を無くして迷ってしまう♪
 ばっと・いず・おーるらいと♪ きっとうまく行くさ♪

 

「…幸…村さん?」

 音曲を奏でていたのは、ずっと無言のまま背後に座していた幸村だ。

「やはり、私では様の紡ぐ歌は、上手く歌えませんね」

 視線を合わせた幸村は、気恥かしそうに下を向いて言った。

「…え?」

「…何時だったか、風呂で奏でられた音曲……耳について離れぬのです。
 異国の言葉が混じりますから、意味が完全には分からないのですが……その歌詞に、私は多くの勇気を貰いました」

 口下手な彼なりの必死の慰めだと知り、胸が熱くなった。
思わず冷え切っていた茶器を取り落として、幸村の腕の中へと身を投じた。
縁側を転がり、大地へと落ちた茶器が割れて、零れた抹茶が大地に染みを作る。
それに幸村は慌てかけたが、己の腕の中に顔を埋めたの涙に気がつくと、茶器からへと意識を移した。
 声を上げず、ひゅうひゅうと息を吸い込みながら泣くの背を、幸村はぎこちない仕草で抱く。

様…元気を出して下さい。大丈夫、きっときっと、上手く行きます」

 幸村の言葉に励まされる一方で、心に刺さった棘の痛手は深い。
この程度の言葉では、到底立ち上がる事は敵わない。

「幸村さんはさ、自分の"存在"について考えた事はある?」

「"存在"…ですか?」

「そう、自分が"存在"するから、代わりに誰かが不幸になる。とか、そういう事」

 漠然とし過ぎている話では、理解を求めるのは難しい。
無理もない事なのかもしれないけれど、出来うる事ならば…と、は諦めの境地で問いかける。
けれども幸村は、言葉の上辺ではなく、本質を掴んだようで、理路整然と答えた。

「それは禅問答のようなものではないでしょうか?」

「禅問答?」

「はい。"甲"が存在するから、"乙"が不幸になる。これは残念な事に世の常です。
 ですが、忘れてはならない事があります。"甲"が存在し"乙"が不幸を主張するならば、
 その"乙"も何者かを不幸にしている可能性があり、その可能性を否定する事は出来ません。
 人は必ず何かを犠牲にして生きているものですよ」

 すっぱりと切り伏せられては息を呑む。

「理解出来ませぬか??」

 が視線を動かし肯定すれば、幸村はの頬を伝う涙を指先で拭った。

「簡単な事です。人は、米を食べます。時として鳥も…必ず何かを犠牲しています」

「食物連鎖?」

「…様の世界ではそう表現するのですね」

 こくりと頷くに幸村は諭すように語りかけ続けた。

「ではその食物連鎖だと思って下さい。
 その因果の中から何かを取り除いても皆が幸せになるわけではありませぬ。
 まして取り除いてしまえば上手く保てていた均衡自体が、失われてしまう事になるかもしれない…」

「…それは、そうかもしれないけど…。
 …例えばね、その因果の中に、全然違う要素が入って来て、引っ掻き回しちゃったら?

 元からそこにあった因果は迷惑じゃない?」

 言いたい事は分かるが、そういう事でもないと、は懸命に言葉を探し問いかける。
の言葉を受けた幸村は、ほんの一時考え込んだ。
彼は自分の考えを自己検証しているようだった。
 ほんの少し沈黙して、考えて、納得したのだろう。強く頭を振った。

「どうでしょうか」

「え?」

「入って来た違う要素にもよります。それにその要素は、どうして現れたのでしょう?
 偶然の巡り合わせででしょうか? それとも…予てより決まっていてそこに入って来たのでしょうか??」

「うん、巡り合わせ…だね、きっと。
 要素は別にそこに加わることを望んだわけじゃない。もっと単純な事を願っただけ」

「では、交換こだったのですね」

「交換?」

「はい、要素の願いを叶える代わりに、その要素を仲間にしたい何か……"丙"とで申しましょうか。
 これが……この場合はきっと因果の中に伏されていると思われますが……その要素"甲"を招き入れたのでしょう」

「つまり??」

 こんがらがりそうな内容に、幸村はぎこちなく微笑んだ。
彼は内容を分かりやすくするように言葉を選んで、話した。

「"甲"の"存在"は不可抗力であり、"甲"に落ち度はありません。むしろ巻き込まれているだけですね。
 ですから"甲"を非難する"乙"の主張は我が侭、見当違いという事になる気がします。
 本来なら"乙"の主張の矛先は"丙"に向かねばならぬものであって、"甲"が耳を傾けねばならぬ話ではないはずです」

 幸村の回答を聞いたは、しばし口篭った。まだ釈然としない様子だった。

「…でもさ、幸村さん。"乙"の数の方が多かったら?」

「数の多さが正義ではありませぬ。様、本質は"甲"を求める意思が存在する事にこそあります」

「それじゃ、まるで"甲"を呼んだ"丙"と"乙"の戦いみたい…」

 独白すれば、幸村は「そうかもしれませんね」と相槌を打った。

「私は武士であればこそ、戦場においては、迷わずに敵を斬り伏せます。相手の事を思いやる事などしません。
 一度槍を置けば話は別ですが、槍を取った以上、非情にならなくては、己の身も、護りたい人も、信念も、
 護る事は出来ません。気を抜けば、明日、私自身が屍になっているかもしれないからです」

「幸村さん、なんてこと言うの?!」

様、それがこの世の理です。
 ただ、私にも情がないわけではない。無作為に武を奮おうとは思いません。
 屍になるのならば相応の場所を求めます。槍を奮うなら、相応の信念を掲げます、それだけの事です」

 「難し過ぎますか?」と問われて、は言葉を失った。

「私達武士の感覚は、様のような方からしたら、到底理解が及ばぬものでしょう?
 でもそれは存在し、それこそが全てとして生きる者がいる。
 けれど、それだけではならないと皆薄々感じています。だから天下を目指す者が後を絶たぬのです。
 様が知っている"この感覚の存在しない世界"を欲し、焦がれているのでしょうね」

 幸村がぎこちない仕草での頭を撫で、柔らかい声で言った。

「だから、こうした話は、禅問答なのです。
 願いは同じ、けれど方法論は人によって異なります。
 正しい答えは、誰も持っていません。誰も彼もが正解であり、同時に間違いなのです。
 何時だったか様ご自身も、兼続殿を叱っていたではありませんか。"正義は一つじゃない"と」

「信念の問題…そういう事?」

「そうです。折り合いがつかず、争わねばならぬのならば…打ち勝つのは思いの強さのみかと…」

 迷いがあるのか、瞬きを繰り返し、言葉を呑むに幸村は問う。

「時に…気になっているのですが……」

「え?」

「"甲"の望んだ事はどんなことなのでしょう? そして"甲"は今、何を望んでいるのでしょうか??」

「……平和が…ほしい……。穏やかな、世界…。
 自分を大切にしてくれる人、自分が大切にしたい人の為の、未来が…ほしい」

「そうですか、それは悪くない"わがまま"ですね。私は共感します」

「…幸村さん……」

「はい?」

「"甲"はこのままでもいいんだと……思う?」

「はい。というよりも…その信念であれば、私も"乙"にとっては"甲"となるのでしょう」

 幸村が何気なく紡いだ言葉には驚いて、目を大きく見開いた。

「いけませんか? "乙"が沢山いるのなら、"甲"が沢山いても不思議ではありませんよ」

 問われてはふるふると首を横へと振った。

「…一人じゃない……同士がいる……どうして…忘れてたんだろう……呑まれてしまったんだろう…」

「突然存在そのものを否定されたら、誰でも混乱すると思います」 

「そっか、そうだね。混乱しちゃうね」

「大切な事は、そのまま我を見失い続けない事です。誰かに折られてしまうような"信念"は"信念"とは言いませぬ」

 「もう大丈夫ですか?」と視線で問いかける幸村に対して、は何度となく頭を振った。

「ありがとう、幸村さん…なんだか、良く分かった気がする……」

「そうですか、良かったです」

 を抱く幸村が腕を動かして、己の羽織を脱ぐとの肩に掛けた。

「少し、冷えてきましたから」

「うん、そうだね。その通りだね……ごめんね、幸村さん……でも……もう少し、このままでいていい?」

「はい、何時何時までも…様のお望みのままに……」

 頑なな"憎悪"には、それに揺るがぬ"信念の槍"を持って対抗する。
戯言で目が一度曇りかけたというのならば、その戯言は理路整然と一蹴してみせる。
心が傷つけられたというのならば、真心で癒す。
 の忠臣・真田幸村、を立ち直らせることに成功。

 

"遠い未来との約束---第四部"

 

- 目次 -
途中で幸村が奏でた音曲は「Fight!/高橋由美子」です。知ってる人はどれ位いるだろ?(09.12.27)